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素朴な疑問

2872藤川一郎:2006/10/16(月) 17:12:31
ついでに申せば、池上本門寺の売店には「色花」と「樒」が両方販売されております。
本門寺のお坊さんに、檀家のフリして「樒と色花どちらが正式なんですか?」と聞いたら「正式には樒ですよ」と明確に返答があった事があります。
しかし、色花をあげたい人などの「需要と供給の関係」でどちらも販売しているそうです。

2873犀角独歩:2006/10/16(月) 19:55:25

樒について、『日蓮宗事典』で引くと

「仏前に供える常緑樹の一つ。葉及び樹皮は抹香、線香の材料として使われている。また、葉は法要の散華の花葩としても使われるが、これは青蓮華の花に似ているからであるという。また、通夜・葬儀の際の一本花としても使われている。「木*佛」という国字も用いる。」

となっていますね。石山で樒の文献根拠とするのは、法華経方便品の「栴檀及沈水 木樒竝余材」でしたか。しかし、日蓮遺文では、その使用は見当たりません。

藤川さんが仰るように神道系の可能性はあるでしょうね。神上げに榊を使うことが先行し、仏にも常緑の葉を供えるようになったのかもしれません。ただ、その字が「密」をもって充てることは、既に密教の影響ありと思います。
また、[木*佛](しきみ)が国字であること、また、Japanese Anise Tree という英名が示すとおり、日本固有種ですから、仏教伝来後、仏前に使用されるに至ったのでしょう。

ちょっと検索してみたら、シキミは「悪しき実」から、その呼ばれがあるというのですが、字の成り立ちからみると“しき密”…“し木*密”といった連想も出来そうですが、これはもちろん、当て推量です。

http://www.geocities.co.jp/Outdoors/6286/shikimi.html

雖念さんがロムされていらっしゃれば、お尋ねしたいのですが、樒に含まれるアニサチン(anisatin)は、その使用によって幻覚を起こす用例などはあったのでしょうか。痙攣性の神経毒を有するとなると、元来は、呪術的な拝礼から神儀に用いられていたものが、神仏習合を通じて、仏教に使われるようになったのかもしれませんね。

http://www2.odn.ne.jp/~had26900/constituents/anisatin.htm

2874犀角独歩:2006/10/17(火) 07:35:40

自己レスです。

> 木樒…その字が「密」をもって充てることは、既に密教の影響あり

この文章は拙(まず)いですね。これでは羅什の漢訳の時点で、恰も密教の影響でこの字を使った如き印象を与えています。

樒は、「宮城県〜石川県以西の山地に生える常緑小高木」ということです。
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/medplant/sonota/shikimi.htm

日本の、それも限られた地域に群生していたもののようです。しかし、「樒」という字は、羅什の漢訳で使用されているわけです。けれど、中国にはこの木はなかったわけです。つまり、「木樒」とは、いま日本で言うシキミを指していたものでなかったことが知られます。

シキミが密教で用いられていく段階で、樒という字が密を旁に持つことから、これに充てられていったのではないのかと、わたしは考えるという意味で記したのです。ただし、これは憶測ですから、諸賢の叱正をお願いするものです。

石山発行の『続・日蓮正宗の行事』に

「しきみ
 『栴檀及び沈水、木樒並びに余の材』
 をもって御宝前を荘厳することが説かれています」(P21)

この文章は、少なくとも二つの嘘があります。一つは、先に挙げたとおり、羅什が「木樒」と訳した植物は、今で言うシキミではないこと。岩本訳では、該当部分は「天目樹の塔や種々の材木」(岩波文庫『法華経』上 P115)とあります。

そして、もう一つは法華経方便品には樒で御宝前(つまり、漫荼羅本尊の前)を荘厳するなどとはまったく書かれていないと言うことです。

「諸佛滅度已 供養舍利者 起萬億種塔 金銀及頗梨 車磲與馬腦 玫瑰琉璃珠 清淨廣嚴飾 莊校於諸塔 或有起石廟 栴檀及沈水 木樒并餘材 塼瓦泥土等 若於曠野中 積土成佛廟」

佛舎利を供養せんと、佛塔仏廟を木樒を含む材木、宝をもって建立するというのが、該当の経文の意味です。それにもかかわらず、これを採って、仏花は樒であったというまったくでたらめの文章を捏造しています。

石山のいい加減さには、今更ながら呆れるほかありません。

2875犀角独歩:2006/10/17(火) 08:18:05

重ねて自己レスです。

2874の投稿中「木樒并餘材」は、正確には「木[木*蜜]并餘材」でした。
いま少し調べたのですが、日蓮宗現代宗教研究所の資料集に載る妙法華経では「木樒」となっていますが、たとえば岩波文庫『法華経』では「木[木*蜜]」となっています。サイトで検索した引用の法華経も「木[木*蜜]」です。
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/DFaHua/T090008c.htm

正法華では、木[木*蜜]に当たるところは「木蜜」となっています。
さらに木密を検索してみると意外な文章に当たりました。

「『本草綱目』での、石蜜・木蜜・土蜜と家蜜という分類」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00727/contents/00002.htm

石山が樒だと言い張ってきた「木樒」は、元来、「木[木*蜜]」で、さらにこれは木蜜(蜜を持つ樹木、もしくは蜜のような芳香を放つ樹木か?)という意味の可能性も見えてきました。

皆さんの批正をお願いいたします。

2876犀角独歩:2006/10/18(水) 08:16:23

岩波文庫『法華経』に、日深師の「木[木*蜜]」の注釈が付いていたのを、見落としていました。

「木[木*蜜] ― 形白檀に似て微かに香気あり、像を造るのに適しているといわれる」(上 P341)

[木*蜜] = http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/DFaHua/fontimg/015754.gif

2878犀角独歩:2006/10/18(水) 08:22:34

以上の点が、次第にわかりましたので、2874の以下の投稿文を訂正します。

誤)「樒」という字は、羅什の漢訳で使用されているわけです
正)「[木*蜜]」という字は、羅什の漢訳で使用されているわけです

2879奈々:2006/10/20(金) 18:59:43
失礼致します
皆さんが使う、線香を教えて下さい。香を焚くと場の雰囲気が荘厳に感じられます
煙の少ないタイプも多く、匂いもナチュラルな線香が主流となっていますので、是非
ご教示願います。

2880通りすがり:2006/10/20(金) 23:12:01
 ん、線香は伽羅大観が一番いい

2881しゅんかん:2006/10/21(土) 00:21:52
藤川一郎さん犀角独歩さんありがとうございました。
沢山のスレッド文を所々、虫食いに読ましてもらいました。
(全てを読む事も出来ますねんで、ただ読んでもよう意味が分かりまへんから、
睡眠導入剤のような物になるんであえて読まんようにしてまんねん)
私なりに感じた事を記させて下さい、そして又、皆様のご教示お願いします。
1.犀角独歩さんお願いします。ここで色々と論じているのは詰まるところ、
日蓮上人の御書(曼荼羅も)等を各門流(大石寺版等)が(真筆がないものは真筆が
無いのをいいことに)自分の門流の都合のいいように記しているが。
そうじゃないだろ、日蓮上人はこう言ってるんだろ。そちらの門流はそう言うが
日蓮上人はそんな事をしていないだろ、と言うことを文献等から推察し論じられて
いるんですかね?。
2.何をもって本尊とするか?ですが、曼荼羅のみか、釈迦像かなんですが。
詳しくない私は一尊四士なども曼荼羅に図示されているんだからわざわざ仏像
として置く必要は無い。重複するじゃないか(富士門流はこのように言っているの
ですか?)だから曼荼羅のみでいいんだ、と誰かが言ってたらそうだろうなぁと私は
思います。日蓮上人は生涯、釈迦像を持っていたそうですが、正宗はそれを
ほしかった。でも、その釈迦像を他の上人に(日朗上人が頂かれれたと思うの
ですが?)持っていかれたので他の門流との差別化をはかる為に
仏像崇拝を禁じたんでしょううね(もうすでに論じられていることかもしれません)
それと、日蓮上人は曼荼羅は御自身で書かれたんでしょうが、仏像も御自身で
製作されたんでしょうか?もし仏像は作られていないのであれば、仏像崇拝を
否定している門流の論理として日蓮上人が作っていないんだからたいして
有り難くはない。だから曼荼羅のみでいいんだ、(これも、仏像は欲しかった、
欲しかったが先を越されてしまった。じゃどうしよう、曼荼羅しかない、困ったなぁ
そうだ!曼荼羅だけでいいと言う方便を考えよう)としたんじゃないでしょうか?
これはあくまでも私個人の推察です、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
犀角独歩さん創価学会のお方に私の疑問(学会の三宝を)をネット上で問うた
のですがお答えがありませんでした。
ですが、私は行っておりませんが家は正宗です。数ある日蓮宗の中の日興門流。
これも何かの縁なんだと私は思うのです。(独歩さんのお考えと異なりますが)
母は認知症ですが今すぐにとは出来ませんが(症状が軽いので)私は本門寺さん
にお世話になろうと思っております。

2882犀角独歩:2006/10/21(土) 07:06:53

しゅんかんさん

1の質問はお察しのとおりです。

わたしに投げかけた質問とは違いますが、日蓮所持の仏像は「先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔し之を刻み・弘安帰寂の日・随身せり」と言われたもので、この文から察すれば、日蓮その人が自ら刻んだものということなります。その後、船守献上伝説が追って言われるようになり、取って代わっていったのでしょう。

2883犀角独歩:2006/10/21(土) 07:19:31

もう一点。仏像と漫荼羅は、その趣旨が違うわけです。

同一だというのは、あとの解釈でしょう。
まあ、その区別が付かない人は、混同し、ごちゃごちゃに考え、同じものだと有り難がり、どっちか一つで言いと思うのであれば、そう思うのも、その人の思いに任せるところでしょう。ただし、そのような短絡は、日蓮の意図とは違うだろうと言うことです。

