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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

566Republica de Venexia:2015/04/15(水) 00:02:48 ID:???
4月14日はバーリが陥落した日です

ビザンツ帝国の南イタリア支配は>>235で見たようにユスティニアヌス1世の大征服事業により復活しましたが、早くも5世紀末にランゴバルドがアヴァール族と同盟して南下し、ラヴェンナとローマを結ぶラインの南を辛うじて支える状態となりました
7世紀になると>>253で見たヤムルーク河畔の戦いでイスラームに大敗、シリア・メソポタミア・エジプトを奪われるという大打撃を受け、イタリアでもこれに乗じてランゴバルド王国がビザンツ領に侵攻します

ランゴバルド王国はビザンツ帝国のラヴェンナ総督領を占領し、これに危機感を覚えたローマ教皇ステファヌス3世はフランク王国のピピンを頼り、ピピンはこれに応じてランゴバルド王国を撃破、その領土をビザンツ帝国ではなくローマ教皇に献上します
これが>>466でも見たピピンの寄進、そして教皇領の始まりでした
こうしてイタリアにおける領土が南部に限定されるようになったビザンツ帝国は>>306でも取り上げたテマをここでも採用し、カラブリアとプッリアにテマ長官を派遣し、この地域の維持に努めました

やがてビザンツ帝国は>>232で見たようにマケドニア朝のニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世の時代に全盛期を迎えます
その頃イタリアではプッリアでランゴバルド貴族がビザンツ帝国からの独立運動を展開しノルマン人がこれを支援しますが、バシレイオス2世が派遣したビザンツ軍は1018年のカンネーの戦いで独立派に大勝し、イタリア南部諸侯に宗主権を確認させました
しかし1021年、>>544で登場した神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がビザンツ帝国の勢力拡大を阻止するため南イタリアに遠征し、カプア侯国とサレルノ侯国を占領、ビザンツ帝国の勢力拡大は頓挫することとなります

ハインリヒ2世の死後イタリア南部の抗争は再び激化し、その中でノルマン人が台頭するようになります
その内の一人レイヌルフは1030年にアヴェルサ伯となり、このアヴェルサがノルマン人の活動拠点となりました
1035年にはノルマンディからオートヴィル家のギョーム、ドゥローゴ、オンフロワの三兄弟が南イタリアに入り、ビザンツ領のプッリアを占領したのです
その頃のビザンツ帝国はというと、>>349で見たようにゾエを中心とする宮廷抗争が展開されており、とてもノルマン人に反撃できる状況ではありませんでした

やがて南イタリアにはドゥローゴの異母弟ロベール=ギスカールが上陸しビザンツ領カラブリアに侵攻します
ロベールは1053年に反ノルマン同盟をチヴィターテの戦いで撃破し、1059年にはローマ教皇ニコラウス2世を援助した見返りとして正式にプッリア・カラブリア公に受封され、ビザンツ領征服の仕上げにかかりました
そして1071年4月15日、ロベールはビザンツ領として残っていたバーリを攻略し、ここに旧ビザンツ領の平定を完了します
ビザンツ帝国は反撃しようにも、>>261で見たようにマンジケルトの戦いでセルジューク朝に大敗、壊滅的な打撃を被りとても南イタリア奪回に乗り出せる状況になく、以後南イタリアにビザンツ帝国が戻ってくることはありませんでした


本日は南イタリアにおけるビザンツ帝国領の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年


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