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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
1
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/03/18(火) 23:56:08 ID:QU46JH2Y
馬・人物・キャラの誕生日はもちろん、過去の出来事や記念日、ホモが好きそうな商品の発売日などについて語るスレ
AILE君へのネタ提供になればよいのだけれど、やりすぎると逆にネタ潰しやまとめの催促にもなりかねないので、まったり雑談していきましょう
個別誕生日スレを否定するスレではないので、個別スレは予告や告知をどうぞ
763
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/10(土) 15:09:14 ID:fq.TB7mM
10月10日はトゥール・ポワティエ間の戦いが行われた日です
クローヴィスによって建てられたメロヴィング朝フランク王国は分割相続制を採用し、代を経るごとに王国が分立、特にアウストラシア・ネウストリア・ブルグンドの三分王国が強力となっていきます
これらの分王国には宮宰が置かれて政治を統括し、次第に権力を掌握して副王的な存在となりました
アウストラシアの宮宰として勢力を伸ばしたのがピピン1世(大ピピン)で、ブラバント地方やナミュール地方に所領を有し、さらに妻イッタが持っていた二ヴェル地方も合わせ、広大な所領を有するようになります
大ピピンはイッタの間に産まれた長男キルデベルトをアウストラシアの分国王にしようとしますがこれは失敗しました
娘のベッガはメッス司教アルヌルフの息子アンセギゼルと結婚し、2人の間にピピン2世(中ピピン)が産まれます
中ピピンはプレクトルードを妻とし、これによりベルギーのマース川流域からトリーア・メッスの位置するモーゼル川流域におよ領域を支配するようになり、河川交易による経済基盤が整えられました
中ピピンはさらにアルパイダを側室として迎え、これによって重要な商業拠点であるマーストリヒトも得ます
そしてこのアルパイダと中ピピンとの間に産まれたのがカール=マルテルでした
714年に中ピピンが死去した後はプレクトルードが実権を握り、彼女によってカール=マルテルは幽閉されます
カールは716年に脱出して実権を奪い、当時フランク王国を牛耳っていたネウストリアの宮宰ラガンフリードを破ってフランク王国全体の宮宰となり、さらにフリーセン人やザクセン人を討伐しました
さらにテューリンゲン・アレマニエン・バイエルンの諸族を平定、プロヴァンスなど南フランスへも遠征、フランク王国における権威は高まっていきます
一方その頃、イベリア半島では
>>582
で見たようにイスラームが西ゴート王国を滅ぼし、やがてピレネー山脈を超えてフランク王国領内へも侵攻するようになります
これに直面したアキテーヌ公ウードは、宿敵であるカール=マルテルに救援を要請せざるを得ず、カールはこれに応え重装騎兵軍を編成しイスラーム軍を迎え撃ちました
732年10月10日、両軍はトゥールとポワティエとの間で激突し、イスラーム軍は指揮官アブド=アッラフマーンが戦死し撤退します
この勝利によってカール=マルテルの名声は大いに高まり、フランク王国における権力は絶大なものとなりました
そしてカールの息子であるピピン3世(小ピピン)の代でメロヴィング朝が廃され、カロリング朝が成立することとなるのでした
本日はカロリング家の覇権の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
764
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/12(月) 09:32:04 ID:DSXJrpZM
10月12日はドン=ペドロが皇帝に即位した日です
>>573
で成立したポルトガルの植民地ブラジルは、以降開発が進んでラテンアメリカ唯一のポルトガル領として重要な位置を占めました
時代は降り19世紀に入ると、ポルトガル本国がナポレオンによって征服されるという事件が起こります
その際ポルトガル王室は亡命し、大西洋を渡ってブラジルに移動、リオデジャネイロに遷都し拠点としたのです
一方で
>>681
や
>>690
で見たようにラテンアメリカではクリオーリョ指導の下で独立運動が進められており、ブラジルもまた1822年から独立運動が開始されました
この頃ポルトガル王室は本国で革命が起こったため帰還しており、王太子ドン=ペドロが残っていましたが、クリオーリョはブラジルの地位向上のためポルトガル王室の権威を必要しており、このペドロを擁立して独立運動を進めます
そして1822年10月12日、ペドロはブラジル皇帝ペドロ1世として即位、ブラジルは独立を果たすこととなるのでした
本日はブラジル帝国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
765
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/14(水) 13:06:57 ID:hftCl/gg
10月14日はイエナ・アウエルシュタットの戦いが行われた日です
フランス革命に際しプロイセンはオーストリアとともにピルニッツ宣言を発して反革命の姿勢を明確にし、フランスへの干渉を進めました
もっとも両国にとってはオスマン帝国やロシアの進出に対抗する方が急務であり、
>>364
などで見たようなポーランド分割が行われます
一方フランスはピルニッツ宣言を脅威に感じ両国に宣戦布告、1792年のヴァルミーの戦いでの勝利後は攻勢に出、94年にはライン川左岸一帯を領有するようになります
このフランスの進出に対し、93年なはプロイセン・オーストリアにイギリスなども加わって第一回対仏大同盟が結成されますが、プロイセンは95年にフランスと単独講和を結び同盟を離脱します
これでオーストリアは事実上孤立してしまい、カンポ・フェルミオの和約でベルギーを、リュネヴィルの和約でトスカーナを放棄し、フランスのライン川左岸領有も認めさせられました
しかしその補償としてライン川以東の諸領邦を統廃合しプロイセン・オーストリアに与えられるという条項も盛り込まれていました
こうして1803年、神聖ローマ帝国の諸領邦はナポレオンによって整理され、バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデンなどが領土を拡大してプロイセン・オーストリアに続く第三勢力として台頭、ナポレオンの保護下に入ります
この諸領邦の統廃合の過程で
>>211
のライン同盟が成立し、ここに神聖ローマ帝国が解体されました
このようにナポレオンがドイツに進出し大きな影響力を持ったことは、当然プロイセンの警戒を呼び起こします
直接のきっかけとなったのがハノーファー支配を巡る両者の利害対立で、プロイセンは宣戦布告し軍を南下させます
しかし1806年10月14日、イエナ・アウエルシュタットにおいてプロイセンは大敗を喫し、ナポレオンは勢いに乗じてプロイセンの首都ベルリンまで侵攻するのです
そして翌年には
>>668
で見た屈辱的なティルジット条約が結ばれることとなるのでした
本日はプロイセンの決定的敗北の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
766
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/15(木) 17:01:32 ID:zKUdO05Y
10月15日はアブド=アッラフマーン3世が死去した日です
>>233
で見たアッバース革命によってウマイヤ朝が滅亡した時、ウマイヤ家のアブド=アッラフマーンはイラクから逃れ、やがてイベリア半島に上陸しました
当時のイベリア半島は
>>582
で見たようにイスラームが支配していましたが、有力な指導者を欠いて混乱状態に陥っていました
そこにウマイヤ家出身のアブド=アッラフマーンが現れたことはアル=アンダルスのムスリムにとっては朗報であり、アブド=アッラフマーンは彼らの指導者となったのです
756年、アブド=アッラフマーンはコルドバへと進軍、同地のアミールを破って後ウマイヤ朝を開きアブド=アッラフマーン1世としてアミールの地位に就きました
しかしアッバース朝はこれを認めず後ウマイヤ朝に対し度々干渉し、またベルベル人も各地で反乱を繰り返したことで、その知世はアル=アンダルスの平定に費やされました
やがてレコンキスタが進行しイベリア半島北部のキリスト教諸勢力が次々と反乱を起こすようになり、アル=アンダルスでもイブン=ハフスーンがアグラブ朝と結んで反抗、一時はコルドバが孤立するほどまでに追い込まれます
このような状況でアミールとなったのがアブド=アッラフマーン3世でした
アブド=アッラフマーン3世は各地の反乱鎮圧に努め、917年にはイブン=ハフスーンを破り、932年にはトレドを再征服しアル=アンダルスの再統一を達成します
またアッバース朝カリフ、ファーティマ朝カリフに対抗してアブド=アッラフマーン3世もまたカリフを称し、ここにイスラーム世界は三カリフ鼎立時代を迎えました
こうして領土を回復し、イスラーム世界の指導者としての権威も大いに高めたアブド=アッラフマーン3世は後ウマイヤ朝の全盛期を築き、961年10月15日、半世紀に及ぶ治世に幕を降ろしたのでした
本日は後ウマイヤ朝初代カリフの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
767
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/19(月) 21:59:32 ID:PnPTMUN6
10月19日はイサベルとフェルナンドが結婚した日です
15世紀のスペイン、カスティーリャ王国ではフアン2世・エンリケ4世と指導力に欠ける王が続き、貴族勢力が政治を牛耳るようになりました
特にエンリケ4世の評判は悪く、その治世で貴族はますます勢力を伸ばしていきます
またエンリケには嫡男が産まれず、王位は王女のフアナあるいはエンリケの異母妹イサベルが継承することとなります
このうちフアナはラ=ベルトラネーハと呼ばれたように、エンリケの寵臣ベルトラン=デ=ラ=クエバが父親であるとされました
真偽はどうあれ、エンリケはロス=トロス=デ=ギサンド協定でフアナの王位継承権を否定し、イサベルを王位継承者としたのは事実です
エンリケに反対する勢力はこれを認めず、エンリケの異母弟アルフォンソをアルフォンソ12世として擁立しますが、アルフォンソが急死したため計画は頓挫、イサベルの王位継承が決定されました