2884孤独な迷子:2006/10/29(日) 18:35:28
ときどきロムさせていただいています。

得度すると本山ではかなり厳しい修行を経て僧侶になるのでしょうか。

ふと疑問に感じたので質問させていただきました。

2885しゅんかん:2006/10/30(月) 11:01:55
独歩さん又、ご教示お願い致します。
紙幅の曼荼羅と板曼荼羅では紙幅のものが良しとの見解ですか?
そうだとしたら、それはやはり日蓮聖人は紙幅のみを図顕されたからですか。
私の関西地方には、日像上人のお寺が多いのですがほとんどが板曼荼羅でした。
(行ったのは末寺です)又、身延直末のお寺でもそうでした。独歩さんはこれを
どの様にとらえておられますか?
そして、境内に社ですか?(三十番神とか南無内々神など)があるのですが
これはどう言うことなのでしょうか、神仏習合で良しと言う事でしょうか。

2886しゅんかん:2006/10/30(月) 11:34:46
2885の続き
御書なのですが、わたしの頭脳では理解出来ないのです。
各宗派で出版されていると思うのですが、現代文に訳した物があれば
お教え頂ければ幸いです。(訳した物はやはり手前勝手で原文でないと
だめですかねエ)
もう一つ、仏教用語等なのですが、一念三千、五百塵・・、摩可止観
二筒相承、三大秘宝抄等の解説書と言いますか、辞典などは有りますか
ご存知であれば書籍名等お教え頂ければ幸いです。
以上、宜しくお願いいたします。
いつも不躾で申し訳ありません。

2887犀角独歩:2006/10/30(月) 17:18:57


しゅんかんさん

> …曼荼羅…紙幅…良し…見解…?
> …日蓮聖人は紙幅のみを図顕されたから

そうですね。
わたしが筆書きに憧憬を懐くのは、自分のために書写してくれたオリジナル性という点です。心が籠もっているからです。ただ、その前段階で、既存の漫荼羅に、それが印刷であったとしても、裏書きをする所謂‘開眼’は、授与者と受持者の心の通いがありますから、否定する理由はありません。ちなみに石山義では、漫荼羅表に、時の‘法主’が判形(花押)を書き入れることで、仮から‘本’へとするというのが日亨師の説でした。

> 日像上人のお寺…板曼荼羅…身延直末のお寺でもそう

奉安荘厳の仕方があるから、それぞれでしょう。しかし、それら寺院が板に日蓮が直接書いたなどとは言っていないでしょう。石山の「本門戒壇の大御本尊」は、そう吹聴しているから、ならば証拠を示せといっているわけです。富士では、日興が「形木」を禁じ、信心強盛な者には書写して授与し、それ以外を謗法であるといっているわけですから、この点は外せないだろうというのが、わたしが記してきたことです。

朗・像門家において、板に改めた造立縁起がしっかりしていれば、それを仰ぐ信者は納得しているということではないですか。

> 三十番神とか南無内々神…神仏習合で良し

この点については、わたしは詳しくありませんが、仰るようなことであったろうと思います。

日蓮の漫荼羅では日本国神である天照大神、元朝鮮の神であった八幡神(日本では大菩薩)、日本の伝教大師。中国の諸大師。インド由来・密教の不動・愛染、大六天魔王(ヒンドゥー教のシバ神)など、雑多に習合しています。日蓮以降、随方毘尼という見地から、各地域の国情に合わせた習合があったとして、それを違和感を懐くか否かは、各人の感覚に属するのだろうと思います。

> 御書…現代文に訳した物

さあ、この手のお薦めは、わたしは知りません。

> 仏教用語…辞典

これは数多、刊行されています。
わたしの個人的なお薦めは『織田佛教大辞典』です。

2888乾闥婆:2006/10/31(火) 01:20:37
>現代文に訳した物

よいかどうかはわかりませんが中央公論社の『日本の名著 8 日蓮』は紀野一義氏の現代語訳です。
ある程度まとまった分量のものでは、これぐらいかと思います。

2889しゅんかん:2006/10/31(火) 09:27:04
独歩さん、乾闥婆さん早々のご返事ありがとうございます。
早速調べさせていただきます。

2890しゅんかん:2006/10/31(火) 10:01:32
月光浴さん2861の記載にある、北山本門寺も・・・
檀家は布施をお供えして、貫首さんが一体ずつ書写をしていますので製版本尊なる
類は今は無いと思います。
私は先代日幹上人より、形木本尊を授与して貰い脇書を認めて戴きました。
についてもう少しお聞かせ下さい。
月光浴さんの授与された形木本尊と製版本尊はどの様な違いがあるのですか。
私の家に有る、正宗の形木は手書きではなく印刷だと思うのですが。
そして月光浴さんのご本尊さまのサイズはどれくらいですか?
私の所は、幅約40Cm、縦約60Cmです。
先日、先代日幹上人さまのお書きなられた御本尊さまを二幅拝見と
日幹上人の一代前の上人さまのものを一幅拝見させてもらいましたが、
三幅共、桐の箱に入っていて脇書きもあり幅約60Cm、縦約2M
もある床の間に掛ける掛け軸のようなものでした。(三幅共に同一家です)
月光浴さんのもこの様な御本尊さまなのですか?
以上、宜しくお願いいたします。

2891しゅんかん:2006/10/31(火) 10:09:13
2890の追記、重須系の末寺で拝見させてもらいました。
檀家さんがお寺にお返しになられたそうで、
ご本尊さまをご住職さまのご好意により拝見させて頂く
ことができました。

2892再挑戦者:2006/11/01(水) 19:57:13
失礼します。
 緊急避難を余儀無くされているわれ等は、一番の願いは何でしょうか。
 曲折はございましょうが「、限りなく日蓮様に近い真筆に近い曼荼羅様を請願者の名前と発行者の裏書が存在するような曼荼羅こそ願望します。
 発行者の直筆なら有り難いが、シンドイでしょうから写真製本後の要所の裏書と下付者名の記録さえあれば、そこそこでしょうか。 ただ日蓮様の誠のお心を伝承されておるか(ホウボウ厳戒、、)、否かかが、重要です。
 今、迷える愚求者からの一語提言ですが、。 よろしく。

2893月光浴:2006/11/02(木) 20:18:57
しゅんかんさん、お返事遅くなりました。
藁半紙に近い紙に印刷されていて、表具をいれても幅20cm、縦40cm
ぐらいです。正宗さんの形木本尊と同じですね。

2894しゅんかん:2006/11/03(金) 11:05:29
2890の訂正
(誤)私の家に有る正宗の形木本尊は、幅約40Cm、縦約60Cmです。
(正)表具をいれて幅約20Cm、縦約40Cmです。

2895しゅんかん:2006/11/03(金) 11:43:47
再挑戦者さん月光浴さんありがとうございます。
私が先日、重須系の末寺で見た幅約60Cm、縦約2Mもある本尊
は、当然仏壇に奉安できないのですから掛軸の如く安置し
日々のお勤めをするのですかね?ご存知の方宜しくお願いします。
又、この御本尊さまを納めていた桐箱の表書に〇〇家常什とあったと
思いますが、(常什の前の〇〇家と記しましたがさだかではありません)
常什とは(じょうじゅ)か(じょうじゅう)ですか?
ウェキペディアだったと思いますが、正宗の下付本尊に①形木、②特別形木、
(私の家は特別形木です)③常住とあったのを覚えています。
昨日、数少ない歴史の有る正宗寺院へ(私の住む関西では)独歩さん
達が御指摘をされている事を確認しに行ったのですが。
そこには、常住とありました。常住と常什は同じ意味の事ですか?
合わせて宜しくお願いします。

2896しゅんかん:2006/11/03(金) 14:56:40
独歩さん何時も指名して申し訳ありません。
つぶやきすれっど2で2288ひきこもりさんの『本尊問答抄』に
「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあります。において、
独歩さんは真蹟と言う文字を使っておられますが、
本尊問答抄のこの一文は日蓮宗派全てにおける一致したいものでは
ないのですか?何処かの派の私がよく使う手前勝手な都合のいい
偽文なのかもしれないのですか。
宜しくお願いします。

2897しゅんかん:2006/11/03(金) 15:18:25
独歩さん、つぶやきすれっど2で
2287自分宛の曼荼羅と記しておられますが。
他の掲示板でも見かけたのですが、〇〇授与之と
開眼式を行って脇書をしてもらったとありました、月光浴さん
もおっしゃってます。
独歩さんも私と同じ学会二世と言う事なのでお尋ねしますが。
私の家の曼荼羅には授与之とだけあり、〇〇授与之の〇〇が
空いております。これは開眼式をしていないからですか?
破門前の学会時、そして正宗は開眼式をしておれば誰それに
授与したと名前が入るんでしょうか?。
独歩さんとこの曼荼羅は入ってましたか。

2898再挑戦者:2006/11/03(金) 21:20:36
 横から失礼します。
 いろいろ迷走・考察中ですが、、。 各門は「我こそは、、」、、と手ぐすね引いて舌をなめておるようです、、。
 石山系は「、、反省がいまいち、、」、、「、、正信会は日達サンを未卒業のマザコン体質、?、、」、、そこで、重須の北山様が「、、日達サンのM&Aの勧誘にもメゲズ、寺を維持したのは、今での判断は高く評価される、、」、かと思います、。 流れに抗した態度でした。
 それなりに「評価」したいです、、。 エラソウに、、すみませんです、、。

2899犀角独歩:2006/11/03(金) 21:59:14

しゅんかんさん

> 私の家の曼荼羅には授与之とだけあり、〇〇授与之の〇〇が
空いております。これは開眼式をしていないからですか?

