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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
791
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/01(火) 18:46:08 ID:sfQE65Bs
3月1日はアドワの戦いが行われた日です
エチオピアは古代よりキリスト教王国として栄え、近代に至ってもその伝統は連綿と受け継がれていました
しかし18世紀頃から各地の豪族が独立勢力のように振る舞い、国王の権威が著しく衰退した諸公侯時代となっていました
このような状況にあって、
>>787
などで見たようにアフリカの植民地化を推し進めるヨーロッパ列強はエチオピアにも目を向けるようになります
この危機に際し、各地の豪族を破ってエチオピアを統一し皇帝となったテオドロス2世はヨーロッパ列強に対抗しますが、1868年のイギリスとのマグダラの戦いに敗れ戦死してしまいます
この時イギリスに協力し、新たに皇帝となったヨハネス4世もまたエジプト、フランス、イタリアの進出に対抗しますが、1889年にマフディーとの戦いで戦死しました
皇帝の相次ぐ戦死で混乱するエチオピアに対し、ヨーロッパ列強は本格的に侵攻を図るようになります
その列強の1つがイタリアでした
>>663
のローマ併合以降、イタリアは国内の体制固めに集中し対外政策には消極的でしたが、ヨーロッパ列強がアフリカへと積極的に進出するようになると、イタリアもまたアフリカへの関心を強め、まずチュニジアをアフリカ進出の拠点としようと動きます
しかし1881年にフランスがチュニジアを保護国とするとイタリアの計画は頓挫してしまいました
次にイタリアが目を向けたのがエチオピアで、1889年にエチオピア皇帝位を狙うショア王メネリクとの間にウッチャッリ協定を結び、メネリクの皇帝即位を支持するのと引き換えに、紅海沿岸地域にエリトリア植民地を建設したのです
イタリアはこの協定を口実としてエチオピアの保護国化を進めようとしますが、エチオピア皇帝となったメネリク2世はこれに反発、1893年に協定を破棄しました
これに対しイタリアはエリトリア植民地を拠点としてエチオピアへと軍事侵攻を開始しますが、エチオピア軍の激しい抵抗に苦戦します
というのも、メネリクはエチオピア皇帝となって以降国家の近代化を進め、特に軍隊の近代化には力を入れており、約9万の常備軍にライフル銃、機関銃、大砲などを導入し大きく戦力を増強させていたのです
苦戦するイタリア軍に対し、エチオピア軍が決定的な勝利を収めたのが1896年3月1日のアドワの戦いでした
この戦いでイタリア軍は全軍の4割を失うという壊滅的大敗を喫し、エチオピアでの軍事行動が困難な状況に陥りました
この戦いの後、強引な植民地政策を主導していたイタリア首相のクリスピは失脚、イタリアとエチオピアとの間にアディスアベバ条約が結ばれ、エチオピアの独立は保たれることとなったのでした
参考文献
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
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