一方アラゴン=カタルーニャ連合王国でも混乱が起こっていました
アラゴンは度々ペストに襲われたことで国土が荒廃し、また王権・貴族層・中産階級層・都市平民層・農民層など様々な勢力が対立し、分裂していたのです
これはナバラ王アルフォンソ5世の弟フアン2世がアラゴン王になったことでさらに激化します
ナバラ王国内の紛争が隣接するカタルーニャに持ち込まれ、内戦に発展しました
これを収拾するためフアンはフランス王ルイ11世に救援を求め、ピレネー山脈のフランス側のカタルーニャを譲渡する代償を払ってようやく状況を打開できたのです
この平定後の状況を固めるために行ったのが、息子フェルナンドとカスティーリャのイサベルとの結婚でした
1469年10月19日、イサベルとフェルナンドは結婚し、ここにカスティーリャとアラゴンの合同が成立します
1474年にエンリケ4世が死去したことで2人は共同でカスティーリャ王となりました
もっともこの時点ではカスティーリャとアラゴンはそれぞれの慣習が引き継がれ、国家としての連合は希薄でした
1479年にアラゴン王フアン2世が死去し、フェルナンドが王位を継承したことでカスティーリャとアラゴンは連合王国として機能するようになるのでした
本日はカスティーリャ・アラゴン連合の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
768
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/20(火) 11:13:22 ID:UFgP4x0M
10月20日はハインリヒ10世が死去した日です
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の時代、ヴェルフェン家のヴェルフ4世はバイエルン大公国を与えられ、以後ヴェルフェン家はこの大公位を保持し帝国における権力を確立していくこととなります
もっとも、当初から全てがうまくいっていたわけではなく、ローマ教皇との叙任権闘争の過程で紆余曲折を経ます
ヴェルフ4世は最初皇帝ハインリヒ4世側につきましたが、教皇グレゴリウス7世との争いが激化すると教皇側につき、そのためにバイエルン大公位を罷免されたのです
ヴェルフ4世はその後イタリアで勢力を拡大し、息子のヴェルフ5世をトスカーナ女伯マティルダと結婚させ、その領地の相続権を得ようと図りました
しかしマティルダが財産を教会に寄進したためこの計画は頓挫し、ヴェルフ4世はハインリヒ4世と和解、バイエルン大公に復帰します
このヴェルフ4世の死後、バイエルンはヴェルフ5世が、イタリアはハインリヒ9世が継承しました
黒公と称されるハインリヒ9世は兄の死後バイエルン大公となり、またザクセン大公マグヌスの長女ヴルフヒルトとの結婚により、ヴェルフェン家はザクセンにも権力基盤を得、その勢威をますます高めることとなりました
このハインリヒ黒公とヴルフヒルトとの間に産まれたのがハインリヒ10世、の血に傲岸公と称される人物です
黒公は傲岸公をザクセン大公ロタールの長女ゲルトートと結婚させましたが、このロタールは皇帝ハインリヒ5世の強力なライバルでした
ハインリヒ5世の死後、王位は血統権に従いホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世に渡るものとされましたが、黒公はこれに反発しロタールの即位を支持します
こうして
>>512
でも見たようにホーエンシュタウフェン家とヴェルフェンとの長年に渡る対立が始まったのです
ロタールは即位当時すでに50歳となっとおり長期の統治は望めず、その死後ザクセン大公国がヴェルフェン家のものになることが期待されました
また傲岸公はロタールのイタリア遠征に随伴し、その際に教皇からトスカーナ辺境伯領を得ることとなりました
1137年にロタールが死去すると傲岸公はザクセン大公国を受け継ぎ、その権力は帝国諸侯のなかでも最大のものとなりました
ロタールはまた傲岸公に帝国権標を引き渡したとされ、傲岸公が次期国王になるのが有力となります
しかし傲岸公はその名のごとく高慢・尊大な性格であり、帝国内に多くの敵を作っていました
さらにその即位によって強力な皇帝が出現することを怖れた諸侯は、ホーエンシュタウフェン家のコンラートを国王に選出したのです
傲岸公はこれに従わず忠誠誓約を拒否し、またザクセンにおけるアルブレヒト熊公との継承権争いを調停するヴュルツブルク帝国会議に出頭しなかったことで、帝国から追放されてしまいます
こうしてザクセン大公国は熊公のものとなり、傲岸公はバイエルン大公国とトスカーナ辺境伯領も剥奪されました
しかし傲岸公はすぐさま反撃、1139年、ザクセンに進軍し熊公は防戦一方となり逃走、ザクセンは再び傲岸公の支配下に置かれました
傲岸公はさらにバイエルンへも進軍しようとしますが、その準備中の1139年10月20日、40歳で急死してしまいました
傲岸公の突然の死はヴェルフェン家にとって痛手でしたが、
>>699
のハインリヒ獅子公が傲岸公の事業を引き継ぎ、ヴェルフェン家のさらなる隆盛へと導いていくのでした
本日はハインリヒ傲岸公の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・カール・ヨルダン、瀬原義生訳『ザクセン大公ハインリヒ獅子公 中世北ドイツの覇者』ミネルヴァ書房、2004年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
769
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/21(水) 12:39:53 ID:M7fOJ7Ss
10月21日は民衆十字軍が壊滅した日です
>>366
での教皇ウルバヌス2世の演説の後、彼自身がフランス各地を巡り、また説教師を派遣して十字軍への呼びかけを進めていきました
諸侯や貴族はこれに応え十字軍の準備を始めましたが、それには莫大な資金と多数の随員を必要とし、その間にも民衆の熱狂は高まっていきます
この民衆への説教を積極的に進めたのが隠者ピエールでした
北フランスのアミアン出身の隠修士であるピエールは、カリスマ的説教師として北フランス・西ドイツで十字軍参加を呼びかける説教を行い、十字軍への民衆の参加という要素を付け加えました
もっともウルバヌス2世としては十字軍参加者の精選を求め、条件付きでの参加を前提とし、王侯貴族や高位聖職者からなる十字軍を想定していましたが、もはや民衆の熱狂を抑えることはできない状態となっていました
民衆は隠者ピエールのもとに押し寄せ、ウルバヌスの十字軍が準備に時間がかかっている間に聖地を目指すこととなります
ピエールと民衆はケルンに集まり、1096年4月に出発、ライン・ドナウ川沿いに進みました
無秩序な集団となったこの民衆十字軍は、キリストの敵をユダヤ人にも拡大しつつ各地で虐殺・略奪を繰り返し、8月にはコンスタンティノープルに到達します
ビザンツ皇帝アレクシオス1世はこの暴徒の到来に驚き、コンスタンティノープルへの入城は拒絶しました
民衆十字軍はボスポラス海峡を渡ってヘレノポリスにて野営することになります
彼らはアレクシオス1世に正規の十字軍が到着するのを待つようにとの忠告を受けますが受け入れず、ニケーア周辺のトルコ人領を略奪して回り、ニケーアから出撃してきたトルコ軍も撃退します
この事態を重く見たルーム=セルジューク朝スルタンのクルジュ=アルスラーンは大軍を派遣し、民衆十字軍に奪われたニケーア近郊のクセリゴルドンを奪還しました
彼はさらに謀略を仕掛け、民衆十字軍の陣営に間者を派遣し、民衆十字軍の分遣隊がニケーアを陥とし戦利品を分配してるという虚報を伝えます
これを聞いた民衆は我を忘れ、欲に目が眩んだ無秩序な集団となってニケーアへと殺到しました
そして1096年10月21日、ニケーア近郊で待ち構えていたルーム=セルジューク朝軍の奇襲によって民衆十字軍は壊滅し、コンスタンティノープルへと逃げ帰ったのです
彼らは後に正規の十字軍と合流し、
>>224
で見た第1回十字軍によるイェルサレム攻略に参加することとなるのでした
本日は民衆十字軍の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・エリザベス・ハラム、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
・池谷文夫『世界史リブレット人31 ウルバヌス2世と十字軍 教会と平和と聖戦と』山川出版社、2014年
770
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/23(金) 11:54:29 ID:a.dkhUVU
10月23日はサグラハスの戦いが行われた日です
>>766
の後ウマイヤ朝カリフ、アブド=アッラフマーン3世の死後、アル=ハカム2世が後を継ぎ父が築いた繁栄をさらに発展させました
しかし次代のヒシャーム2世が12歳で即位すると、国政は母親のスブフと寵臣のアブ=アミル=ムハンマドによって牛耳られてしまいます
それでもアル=マンスール、勝利者の称号を持ったムハンマドはバルセロナを占領、ガリシアにも侵攻するなど軍事的成功をもたらします
しかしアル=マンスールの死後、王朝の分裂は決定的となります
アル=マンスールの創設した新王朝の支持者とウマイヤ朝の支持者との間で軋轢が生じたのです
王宮の支配をめぐる争い、ベルベル人軍隊の台頭、戦争によって戦利品を求める下層民など、様々な利害対立が起こり、1031年に後ウマイヤ朝は消滅しました
後ウマイヤ朝の統一はカリフを中心とする強力な中央政府に依存しており、それが消滅したことでアル=アンダルスはターイファと呼ばれる小君主の割拠状態となるのです
その頃、イベリア半島対岸の西サハラでも新たな動きが起こっていました
マーリク派の法学者イブン=ヤーシーンが神秘主義的な教説によってベルベル人のサンハージャ族を動かし、その熱狂的な宗教運動はやがて政治運動に転化、1056年にムラービト朝が興ることとなります
ムラービト朝はジハードを唱えて南下、ガーナ王国を滅ぼし、モロッコや西アルジェリアも制圧します
ユースフ=ブン=ターシュフィーンの治世の1062年にはマラケシュが建設され、1084年にはセウタを占領するなど、ムラービト朝はモロッコからアルジェに至る肥沃な農耕地帯を支配下に収めました
一方イベリア半島では1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世によってトレドが征服されました
ターイファ諸王国はユースフに救援を求め、これに応えたユースフは翌年イベリア半島へと遠征します