大量生産の印刷、仮本尊だからです。
ただし、それが学会頒布ではなく、石山末寺からのものであれば、開眼式は、いわゆる「本門戒壇の大御本尊」の前に積んで行ったことになっているはずです。
この慣習が、いつからできたのか知りませんが、日顕さんの時代からはやっていました。最も、このやり方は、日亨師の解説とは違っています。

> 破門前の学会時、そして正宗は開眼式をしておれば誰それに
授与したと名前が入るんでしょうか?。

わたしは、寡聞にして、こんなやりかたがあることは知りません。
先にも記したとおり、石山では漫荼羅か威厳に当たる方法を、日亨師は、以下のように記しています。

「此の判形こそ真仮の分るゝ所」

ただし、これは開眼と言うより、真と仮の差異であり、前者は石山住職の花押が認められたもの、仮はそれがないもの。ところが、印刷漫荼羅の花押まで印刷とは、矜持も何もあったものではないという感を懐きます。

> 独歩…曼荼羅

わたしが所持している石山の‘本尊’は日達さんの印刷仮本尊です。
「授与之」とあるばかりです。

2900犀角独歩:2006/11/03(金) 22:33:46

【2899の訂正】

誤)最も、このやり方は
正)尤も、このやり方は

誤)石山では漫荼羅か威厳に当たる方法を
正)石山では漫荼羅開眼に当たる方法を

2901犀角独歩:2006/11/04(土) 09:31:22

誤解があるといけないので補足しますが、もちろん、わたしは石山の印刷本尊を奉安していませんし、いまは拝んでもいません。

彫刻本尊(いわゆる「本門戒壇の大御本尊」)の原本となった日禅授与漫荼羅が日蓮筆であるという点では疑義を感じます。その疑義のある原本を元にした彫刻は、さらに不動そのた見るからに日蓮の筆法とは異なる他筆です。つまり、まったくの模造品です。その模造品を書き写したと言いながら、さらにまったく書かれている内容が違うのが石山大量頒布の印刷本尊です。さらに、石山には本尊相伝というものがありながら、まったく違った内容で書かれ、さらには、真仮を決めるはずの書写者の花押まで印刷されてしまったのが、石山法華講、創価学会、顕正会の‘本尊’です。果たして、日蓮が漫荼羅を拝めと言ったかどうかという問題以前に、石山の本尊は拝む蛮勇は、今となっては起きません。

2902犀角独歩:2006/11/04(土) 14:28:11

2896 しゅんかんさん

一つ見落としていました。

> 『本尊問答抄』…「法華経の題目を以て本尊とすべし」

同抄は日蓮の真蹟(直筆、つまり真筆)を遺していません。
しかし、日興写本があることから、古来より真筆写本として扱われてきたというのが、まあ、通論と言うことになります。

要は、直弟子日興に完全に信頼を置いた‘解釈’ということでしょう。
しかし、わたしはこの点を疑っています。簡潔に言えば、日興が偽書を作ったとしても何の不思議もないからです。
日興の写本遺文には、他と内容がかけ離れているものがいくつかあり、この点は、以前、問答さんと議論したことがありました。

> …日蓮宗派全てにおける一致

これはどうでしょうか。大半は、同抄を真筆写本として扱うでしょうが、厳格に、採用しない方もあります。もっとも端的な例は米田淳雄師が発願編者である『平成新修日蓮聖人に文集』(日蓮宗連紹不軽庵)です。同抄は載っていません。

ちなみに、この書は、顧問に身延山短期大学学長/立正大学名誉教授:宮崎英修師・立正大学教授/日蓮教学研究所所長:浅井円道師・立正大学教授/日蓮宗教学研究所所員:高木豊師・立正大学教授/日蓮宗教学研究所所員:小松邦彰師、協力として立正大学講師/日蓮宗教学研究所所員:寺尾英智師・日蓮宗教学研究所所員:都守基一師(肩書きは平成6年10月13日初版第一刷発行当時)という錚々たる顔ぶれになっています。

なお、もし、この書が真筆写本であったと想定した管見は以下に記しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/614-

法華経の題目を本尊という発想は、わたしは実に奇異に感じますが、無仏の時代、題目をもって下種という教学的な態度から師、法を本尊と拝すれば、このような言い回しは、あるいは可能なのかもしれません。けれど、地涌菩薩のごとく、五百塵点成道の釈尊に直接下種をされ、妙法蓮華経の五字を所伝されたならば、その本尊は、久遠本仏・釈尊をおいてあるはずはありません。宝をもらったら、その宝らこそ大事で、くれた人はどうでもいいといった忘恩を日蓮が冒すはずがないからです。これではまるで禅・真言の所説に異なりません。くれた方を仰ぎ、宝を伝持する。本門の本尊と題目の五字は別です。

久種覚知の仁においては仏本尊を立てることは当然の流れです。日蓮は本門本尊とことわっているわけです。本門とはまさにこの久遠本仏成道と地涌結縁、法付属を説く段です。迹門立てで題目(妙法蓮華経裏一念三千珠)をいうならいざしらず、本門段で法を表に立てるのは論理として整合性がありません。

妙法蓮華経によって覚った諸仏と、地涌所伝の妙法蓮華経による我々は、その立場が違います。また、地涌菩薩に遇わない凡夫ともまた違うとも言えるでしょう。本仏との下種を覚知できず、今番地涌菩薩に遭えない者にとって、題目を本尊と仰ぐという脈絡は題目本尊という教学的な余地を残しているのかもしれないというのが上記の管見です。

2903しゅんかん:2006/11/04(土) 20:04:52
独歩さん、ご丁重な教示ありがとうございます。
内容が難しくってこの板ばかりを見ておりましたが、
他の板も拝見させて頂きますと、独歩さんが多くのお方に
一つ々丁寧にご返事をされておられる事に驚きました。
私ごとき者にも・・・本当に恐縮しております。
>『本尊問答抄』…「法華経の題目を以て本尊とすべし」
について難しい回答ですが(仏教用語等が)、勉強をします。
(しかし、自分から投げかけたとはいえ、何を言うてはんのんか
ちんぷんかんぷんやなぁ)
法華経の題目を以て本尊とすべし」とは
母(〇〇ちゃんとご本尊さんに勤行したんか?)
の本尊のみを日蓮聖人は定義していないかもしれないと
言うことですか。(題目の本尊等とかおっしゃてますね)
本尊とは必ずしも物体(実物)のみを指していないと。

2904犀角独歩:2006/11/05(日) 09:13:16

しゅんかんさん

> …法華経の題目を以て本尊…のみを日蓮聖人は定義していない
> 本尊とは必ずしも物体(実物)のみを指していない…

「物体」という表現が適切かどうかはわかりませんが、「…のみを指していない」という点はそのとおりですね。

『本尊抄』の記述は、(1)自分の心のなかで観た本仏、(2)実際に造立される仏像、そして、(3)文字としての妙法蓮華経、という3本立ての論攷です。この三つの、どれが一番かという比較ではなく、それぞれの重要性を論じているという視点が重要です。

また、御漫荼羅の全体を本尊と仰ぐのは門下一般の在り方ですが、「法華経の題目」という『本尊問答抄』の趣旨からすれば、本尊は「妙法蓮華経」の五もじということになります。そして、これは音声と思い(イメージ)ではなく、まさに漢字で書かれた五文字だというのが、日蓮の達観であるわけです…、と、書くと、また、難しいと言われそうですが。

2905天蓋真鏡:2006/11/05(日) 10:27:14
横レス失礼します。 三法門は「本尊≒仏陀像・戒壇≒漫荼羅・題目≒法華経」で、本尊とは勝れ足るを用いる、天台密教から法華一乗へ布き治す、法華経の信心学問修行を提唱して祈る事と今頃まとまりました。漫荼羅は、シャクソンと法華経を繋ぐ役割があるのでは?

2906天蓋真鏡:2006/11/05(日) 10:37:08
脱字すみません。戒壇とは天台密教から法華一乗へ布き治す、題目とは法華経の信心学問修行を提唱して祈る事。

2907しゅんかん:2006/11/05(日) 22:26:38
独歩さん、ありがとうございます。
皆さんのやり取りを拝見させてもらい、自分なりに
解釈していたものは{曼荼羅本体、釈迦仏像(この二つは物体、固体です)
もう一つは南妙法蓮華経と唱えている人、その人の内なる物に、唱えたと同時に
内在されているものである本尊}の三つです。
その人の内なる物に内在されている物を指しているのかな?と思ったのは
当然、皆さんのやり取りと、南妙法蓮華経と三弁唱えれば、と教科書で習った
、この一文です。
独歩さん、そこそこ近かったでしょうか?

2908犀角独歩:2006/11/06(月) 05:44:18

題目の三唱というのは、種々の解釈があるように思います。仏・法・僧の三宝に一唱ずつ、あるいは空・仮・中の三諦、法報応の三身とも。ただ、これらは日蓮の文証は、といえば根拠未詳です。

たぶん、日蓮の教えというのは、釈迦仏への信仰であり、妙法蓮華経への帰依なのだろうと思います。それを具体化するとき、個人では漫荼羅の授与/受持、広く大衆に示すのには仏像造立、唱える妙法蓮華経は、仰るとおり、内心の、十法界、殊に仏を観じ成仏を信じ、目指すことなのでしょう。

2909とんび:2006/11/09(木) 00:01:55
皆様、こんばんは。
仕事に忙殺されていました。もう少しだけ発言させていただきます。
また、いろいろなスレッドのレスを読む精神的余裕はありません。(良くここでは過去の議論・発言を
読むよう指摘されていますので)ご理解下されば、幸いです。

 法華経シャク門、方便品の「唯仏・与仏、乃能究ジン、諸法実相」の文について...
通説では、釈迦如来と多宝如来を指し、正宗では、唯我与我、ということで、日蓮聖人と日興上人を
指しているものだと思っています。

 疑問に思うのは、どちらも聖人に当てはめていることです。この娑婆世界に当てはめて考えると、
仏界の代表(仏)・地獄界の代表(仏)ということで、譬えていうと、マザーテレサのような聖者と、暴力
団山口系の組長(修羅界というべきか)というように、光の世界を知る人と闇の世界を知る人とが、実は
「乃能究ジン、諸法実相」に当てはめた方が、道理にかなっているように感じたりします。

 私は、教学的に「乃能究ジン、諸法実相」を理解しているわけでは、ないので、譬えが適切ではない
かもしれませんが、疑問として発言しました。

2910しゅんかん:2006/11/11(土) 18:22:29
月光浴さん又、お願いします。
2859 において万年救護の御本尊は埼玉の仏具店の主人が開帳後に寮
(庫裏)で販売していました。
に付いてもう少し詳しくお聞かせいただけますか。
店舗名など判ればお願いします。(少しの情報でも結構です)
連絡を取って見たいのです宜しくお願いします。

2911とんび:2006/11/12(日) 00:07:02
追伸です。
十界を、己心の十界に当てはめるか、国土世間などの三世間などに当てはめるか、
いろいろあると思いますが。。。
 仏界の中の地獄界より、地獄界の中の仏界...と比べると、後者の方がなんか
良いような気もしたり。

 世の中の貯金と借金に当てはめて考えると、貯金をしている人は、なるべく有意義に
お金を使用した方が、良いと思うし、借金をしている人は、貸してくれている人を困ら
せないように、借金を返すようにした方が、世の中がうまい行くように思ったり。

