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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
502
:
Republica de Venexia
:2015/02/24(火) 00:07:26 ID:???
2月24日はマクシミリアン1世の孫シャルルが産まれた日です
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の時代、ハプスブルク家は「戦は他国にさせておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と表現される婚姻政策を展開します
まず彼自身が
>>414
で登場したブルゴーニュ公シャルルの娘であるマリーと結婚しました
このシャルル突進公はブルゴーニュ戦争において戦死し、ネーデルラントをマリーが相続した後、彼女の急死によって同地はマクシミリアンのものとなります
ここに旧ブルゴーニュ公領を巡るフランスとの争いが勃発し、イタリアにおける権益争いも含め、ハプスブルク家とフランスとの対立がますます深まることとなりました
このような状況で、同じくイタリアにおいてフランスに対抗するスペインがハプスブルク家に縁談を持ちかけてきます
マクシミリアンとマリーの間は一男一女を設けましたが、これに対しスペインは二重結婚を提案し、マクシミリアンはこれを承諾しました
ここにマクシミリアンの長男フィリップ美公とスペイン王女フアナ、マクシミリアンの長女マルガレーテとスペイン王子フアンが結婚し、相互相続契約が結ばれたのです
このうちフィリップとフアナとの間で1500年2月24日に産まれたのが、ブルゴーニュ公シャルルの名にちなんで命名されたシャルルでした
やがてスペインではカスティーリャ女王イサベルが死去し、その唯一の直系であるフアナの夫であるフィリップ美公がスペイン王フェリペ1世として即位します
ところがこのフェリペが急死し、シャルルがカルロス1世としてスペイン王位に就くことになるのです
シャルルはこの他にも広大なハプスブルク家領、そしてその婚姻関係にある領土を継承し、ヨーロッパの広大な範囲に影響を及ぼすこととなるのでした
本日は後の「カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
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