そして1086年10月23日、ユースフ率いるムラービト朝軍はメリダ近郊のサグラハスにてカスティーリャ軍を破りました
その後もユースフはイベリア半島への遠征を続け、二度目の遠征ではアレードの戦いに勝利しキリスト教徒の南下を阻止します
三度目の遠征ではターイファ諸王国のうちグラナダ王国、マラガ王国、セビージャ王国を滅ぼしてその直接支配を行うようになり、アル=アンダルスはムラービト朝領となるのでした
本日はムラービト朝のアル=アンダルス侵攻の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
771
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/24(土) 19:23:35 ID:Wmq8gszs
10月24日はシブヤン海海戦が行われた日です
>>326
で始まったレイテ沖海戦、日本海軍の中核部隊となった第一遊撃部隊主隊、通称栗田艦隊は10月22日、ブルネイを出撃しました
「大和」「武蔵 」「長門」「金剛」「榛名」の戦艦5隻に巡洋艦10隻以上を擁するこの大部隊はパラワン水道を抜けシブヤン海に入りましたが、ここで米潜水艦の待ち伏せに遭いました
米潜水艦の雷撃で栗田長官座乗の旗艦「愛宕」は沈没し、栗田長官は「大和」に移り旗艦とします
しかしその後も米潜水艦の雷撃は続き、「摩耶」が沈没、「高雄」が大破するという被害を出したのです
大きな損害を受けつつも進撃した栗田長艦隊は24日にシブヤン海に入り、ここで「大和」「武蔵」「長門」と「金剛」「榛名」をそれぞれ中核とする部隊に分け、空襲に警戒する陣形で進むこととなります
そして予測通り午前10時に米機動部隊から発艦した艦載機の大編隊が現れ、一回あたり30〜70機、第五次に渡る空襲が午後3時まで断続的に行われ、のべ300機の艦載機が栗田艦隊を襲ったのです
この空襲で「武蔵」は約200機の米艦載機の急降下爆撃と雷撃の集中攻撃に遭い、直撃弾17発、至近弾18発、魚雷20本が命中しました
>>385
で見たように大和型戦艦には日本の造船技術の粋が集められ、不沈艦と謳われましたが、この攻撃には抗すべくもなく、ついに1944年10月24日午後7時35分、沈没します
栗田艦隊では他にも「妙高」が大破、「大和 」「長門」「利根」なども損傷し、一時戦場を離脱することとなります
栗田艦隊を襲った米機動部隊はその後北上し、小沢機動部隊を襲うこととなるのでした
本日は戦艦「武蔵」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争7 マリアナ沖海戦・比島沖海戦1』光人社、1995年
・「歴史群像太平洋戦争戦史シリーズ9 レイテ沖海戦」学習研究社、1995年
・「丸 2015年11月号 レイテ沖海戦」光人社、2015年
772
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/25(日) 20:09:40 ID:UN9ZXnUo
10月25日はアザンクールの戦いが行われた日です
>>440
のシャルル5世の死後、後を継いだシャルル6世は
>>300
でも登場したモンフォール伯ジャンと和解し、1381年に英仏間で休戦協定が結ばれました
1385年に休戦協定の期限が切れるとシャルル6世はスコットランド王と呼応しイングランドに上陸します
しかしイングランド王リチャード2世はスコットランドに遠征してこれを破り、フランス軍はイングランドからの撤退を余儀なくされました
翌1386年にもイングランド上陸が計画されるものの中止に終わり、1389年には再び英仏間での休戦協定が結ばれます
1396年にはシャルル6世の娘イザベルがリチャード2世に嫁ぐ条件で28年間の休戦協定が成立し、両国は最終的な和平への道を進もうとすることとなりました
しかし
>>552
で見たようにイングランドでリチャード2世が廃位されてヘンリ4世が即位、ランカスター朝が開かれると両国の関係は再び悪化していきます
ヘンリ4世はフランスに使節を送り休戦協定を確認したものの対仏強硬派であり、フランスもこれを警戒していたため相互に不信感が募り、戦争には至らなかったものの休戦協定は完全には遵守されず、間接的な衝突が見られるようになったのです
1400年にウェールズでイングランドに対する反乱が起こるとフランスはその反乱を支援するため軍を派遣し、またスコットランドにも継続的に支援を行っていました
イングランドもまた1400〜1410年にかけて断続的にノルマンディを襲撃、両国関係は悪化の一途を辿ります
シャルル6世がイングランドに対する本格的な攻撃を計画する段階になると、戦争再開の気運はますます高まっていきました
カスティーリャ王国からも軍船が派遣されて艦隊が編成され、重装兵・弓兵も招集、これらが二部隊に分かれ、カレー・ボルドーのイングランド勢力を駆逐すべく、それぞれピカルディ地方とギュイエンヌ地方に派遣されます
しかしオルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャンが率いたこの遠征は失敗に終わりました
というのもこの2人、
>>581
で見たようにそれぞれオルレアン派・ブルゴーニュ派を形成して対立していたのです
この対立はオルレアン公が暗殺されたことでさらに激化し、オルレアン派の主導権を握ったアルマニャック伯ベルナールによってアルマニャック派と称されるようになると、この対立がついに武力衝突に発展しました
ブルゴーニュ公はこの内戦に際しイングランドに軍事的支援を求め、その見返りとしてイングランドへフランドル諸都市やノルマンディ侵攻への支援を約束しました
イングランド王ヘンリ4世の時代ではこの内戦への介入に消極的でしたが、その後を継いだヘンリ5世は積極的な介入を開始します
1413年、ヘンリ5世はフランス宮廷を牛耳っていたアルマニャック派に対し、かつてイングランドがフランスに持っていた全ての領土の割譲という法外な要求を突きつけました
フランスとしては到底受け入れられないものでありこの要求を拒絶、ここに百年戦争が再開されたのです
1415年8月、ヘンリ5世はノルマンディに上陸、セーヌ川河口の都市アルフルールを陥とすとさらにカレーに向けて進軍します
これを追撃したフランス軍との間で1415年10月25日に行われたのがアザンクールの戦いでした
この戦いでイングランドはまたも地形を有効活用した長弓隊の活躍でフランス軍を破り、フランスは多数の犠牲者を出し貴族の多くが捕虜となる大敗を喫します
イングランドは攻勢に出てその脅威が直接パリにも及ぶようになりますが、フランス宮廷では依然としてブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が続いており、有効な対策をとれない有様でした
アルマニャック派に属する王太子シャルル、後のシャルル7世に対抗するブルゴーニュ派のフィリップ、
>>278
でも見たブルゴーニュ公フィリップ善良公は1420年、イングランドとトロワ条約を締結します
この条約でイングランド王ヘンリ5世が精神異常を来していたフランス王シャルル6世の摂政てなり、シャルル6世の死後はヘンリ5世がフランス王となることが取り決められたのでした
本日は百年戦争後期におけるイングランド攻勢の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
773
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/27(火) 11:14:50 ID:xQU8PqWI
10月27日はイヴァン3世が死去した日です
>>730
のクリコヴォの戦いでドミトリー=ドンスコイはモンゴル軍に勝利し、「タタールのくびき」の下にあったロシアにおけるモスクワ公の威信は大いに高まることとなりました
しかしこの戦いによってすぐにモンゴル支配から脱したわけではなく、二年後にはモンゴル軍によってモスクワが一時占領されます
ドミトリーの後継者となったヴァシーリー1世時代ではモンゴル支配を受け入れ、その下で国内の統一を進める形となりました
ヴァシーリー2世の時代は内部抗争の時代でした
9歳で大公となったヴァシーリー2世は叔父であるガーリチ公ユーリー、その長子のヴァシーリー=コソイとその弟のドミトリー=シェミャーカとの間で公位継承を巡る内戦が勃発したのです
約30年に渡る内戦で国土は荒廃し、滅亡寸前の状態にまで陥りました
この抗争を収め、モスクワ大公国を強力な国家へと発展させたのがイヴァン3世でした
1426年に22歳で即位したイヴァン3世はロストフ、ヤロスラヴリ、トヴェーリなどの諸公国を併合、ロシア南西の諸公国の回復を進めます
最も大きな統一事業は1471年に始まったノヴゴロド攻撃で、1478年にはノヴゴロド併合を達成しました
また1480年には再びモンゴルの侵攻を受けるものの、迎撃に出たイヴァンの軍はモンゴル軍とウグラ川にて対峙し、モンゴル軍は攻撃を諦めて撤退したのです
これ以後モンゴル軍がモスクワへの遠征計画を立てることはなくなり、この時点でロシアは「タタールのくびき」からほぼ完全に脱することに成功しました
またイヴァンは最後のビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世の姪であるゾエ=パレオロゴスと結婚し、ビザンツ帝国の遺産を継承する意味合いも込めて「ツァーリ」を自称します
これによってイヴァンの威信はさらに高まり、国内の諸公や大貴族はその威信に服することとなるのです
こうしてモスクワ大公国はイヴァン3世によって発展し、後のロシア帝国の基礎が築かれました
イヴァンは1505年10月27日に死去し、その事業はヴァシーリー3世、そして
>>718
のイヴァン4世雷帝へと引き継がれることとなるのでした
本日はイヴァン3世「大帝」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
774
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/27(火) 11:34:49 ID:x0vwUjzg
なんやこのスレ!(歓喜)
じっくり読ませてもらうわ
775
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/28(水) 10:46:28 ID:6OSWRmRo
10月28日はマルグレーテ1世が死去した日です
北欧の3国、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーは、ヴァイキング時代を通じてキリスト教化が進み、また部族の統合も進んで国家としての形が整えられていきました