 昔、福運だの功徳だのとか、いろいろと教えられましたが、今幸福を感じている人は、
貯金を使っている状態で、逆に、今苦しんでいる人は、借金を返している状態...とも
言えるのかな...とも、思ったり。

 サークルなどのように、類は類を呼ぶ、で、同じ物などを好む人が、集まる..という
ことがある反面、男と女、磁石のS極とN極とが引き合うように、全く逆の性質をもった
ものが、結びつく...ということもあるのかな、と思ったり。

 ちよっと関係ないですが、日蓮聖人の御書の一節で、有名な言葉なので、あえていうこ
ともないですが、「日蓮が仏果を遂げられたのは、良観や東条かげのぶ等のおかげ」趣意
というのが、あったかと思います。余談でした。

2912天蓋真鏡:2006/11/12(日) 18:19:47
【漫荼羅・天台密教から法華一乗へ布き治し守る法華経表現の一つ】 個人の幸福・自身のコントロールには漫荼羅、社会の繁栄・公共のセキュリティには戒壇堂が形として表現される。皆成仏道なので一人ひとりが法を伝授護持する者。僧は昔からの教えを過不足無く衛る者。 極端でしょうか。

2913再挑戦者:2006/11/14(火) 21:08:31
 失礼します。
 諸賢様の深い御洞察には頭がさがります。
 オチコボレを自認の愚考です。 「観心本尊」についてです。
 先日「不得貧勝利」(囲碁十誡、12世紀頃、囲碁の知・入門、集英社・畠秀史)の意味を知りました。  「ムサボリは勝利を得ず」=「勝とう勝とうは負けの元」=「相手の石を獲ろう盗ろうは、取られの元、」、、を意味するようです。
 そこで「観心本尊」、はどのように判断するのでしょうか。 先の例文から見ますと「、、心して本尊を観る、、」、でしょうか、、。 どんな「、本尊、」、なのでしょうか、。
 、、「日蓮が魂を墨に、、信じさせ給え、、」、「、、南無、、に過ぎたるは無し、、」、、と御座いました。
 、、やはり、基本、、原点になるのは「本尊」=日蓮様直筆の「本尊集」、のような「本尊」でしょうか、。
 今「心して本尊を観られるような歴史に耐えうるような”曼荼羅さま”を拝観は可能、」、でしょうか、、。 現実は「混沌」としていますようです。                                               早急なる「善後策」を超宗派的な「合同調査委員会、、」などで御検討を願望したいが、、、。 
 今重要なのは「一本になるような方向性さえ”確認、”、できれば、某S・K会さま達は、マッサオ」でしょうか、、。 迷言ですがお許し下さい。

2914月光浴:2006/11/19(日) 00:14:51
しゅんかんさん、ご返事が遅くなりすいません。
さいたま市の正〇寺の前の仏具店です。

2915みかん:2006/11/19(日) 07:03:56
正信会の正因寺のそばの鶴林堂佛具店?(身もふたもなくてすいません)

さて、
>2860 しゅんかんさん

1.日蓮正宗は重須本門寺では仏像崇拝を行っていると発していますが
本当でしょうか?

日蓮正御影信仰はありますが、仏像はないとおもいます。本堂の曼陀羅の前には正御影が飾られています。重須北山本門寺根源において御開帳とは、本尊の御開帳ではなく、正御影の開帳です。

4.重須本門寺の末寺は関西圏に存在しますか?

あります。たとえば和歌山の大新公園の向かいの寺院は北山本門寺根源の末寺です。(北山本門寺本末寺の縁起集を持っていますが、行方不明。出てきたらまた調べます)

5.身延系においての僧侶の法衣は赤、紫と煌びやかですが日蓮正宗のそれ
(薄い灰色)とは相違します、重須はどっち?

北山に限らず、日興門流寺院はわたしの知る限り薄墨です(北山、西山、要法寺、小泉久遠寺を見た)。色の法衣や黒色の法衣は見たことがありません。

6.正宗、要法寺とはやはり違いました(本能寺は勝劣派でしたっけ?)

本能寺は勝劣派ですね(法華宗本門流。田村芳朗先生がいらっしゃった宗派)。法衣は忘れましたが、紋は鶴丸だったはずです。本堂の本尊は仏像。(一尊四士か、一塔両尊四士かわすれました)

2916しゅんかん:2006/11/19(日) 19:12:06
月光浴さん、みかんさん、有難うございます。
知識の深さに驚かされるばかりです。
本当に有難うございます。

2917しゅんかん:2006/11/26(日) 19:50:43
問答迷人さん初めまして。しゅんかんと申します。
(初めてではないかも?、管理人さんでもありましたか?)
元、学会員でしたか?(間違っていたらすいません)
数点私の疑問にお答えいただけましたら幸いです。

独歩さんに以前お尋ねしました所、興師は仏像崇拝をしていたとの
お言葉を頂きました。そこで疑問に思ったことがありました。

〇他の掲示板で見かけたのですが、精師(十七世)が謗法を働き
 寛永十五年(一六三八年)下谷常在寺の再建並に造仏をしたと記してあり、
 後年、俊師(二十二世)啓師(二十三世)が撤去したと思われる。
 と言う文面をみかけました。
 当掲示板でもこのような内容の物を論じられた事がありますか?

〇興師の時代には仏像崇拝をしていた。精師は謗法を働いた(事実なら)
 のであれば何時の時代ぐらいまで仏像崇拝が続いていたのでしょう?
 精師の造仏は事実と思思わますか?

〇当掲示板には非常に知識豊富な元学会、元正宗と思われるお方が
 多くおられるようですね。
 多くのお方が真面目に活動をされていて折伏もされた事だと思います。
 疑問を抱き退会等をされた方などは折伏をし入信していただいた方に
 どの様な感情を持っているのでしょうかねエ
(私は貴方に勧めたが考えが変わったので貴方もやめればとか、
 イヤ個人の自由だからとか、黙っていると入信させたあいつに
 非難されないだろうか等、色々悩むんじゃないかなア)
どうでもいいでしょうけどふと頭に浮かび、尋ねてみたくなりました。
宜しくお願い致します。

2918アキラ:2006/11/27(月) 00:06:55
どんな本なのですか?詳細がわかる人、教えて下さい。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4846003167/sr=11-1/qid=1164431819/ref=sr_11_1/503-5965839-3713530

2919問答迷人:2006/11/27(月) 08:35:34

しゅんかん さん

いつも御参加ありがとうございます。

ご質問、痛いところを突いておられると言うか、なかなか簡単にはお答えできないような内容です。よく考えてお答えしたいと思います。一日ほど時間を頂戴したいと存じます。

2920問答迷人:2006/11/27(月) 17:02:04

しゅんかん さん

>興師は仏像崇拝をしていた

この点は、僕は慎重です。原殿書には、仏像崇拝に類似する表現は有りますが、結果的には仏像造立を制止し曼荼羅を勧めています。日興上人が実際に仏像崇拝をしていたとは、僕は考えていません。

>精師・・・造仏

これは史実として固まっているのではなかったでしょうか。

>何時の時代ぐらいまで仏像崇拝が続いていたのでしょう

日興門流としての日蓮正宗においては、仏像崇拝は行われてこなかったと僕は考えています。行われていたという証拠をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教授賜りたいと存じます。

>折伏をし入信していただいた方にどの様な感情を持っているのでしょうか

非常に心苦しく辛いですね。その人からお尋ねがあれば、当然のことながら、僕が知りえた事実を全て話します。ただ、今、嬉々として活動している人に対して、止めよ、と言うのは、信教の自由の観点から憚られます。それに、創価学会員は、大きな流れから見たら、日興門流に属する信徒、という事になると考えていますから、無下に信仰を捨てさせることが、果たして蓮祖のお心に随う事なのかどうか、疑問が残ります。現に、僕の知っている創価学会婦人部の人は、

「学会活動は、もう十二分にやってきた、足らなかったのは、自分の家庭を疎かにしてきた事だ。子ども達が可愛そうだった。これからは、お題目根本に、家庭を立て直して行きます。」

こう言っています。この人に果たして「創価学会の教えてきた事は間違っている、大石寺戒壇板本尊は偽物だから捨てなければならない、日寛上人の教学は日蓮聖人の教えを破壊している・・・」等と焚付けるべきなのでしょうか。静かにお題目を根本に、家庭を立て直してゆこうとしているのだから、そっとしておいて上げるべきではなかろうかと思います。僕は一度はその方に、戒壇板本尊が偽物である事を語りましたが、今は、却って、お会いするたびに、その方の家庭が安泰となってゆくように励ましています。一生懸命にお題目を唱えよましょう、と。

こんなところで、お答えになっているでしょうか。

2921問答迷人:2006/11/27(月) 17:04:37

訂正です

× 一生懸命にお題目を唱えよましょう、と。
○ 一生懸命にお題目を唱えましょう、と。

2922犀角独歩:2006/11/27(月) 19:17:07

わたしは、日興には仏像本尊の意識は当然、あったと考えます。
もしなかったのであれば、一尊四士を我が義として、日澄がその義を盗んだなどと述べる理由はまったくないことにならです。

わたしのHPにアップしてありますが、執行師の解説に頷きます。

…「原殿御消息」には、大曼荼羅と仏像との関係を論じて、

「日蓮聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御徴力以ての形の如く造立奉り思召立候を、御用途も候はず、大国阿闍梨奪い取り奉り候仏の代りに其程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給て固く其の旨を御存知候を、日興が申様は責て故聖人安置の仏にて候はゞさも候なん、それも其の仏は上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き、その上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ、なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき、御力契給せず御子孫の御中に作らせ給仁出来し給ふまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」

といっている。いまこの文に依れば、宗祖の奉安せられたる一体仏の釈尊が、祖滅後朗師によって安置せられるに至ったので、波木井の原氏がその一体仏の釈尊と同ようなものを造立せんと試みたものゝようである。茲に於て興師は、一体仏の造立は始成仏に濫するが故に不可であることを述べ、更に本化の四士を添へたる仏像の造立は経済上の問題を伴うものであるから、一仏像造立の出来るまでは、宗祖の認められたる紙墨の大曼荼羅をもってこれに代へても何等異りはないと訓へられたものである。即ちこの文に現れたる日興上人の思想は、後世に伝へられているが如き、仏像否定でもなく、また大曼荼羅正本尊思想でもない。寧ろ仏像造立を肯定し、大曼荼羅所顕の一尊四士をもって本尊奠定の様式と解されてゐたとみるべきであらう。然るにこの文をもって、日興上人の造仏論者を誘引せんがための巧説であるといい、或はまた、造仏論者に対して且らく一尊四士の造立を許されたのみにして、これは真意にあらずといふが如きは、却って上人の真意を誣ふるものではなかろうか。少くともこの消息による限り、この時代に於ける上人の本尊意識は本門の妙法蓮華経の教主久遠実成の釈尊であったのである。

