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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
780
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/11/04(水) 11:07:18 ID:IjMWvEhk
11月4日はカヴールが首相に就任した日です
ナポレオン支配下にあったイタリアはウィーン会議によって9ヶ国に再編成されました
いずれもウィーン会議での正統主義に基づく復古を基本とし、この時期のイタリアは復古期といわれます
いずれの国でも基本的にはナポレオン時代の集権的な官僚制が維持されましたが、以前の諸特権を奪われたままの保守派貴族、ウィーン体制期にヨーロッパで広まっていた自由主義に共感する官僚・軍人の双方から不満を持たれる政治体制となっていました
このような状況でイタリアの近代化を図る動き、いわゆるリソルジメントが進められ、秘密結社カルボナリやマッツィーニ率いる青年イタリアの活動が活発となります
この青年イタリアが結成されたのと同年にサルデーニャ王に即位したのがカルロ=アルベルトでした
当時のサルデーニャ王国は行政・法組織が未熟であり、カルロ=アルベルトは法制度の整備に努めます
この時期は農業の発達によって経済発展も進み、1842年には国王認可のもとで農業協会が設立されました
この協会は農業家だけでなく商工業者や官僚も加わった組織で、さまざまな社会問題に関する議論が行われ、協会内で民主派と穏健自由主義派がうまれていきます
この穏健自由主義派のリーダーとして台頭したのが、ピエモンテの名門貴族の息子カヴールでした
カヴールはやがて政治活動に入り、サルデーニャ王国主導によるイタリア統一を主張、サルデーニャ王国の議員として活躍するようになります
この頃諸外国ではウィーン体制に反発する大きな動きがあり、フランスで1848年2月に起こった二月革命を皮切りにベルリンやウィーンでも同様の自由主義革命が勃発しました
1848年革命と称されるこの運動はイタリアにも波及し、特にイタリアにたびたび干渉していたオーストリアのメッテルニヒが失脚したことは大きな影響を与えたました
このような情勢のなかでサルデーニャ王カルロ=アルベルトはオーストリアと開戦しますが、1848年7月にクストーザの戦いに敗れます
サルデーニャ王国内ではその後政権交代がたびたび行われますが共和派が勢力を伸ばし、これにおされたカルロ=アルベルトは再びオーストリアと戦うことを決定します
しかし1839年3月のノヴァーラの戦いで決定的な敗北を喫し、カルロ=アルベルトは退位の後亡命、王位は彼の息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が継ぎました
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は穏健自由主義者のマッシモ=ダゼリオを首相に任命し、またオーストリアと休戦協定を結びます
1850年、カヴールはこのダゼリオ内閣に農商大臣として入閣しました
カヴールはイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国と通商条約を結んで輸出入の関税を引き下げ、保護貿易から自由貿易へと転換させます
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の信任を得たカヴールは1852年11月4日に首相に任命されました
中道右派に位置するカヴールは中道左派ウルバーノ=ラッタッツィと提携して議会の多数派を形成し、保守派の抵抗を排除しつつ民主派の動きも抑えこみながら自由主義改革を進め、イタリア統一運動を進めていくのでした
本日はサルデーニャ王国首相カヴールの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
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