その後11〜14世紀初頭にかけて、それぞれの国内では王や貴族、聖職者の間での争いが続きます
国外からも神聖ローマ皇帝や帝国諸侯、ハンザ同盟の諸都市の圧迫を受け、13世紀にスウェーデンに併合されていたフィンランドもノヴゴロド国に攻撃されてカレリア地方の東半分を割譲するなど、外部勢力の進出によって動揺する時代が続いていました
このような状況で国内を平定し王権を高め、また積極的な外征によって失地を回復していったのが1340年にデンマーク王に即位したヴァルデマール4世でした
ヴァルデマール4世によるデンマークの強大化は周囲の警戒を招き、反デンマーク同盟が結成されます
同盟にはハンザ同盟の諸都市やシュレスヴィヒ、ホルシュタインなどの帝国諸侯だけでなくスウェーデンも加わっておりデンマークは苦境に立たされますが、1370年に講和がなされデンマークの領土は維持されました
こうしてデンマークを強国にのし上げたヴァルデマール4世が男子が産まれまいまま1375年に死去した後、その実権を握ったのがマルグレーテ1世でした
マルグレーテは王位継承問題に際し、自身の息子であるオーロフ2世をデンマーク王とすることに成功し、自らは摂政として国政の実権を握りました
またノルウェー王妃でもあったマルグレーテは夫であるノルウェー王ホーコン6世が急死すると、オーロフ2世をノルウェー王に就け、こちらではオーラヴ4世として即位します
こうして両国は同君連合となり、デンマーク=ノルウェー連合王国が成立、マルグレーテは摂政としてその事実上の支配者となったのです
このオーロフ2世は1387年に17歳で急死し王位が空位となってしまいますが、デンマーク議会はマルグレーテを王国全体の後見人とし、実質的な女王としての権限を与え、新国王選出を委ねることとなります
ここでマルグレーテが新国王に選んだのが、自身の又甥にあたるポンメルンのエーリクでした
エーリクはまずノルウェー国王エイリーク3世として即位します
また当時スウェーデンではメクレンブルク出身のアルブレクトが国王となっていましたが、貴族や聖職者との対立が続いており、マルグレーテはスウェーデン貴族の要請に応えてスウェーデンに出兵、アルブレクトは追放されました
ここで新たにスウェーデン王となったのが先にノルウェー王となっていたエーリクで、こちらではエリク13世として即します
エリクはデンマーク王エーリク7世としても即位し、ここにデンマーク・ノルウェー・スウェーデン3国による同君連合が成立したのです
この連合を確固たるものとするため1397年、マルグレーテはデンマーク優位のカルマル同盟を結成します
これによってデンマーク連合王国が成立し、北欧3国は
>>159
でスウェーデンが独立するまで統合されることとなったのです
マルグレーテは1412年10月28日に死去しするまで3国の摂政として事実上の支配者として君臨し、大国となったデンマークを主導したのでした
本日はマルグレーテ「女王」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・武田龍夫『物語北欧の歴史 モデル国家の生成』中央公論社、1993年
・百瀬宏・熊野聡・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・橋本淳『デンマークの歴史』創元社、1999年
776
:
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:2015/10/29(木) 12:17:02 ID:BO0ChcZQ
10月29日はムスタファ=ケマルが大統領となった日です
>>337
で見たようにムスタファ=ケマルは祖国防衛のために立ち上がり、1922年にオスマン帝国のスルタン制は廃止され帝国は滅亡しました
祖国解放戦争に勝利したケマルは1923年7月、連合国との間にローザンヌ条約を締結し、トルコのトラキア・アナトリアなどの領土回復、連合国のイスタンブールからの撤退、オスマン帝国が結んでいた不平等条約の撤廃などを勝ち取ったのです
こうしてトルコの独立を守ったケマルは1923年10月29日、共和国宣言とともに初代大統領に就任します
その後もケマルは
>>509
のカリフ制廃止やイスラーム教の非国教化などの政教分離、共和国憲法の制定、女性解放、文字改革などの諸改革を進め、近代国家としてのトルコの基礎が確立されていくのでした
本日はトルコ共和国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・坂本勉・鈴木董『新書イスラームの歴史 イスラーム復興はなるか』講談社、1993年
・山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論新社、2008年
・新井政美『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』講談社、2013年
777
:
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:2015/11/01(日) 10:39:37 ID:8zKBdLgE
11月1日はダヴィドが処刑された日です
1204年に第4回十字軍がビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを占領し、その際に黒海南岸に建てられた亡命政権のトレビゾンド帝国は、
>>46
のコムネノス朝の嫡流を自認し、
>>146
のオスマン帝国によるビザンツ帝国滅亡後も存続していました
しかし
>>587
で見たようにメフメト2世は各方面への侵略を進め、トレビゾンド皇帝ヨハネス4世はオスマン帝国に多額の貢納金を支払うことで辛うじて難を逃れているという状態でした
1458年にヨハネスが亡くなると、その息子アレクシオスはわずか4歳であったため、ヨハネスの弟ダヴィドが皇帝に即位します
ダヴィドはオスマン帝国がヨーロッパ方面での問題に手一杯だろうと考え、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、ローマ教皇庁からの援助を取り付け、白羊朝のウズン=ハサンを頼みにオスマン帝国に対抗しようとしました
白羊朝の最盛期を築いたウズン=ハサンは、小アジア東部でオスマン帝国に匹敵する勢力を持っていました
トルコ君侯やグルジア諸王もウズン=ハサンと連合しており、トレビゾンド皇帝ダヴィドとしても、自身の姪が妻となっているウズン=ハサンは頼みとなる存在だったのです
ダヴィドは1460年、オスマン帝国に対して貢納金支払いの免除を要求しました
当然オスマン帝国のメフメト2世は憤慨し、トレビゾンド帝国への侵攻を決定します
メフメトはまず白羊朝へと攻め入り牽制した上でトレビゾンドへと向かいました
頼みとする白羊朝の支援が絶たれたダヴィドは降伏し、1461年8月にトレビゾンド帝国は滅亡しました
ダヴィドはその後コンスタンティノープルにてオスマン帝国からの年金によって生活していました
しかし彼の友人であったゲオルギオス=アミルツェスがダヴィドがウズン=ハサンと連絡を取ろうとしているとオスマン帝国に報告したことで、ダヴィドはアドリアノープルで投獄されます
そして1463年11月1日、ダヴィドはその息子や甥ともども処刑され、ここにトレビゾンド皇族の命運は尽きたのでした
本日はトレビゾンド皇帝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年
778
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/02(月) 23:36:51 ID:2i3StNAc
11月2日はペドロ3世が死去した日です
アラゴン王ペドロ3世は
>>632
で見たようにシャルル=ダンジュー支配下のシチリアに介入し、
>>708
のビザンツ皇帝ミカエル=パレオロゴスの策謀もあってシチリアの晩鐘が起こりました
この事件で直ちにシチリアがアラゴンの影響下に置かれたわけではなく、ナポリ王国を拠点としたシャルル=ダンジューも反撃しシチリア晩鐘戦争が勃発します
ペドロはシャルル=ダンジューの反撃を撃退してシチリアを支配下に収めると、イタリア本土に上陸しシャルル=ダンジューとの戦いを繰り広げました
ここでもペドロはシャルル=ダンジューの息子であるサレルノ公シャルルを破り、シャルル=ダンジューのナポリからカラブリアへの遠征も退けます
しかしシチリアではアラゴン支配に対する反発も起こっており、さらにフランス王フィリップ3世がアラゴンへの十字軍を企てました
その最中の1285年1月、シャルル=ダンジューが死去し、ついでシャルル=ダンジューが教皇位につけ、常にシャルル=ダンジューに肩入れしていた教皇マルティネス4世もまた死去しました
そのためナポリ王国は大いに混乱し、2人の協力によって進められていたシチリア方面への遠征は見込めなくなりました
そのためペドロは防衛戦力を全てアラゴンに回すことができ、フランス王フィリップ3世のアラゴン十字軍をも撃退します
フィリップは同年10月に死去し、これによってアラゴン十字軍も頓挫することとなりました
その一ヶ月後の1285年11月2日、これらの勝利を見届けたうえでアラゴン王ペドロ3世は死去しました
こうしてシチリアの晩鐘の主要人物がことごとく世を去ったわけですが、戦争は彼らの後継者であるナポリ王シャルル2世、ローマ教皇ホノリウス4世、フランス王フィリップ4世、アラゴン王アルフォンソ3世らによって継続されるのでした
本日はペドロ3世大王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
779
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/03(火) 19:40:52 ID:LPlBoALQ
11月3日はヨハネス3世が死去した日です
>>64
の第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落とラテン帝国建国の後、ビザンツ帝国の人々は各地に亡命政権を建てて対抗しました
まず帝都奪回に着手したのが
>>777
でも登場したコムネノス家のトレビゾンド帝国ですが、黒海南岸を西進したもののニケーア帝国の妨害に遭い撤退を余儀なくされました
ついでアンゲロス家のエピロス専制公国はモンフェラート侯ボニファチオのテッサロニカ王国を破ってコンスタンティノープルに迫るものの、ブルガリアとのクロコトニッツァの戦いに敗れ帝都奪回は挫折します
そのなかで力を伸ばしていったビザンツ亡命政権が、ラスカリス家のニケーア帝国でした