 なお興師の仏本尊思想を窺うべき文献として「三時弘経次第」と「引導秘訣」とがある。即ち「三時弘経次第」には明かに師弟の次第を述べ、久成の釈迦仏をもって本仏とし、この本仏を富士山の戒壇本尊とみなしているのである。更に「引導秘訣」には曼荼羅を説明して

「曼荼羅ノ事、是即冥途挙(テガタ)状也(乃至……)是釈迦法王ノ印判と云ふ意也、曼荼羅授与之時、深此旨思フベシ。」 といい、また「題目を書事は釈迦の智慧を顕す也。」ともいって、題目を仏智と解し、この大曼荼羅を拝するには「心強仏身念可シ」であると相伝しているのである。然るに第二類の文献たる「富士一跡門徒存知事」には

2923犀角独歩:2006/11/27(月) 19:17:31

―2922からつづく―

「日興云聖人御立法門ニ於テハ、全ク絵像仏菩薩以テ本尊為サズ唯御書意任せて妙法蓮華経五字ヲ以テ本尊ト為可シ即自筆本尊是也」

といって、大曼荼羅と仏像との間に軽重を論じ、大曼荼羅正本尊を強調して仏像造立の不用を論じている。次いで更にその下には

「此御筆ノ御本尊ハ是一閻浮提未だ流布せず正像末未だ弘通ざる本尊也(乃至)六人一同守護し奉る可し、是偏広宣流布有時ノ、本化国王御尋有らん期まで深く敬重し奉るべし。」

といって、大曼荼羅そのものを願業の本尊とするものの如くである。これは前の「原殿御消息」に於て、仏像本尊の出現を所期とするものと全く相反するものである。従って本書に現れたる本尊意識は、本尊の実体を妙法五字にとるところの謂ゆる法本尊である。ところで「五人所破抄」には、「門徒存知事」のこれらの文に相当するところを

「日興云諸仏之荘厳同じと雖も印契に依テ異を弁ずべし、如来之本迹は測り難し、眷属を以て之を知るべし、所以ニ小乗三蔵之教主は迦葉阿難脇士ト為し、伽耶始成之迹仏は普賢文珠左右に在ス(乃至)図する所ノ本尊は亦正像二千之間一閻浮提之内未曾有大曼荼羅也、当ニ今は迹化教主既ニ益無し、況多多婆和ノ拙仏哉、(乃至)執スルハ尚強チニ帰依致サント欲スレバ、須ク四菩薩を加ウベシ、敢えて一仏を用ルコト勿レ」

とあるが、この文に於ける本尊意識は果して、「門徒存知事」に現れたる本尊意識と同一なりや否やについては研究の余地があろうと思はれる。即ちこの「五人所破抄」の文は大曼荼羅と仏格との軽重を論じたものでなく、脇士に依って仏格を定めようとするものである。故に大曼荼羅対仏像の問題ではなく、大曼荼羅所顕の仏格本尊と、一体仏並に迹仏との優劣を論じたものであるとみるべきはなかろうか。然してこの文の末文たる「執者尚強欲帰依」云云の十八字は、大石寺6世日時の写本になく、また西山代師の直筆と伝う代師本にはこの文を抹消してあるとのことである。そこで、この十八字は果たして原本に存していたものか、それとも後人の加筆によるものかの疑いもある。

 然し仮令この文があったとしても、「執者尚強」の文は一尊四士の仏像を指すのではなく、それは一体仏を指す意と解すべきであろう。かように考察し来れば「五人所破抄」に現れたる本尊意識は寧ろ前の「原殿御消息」の思想に近いものであるということができる」…

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_003.html

2924問答迷人:2006/11/27(月) 19:29:13

犀角独歩さん

>わたしは、日興には仏像本尊の意識は当然、あったと考えます。

この点は、執行師の仰る事を否定するものでは有りません。僕が問題視しているのは、実際に日興上人が仏像を安置して崇拝していた事を示す故事やら、文献やらが有るのだろうか、という事です。僕の浅識の為に知らないだけかもしれませんが・・・

2925犀角独歩:2006/11/27(月) 19:32:49

もう一点。やや横レスをさせていただけば、問答さんのお記しになるところは、同意するところもありますが、しかし、それは創価学会員の、会に属することによっての被害者としての側面です。

勧誘をし、選挙依頼もし、時には物品まで買わせた、人を活動に駆り立てた、虚偽を真実のように語ったという“加害者”としての側面が考慮されていないように、思えます。やってきたことに対する責任を、どこかで取ること、そのためには、事実を受け入れる勇気とタイミングを持つことは、不可欠であるとわたしは思います。

日蓮正宗創価学会に関わったすべての人は、嘘の本尊、嘘の教義をもって、日本を席巻し、創価公明が日本を跋扈してやまない安国ならぬ、暗黒社会を作ってしまったのは事実でしょう。一人ひとりに責任があります。

2926犀角独歩:2006/11/27(月) 19:42:57

2924 問答迷人さん

この点は、既に何度も、論じてきたことですが、身延の宗廟に日蓮手製の一体仏が安置されていたことは、動かない事実です。日興が仏像を斥ける理由はありません。

消し去られてしまった事象を、証明することは困難ですが、むしろ、富士においては、本来あった日興と仏像の関係を消し去ったのに過ぎないのではないでしょうか。

わたしは、日興は、日蓮手製の一体仏を崇敬する故に第二転(なくなってしまったから、複製を作る」ことに反対したということは、むしろ、大いに仏像を崇敬したことを意味したのだろうと考えます。

また、日蓮がいずれのところは定めなかったけれど、未来、本門戒壇が建立された暁に立つ本仏釈尊像に思いを馳せ、一尊四士の義を示したのは、仏像を斥けたということではなく、むしろ、仏像を重視する故のことであったと考えます。

また、本尊抄に見られる如く、日蓮は僧は摂受をもって法の弘持に責務を置き、妙法蓮華経の五字を授与するところにその責務を置き、しかし、正法を信仰する王は、そこで初めて本門釈尊像を造立する役務を負っていると読めます。

仏像造立は賢王の仕事。故に日興は仏像を立てなかったという脈絡です。これは日興が漫荼羅正意から仏像を斥けたという意味にはなりません。
仏像を造立する賢王在家の四菩薩が出現していないために仏像が造立される時を日興が生きなかったという時系列を示すばかりではないですか。

2927問答迷人:2006/11/27(月) 20:08:23

犀角独歩さん

>加害者としての側面が考慮されていない

仰る通りです。僕のスタンスでは、確かに、加害者としての側面が全く考慮されていませんね。

それは、信仰者として、「日蓮聖人が命に代えて我々に教えたかったことは何か」という問題意識が先行しているからです。それを知ったところから日蓮信者として、如何にあるべきか、という社会に向けたベクトルが出てくるのだと思っています。

信仰者としての責任として、先ず、何としても蓮祖の伝えたかった事を正確に会得すべきだと考えています。

批判は敢えてお受けいたします。

2928問答迷人:2006/11/27(月) 20:13:24

犀角独歩さん

>消し去られてしまった事象を、証明することは困難ですが、むしろ、富士においては、本来あった日興と仏像の関係を消し去ったのに過ぎないのではないでしょうか。

消し去ったのは、いつ頃、誰が、何の目的で消し去ったとお考えでしょうか。

これから仕事で出かけますので、続きのレスは明日になります。

2929犀角独歩:2006/11/28(火) 08:36:03

問答名人さん

2928について、わたしは、「批判」をしているわけではありません。
「日蓮正宗創価学会」員、「法華講」員であったという対外的視点は、考慮させざるを得ないという意味です。仏教を行じるというのであれば、そのもっとも基本にあるのは懺悔(さんげ)から始まると、わたしは考えるからです。無反省、過去の責任を負わないことでは仏道は成じ得ないとわたしは思います。「無慚無愧」では仏道になりません。けれど、このような掲示板を置かれる問答さんは、十分にそのような視点に立っておられる。ただ、そのような自画像が見えない人には気づきを待つという寛容のお立場からのご発言と拝します。

2929について。「いつ頃、誰が」という点については、あるいは、日興本人が重須に移って中盤以降から、もしくは存知事、所破抄などが記された頃、その著述者たちが。「何の目的で」という点は、むしろ、ご質問としては不適宜で、仏像を寄進するような十分な寄進が得られない状況下で、漫荼羅が徐々に本尊と見なされていき、さらに御影像信仰の勃興で、仏像の等閑視される経過があったためではないのかと想像します。

しかし、日興の消息などには、「仏聖人」といった表現は見られます。
石山や、正信会は、これを漫荼羅本尊であるというわけです。しかし、本当にそうでしょうか。日興の段階で、日蓮本仏論などまったく見られないわけです。また仏本尊に対して、法華経の題目(法)が本尊だというのです。とすれば、仏が漫荼羅を表すはずはありません。

では、何を指して、日興はそう書いたのか。すでに御影信仰が起きていたとすれば、ここでいう「聖人」は日蓮御影でしょう。では「ほとけ(仏)」はどうでしょうか。漫荼羅でしょうか。漫荼羅であれば、法ではないですか。つまり、仏とは、釈尊像を指す以外に考えられません。
つまり、日興が消息に、供養の品々を仏聖人に供えたというのであれば、そこには釈迦仏像と日蓮聖人御影像があったことを意味すると考えるのは、日蓮本仏、漫荼羅正意に汚染されていない目から見れば、当然すぎることではないでしょうか。故に、わたしは、日興が重須に移ったのちも、その宝前には仏像が置かれ、そして、御影像も置かれてあったと類推します。

むしろ、わたしが反詰したいのは、それほど、日興が漫荼羅を崇敬し、仏像を斥けたというのであれば、日興はいったい、どの漫荼羅を拝んでいたというのでしょうか。そのことこそ、まさに明確になってはいないのではないでしょうか。

