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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

750名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/26(土) 09:36:08 ID:DBKgSXzQ
9月26日は小谷城が落城した日です

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は尾張を平定、さらに美濃に侵攻して齋藤龍興を破り67年には美濃も平定します
ついで近江に進出しますが、この時に同盟を結んだのが江北の浅井長政でした
その際、同じ浅井氏の同盟相手である越前朝倉氏を攻めないというのが同盟条件だったとされていますが、1570年、信長は長政への相談なしに越前へと侵攻します
このため長政は信長から離反し朝倉とともに挟撃し信長は窮地に陥りますが、辛うじて逃亡に成功しました

京に帰還した信長は反撃の準備を整え、同年中に徳川家康とともに姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を破り、浅井氏の拠城である小谷城の包囲に取り掛かります
小谷城は標高約400mの小谷山に築かれた梯郭式の山城で、尾根伝いに曲輪が並びそれらが石垣や砦で守られる戦国屈指の巨大山城でした
しかしその広大な城域に比べて浅井氏の勢力は小さく、浅井氏のみで小谷城全体を守ることは困難でした
そこで小谷城では本丸の背後に大堀切を設けて城域を分断し、一城別郭の構えとすることで対応します
さらに本丸より高所に位置する曲輪群には朝倉氏、京極氏、寺社勢力などに守備を任せ、信長に対抗することとなります

1570年から始まった小谷城籠城戦を長政は3年間耐え抜きますが、73年には武田信玄が病没、足利義昭が京から追放され、信長は本格的に小谷城の攻略を進めました
この時すでに小谷城の支城群は信長によって攻略が進められ、特に最重要支城とされる山本山城が羽柴秀吉によって調略されたことは大きな痛手となります
もはや頼みとなるのは朝倉氏のみとなっていました
そこで信長はまず朝倉氏の攻略から始め、小谷城でも朝倉軍が守っていた部分に突如として攻めかかり、意表をつかれた朝倉軍は敗走します
信長はそのまま朝倉軍を追撃し、その本国の越前にまで乱入、朝倉氏当主朝倉義景は家臣の裏切りにもあって自害し、ここに朝倉氏は滅亡します
こうして孤立無援となった小谷城ですがそれでも頑強に抵抗を続けました
ここで活躍したのが羽柴秀吉で、尾根伝いに伸びる小谷城の側面から奇襲をかけて京極丸を制圧、浅井久政と長政の分断に成功します
数多くの曲輪群で構成され、それぞれが独立して戦える小谷城ですが、劣勢が明らかとなった状態では各個撃破が容易となってしまったのです
1573年9月25日、まず浅井久政が自害に追い込まれ、そして9月26日には浅井長政も自害、さしもの堅城小谷城もここに落城することとなったのでした


本日は浅井氏の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年


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