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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
337
:
Republica de Venexia
:2014/11/01(土) 00:28:07 ID:???
11月1日はオスマン帝国のスルタン制が廃止された日です
>>225
の青年トルコ革命の終結後ミドハト憲法が復活し、革命を主導した統一派が政権を確立しました
対外的にはスラヴ諸国の独立運動やパン=スラヴ主義の拡大に対抗するため、ドイツ側で第一次世界大戦に参戦します
しかしオスマン帝国はこれに敗北し、統一派政権は求心力を失い崩壊しました
皇帝メフメト6世はこれに乗じ専制政治の復活を狙いますが、帝国各地が連合国によって占領され、さらにギリシアがイズミルに出兵するなど危機的状況に陥ります
メフメトは保身のためこれらの占領政策を認める姿勢を見せますが、これに対しムスタファ=ケマルらが抵抗運動を展開、祖国解放戦争が勃発します
この抵抗運動を弾圧するため、連合国はイスタンブールを占領しますが、ケマルらはアンカラにトルコ大国民議会を置き革命政府を組織しました
1920年6月、メフメトは連合国との講和条約であるセーヴル条約を締結しますがアンカラ政府はこれを認めず、ギリシアに対し攻勢をかけます
ケマル率いるトルコ軍はギリシア軍を撃破し、1921年にはイズミルも奪回しギリシアは休戦協定に応じました
ここで連合国はセーヴル条約に代わりローザンヌ条約をアンカラ政府に提案、講和会議が連合国・イスタンブール帝国政府・アンカラ政府との間で行われます
ここでケマルは二重権力状態を解消するためイスタンブール政府の解散とスルタン制廃止を提案しました
そして1922年11月1日、スルタン制の廃止が決議され、メフメト6世は亡命、オスマン帝国は滅亡し共和政へと移行することとなったのでした
本日はオスマン帝国の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年
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