ニケーア帝国はビザンツ皇帝アレクシオス3世の義理の息子であったテオドロス=ラスカリスによって建てられ、1206年には「ローマ人の皇帝」を称し、1208年にはコンスタンティノープル総主教によって戴冠されその正統性を確保します
テオドロスはプロノイア制を発展させ、貴族に土地や徴税権を与える見返りとして軍事奉仕を課しました
テオドロスの後を継いだヨハネス3世はその政策を継続・発展させていきます
貴族に様々な特権を与える一方で皇帝直轄領の経営を進め、農業・牧畜・養鶏に力を入れてその収益を上げることに成功しました
対外政策においてもブルガリアを破りバルカン半島に勢力を拡大していきます
ラテン帝国はコンスタンティノープル周辺にしか領土を持たない存在に過ぎなくなり、また1246年にはテッサロニカ王国を征服、エピロス専制公国へも圧力をかけました
小アジアのトルコ人をも撃退したことでニケーア帝国の威信はますます高まり、一亡命政権からかつてのビザンツ帝国を思わせる強国へと成長させたのです
このうような成功を収めたヨハネス3世は1254年11月3日に死去しました
その功績が讃えられ、その死から50年後、ヨハネスは聖人に列せられることとなったのでした
本日はニケーア皇帝ヨハネス3世の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
780
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/04(水) 11:07:18 ID:IjMWvEhk
11月4日はカヴールが首相に就任した日です
ナポレオン支配下にあったイタリアはウィーン会議によって9ヶ国に再編成されました
いずれもウィーン会議での正統主義に基づく復古を基本とし、この時期のイタリアは復古期といわれます
いずれの国でも基本的にはナポレオン時代の集権的な官僚制が維持されましたが、以前の諸特権を奪われたままの保守派貴族、ウィーン体制期にヨーロッパで広まっていた自由主義に共感する官僚・軍人の双方から不満を持たれる政治体制となっていました
このような状況でイタリアの近代化を図る動き、いわゆるリソルジメントが進められ、秘密結社カルボナリやマッツィーニ率いる青年イタリアの活動が活発となります
この青年イタリアが結成されたのと同年にサルデーニャ王に即位したのがカルロ=アルベルトでした
当時のサルデーニャ王国は行政・法組織が未熟であり、カルロ=アルベルトは法制度の整備に努めます
この時期は農業の発達によって経済発展も進み、1842年には国王認可のもとで農業協会が設立されました
この協会は農業家だけでなく商工業者や官僚も加わった組織で、さまざまな社会問題に関する議論が行われ、協会内で民主派と穏健自由主義派がうまれていきます
この穏健自由主義派のリーダーとして台頭したのが、ピエモンテの名門貴族の息子カヴールでした
カヴールはやがて政治活動に入り、サルデーニャ王国主導によるイタリア統一を主張、サルデーニャ王国の議員として活躍するようになります
この頃諸外国ではウィーン体制に反発する大きな動きがあり、フランスで1848年2月に起こった二月革命を皮切りにベルリンやウィーンでも同様の自由主義革命が勃発しました
1848年革命と称されるこの運動はイタリアにも波及し、特にイタリアにたびたび干渉していたオーストリアのメッテルニヒが失脚したことは大きな影響を与えたました
このような情勢のなかでサルデーニャ王カルロ=アルベルトはオーストリアと開戦しますが、1848年7月にクストーザの戦いに敗れます
サルデーニャ王国内ではその後政権交代がたびたび行われますが共和派が勢力を伸ばし、これにおされたカルロ=アルベルトは再びオーストリアと戦うことを決定します
しかし1839年3月のノヴァーラの戦いで決定的な敗北を喫し、カルロ=アルベルトは退位の後亡命、王位は彼の息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が継ぎました
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は穏健自由主義者のマッシモ=ダゼリオを首相に任命し、またオーストリアと休戦協定を結びます
1850年、カヴールはこのダゼリオ内閣に農商大臣として入閣しました
カヴールはイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国と通商条約を結んで輸出入の関税を引き下げ、保護貿易から自由貿易へと転換させます
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の信任を得たカヴールは1852年11月4日に首相に任命されました
中道右派に位置するカヴールは中道左派ウルバーノ=ラッタッツィと提携して議会の多数派を形成し、保守派の抵抗を排除しつつ民主派の動きも抑えこみながら自由主義改革を進め、イタリア統一運動を進めていくのでした
本日はサルデーニャ王国首相カヴールの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
781
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/09(月) 00:10:53 ID:fVsZyNo2
あ
782
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/11(水) 11:36:41 ID:xphbT2Jc
11月11日は第4回ラテラノ公会議が開かれた日です
ローマ教会と神聖ローマ帝国との叙任権闘争は
>>294
のヴォルムス協約で一応の妥協が成立しましたが、問題が完全に解決されたわけではなく、その後も教権と俗権を巡る対立が続きました
教会内部でも教皇カリクストゥス2世の死後、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世が並立する教会分裂が起こります
この分裂は最終的にインノケンティウス2世の勝利によって終息し、彼の支持した枢機卿に法学の知識がある者が多かったため、これ以降教皇庁の統治機構が整備されていくこととなりました
特に教皇庁の組織が発達したのは12世紀後半、自身も法学者であった教皇アレクサンデル3世の時代で、教皇庁の司法・行政・財務などの機構が整備され、この時期から教皇から各地の教会に指示を与える教皇書簡の数が急増していきます
また各地の教会の訴訟が教皇庁に上訴される件数も増え、教皇庁の影響力はますます増大することとなりました
こうして教皇を中心とするローマ教会の体制が12世紀後半に確立しましたが、その絶頂期を現出したのが教皇インノケンティウス3世でした
1198年に即位したインノケンティウス3世もまた法学の専門知識を活かして教皇庁の統治機構を拡充発展させ、また彼は教会君主政と呼ばれる教皇による君主的な教会支配体制が確立します
教皇は12世紀中頃まではペテロの代理者と称していましたが、この頃から神から直接権力を授けられた者であることが強調され、キリストの代理者と称するようになり、教皇は神の権威を地上で代理する擬似的な君主とみなされるようになったのです
インノケンティウス3世はこれをもとに教皇領の集権的な統治を行い、教会組織の君主としてローマ教会全体への支配権を持ち、また西欧キリスト教世界の世俗君主に対しても影響力を行使しました
そしてインノケンティウスが西欧キリスト教世界の長であることを広く示したのが1215年11月11日に始まった第4回ラテラノ公会議でした
この公会議は聖俗の代表者が1000人以上、ローマのラテラノ大聖堂に集まった大規模な公会議であり、カタリ派などの異端対策、信徒の告解の義務化、ローマ教皇の首位権の確認、キリスト教からのユダヤ人の明確な区別などが行われ、インノケンティウスの「教皇は太陽、皇帝は月」という発言にも表れているように、ローマ教皇の絶対的な権威が示されることとなったのでした
本日は教皇権絶頂期の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年
783
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/12(木) 16:29:50 ID:Ag82K/7E
11月12日はカヌートが死去した日です
>>350
で見たように、イングランドではアルフレッド大王やエドガーによって王国が統一され、デーン人とも共存を図っていたものの、エドガーの死後は再びデーン人の侵攻が開始されました
そしてエゼルレッドがデーン人を虐殺したことをきっかけにデーン人の本格的な侵入が開始され、エゼルレッドはデーン人を撃退できないまま死去し、1016年、デンマークの王子カヌートが賢人会議に認められイングランド王として即位したのです
カヌートはその後1019年にデンマーク王、1028年にノルウェー王に即位、さらにスウェーデンにも支配を広げ北海帝国を建設、イングランドもその一部に組み入れられることとなりました
カヌートはイングランドにおいては国内に存在する四つの伯領のうち3つを有力貴族に委任し、またアングロ=サクソン人とデーン人とを平等に統治する体制とします
またカヌートはキリスト教の王としてローマへの巡礼も行い、教会税を徴収し、デーン人のキリスト教改宗も支援し、イングランド社会におけるアングロ=サクソン人とデーン人との共存がますます進むこととなりました
しかしカヌートは1035年11月12日に死去し、彼自身の力量によって保たれていた北海帝国は急速に崩壊していきます
イングランドでもカヌートの後継者をめぐる争いが繰り広げられ、エゼルレッドの息子でノルマンディに亡命していたエドワードが即位してウェセックス朝が復活、デーン人の支配が終わることとなるのでした
本日は北海帝国の覇権の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・高橋博『アルフレッド大王 英国知識人の現像』朝日新聞社、1993年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
784
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/05(金) 23:12:20 ID:HquIe/t6
あ
785
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 00:27:52 ID:es91wXT6
行進待ってます
786
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 00:59:30 ID:dHk0XJwk
ああ、すっかり放置してしまってた...
