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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
757
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/03(土) 18:49:52 ID:TQ6Uy2kY
10月3日はアレシアの戦いが終結した日です
ポンペイウスとクラッススを仲介し第1回三頭政治を成立させたカエサルは、イリュリクムとガリアに対する特別命令権と4個軍団を獲得し、前58年、執政官級属州総督としてガリアに着任しました
当時のガリアは多くの部族に分裂しており、アッロブロゲス人の反乱からの復興途上にありました
そこへ現在のスイスからヘルウェティイ人が西進し、カエサルはこれを激戦の末撃退します
さらにガリア人部族の要請でガリア中部のスエビ人を討伐しローマの勢力を拡大、前57には現在のベルギーでベルガエ人諸部族を撃破しました
前56年、カエサルはポンペイウス、クラッススと協力関係を再確認・更新し、5年間の命令権の延長が認められます
やがてウェネティ人が反乱を起こすもカエサルはこれを海戦で撃破、その他諸部族の反乱も鎮圧し、つかの間の平和が訪れました
翌前55年にはライン川を渡りガリアに侵入したウシペテス人とテンクテリ人を撃退し、ウェネティ人の反乱を支援していたブリタニア諸部族の討伐を試みますが、これは不調に終わりました
前54年になるとベルギカでローマ軍が敗れ、これをきっかけに各地で反乱が起こるようになります
カエサルはガリアを転戦し鎮圧していきましたが、反乱の首謀者のセノネス人貴族アッコが処刑されると、ローマによるガリア支配への反発が一気に高まることとなりました
前52年、カエサル不在のなかケナブムでのローマ人虐殺を皮切りに再び反乱が勃発、この指導者となったのがアルウェルニ人のウェルキンゲトリクスでした
ウェルキンゲトリクスはローマに反発する諸部族をまとめて反乱を指揮し、カエサルは急遽ガリアに戻り反攻を開始しました
これに対しウェルキンゲトリクスはゲリラ戦と焦土戦術で対抗し、ローマ軍を悩ませます
しかし天然の要害であったアウァリクムは焦土戦術からは外され、カエサルはここに立て籠もるウェルキンゲトリクスを包囲しました
湿地と川で三方を囲まれたアウァリクムに対し、カエサルはローマの土木技術を活かして接城堤を築き攻城櫓を設置、約一ヶ月の包囲戦の末アウァリクムは陥落、町は破壊され住民は虐殺されました
逃れたウェルキンゲトリクスは今度は丘陵の町アレシアに立て籠もり、カエサルは再び包囲戦を開始します
カエサルはここでアウァリクム包囲戦以上の大工事を行い、高く長大な塁壁に三重の堀を設け、内側だけでなく外側対しても防御施設を建設、鉄壁の包囲陣が築きました
ガリア人は高い丘のため包囲陣が築かれなかった北西方面に援軍を送るものの突破できず、ウェルキンゲトリクスの脱出も失敗に終わりました
そして前52年10月3日、ついにアレシアは陥落しウェルキンゲトリクスは降伏、大規模な反乱はここに終わりを告げました
その後カエサルは小規模な反乱の鎮圧に努め、翌年には全ガリアを平定することとなるのでした
本日は実質的なガリア戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
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