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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

749名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/25(金) 00:02:27 ID:zML.o0wM
9月25日はアウクスブルクで帝国議会が開かれた日です

>>334で始まったルターによる宗教改革は1521年、>>412のヴォルムス帝国議会で否定され、ルターの教義に従うことやそと著作の印刷・出版が禁止されるなどしました
しかし破門されたルターはザクセンのフリードリヒ賢公に匿われて活動を続け、またドイツ各地でも改革運動が広がっていきます
その1つが>>601で見た、ミュンツァーらによるドイツ農民戦争でしたが、これに関してはルターも否定的で、その鎮圧後はルターから離れる農民が多かったものの、改革運動は反カトリック・反皇帝派の諸侯・都市を中心に進められました

農民戦争が完全に終息した1526年、シュパイアーで帝国議会が開かれ、神聖ローマ皇帝カール5世はヴォルムスの勅令を実行するよう命じましたが反論も多く、ここでは現状維持のまま閉会します
1529年に再びシュパイアーで帝国議会が開かれ、多数派がヴォルムスの勅令を再確認したことに対し抗議が巻き起こり、ここにプロテスタントという呼称が生まれることとなりました
ところでこの1529年は、>>298で見たように神聖ローマ帝国に対抗するフランスのフランソワ1世とオスマン帝国のスレイマン1世が結び、第一次ウィーン包囲を行った年でもありました
カール5世はこの脅威に対抗するため帝国諸侯の協力が必要となり、妥協に応じることになります

1530年、アウクスブルクで帝国議会が開かれ、メランヒトンによるアウクスブルクの信仰告白やツヴィンクリの信仰箇条が示されますがカトリックの反発も大きく、この議会でもヴォルムスの勅令を確認するにとどまりました
これに対し帝国諸侯は中部ドイツにてシュマルカルデン同盟を結成しカールに対抗します
カールは先のオスマン帝国の脅威やフランスとのイタリア戦争が継続中であったため妥協を余儀なくされ、1532年にニュルンベルクで平和条約を締結しました

1544年、クレピーの和約でフランスとの講和が成立するとカールはドイツ国内に集中できるようになり、シュマルカルデン同盟の中心人物であったザクセン公モーリッツを引き入れたこともあって同盟軍を破り、シュマルカルデン戦争に勝利します
この勝利によってカールは1548年、プロテスタントに様々な制約を課すアウクスブルク仮信条協定を定め、プロテスタント諸侯にこれを強制しました
ところがこれに対し北ドイツにて反乱が勃発し、モーリッツも再びプロテスタント側に合流してカールと戦うこととなりました
カールはプロテスタント諸侯軍に敗れ、またイタリア戦争においてもフランスに敗れたため、ついに退位するに至ります

カールが引退したことでカトリック・プロテスタント両派に和解への動きが生まれ、1555年に再びアウクスブルクにて帝国議会が開かれました
そして同年9月25日、アウクスブルクの宗教和議が成立し、ルター派の公認や帝国諸侯の信仰の自由が認められたのです
もっとも個人の信仰の自由やカルヴァン派が認められなかったように、この宗教和議はあくまで妥協であり、その後>>614で見た新教同盟ウニオンと旧教連盟リガの対立、そしてその対立から発展した三十年戦争を経た>>327のウェストファリア条約で1つの解決をみることとなるのでした


本日はアウクスブルクの宗教和議の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年


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