なんか途中で一旦途切れてしまったら気が抜けてしまって
あんまり気にせずまたやっていこうかな
787
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 12:26:14 ID:dHk0XJwk
2月26日はベルリン会議が終了した日です
19世紀、ヨーロッパ各地で産業革命によって工業化が進展すると、アフリカは機械の潤滑油となるヤシ油・ピーナッツ油の生産地としての需要が高まり、また工業製品市場としての役割も果たすようになりました
それまでヨーロッパによるアフリカへの進出は地中海沿岸にあたる北部と、貿易拠点となる沿岸部に限られていましたが、この時代には内地への進出が活発化し探検やキリスト教布教が行われるようになります
これらの活動はヨーロッパによるアフリカの植民地化を推し進めることにもなり、スタンリーの探検によってコンゴがベルギーの植民地となったのは
>>89
でも見た通りです
しかしこのベルギーの進出に対しイギリスとポルトガルが反発し、これにフランスなども絡んでコンゴをめぐる対立が深まっていきました
この対立の原因が列強による無秩序なアフリカ分割にあったため、1884年、ドイツのビスマルクが仲介に乗り出しベルリン会議が開かれます
会議にはアフリカ進出を図る14の国々が参加し、秩序だったアフリカ分割が話し合われました
そして1885年2月26日、ベルリン会議は終了し列強間での協定が取り決められました
その内容は、コンゴ自由国の権益を承認、コンゴ盆地の自由貿易と中立化、コンゴ川・ニジェール川における航行自由権、奴隷貿易の禁止などでした
また、会議ではアフリカ分割における基本原則も合意されます
1つは勢力範囲の原則で、沿岸部を占領すればその後背地の所有権も得られ、また他国の権益が無い場所を勢力圏に組み入れる際には列強に通告しさえすればよいというものでした
もう1つは実効支配の原則で、新たにアフリカの領土を併合する場合、その地域における他国の権益、通商・航行の自由を確実に保障できる実体的な支配権を確立しなければならないというものでした
このために列強は現地で行政・治安機構を整備することが必要となり、列強によるアフリカの植民地化が急速に進められることとなったのでした
参考文献
・宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』講談社、1997年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
788
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 12:27:29 ID:bOcpNenk
とんでもねえ、待ってたんだ
789
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/26(金) 12:30:39 ID:pKO4PXs.
>>787
誠実な仲介人(大嘘)
790
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/02/27(土) 16:16:46 ID:NgWrvVz2
2月27日はスラバヤ沖海戦が始まった日です
>>379
のマレー沖海戦をはじめとする日本の南方作戦は順調に進み、1942年1月には石油資源の確保を目的とする蘭印作戦が発動されました
このために日本海軍は強力な水上部隊を編成し、上陸作戦の支援戦力として投入することとなります
ボルネオ島、セレベス島、チモール島を占領した日本は蘭印の主島であるジャワ島攻略に乗り出し、その足がかりとしてバリ島を占領した後、上陸作戦を開始しました
このジャワ島攻略には西村祥治少将率いる軽巡洋艦「那珂」駆逐艦「村雨」「五月雨」「春雨」「夕立」「朝雲」「峯雲」からなる第四水雷戦隊が護衛につき、その援護として高木武雄少将率いる重巡洋艦「那智」「羽黒」駆逐艦「潮」「漣」「山風」「江風」の第五戦隊も加わり、さらに田中頼三少将率いる軽巡洋艦「神通」駆逐艦「雪風」「時津風」「初風」「天津風」の第二水雷戦隊がチモール島攻略作戦終了とともに合流します
この聯合艦隊の諸艦艇には、日本海軍が開発した新兵器、酸素魚雷が搭載されていました
一般的な魚雷の射程が5,000メートル程度なのに対し、この酸素魚雷は最大40,000メートルに達する長大な射程を有し、しかも水に溶けやすい二酸化炭素が出るために無航跡となり、さらに燃焼効率が良くなったことで炸薬量も増加するというまさに一撃必殺の兵器であり、酸素魚雷の初陣となったこの海戦ではその運用に大きな期待が寄せられていました
一方の連合国軍はスラバヤに上陸しようとする日本船団を発見し、カレル・ドールマン少将率いるアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアの混成艦隊、通称ABDA艦隊が日本軍の上陸を阻止するために接近、これを撃滅しようすとる聯合艦隊との間で起こったのが、1942年2月27日のスラバヤ沖海戦です
海戦はまず昼間の遠距離砲撃戦から始まり、第二水雷戦隊旗艦「神通」が敵を発見すると砲撃を開始し、第五戦隊の「那智」「羽黒」も距離26,000メートルから砲撃を行いました
しかしこの長距離ではほとんど命中弾が見られず、イギリス重巡洋艦「エクゼター」に軽微な損害を与えたに過ぎませんでした
初陣となった酸素魚雷もほとんどが敵艦に到達する前に自爆するなどして効果を発揮できず、オランダ駆逐艦「コルテノール」一隻の撃沈に留まりました
その日の夜戦もまた戦果をあげられず、海戦は翌28日の昼戦に移行します
この日の戦闘では前日の砲撃戦による残弾不足から緩慢な砲撃戦に終始したものの、「那智」「羽黒」から発射された酸素魚雷がオランダ軽巡洋艦の「デ・ロイテル」「ジャワ」を撃沈し、これによって「デ・ロイテル」に座乗していたABDA艦隊司令官のドールマン少将が戦死、海戦に決着がつくこととなったのです
その後ABDA艦隊はバタヴィア方面に退避し、これを追撃した聯合艦隊とのバタヴィア沖海戦によって蘭印一帯の制海権は日本が完全に掌握することになります
こうしてスラバヤ沖海戦は蘭印作戦における一大艦隊決戦となったものの、遠距離砲撃戦でほとんど命中弾を与えられなかったことや、期待された酸素魚雷が188本のうち4本しか命中せず、様々な問題点もまた露呈した海戦となったのでした
参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦1 進攻篇』講談社、1988年
・「丸」編集部『写真太平洋戦争2 中部・南部太平洋方面攻略作戦/蘭印攻略作戦/インド洋作戦』光人社、1995年
・「決定版太平洋戦争3 」南方資源と蘭印作戦」学習研究社、2009年
791
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/01(火) 18:46:08 ID:sfQE65Bs
3月1日はアドワの戦いが行われた日です
エチオピアは古代よりキリスト教王国として栄え、近代に至ってもその伝統は連綿と受け継がれていました
しかし18世紀頃から各地の豪族が独立勢力のように振る舞い、国王の権威が著しく衰退した諸公侯時代となっていました
このような状況にあって、
>>787
などで見たようにアフリカの植民地化を推し進めるヨーロッパ列強はエチオピアにも目を向けるようになります
この危機に際し、各地の豪族を破ってエチオピアを統一し皇帝となったテオドロス2世はヨーロッパ列強に対抗しますが、1868年のイギリスとのマグダラの戦いに敗れ戦死してしまいます
この時イギリスに協力し、新たに皇帝となったヨハネス4世もまたエジプト、フランス、イタリアの進出に対抗しますが、1889年にマフディーとの戦いで戦死しました
皇帝の相次ぐ戦死で混乱するエチオピアに対し、ヨーロッパ列強は本格的に侵攻を図るようになります
その列強の1つがイタリアでした
>>663
のローマ併合以降、イタリアは国内の体制固めに集中し対外政策には消極的でしたが、ヨーロッパ列強がアフリカへと積極的に進出するようになると、イタリアもまたアフリカへの関心を強め、まずチュニジアをアフリカ進出の拠点としようと動きます
しかし1881年にフランスがチュニジアを保護国とするとイタリアの計画は頓挫してしまいました
次にイタリアが目を向けたのがエチオピアで、1889年にエチオピア皇帝位を狙うショア王メネリクとの間にウッチャッリ協定を結び、メネリクの皇帝即位を支持するのと引き換えに、紅海沿岸地域にエリトリア植民地を建設したのです
イタリアはこの協定を口実としてエチオピアの保護国化を進めようとしますが、エチオピア皇帝となったメネリク2世はこれに反発、1893年に協定を破棄しました
これに対しイタリアはエリトリア植民地を拠点としてエチオピアへと軍事侵攻を開始しますが、エチオピア軍の激しい抵抗に苦戦します
というのも、メネリクはエチオピア皇帝となって以降国家の近代化を進め、特に軍隊の近代化には力を入れており、約9万の常備軍にライフル銃、機関銃、大砲などを導入し大きく戦力を増強させていたのです
苦戦するイタリア軍に対し、エチオピア軍が決定的な勝利を収めたのが1896年3月1日のアドワの戦いでした
この戦いでイタリア軍は全軍の4割を失うという壊滅的大敗を喫し、エチオピアでの軍事行動が困難な状況に陥りました
この戦いの後、強引な植民地政策を主導していたイタリア首相のクリスピは失脚、イタリアとエチオピアとの間にアディスアベバ条約が結ばれ、エチオピアの独立は保たれることとなったのでした
参考文献
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
792
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/01(火) 18:48:58 ID:2rCzrDJ.
乙シャス!
