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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
298
:
Republica de Venexia
:2014/09/27(土) 01:16:49 ID:???
9月27日はオスマン帝国がウィーンを包囲した日です
オスマン帝国のスレイマン1世は
>>264
で見たように、1526年のモハーチの戦いでハンガリーを破り、その後ハンガリーの地はオスマン帝国とハプスブルク家との争奪戦の舞台となります
目下の問題はモハーチの戦いで戦死したハンガリー王ラヨシュ2世の後継者選出で、ハンガリー貴族の多数派はトランシルヴァニア侯サボヤイ=ヤノシュを国王に選出しましたが、神聖ローマ皇帝カール5世はハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントを推し、国王に即位させます
サボヤイ=ヤノシュは追放され、オスマン帝国を頼るのでした
また、フランス王国と神聖ローマ帝国との関係もオスマン帝国によるオーストリア攻撃のきっかけとなりました
カール5世が神聖ローマ皇帝となった際の皇帝選挙で帝位を争って敗れたフランス王フランソワ1世が、その後もカールと抗争を続けていたのです
1525年のパヴィアの戦いに敗れ劣勢が明白となったフランソワ1世はオスマン帝国を頼り、同盟を結んだのです
もともと西方への進出を目論んでいたスレイマンはこれらの要請を受け入れ、1529年5月、イスタンブールを発ちオーストリアへと進軍を開始しました
7月にはベオグラードに到着し、ハンガリー王フェルディナントを破りハンガリーの再征服を進め、9月にはオーストリアへと侵入します
そして1529年9月27日、スレイマンの軍勢がハプスブルク家の都ウィーンを包囲します
しかしウィーンの守りは堅く、長距離の輸送が困難であったため大砲が不足していたオスマン帝国軍は攻めあぐね、10月半ばにはウィーンの早い冬が訪れ、包囲が困難なものとなりました
10月14日、スレイマンは包囲を解き、撤退することとなります
オスマン帝国によるウィーンの包囲は、1453年のコンスタンティノープル陥落以来の衝撃を与えました
コンスタンティノープルのそれは西欧にとって遠い東方での出来事であったのに対し、ウィーンは神聖ローマ帝国を統べるハプスブルク家の都であり、その衝撃は絶大なものでした
折しも西欧ではルターらによる宗教改革が進んでおり、神聖ローマ皇帝カールもその対応に苦慮していました
しかしオスマン帝国に対抗するためにはルター派の協力も不可欠であり、彼らに対し妥協せざるを得ない状況となったのです
オスマン帝国に対して完全に優勢となるのは1699年カルロヴィッツ条約締結であり、その時が訪れるまでオスマン帝国は西欧に脅威を与え続けることになるのでした
本日は第一次ウィーン包囲の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
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