日興が漫荼羅正意である、石山日目が漫荼羅正意であるというのであれば、その正意とされた根本の漫荼羅本尊とは何かを証すること、肝要になります。
「それは本門戒壇の大御本尊である」などという戯言は、既に問題外であることは言うまでもありません。

もし、日興が漫荼羅正意、日目が漫荼羅正意であるというのであれば、それぞれの根本崇敬の漫荼羅とは、日蓮のどの漫荼羅でしょうか。なお、後者、日目に関してですが、所謂、「御座替本尊」ではないかという類推は直ちに浮かぶことでしょう。しかし、わたしはこの可能性は、否定します。なぜならば、この漫荼羅は現在も客殿に懸かるのです。本堂に懸かる漫荼羅こそ根本であることはいうまでもないからです。

問答さん、如何でしょうか。

2930問答迷人:2006/11/28(火) 11:46:08

犀角独歩さん

三師御伝土代の文を先ず引用します。

一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事(富士宗学要集第五巻十二頁)。
小乗釈迦は舎利弗目連を脇士となす権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす云云、一躰の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦とも申すなり、御書に云く劣応勝応報身法身異なれども始成の辺は同しきなり、一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。

2931問答迷人:2006/11/28(火) 12:18:19

これは、大石寺第四世の日道師の著作とされています。この点に疑義があるとの説も有りますが、今は通説を採用しておきます。

ここで、道師は「何を以って末法の本尊とすべきか」という視点で論じていると思います。結論的に、一体仏を退け、蓮祖図顕の曼荼羅を以って本尊とすべき事を論じています。

さらに「何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、」と述べています。これは微妙な表現です。要するに、一尊四士こそが、法華本門の本尊であり、その本尊が図顕されている曼荼羅を本尊とすべきだ、と述べていると思われます。実際に一尊四士の仏像が寄進されておれば、もちろん、それを拝む事を否定しているとは読めません。

2930の引用文を以って、曼荼羅正意が日道上人の段階で定着していたとは、僕は判断できないと思います。基本的に、日興上人の考えとそして変わっていないと思います。

そこで、問題です。日道上人は、曼荼羅を「三身即一の有縁の釈尊」と捉えていた点です。この視点で考えれば、日興上人の「ほとけ聖人」との表現されている仏とは、曼荼羅として顕された一尊四士像を意味しておられたと考えるのが妥当ではなかろうかと思います。

無論、実際に一尊四士像が寄進されていた、という歴史的事実を示す証拠があれば別ですが。

以上、非常に回りくどい言い方になりましたが、まとめますと、

一、日興上人とほとんど変わらない本尊観を日道上人が持っていたと思われること。
一、日道上人は曼荼羅に顕された一尊四士像を「ほとけ」と拝していたこと。
一、このことから、日興上人の「ほとけ」という表現も、曼荼羅として顕された一尊四士像を「ほとけ」と表現した可能性が高い。

以上です。

なお、どの曼荼羅を「根本の曼荼羅」としたか、という点ですが、日道上人はそのような考えはなかったと思います。あくまでも、本尊は本門教主釈尊であり、一尊四士で有ったと思います。曼荼羅正意という内容は、少なくともこの御伝土代には書かれていないと思います。

2933犀角独歩:2006/11/28(火) 17:23:43

問答名人さん

「以上です」といわれても、これでは議論は落着しません。
もう少しお付き合いいただけませんか。
まず、話が噛み合っていないと思います。

要は、わたしが漫荼羅正意と記したことに対して、漫荼羅も仏像も、一尊四士であるという意味なのでしょうか。しかし、議論は、その点を論じあっているのではなく、日興が仏像を奉安していたかどうかです。

どうも、仰ることがどうもよくわかりません。2920に

> 仏像造立を制止し曼荼羅を勧めています。日興上人が実際に仏像崇拝をしていたとは、僕は考えていません

漫荼羅正意ではなく、一尊四士が本意であるというのは、どのような意味なのでしょうか。

わたしは日興が仏像を立てていたであろう証拠として、一尊四士義と「仏聖人」という消息の一節を引いたわけです。また、これはしかし、“日興”についてです。なぜ、突然、日道の話になるのでしょうか。

わたしは日興は仏像として一尊四士義を有していたという立場です。
けれど、漫荼羅図示が一尊四士であるというのは、いったい、いかなる意味でしょうか。漫荼羅には四菩薩が記されているから一尊四士であるとは、論理の飛躍ではないですか。

「隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ」

のちの加筆と思われますが、日興の説としてされる、以上の一尊四士に見られる二カ所の成句、「隋身所持」「一仏」、これは両方とも、仏像を指してのことでしょう。

日蓮が終生所持したのは一体仏像である。それ故、一体仏で是とするものがあれば、それは甚だ非である。すべからく四菩薩像を加えるべきだ、というのが、その文意です。寿量仏釈尊の仏像は四菩薩の像を加えなければ、それを表現できないという、あくまで仏像奉安に関する話です。これが何故、漫荼羅に四菩薩が記されているから仏=一尊四士という話になってしまうのでしょうか。漫荼羅は一尊四士ではなく、敢えてそのような奉安に充てれば一塔二尊四士(中央首題、釈迦・多宝、四菩薩)ではありませんか。

引用される伝・日道の言とされるところは、実は生前、日蓮が一体仏を随身奉安した在り方を非難した形になっています。あろうことか日蓮を謗法であると断じています。師敵対、ここに極まるというほかありません。ここに至っては、石山を謗法の所行と断言しても憚りは要しません。

2934犀角独歩:2006/11/28(火) 17:24:17

―2933からつづく―

さて、このような不埒な土代記述の有様を踏まえたうえで、以下の点について勘えます。

> 一、日興上人とほとんど変わらない本尊観を日道上人が持っていたと思われること。

『御伝土代』は、近代以前は日時作とされていたわけですが、わたしもこの説に傾きます。しかし、いまは土代の作者考証ではないので、「土代作者」とします。

土代作者の文面の「三身即一」「本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏」などという点で、時代は日興よりさらにあととは思えますが、一尊四士という一面を採れば、このように言えないことはないと思います。

一、日道上人は曼荼羅に顕された一尊四士像を「ほとけ」と拝していたこと。

なぜ、このようなことが言えるのでしょうか。
この点を、もう少し、説明していただけません。

一、このことから、日興上人の「ほとけ」という表現も、曼荼羅として顕された一尊四士像を「ほとけ」と表現した可能性が高い

繰り返しになりますが、漫荼羅の図示は、一塔二尊四士です。さらにいえば、十界衆生、不動愛染、四大天玉まで勧請されています。つまり、十界勧請漫荼羅です。しかし、日興がいう仏像奉安一尊四士です。これはつまり仏菩薩に留まります。この両者は、まったく違います。なぜ、題目首題、多宝如来、さらに他の十界衆生まで示す漫荼羅が一尊四士と言えるのでしょうか。

まして、日興は『本尊問答抄』を筆写(?)して、本尊を法華経の題目であるというのです。法華経の題目は妙法蓮華経なのであって、四菩薩を脇士とする寿量釈尊、さらに諸仏の師であるところであるというのが、その規模ではありませんでしたか。

以上からすれば、漫荼羅を一尊四士と見なすことは決してできないと思いますが、如何でしょうか。

ただし、日興が一尊四士を「ほとけ」としたのは、当然のことだと思います。しかし、それが「漫荼羅に記された首題と四菩薩」とは、いずれの文献も指示をしないのではないでしょうか。

2935問答迷人:2006/11/28(火) 20:20:04

>2933 漫荼羅には四菩薩が記されているから一尊四士であるとは、論理の飛躍ではないですか。

確かに論理の飛躍があるとは思います。ただ、これは御伝土代の文意によれば、という事です。
御伝土代では、どのような奉安式の仏を末法の本尊とすべきか、という論点の中で、「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」と述べて、脇士の無い一体仏を否定しています。そして、その次に「未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」と述べて、「曼荼羅」=「四菩薩を脇士とした本門教主釈尊」を本尊とすべき事を述べています。さらに、「何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや」と御伝土代は結論付けています。つまり、「三身即一の有縁の釈尊」とは「本門教主釈尊」、「一体修三の無常の仏陀」とは、「脇士の無い一体仏」という対比です。
道師はこの文脈からみれば、大曼荼羅を法本尊としてではなく、仏として、本門教主釈尊として拝していたことが明らかであると思います。なお、御伝土代の文意から一尊四士と書きましたが、正確には、もちろん一塔両尊四士ですね。

2936問答迷人:2006/11/28(火) 20:29:44

>2934 日道上人は曼荼羅に顕された一尊四士像を「ほとけ」と拝していたこと。

これは今述べたとおりです。土代の文脈がそのように指し示しています。

>漫荼羅を一尊四士と見なすことは決してできないと思いますが、如何でしょうか。

これも今述べたとおりです。一尊四士に拘っているわけではなく、曼荼羅を仏と拝していたという意味です。一塔両尊四士と拝していたのだと判断できます。

2937問答迷人:2006/11/28(火) 20:38:37

>なぜ、突然、日道の話になるのでしょうか。

日道上人は日興上人に直接指導を受けた弟子です。日興上人のあり方が、弟子たる日道上人の著作に色濃く影響していると考えるからです。弟子が、何を以って「仏」と捉えていたかを探れば、師匠の「ほとけ」と表現された内容をうかがい知る事が出来ると思うからです。必ずしも一致していると断定しているわけでは有りませんが、有力な傍証足りうると思うからです。

2938犀角独歩:2006/11/29(水) 08:48:59

問答名人さん

記されることは、あくまで、御伝土代が日道の作であり、かつ、日道が日興に忠実であったという前提に基づく仮定に過ぎないでしょうね。ご自身お認めのとおり、論理の飛躍があります。

日道は、日興の弟子というのは、新六を言うのでしょうが、これを直ちに受け取ってよいものでしょうか。また、『御伝土代』に記される年代は、1333年とされますが、作者が日道であるということと併せて、この点、一考を要するはずです。この書が日時作であるとすれば、成り立たないところとなります。

> 弟子が、何を以って「仏」と捉えていたかを探れば、師匠の「ほとけ」と表現された内容をうかがい知る事が出来ると思うからです

こんな論法は成り立たないでしょう。もし、斯様な理想が実現されているのであれば、いまに至る師弟子の関係で、日蓮の考えが現在の弟子にそのまま伝わることになります。本弟子六人にしても、みな弟子ですから、日蓮と同意となることになりますし、となれば、弟子間で異撤が生じることはないことになります。けれど、実際は五・一相対などと称する事象が起きています。

