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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
294
:
Republica de Venexia
:2014/09/23(火) 01:50:41 ID:???
9月23日はヴォルムス協約が結ばれた日です
神聖ローマ帝国では
>>245
で登場した初代オットー1世の代から、ローマ教会組織を通じて帝国統治を行う帝国教会政策が進められました
これはザクセン朝断絶後のザリエル朝時代でも継続され、ザリエル朝初代コンラート2世は帝国教会政策の強化に努めました
第2代ハインリヒ3世も父の政策を継承し、彼の時代に神聖ローマ皇帝権は強大なものとなりました
ハインリヒ3世の強権はイタリアにも及び、堕落していたローマ教会を正すべく、教会改革運動を積極的に支持します
しかしハインリヒはあくまで帝国統治のために教会の改革を求めたのに対し、改革運動の主導者たちは世俗権力からの脱却を主張したのです
その中心がクリュニー修道院であり、クリュニー修道院出身のイルデブラント、後のグレゴリウス7世でした
こうして教会と皇帝の対立が始まろうとしていた矢先の1056年、ハインリヒ3世は急死し、わずか6歳のハインリヒ4世が後を継ぎます
これを好機と、イタリアでは皇帝権排除の運動が高まり、イルデブラントがグレゴリウス7世として教皇に就任、グレゴリウス改革と呼ばれる改革運動を推し進めます
それは教皇権の皇帝権に対する優越を目指すものであり、帝国教会政策が機能する鍵となる聖職叙任権を教会の権利とする運動でした
すなわち、叙任権闘争の始まりでした
グレゴリウスはハインリヒに対し、叙任権が皇帝ではなく教皇にあることを通達し、ハインリヒがこれに従わなかったため破門を通告します
神聖ローマの諸侯はこれを好機とばかりに皇帝に叛旗を翻し、ハインリヒは窮地に追い込まれます
しかし1077年にハインリヒが教皇に謝罪したことで破門解除が認められ(カノッサの屈辱)、態勢を立て直したはハインリヒは教皇に逆襲、1085年、グレゴリウスはローマを追われサレルノで客死します
一方のハインリヒも諸侯反乱には悩まされ続け、さらに2人の息子にも裏切られることとなり、1105年、息子ハインリヒ5世によって廃位され、翌年急死します
皇帝となったハインリヒ5世は叙任権闘争の解決を図り、ローマ教会と交渉を進めます
そして1122年9月23日、ヴォルムス協約が成立し、世俗的な権利を皇帝が掌握する代わりに、聖職叙任権は教皇が保持することとなり、グレゴリウスが始めた叙任権闘争が一応の解決をみることとなったのでした
本日は叙任権闘争の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
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