793
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/02(水) 22:28:03 ID:18hS/uis
3月2日はアレクサンドル2世が即位した日です
ロシア皇帝ニコライ1世の代に始まったクリミア戦争ですが、
>>548
で見たようにロシアは劣勢に立たされ、ニコライはその最中の1855年3月2日に没します
このニコライの後を継いで皇帝となったのがアレクサンドル2世でした
新皇帝アレクサンドルはまずクリミア戦争の敗戦処理を行い、1856年にパリ条約を結んで戦争を終結させ、ここから彼の政治が始まることとなります
先帝ニコライは保守的な政策に終始し、社会や経済は停滞、農民の不満は高まり、クリミア戦争の敗北によって他のヨーロッパ列強と比べての近代化の遅れが痛感されたことで、ロシアでは農奴制の廃止や立憲制が主張され、ツァーリ体制の打破を叫ぶ者もいました
アレクサンドルはこれに対し、上からの改革を推し進めようとし、ツァーリ体制を維持しつつその強化に努めるとともに、国力の増強を図ります
1861年の農奴解放令を皮切りに、地方・都市行政改革、司法改革、教育改革、軍制改革が行われ、工業化のために鉄道が建設され、関税や通貨、財政面でも改革が進められたのです
これらの諸改革は「大改革」と称され、アレクサンドルはツァーリ体制を整備しつつ国家の近代化を推し進めていくこととなるのでした
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
794
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/03(木) 19:50:57 ID:fulr9Cw2
3月3日はサン=ステファノ条約が結ばれた日です
>>793
で見たロシア皇帝アレクサンドル2世による大改革ですが、当初から軌道に乗っていたわけではなく、国民の不満は解消されませんでした
この不満を外に逸らすためにアレクサンドルは対外進出を図り、その標的として目を向けたのがバルカン半島でした
バルカン半島ではオスマン帝国の弱体化に乗じて諸民族の独立運動が盛んであり、また普仏戦争でフランス皇帝ナポレオン3世が失脚したことでロシアはフランスに圧力をかけ、クリミア戦争の講和条約であるパリ条約を改定させることに成功、バルカン半島進出の準備を着々と進めていきます
そんな中の1875年、オスマン帝国支配下のボスニア=ヘルツェゴビナでギリシア正教徒が反乱を起こしし、これがブルガリアにも波及して1876年に四月蜂起が発生しました
またセルビア・モンテネグロがボスニア=ヘルツェゴビナの領有を主張し、オスマン帝国と開戦しましたがオスマン帝国によって撃退され休戦、四月蜂起もまたオスマン帝国によって武力で鎮圧され、多くのブルガリア人が虐殺されるという事態となりました
これを見たロシアは1877年4月、パン=スラヴ主義に基づくスラヴ人の解放、ギリシア正教徒の保護を口実としてオスマン帝国に宣戦、露土戦争が勃発しました
ロシアはシプカン峠の戦いでの勝利以降戦局を優位に進め、イスタンブールに迫ります
オスマン帝国はイギリスに支援を要請し、これに応えたイギリスがマルマラ海に軍を派遣したためロシアとイギリスとの間での戦争の危機が高まり、ロシアはオスマン帝国と講和条約を結びます
これが1878年3月3日に結ばれたサン=ステファノ条約で、この条約によってセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立が認められ、ロシア保護下でマケドニアを含むドナウ川からエーゲ海に至る大ブルガリア公国が建設されました
これによって不凍港の獲得を宿願とするロシアの南下政策が大きく前進することになりましたが、ロシアの南下を危惧するイギリスと、バルカン半島においてパン=ゲルマン主義を掲げるオーストリアが反発したため緊張が高まることにもなります
これは「誠実な仲介人」を自認するドイツ宰相ビスマルクの呼びかけによってベルリン会議が開かれ、ベルリン条約が結ばれるとともにサン=ステファノ条約は破棄され、ブルガリアは領土を縮小、ロシアの影響力も排除されることとなりました
これによってロシアの南下政策はまたも挫折し、
>>761
で見たようにロシアとドイツの関係は悪化、またブルガリアでもサン=ステファノ条約での大ブルガリア公国領の復活を目指す大ブルガリア主義が広まっていくこととなります
参考文献
・柴宣弘『図説バルカンの歴史』河出書房新社、2001年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
795
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/04(金) 13:00:04 ID:2x46En2M
3月4日はヴワディスワフ2世が戴冠した日です
>>584
で見たポーランド王カジミェシュ3世大王が1370年に死去した後、男子のいなかった彼の後を継いだのがハンガリー王ラヨシュ1世でした
このラヨシュも男子ができないまま1382年に没すると、ポーランド貴族はラヨシュの娘であるヤドヴィガを国王に選出し、さらにヤドヴィガをリトアニア大公ヤゲウォと結婚させることにしました
当時のリトアニアはキリスト教を受容していませんでしたが、1385年、クレヴォ合同によってヤゲウォがポーランド王となり、彼とその臣民がキリスト教に改宗し、その領土がポーランドに組み入れられることなどが取り決められます
そして1386年3月4日、ヤゲウォはポーランド王ヴワディスワフ2世として戴冠し、ここにヤゲウォ朝が成立することとなったのです
このポーランド・リトアニアの連合によってヤゲウォ家は東欧において重要な地位を占め、ルクセンブルク家、ハプスブルク家と並んで覇権を競うようになりました
ヤゲウォ家、そしてポーランドの名声は
>>217
で見たタンネンベルクの戦いでヴワディスワフ2世率いる連合軍がドイツ騎士団に勝利したことでさらに高まり、後にボヘミア・ハンガリーでもヤゲウォ家の王朝が成立するなど、東欧での覇権を手にすることとなるのでした
参考文献
・山内進『北の十字軍』講談社、1997年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・伊藤孝之他『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
796
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/07(月) 13:16:02 ID:7Ic1lMLs
今日はドイツがラインラントに進駐した日です
第一次世界大戦後のドイツではヒトラー率いるナチスが政権を掌握し、1933年には軍備平等権が認められないことを不満とする軍部の要請もあり、ジュネーヴ軍縮会議と国際連盟から脱退しました
その後は対外的には特に目立った行動は無く、国内体制の整備に取り組みます
まず恐慌対策、失業者削減としてアウトバーン建設などの公共事業を進め、軍備を拡大し、失業者青少年を労働奉仕組織に吸収するなどの政策が行われました
経済政策としては四ヵ年計画を始め、それまで輸入に依存していた天然のゴム・石油・繊維を、国内産出量の多い石炭などを利用した合成ゴム・合成石油・合成繊維で代用し国内自給が図られます
これらの諸政策によって国内体制が整備されると、ヒトラーはヴェルサイユ体制の打破に乗り出しました
1935年初めには住民投票によってザール地方のドイツへの帰属が決定され、同年3月には>534で見たように徴兵制の復活と再軍備宣言が行われます
これに対しイギリス・フランス・イタリアは4月、北イタリアのストレーザで会談を開きドイツへの抗議とロカルノ体制の維持などを決めストレーザ戦線を形成するものの、翌1935年イギリスがドイツと英独海軍協定を結びドイツの再軍備を事実上認めたため、ストレーザ戦線は崩壊しました
ドイツの勢力拡大に対し、フランスはソ連との間に仏ソ相互援助条約を結びますが、ヒトラーはこれをロカルノ条約に対する違反として反発しました
またイタリアがエチオピアに侵攻したことで各国の注意が地中海方面に向けられたこともあり、国際状況はドイツにとって有利に動くこととなりました
そして1936年3月7日、ヒトラーはロカルノ条約を破棄し、非武装地帯とされていたラインラントに進駐するという行動に出たのです
このドイツの行動に対し、イギリス・フランス、そして国際連盟は抗議するのみでした
これはドイツによるヴェルサイユ体制・ロカルノ体制の打破を事実上黙認するものであり、ここに両体制は崩壊することとなったのでした
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
797
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/09(水) 20:45:16 ID:/asvTHd.