以上の点からしても、『御伝土代』が日興の仏本観を反映したというのは、あくまでも仮定に過ぎないでしょう。

「一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。
小乗釈迦は舎利弗目連を脇士となす権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす云云、一躰の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦とも申すなり、御書に云く劣応勝応報身法身異なれども始成の辺は同しきなり、一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。
本尊問答抄に云く。」

『御伝土代』の上記の文をもって、関連づけを試みておられますが、読み方に違っていると言わざるを得ません。この文章は、漫荼羅が一尊四士であるなどとは、記していません。法華本門釈迦は四菩薩を脇士とすることを言うのは、あくまで仏像の様式について述べています。そもそも、この段は一尊(釈迦)四士(四菩薩)のみを言うのではなく、その前文に、小乗釈迦、権大乗釈迦の仏像奉安も上げ、小・大・本、それぞれの釈迦仏像は脇士像を付すを是とし、それに対して、脇士なき釈迦を「三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦」を非とし、対比している文章です。一尊四士のみを証しているわけではありません。まして、脇士の有無を論じるわけですから、並座の多宝を表す一塔二尊四士とは意を異にしています。

また、一尊四士を一塔二尊四士と言い換えられましたが、この両義は意味を異にします。一尊四士は、日興の義であることが知られ、また、たぶん偽書であろう『四菩薩造立抄』にも見られるところです。富士方、中山方にその濫觴を見ることが出来ることになります。しかし、一塔二尊四士は、京で起きた仏像奉安、また、「三宝さま」と称される二尊奉安は身延でのことであって、これらを日興義とすることは出来ません。つまり、一尊四士をイコール一塔二尊四士であるという認識は『御伝土代』からも、その他、日興義とされるところからも、いっさい、看て取ることはできません

2939犀角独歩:2006/11/29(水) 08:49:36

―2938からつづく―

『御伝土代』の該当部分の、先に挙げた前文に

「本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。
法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり」

とあります。一読すれば、明らかなようにまず教師として仏を挙げ、次に法を挙げています。つまり、土代作者は、仏を挙げ・法を挙げるという論の運びをしています。この点は「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事」でも、同様でしょう。まず、仏につき仏像の奉安を述べ、次いで法について漫荼羅を論じるという別に立てています。

この仏と法が同じであると言うのが、問答さんの主張なのでしょう。しかし、仮に漫荼羅の前に一尊四士の仏像を置いていても、このような文章になるでしょう。

また、この段の末に、土代作者は「本尊問答抄に云く」と、その論拠を示します。この書には、

「釈尊と天台とは法華経を本尊と定給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とする」

ここでは明らかに釈迦と法華経の相違を論じています。
『本尊問答抄』をもって捌く、この段において、仏=法は成り立たないことになります。

なお、さらに付言すれば、問答さんは一尊四士=一塔二尊四士であるとのことですが、同抄では「不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦多宝を以て法華経の本尊…。不空三蔵法華儀軌は宝塔品の文によれり。此は法華経の教主を本尊とす。法華経の正意にはあらず。上に拳る所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意」といい、二尊四士の御本尊が妙法蓮華経であるという論法になっています。

なおまた、同抄は、法華経の題目を本尊というのは、釈迦(仏像)に対するのですが、しかしながら、それが漫荼羅であるとの論究ではありません。あくまで、「法華経の題目」です。ここには四士も、釈迦多宝も簡ばれます。この点で、日道の考えとは実は違っています。日道は、仏としては一尊四士の釈迦仏像、法としては未曾有の大漫荼羅とするわけですから、『本尊問答抄』からは、ここでも飛躍があるわけです。

以上の点から、日道が漫荼羅を一尊四士とも、一塔二尊四士とも見なしていないと考えられますが、如何でしょうか。

2940犀角独歩:2006/11/29(水) 10:25:12

【2939の訂正】

誤)この点で、日道の考えとは実は違っています。日道は、仏としては一尊四士の釈迦仏像、法としては未曾有の大漫荼羅とするわけですから、『本尊問答抄』からは、ここでも飛躍があるわけです

正)この点で、土代作者の考えとは実は違っています。土代作者は、仏としては一尊四士の釈迦仏像、法としては未曾有の大漫荼羅とするわけですから、『本尊問答抄』からは、ここでも飛躍があるわけです

2941問答迷人:2006/11/29(水) 11:26:00

>土代作者は、仏を挙げ・法を挙げるという論の運びをしています。この点は「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事」でも、同様でしょう。

そういう論運びに見えるのは、「一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。」に限ると思われます。他の論点では、そのような論運びはどこにも見当たりませんが・・・
しかも、当該部分も「仏を挙げ・法を挙げるという論の運び」ではなく、「本地は・・・上行菩薩」「本門教主は久遠実成無作三身」「法を云へば・・・一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経」「弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師」という、蓮祖の「本地、教主、法、弘通」の各視点から、天台沙門の表現は間違いだ、と述べているわけです。「仏を上げ・法を挙げる」という順序は確かにその中に含まれていますが、論の運びがそうなっている訳ではないと思います。

「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。」の論運びは、まず、脇士について「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」「一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり」と述べて、それが「未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く」ことであり、「三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀」に執着してはならないと結論付けています。いずれも本尊=仏についての論述であり、そこには、「法」との観点は見られないと思います。曼荼羅=法という捉え方は述べられておらず、日道上人がそのような見解に立っているとは思えません。

まず、この点、如何でしょうか。

これから出かけます。続きは夜に書き込みます。

2942犀角独歩:2006/11/29(水) 11:39:57

>2941

では、議論がややこしくなるので、仏・法という論の進め方になっていない、土代作者が、法=漫荼羅と述べていないという点は、譲ることにします。

その他の回答をお待ちします。

2943犀角独歩:2006/11/29(水) 11:48:46

一点だけ、補足します。

> 曼荼羅=法という捉え方は述べられておらず、日道上人がそのような見解に立っているとは思えません

この点は、わたしの文章が拙く伝われなかったようですが、土代作者は、『本尊問答抄』と明確に挙げていますので、そこで展開される法華経題目本尊観は、法を本尊とするものである以上、その脈絡から、土代作者は、南無妙法蓮華経(法)漫荼羅本尊観を摂取しているという意味です。

2944問答迷人:2006/11/29(水) 17:59:22

>一尊四士をイコール一塔二尊四士であるという認識

これは、僕の書き方が拙くて、独歩さんに誤解を与えてしまっています。そうではなくて、曼荼羅を仏と捉えていたか、法と捉えていたか、問題にしているのは、この一点です。僕は、文脈から、曼荼羅を仏と捉えていたと考えています。ただそれだけです。

この点について、後ほどもう少し詳しく書き込みます。

2945犀角独歩:2006/11/29(水) 18:20:34

> 2944

あ、なるほど。了解しました。
その線で、よろしくお願い申し上げます。

2946問答迷人:2006/11/29(水) 19:13:34

>その脈絡から、土代作者は、南無妙法蓮華経(法)漫荼羅本尊観を摂取しているという意味

これは違うと思います。確かに、本尊問答抄は法華経の題目を本尊すべし、と述べていますが、法華経の題目=曼荼羅では有りません。曼荼羅は、題目の他、諸尊が配置されて始めて曼荼羅であり、諸尊の配置が無く、ただ題目を認めただけでは、それはあくまでも題目に過ぎません。

この御伝土代の文脈では、題目を取り上げているわけではなく、あくまでも、曼荼羅本尊を取り上げています。題目は仏か法かと言えば、法ですね。それでは、曼荼羅は仏なのか、法なのか、という事が今の議論であるわけです。

そして、この御伝土代の文脈は、日道上人は、曼荼羅を仏と捉えていた事を示していると僕は思います。

如何でしょうか。

2947素人:2006/11/30(木) 05:37:02
我等の勤行の姿勢は正座合掌ですが、御影様は両膝を開いて座しておられます。
「端座して、実相を思え」とも聞いたこともあるし、時代劇を見ると将軍の前に進み、対する時でもあぐらであるようにも見えるし、往古の勤行の姿勢はどうだったのだろうかとふと素朴な疑問です。
どなた様かお教えください。過去ログにあったらすみません。

2948モトミナ:2006/11/30(木) 07:18:47
作家の秦恒平氏が、「日本経済新聞」に書いてあるので参考までに。

「天子も公家も武士も女も僧も神様も仏様も、古来、正座などしてこなかった。(ー中略ー)正
座というと茶の湯と、反射的に思う人が多かろう、が、利休の画像や彫像の遺例はみな正座など
していない。利休が正座をして茶をたてた例がかりに有ったにしても、禁中で天皇に捧げたとき
ぐらいで、おそらく秀吉の前でも浅いあぐらか軽い立て膝であったろう。(ー中略ー)元禄時代
ごろから、やっと日本人の生活に正座が定着したのは、衣服や家屋の変化、ことに厚畳の普及が
ものを言ったのだろう。徳川という近世支配が、いわゆる土下座に正座の名を与え‥‥云々」

ということらしいです。

2949犀角独歩:2006/11/30(木) 09:15:21

問答名人さん

一遍首題は漫荼羅ではないでしょうか。
墓石の首題、塔婆の首題、過去帳の首題もまた、略本尊であるというのは、通途の習いではありませんか。日蓮の筆法をもって、記されるところの妙法蓮華経の五字はすでに漫荼羅の意義を有するのではないでしょうか。もちろん、これは通論です。

土代作者が、では、漫荼羅をどう考えていたのかというのが、いまの議論です。
(本来の議論は、日興はどう考えていたかで、その前提として、土代ですが)

「一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事」という文末は「本尊問答抄に云く」で終わっています。このような文の書き方は、あとは、本尊問答抄の如くであるという意味ですね。この点はよろしいでしょうか。つまり、作者は、曼陀羅・本尊を考えるのに、問答抄を証としているということですね。

では、当の問答抄において、(1)妙法五字を漫荼羅と見なしたか、(2)漫荼羅を本尊と見なしたか、(3)本尊を法と見なしたかという3点を考えれば、問答さんの問いには事足りることになりますか。

