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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
717
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/24(月) 00:34:56 ID:RlUYK1bY
8月24日はサン=バルテルミの祝日です
>>687
で見たように、16世紀半ばのフランスではギーズ公フランソワを中心とするカトリック派、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌを中心とするプロテスタント派、そして摂政カトリーヌ=ド=メディシスの三つ巴の対立からユグノー戦争が勃発しました
戦いは第一次、第二次と断続的に行われ、 第三次戦争が終結することになった1570年のサン=ジェルマン=アン=レーの和議において、ユグノーは大幅な信教の自由を獲得することに成功します
ここで宮廷復帰を果たしたのがプロテスタント派の最高指導者であるコリニー提督でした
幼い頃に父親をなくしていた国王シャルル9世はこのコリニーを父親として慕い、その政策はコリニーの意向に従うようになります
1572年にはイングランドとブロワ条約を結び、ともにスペインに対抗し、スペイン支配下のネーデルラントのカルヴァン派を支援すると約束したのです
しかし母であるカトリーヌ=ド=メディシスはこれに反対しました
スペインと本格的に戦うことになれば、フランスが窮地に追い込まれることは明白だったからです
しかしコリニーを中心に宮廷で優位を確立していたプロテスタント派の声は大きく、スペインとの対決はますます進められていきました
ここに至り、カトリーヌは融和政策を放棄し、プロテスタント派の最高指導者コリニー暗殺を決定します
カトリーヌは自身の娘であるマルグリット=ド=ヴァロワを、プロテスタントの指導者の1人であるアンリ=ド=ナヴァールと結婚させ、カトリック・プロテスタント両派の和解を図っていました
しかし融和政策を捨てたことで、この2人の結婚式が利用されることとなります
プロテスタント派が結婚式への参列のためにパリに集まっていた1572年8月24日、カトリーヌと彼女と共謀したギーズ公アンリによってコリニーはじめ多くのプロテスタント派が虐殺されたのです
虐殺はパリに留まらず各地に広がり、9月初頭まで続けられた虐殺でその犠牲者は一万人以上に及びました
カトリック・プロテスタント両派の和解となるはずだった結婚式は最悪事態へと変貌し、両派の関係は決定的に悪化、ユグノー戦争はますます激化することとなったのでした
本日はサン=バルテルミの虐殺の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
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