3月9日は武帝が即位した日です
>>506
で建国された漢では、秦の失敗を省み急進的な中央集権化は行わず、都である長安を中心とする直轄地においては郡県制、地方においては劉氏一族や功臣を諸侯として領地を治めさせる封建制を併用する郡国制を採用します
やがて時代が降ると諸侯の勢力は強まっていき、中央政府に対し反抗的な態度を見せることが多くなっていきました
そのため中央政府では諸侯抑圧策を採るようになりますが、第6代皇帝である景帝が諸侯の領土を削減しようとしたことをきっかけに、前154年、呉王を中心とする7人の諸侯が反乱を起こす、呉楚七国の乱が勃発しました
反乱は漢を二分する大規模なものとなりましたが3ヶ月で鎮圧され、この後諸侯は都に移され、それまで諸侯が治めていた諸国は中央から派遣された官吏が治めるようになり、諸侯の勢力が弱まるとともに中央集権化が進むこととなりました
前141年3月9日、武帝が漢の皇帝に即位したのはこのような状況においてでした
武帝は推恩の令を発布、これによって嫡子のみが相続していた諸侯の領土がその子弟にも分けて相続されるようになり、その結果諸侯の領土は分割されていき、諸侯の勢力はますます弱まっていきます
また官吏任用制度として郷挙里選を採用、全国を13州に分けて各州に刺史を派遣して地方行政を監察させるなど、武帝の代で中央集権体制が確立し、漢の全盛期が現出することとなるのでした
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国)』講談社、2004年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年
798
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/10(木) 19:49:59 ID:6QbuOrLw
3月10日は奉天会戦が終結した日です
1904年8月、日露戦争において両軍の主力が初めて激突した会戦である遼陽会戦で日本軍は勝利したものの、ロシア陸軍主力を撃滅、あるいは大打撃を与えるという目標は達成できず、またロシア軍以上に損耗率が高かったことで退却するロシア軍を追撃することはとても望めず、戦力回復のため10月まで作戦行動が取れない状態となりました
一方のロシア軍は初め鉄嶺まで退却する予定でしたが、日本軍の追撃が無かったことで沙河で停止し、ロシア本国からの増援による戦力回復に努めます
次に動いたのはロシア軍からで、総司令官クロパトキン大将は北上する日本軍に打撃を与えるため攻勢に出、日本軍右翼に集中攻撃をかけ遼陽方面に圧迫して後方の連絡線を遮断しようとしました
一方の日本軍はロシア軍が攻勢に出ることは察知したものの、児玉源太郎参謀長が旅順要塞攻防戦の視察に赴いていたこともあって積極的な行動が取れず、後手に回ることとなってしまいました
沙河で行われたこの会戦は両軍の痛み分けとなり、しばらくは膠着状態が続きます
日露両軍は遼陽と奉天の間で対陣に入り、越冬も兼ねて長さ50kmに及ぶ長大な防御陣地を構築して睨み合いとなりました
この間にロシア軍は本国からの増援を得て戦力を回復、日本軍も年が変わって1905年1月1日に旅順要塞を攻略し、乃木希典大将率いる第三軍をロシア軍との決戦に転用する目処がたちます
ここでロシア軍は乃木が到着する前に日本に打撃を与えるべく、黒溝台に奇襲をかけ日本軍左翼を包囲しようと動き出しました
日本軍はまたも後手にまわり、ロシア軍は攻勢を続けたものの、予定していた本格攻勢のために攻撃を打ち切り、日本軍は辛うじて窮地を脱することとなります
黒溝台会戦の後、日本軍は乃木大将の第三軍が合流して軍の再編を行い、ロシア軍も防御陣地に籠もり攻撃準備を整え、双方ともに3月10日前後を攻勢に出る日付と予定していました
しかし日本軍が攻撃開始予定日を2月25日に繰り上げたこともあって日本軍が先手を取り、ロシア軍は今度は後手に回ることとなりました
ここに日露戦争最大にして最後の会戦となる奉天会戦が始まったのです
第一・第二・第三軍、鴨緑江軍の5個軍からなる日本軍は鴨緑江軍の陽動によってロシア軍を左翼側に引き寄せ、その間に第三軍が左側面を迂回、第三軍と第二軍が側面と正面からロシア軍を同時攻撃する作戦を立てました
2月22日、作戦に基づき鴨緑江軍が動き出すと、日本軍の思惑通りにロシア軍は鴨緑江軍を抑えるために戦力を投入し、左翼を北上する第三軍も順調に進軍したことで3月1日には同時攻撃の準備が整い、日本軍は一斉攻撃に出ます
しかしロシア軍は強固な防御陣地を盾に頑強に抵抗し、唯一攻勢に出ていた第三軍もまたロシア軍の増援によって攻撃が停滞し始めました
ここで日本軍は第三軍を奉天の背後に回り込ませロシア軍の退路を断つとともに、第一軍には渾河を渡らせて撫順と奉天との間を遮断させる作戦に変更します
ロシア軍もこれを防ぐため日本軍の第三軍に攻撃を集め、両軍は互いの翼側をついて主導権を握ろうと衝突しました
この激戦の最中の3月6日、日本軍が鉄嶺に向かうという誤報がロシア軍総司令官クロパトキンに届き、ロシア軍の反撃が頓挫したこともあって、クロパトキンは防御線を短縮して前線の兵力を減らし、これを他方面に向かわせるため部隊を後退させることにしました
3月9日、クロパトキンは退却を命じ、戦局は後退するロシア軍と追撃する日本軍という構図となります
このロシア軍の転進によって日本軍の第三軍は壊滅し、ロシア軍の退路を断つことが困難となりました
児玉参謀長は追撃を諦めて奉天に残存するロシア軍を撃滅しようとし、3月10日に包囲攻撃をかけたもののすでにロシア軍の大半は脱出し、追撃する余力が無かったため、ここに奉天会戦は終結しました
日本軍はこの会戦に勝利はしたものの損害は大きく、ロシア軍の撃滅を果たせなかったことで、戦争全体の決着をつける勝利とまではいかず、勝敗の行方は
>>621
の日本海海戦を待つこととなるのでした
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・横手慎二『日露戦争史 20世紀最初の大陸間戦争』中央公論新社、2005年に
・隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論新社、2006年
799
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/13(日) 14:54:16 ID:jQuEGPZs
3月13日はオーストリア三月革命が勃発した日です
1840年代、ドイツの諸邦では貧困問題や社会問題への対応の遅れ、農作物の不作や金融恐慌による食糧暴動や失業、多民族国家であるが故の民族問題、身分制が残存した旧態依然の政治体制などによって市民の間で不満が高まっていました
そんな中フランスで勃発した
>>655
の二月革命はドイツにも波及します
まずバーデン大公国のマンハイムにおいて言論・出版・集会の自由、将校の自由選挙を伴う国民の武装、イギリス式の陪審裁判制の導入、全ドイツ議会の即時設立などの要求、いわゆる三月要求を掲げた請願書が反政府民衆集会において採択されました
集会の代表団が大公国の首都カールスルーエに到着すると、そこには大公国各地から市民や学生が集結しており、その圧力のもとで彼らは三月要求に加えて封建的諸特権の廃止や責任内閣制も要求します
バーデン議会はこれを受け入れ、立憲自由主義者を入閣させた新内閣、いわゆる三月内閣がここに成立することとなりました
バーデンでの成功を受けてバイエルン、ヴュルテンベルク、ヘッセン、ザクセン、ハノーファーなどの諸邦でも民主運動が起こり、同様に要求が受け入れられ三月内閣が成立します
そしてこの三月革命はドイツ連邦の盟主であるオーストリアにも及んだのです
1848年3月13日、オーストリアの首都ウィーンでは市民、学生、手工業者らが下オーストリア州会議議事堂前に押し寄せ、三月要求の速やかな審議とメッテルニヒの退陣を要求しました
彼らは議事堂に乱入して軍隊と衝突し、これをきっかけに暴動がウィーン市街地にも広がり、軍隊との市街戦、工場の占拠や機械の破壊、商店の略奪など暴動は大規模化していきました
当時オーストリアは北イタリアでも民族革命に直面しており、皇帝と新政府は譲歩し、旧体制の象徴となっていたメッテルニヒはイギリスに亡命します
こうして要求は受け入れられ、軍隊のウィーンからの撤兵、学生軍と国民衛兵の創設、言論・出版・集会の自由が認められ、憲法制定などが約束されました
しかし他の諸邦とは異なり三月内閣は成立せず、そのために権力の空白地帯が生じたことで皇帝は反撃に転じ十月までには運動は鎮圧されることとなるのでした
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
800
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/13(日) 19:50:57 ID:u8kPnxqY
おっ再開してる
乙シャス!
801
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/03/15(火) 20:31:55 ID:lTqDt2zc
3月15日はミズーリ協定が結ばれた日です
アメリカ合衆国では、その北部地域が19世紀に入って産業革命が本格的に進展し、イギリスとの間で工業生産の競合が生じるようになりました
そのためアメリカの工業製品を守るためにイギリス製品を排除する動きが高まり、保護貿易が主張されるようになります
そしてこれを確実に実行するため、中央政府の権限を強化する連邦主義の立場を取ることとなったのです
一方南部では黒人奴隷を使役してタバコ・米・藍・綿花などを栽培するプランテーションが行われ、産業革命が進展して以降は特に綿花の需要が高まり、プランテーションが広がっていくことになります
南部ではプランテーションによって生産した原料をイギリスに供給し、イギリスから工業製品を輸入するという相互依存関係が成立していたため、北部とは異なり外国製品に関税をかけない自由貿易が主張されました
そして中央政府の権限を縮小し州の自治を尊重する姿勢をとったため、北部と南部は経済的にも政治的にも対立するようになったのです
両地域の対立は、西部開拓が進むにつれて生まれる新しい州の争奪戦という形で激化しました
そしてその対立は1819年にミズーリ州が連邦に加入する際に、奴隷制を認めるか否かによって一気に表面化することとなります
1820年3月15日に結ばれたミズーリ協定によって、北緯36度30分以北の新州は奴隷制を認めず、以南では奴隷州とする妥協が成立しました
しかしこれは一時的なものに過ぎず、両地域の対立はやがて南北戦争へと発展するのでした
参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・紀平英作・亀井俊介『世界の歴史23 アメリカ合衆国の膨張』中央公論新社、2008年
802
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2016/08/07(日) 00:18:39 ID:WAM1u5uw
このスレも放棄されたんやなって
803
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2017/08/02(水) 03:36:25 ID:Wo.Fp0iA
こんなスレあったんだ
804
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2017/09/21(木) 21:49:34 ID:LlSnThbk
こんなんあったんだ…
誕生日スレ検索してたらここひっかかったけど2レス前が去年とは
805
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2017/11/24(金) 19:31:53 ID:MInU.mjg
とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
もし興味ある方は読まれて下さい。
いずれ誰もが直面する「死の絶望」の唯一の緩和・解決方法として。
(万人にとってプラスになる知識)
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm
806
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2019/09/02(月) 20:06:57 ID:5okUStrM
9月2日が誕生日の方々おめでとうございます
巨乳先輩もニプルファックでイキすぎながら祝福
807
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2019/09/02(月) 20:08:02 ID:5okUStrM
すいません誤爆しました
808
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2019/09/09(月) 21:00:38 ID:WSxoGHVc
こんなスレあったんすねぇ
809
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2019/09/09(月) 21:05:52 ID:7jHE.X7Y
この掲示板にずっといたけどこんなスレあったことに今さら気づきました
巨乳先輩のクソしょーもない書き込みした人に初めて感謝しました
810
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2020/08/14(金) 20:49:28 ID:j40KgQ0U
したらば初期のスレなんすねぇ
811
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2020/08/14(金) 20:54:48 ID:gWsZW0Hs
>>806
一生NaNじぇいの聖遺物
812
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2020/11/23(月) 17:10:36 ID:Oh6br54I
スレストで誕生日スレが建てられないならこのスレに書き込めば良いじゃない!
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