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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
746
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/22(火) 00:59:06 ID:kt1ijM5A
9月22日はセリム1世が死去した日です
>>587
でオスマン帝国スルタン、メフメト2世が没した後にスルタンとなったバヤジット2世は優柔不断で軍事的才能にも乏しく、オスマン帝国を脅かした内外の危機に対抗することができませんでした
その危機とはサファヴィー朝の台頭が最大の要因でした
トルコ人騎兵キジルバシュの強大な軍事力に支えられたサファヴィー朝はシーア派を掲げており、これはスンナ派としてイスラームの正統を自認していたオスマン帝国にとって大きな衝撃だったのです
またサファヴィー朝はオスマン帝国支配下の小アジアの諸部族にシーア派を勧め、一定の成果を挙げたこともオスマン帝国の危機感につながりました
このような状況で1512年、兄であるバヤジット2世を廃して即位し、他の兄やその息子たちを抹殺して地位を確立したのがセリム1世でした
セリムはまず国内のシーア派に対し空前絶後の大粛清を行って基盤を固め、問題の大本であるサファヴィー朝の討伐に向かいます
こうして起こったのが
>>258
のチャルディラーンの戦いで、これに勝利したオスマン帝国は小アジアでの支配を確立しました
セリムは次いでマムルーク朝を標的に定めます
マムルーク朝はイスラームの聖都であるメッカとメディナを有し、またアッバース朝滅亡後にカリフの末裔を迎えたことでイスラーム世界の中心の1つとなっていました
同じくイスラーム世界の中心的存在として台頭するオスマン帝国にとっては打倒すべき存在だったのです
セリムはシリア方面からマムルーク朝に侵攻し、アレッポやダマスクスなど重要都市を制圧した後エジプトへと侵入、1517年にカイロを占領しマムルーク朝を滅ぼしました
マムルーク朝征服によってオスマン帝国はシリア・エジプトを通る交易ルートを確保し、紅海の交易ルートも合わせユーラシア・アフリカをつなぐ交易ルートをほぼ掌握しました
またメッカ・メディナもオスマン帝国に臣従し、セリムはメッカとメディナの二聖都の守護者の称号も獲得し、名実ともにイスラーム世界の中心に君臨することとなったのです
そして1520年9月22日、わずか8年の治世に幕を下ろしました
しかしこの8年でセリムはシーア派をはじめ反対派を次々と粛清、時には大宰相をも処刑するなど、その冷酷性を発揮します
またオスマン帝国歴代スルタンの中でも屈指の軍事的天才でもあった彼はその才能を遺憾なく発揮し、オスマン帝国の地位を確立させることとなったのでした
本日は「冷酷者」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年
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