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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

752名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/28(月) 00:03:44 ID:fJk6UY5I
9月28日はハインリヒ6世が死去した日です

>>639の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの死後、その後を継いだハインリヒ6世は父帝の政策を継承しました
彼は>>454で見たようにシチリア王女コンスタンツェとの結婚によってシチリア王国の継承権を得ていましたが、ノルマン貴族がシチリア王グリエルモ2世の異母弟タンクレーディを国王に擁立し対抗します
タンクレーディはイングランド王リチャード1世獅子心王と同盟しますが、>>699で見た通りリチャードは第3回十字軍からの帰還中にオーストリア大公レオポルトに捕縛され、さらにハインリヒ6世に引き渡されたためタンクレーディは同盟者を失いました
ハインリヒはリチャードから多額の身代金を獲得しシチリア遠征の軍資金とし、タンクレーディが病死したこともあって1194年シチリアを征服、シチリア王となったのです

これによってフリードリヒの時代に強化された皇帝権はさらに強大なものとなりました
アペニン半島のほとんどが皇帝権の支配下に置かれ、スポレート公領にコンラート=フォン=ウルスリンゲンを、トスカーナ公領に弟のフィリップを、アンコーナ辺境伯領・ロマーニャ公領にマルクヴァルト=フォン=アンヴァイラーを置き、帝国とシチリア王国とを結合する街道を確保します

こうして従来の皇帝の支配地域であった三王国、すなわちドイツ・イタリア・ブルグントに加えシチリア王国も加わり、ハインリヒはさらに範囲を拡大しようとしました
ムワッヒド朝にはトリポリとチュニスに対する皇帝の上級高権を承認させ、アルメニア・シリア・キプロスの各国王は皇帝のレーエンとしてその領土を受領したのです
さらにビザンツ皇帝イサキオス2世の娘イレーネがハインリヒの弟フィリップと結婚したことでホーエンシュタウフェン家にビザンツ皇帝位の相続請求権まで転がり込みました
そしてイサキオスがアレクシオス3世によって皇帝位を簒奪されたことにハインリヒは反発し、コンスタンティノープル征服のための十字軍を計画することとなります
ハインリヒの政策は古代ローマ帝国領の復活を目指しており、いわゆる世界支配計画が着々と進められていたのです

内に目を転じると、帝国とシチリア王国との関係が課題となっていました
シチリア王国は国法上は独立したままでしたが、帝国との堅い結合が望まれていたのです
この目標を達成するため、待望の嫡男が1194年に産まれます
>>395で見た、後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です
フリードリヒはホーエンシュタウフェン家・シチリア王家双方の遺産相続者であり、ハインリヒはこの遺産を確保し帝国とシチリア王国との国法上の結合を実現しようとしました
そして皇帝権を教皇権から完全に分離させ、ホーエンシュタウフェン家による世襲帝国計画を企てたのです
この世襲帝国計画は教皇や帝国諸侯の強い反発に遭いなかなか進展しませんでしたが、1196年にはフリードリヒがドイツ王に選出され、ホーエンシュタウフェン家の権力基盤は着々と固められていきます
しかし1197年9月28日、ハインリヒは十字軍計画の準備中に急死、その若すぎる死が皇帝権にとって重大な破局をもたらすこととなったのでした


本日は世界支配計画・世襲帝国計画の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年


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