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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
552
:
Republica de Venexia
:2015/04/03(金) 00:05:20 ID:???
4月3日はランカスター家のヘンリが産まれた日です
>>535
で見たようにイングランド王エドワード3世は自らの権限で公爵位の授与を行いましたが、その中にコーンウォール公と並んで現在まで続くランカスター公がありました
この初代ランカスター公ヘンリ=オブ=グロスモントの次女ブランシュと、第2代ランカスター公ジョン=オブ=ゴーントとの間に1367年4月3日に産まれたのがヘンリ=ボリングブロク、後のヘンリ4世でした
やがてイングランドではエドワード黒太子の息子リチャード2世がイングランド王に即位しました
リチャードはいわゆる寵臣政治を展開し、2人の叔父をヨーク公、グロスター公とし、尚書部長官のマイケル=ド=ラ=ポールをサフォーク伯に、寵臣ロバート=ド=ヴィアをオクスフォード伯、そしてアイルランド侯、公として任命し、彼らは王の寵愛を受け権勢をほしいままにしました
1386年、影響力の強かったランカスター公ジョン=オブ=ゴーントがカスティーリャ王位を主張してイングランドを離れると寵臣政治に対する不満が表面化し、常設議会が設置され王権を監視するようになりました
危機感を覚えた寵臣らは挙兵しましたが1387年のラドコット・ブリッジの戦いに敗れ、寵臣政治は崩壊します
翌1388年には無慈悲議会が開かれてサフォーク伯、アイルランド公が死刑を宣告され、その他王の側近多数が逮捕、追放されました
ジョン=オブ=ゴーントが帰国したこともあって王権は抑えられ、しばらくは安定した状況が続きます
しかしリチャードは百年戦争においてフランスと休戦協定を結び国内統治に集中するようになると、無慈悲議会での決定を全て無効とし、寵臣政治を復活させました
ジョン=オブ=ゴーントの2人の息子も追放され、また1399年にジョンが死去するとランカスター公領土の没収を宣言したのです
これに対し追放中のヘンリ=ボリングブロクはイングランドに上陸し反撃、大貴族の多くがヘンリ側についたためリチャードは窮地に陥ります
同年9月にリチャードは廃位され、ヘンリはヘンリ4世として即位することとなるのでした
本日はランカスター朝創始者の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
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