(1)妙法五字を漫荼羅と見なしたか
同抄に「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあります。
この一文を読むかぎりでは、題目=本尊であるということです。では、題目本尊は漫荼羅かということになります。

問答さんは「法華経の題目=曼荼羅では有りません」としますが、概ね、この考えにはわたし賛同しますが、開合という観点からすれば、日蓮の筆法で記された首題は、合して漫荼羅の意義を籠もるということはあると思います。

(2)漫荼羅を本尊と見なしたか
ただし、作者が強調するのは「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ」という点です。これは、このように讃文された特定の漫荼羅を指すのか、もしくは漫荼羅図示のなかで「二千二百二十余年」を簡んでということなのか、この文章からではわかりません。しかし、問答抄の結論は「此御本尊は世尊説おかせ給後、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」ですから、作者はこの点を少なくとも考慮しているとは思えます。

わたしは、この問答抄の結論部分で言う「本尊」が漫荼羅を指すという考えには、やや消極的です。しかし、この作者は、法華経題目、二千二百三十余年を記した漫荼羅を本尊と選定していませんか。問答抄の真意と言うことではなく、土代作者の意図はここにあると思えます。

以上の2点は、いまの議論の前提ですが、この点では、特に問答さんとわたしに大きな考えの相違はないと思います。その前提で進めますが、もし違っておりましたら、また、ご指摘いただければと存じます。

(3)本尊を法と見なしたか
もう少し、具体的に言えば、漫荼羅を本尊とみなし、その本尊(の首題部分、もしくは四士も含め)が仏か・法かというのが、いまの問答さんとわたしの議論であると受け止めています。

土代作者、日興も、漫荼羅(本尊)は仏を表していると考えていたというのが、問答さんのお考え、いや、法と見なしていたのだろうというのが、わたしの管見です。ただし、これは漫荼羅を本尊と見なすという前提に立った日興以降の門下の見解を採ったうえでの議論です。(わたしは漫荼羅を、ただちに本尊と見なす考えには消極的です)

では、考証を試みます。

『法華取要抄』に「如来滅後二千余年龍樹・天親・天台・伝教所残秘法何物乎。答曰 本門本尊与戒壇与題目五字也」と、本門本尊を秘“法”といいます。

『報恩抄』に「天台伝教の弘通し給ざる正法ありや。答云、有。求云、何物乎。答云、三あり。末法のために仏留置給。迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求云、其形貌如何。答云、一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。此事いまだひろまらず。」と、ここに正“法”といいます。

三つの法門、三大秘法ともに、法と言うわけです。
(日興、土代作者の考える)本門本尊=漫荼羅は法ではないでしょうか。

2950藤川一郎:2006/11/30(木) 09:19:10
当時は正確には「あぐら」ではありません。
「あぐら」は足を組むのですが、殿中の作法では、両足を合わせる形です。
はっきり言って真似すると、辛い体勢です。慣れれば楽になるのでしょうが・・・。
昔の殿中は、御前でも総畳はありません。板に畳で出来たような丸い座布団のような物が備えてあり、そこにそれぞれ端座しました。
官位の低い方はそれすらありませんでした(冷たそうですが)。
また殿上人との謁見と、公家どおしの場でも足の合わせ方が異なるのですが、
文書では表現しにくいのですが(爆)。左右の下げ足の違いがあるようです。

2951問答迷人:2006/11/30(木) 13:56:14

犀角独歩さん

>日蓮の筆法をもって、記されるところの妙法蓮華経の五字はすでに漫荼羅の意義を有する

曼荼羅の意義ではなくて、本尊の意義ではないですか。そう考えれば本尊問答抄とも符合しますね。

> 曼陀羅・本尊を考えるのに、問答抄を証としているということですね。

これは仰る通りであろうかと存じます。

> では、当の問答抄において、(1)妙法五字を漫荼羅と見なしたか、(2)漫荼羅を本尊と見なしたか、(3)本尊を法と見なしたかという3点を考えれば、問答さんの問いには事足りることになりますか。

はい。了解です。

> わたしは、この問答抄の結論部分で言う「本尊」が漫荼羅を指すという考えには、やや消極的です。

僕はこれが、直ちに紙幅曼荼羅を指すとは思いませんが、仏像群曼荼羅を含めて、曼荼羅を指していると思います。
仏像群曼荼羅とは、紙幅曼荼羅の図の如く、将来建設されるであろう伽藍に安置される仏像群です。それは、一尊四士なのか、一塔両尊四士なのか、更に十界の諸像を加えるか、色々な形式が考えられると思います。それらの、紙幅曼荼羅を元として建造された仏像群は、立体曼荼羅であり、これらを視野に入れて、問答抄は「本尊」を述べていると思います。

> 三つの法門、三大秘法ともに、法と言うわけです。
> (日興、土代作者の考える)本門本尊=漫荼羅は法ではないでしょうか。

三つの法門という縛りでは、本門の教主釈尊も「法」として捉えられているわけですね。しかしながら、これは三つの法門という縛りでは、という限定が付いていると思います。「本門の教主釈尊」が仏か法か、と問えば誰でも「仏」と答えるでしょう。この縛りの意味をもう少し考えてみる必要が有ると思います。この点、どのようにお考えでしょうか。教主釈尊を法だとすれば、仏と法との区別はなくなってしまっているのではないでしょうか。

2952犀角独歩:2006/11/30(木) 16:37:10

問答さん

ようやくと確信に近づいてきました。

>> 日蓮の筆法…妙法蓮華経の五字…漫荼羅の意義を有する
> 曼荼羅の意義ではなくて、本尊の意義ではないですか。そう考えれば本尊問答抄とも符合しますね

そうとも言えますが、両方ではないでしょうか。
この点は、しかし、取り敢えず、置きます。

> 仏像群曼荼羅を含めて、曼荼羅を指している

重須、京方の文献からすれば、確かにそうなります。
先にも他スレで記しましたが、仏像では日蓮の漫荼羅は表せません。讃文の「二千二百三十余年」、咒とも思える経釈の書き込み、日蓮の御影は作れても、肝心の花押は仏像では表せません。しかし、問答抄の記述にあるとおり、仏滅年号は必須であり、また、「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」という点からして、漫荼羅における書き判は極めて重要な意味を持ちます。しかし、これを仏像で表すことは出来ません。わたしは漫荼羅と仏像では、そもそも意義が違うと考えます。

> 三つの法門という縛り

この縛りを設けたのは、ほかでもない日蓮その人です。

> 「本門の教主釈尊」が仏か法か、と問えば誰でも「仏」と答えるでしょう。

ええ、ここです、核心は。

> 教主釈尊を法だとすれば、仏と法との区別はなくなってしまっている

そう思われるでしょうね。しかし、先に挙げたとおり、日蓮は本門の本尊=教主釈尊を秘法、正法、法門であると言っています。つまり、この点は動かせないわけです。問答さんのお言葉を借りれば、“縛り”ということです。

では、観心本尊とは如何なることでしょうか。己が心に観じる寿量本仏です。十法界における仏・法界です。つまり、己が心に観る十界各衆生とは法ではないですか。すなわち、心法です。一念三千法門です。

では、五百塵点成道の釈尊の御前におわす菩薩が、現前に拝謁する仏は、己心の仏界でしょうか。違います。これは本師、仏です。

妙法蓮華経の五字は一念三千(法)の珠を裏むというのが、日蓮の教説でした。

では、仏像に表す本師釈迦牟尼仏は、己心の釈尊でしょうか。
わたしは違うと思います。五百塵点劫に下種をしてくださった本仏、つまり、我が心法とは別ではないですか。この仏が上行に所伝した妙法蓮華経を認めたのが漫荼羅であれば、これは仏ではなく、法ではないでしょうか。しかし、仏像と示す過去五百塵点已来の下種の本主は、慥かに仏です。

つまり、漫荼羅と仏像と、共に本尊ということは出来ても、その意義は、かくのごとく違っていると、わたしは考えます。この程度の相違を、日興がわからないはずはなかったと、わたしは考えます。

2953問答迷人:2006/11/30(木) 17:01:35

なるほど。そう捉えれば、矛盾無く整理できますね。少し考えさせてください。

それと、一つ、観心本尊が紙幅曼荼羅ならば、なぜ観心本尊抄に「曼荼羅」という言葉が一つも出てこないのか、不思議です。また、書き表す、という内容が書かれていないのも不思議です。仏像群の建立を期して、紙幅曼荼羅と、仏像群曼荼羅とを両方の基本原理を示したからでしょうか、不思議です。

2954問答迷人:2006/11/30(木) 20:53:55

犀角独歩さん

>つまり、漫荼羅と仏像と、共に本尊ということは出来ても、その意義は、かくのごとく違っていると

なるほど。ほぼ了解しました。

ここで疑問が湧きます。曼荼羅が本尊であると言う場合は、観心の本尊だとすると、仏像が本尊であると言う場合は、観心に対比するとすれば、教相ということになります。それでは将来建立されるべき仏像群曼荼羅は教相の本尊なのでしょうか。しかしながら、観心と教相と言えば、観心の方が、一重立ち入った、深い意義があるのではなかったでしょうか。観心の本尊を元にして、教相の本尊を建立するというのは、果たして、どういう意味があるのか、怪訝な気がしますが・・・。

或いは、教相と観心という対比ではなく、もっと違った捉え方をすべきなのでしょうか。

これについては、独歩さんは、どうお考えでしょうか。

2955犀角独歩:2006/12/01(金) 10:11:31

問答さん

敢えて、ご質問からずれて、前提を記したいと思います。
ここのところ、問答さんとの議論では、実はいくつかの隠れた根があると思うのです。

思いつくままに、挙げてみますが、一つには、れんさん、また、顕正居士さんなどが触れられた「漫荼羅設計図論」とも言うべき、富士の見解です。この考えは富士に留まらず、たとえば身延では日向が絵漫荼羅を描かせたとか、また、その後の一塔二尊四士像と言ったものも、ある意味、同様の脈絡にあるのかもしれません。富士方について言えば、日興の弟子分にこのような動向があることは、日興にその考えがあった。また、門下一般にその動向があったということは、日蓮もそのように考えていたという前提に、議論が進んでいると思うわけです。

しかし、わたしは違うと考えています。
というと、創価学会の如く、日蓮の正意は仏像にも、御影にもなく、ひたらす漫荼羅(彼らの言い方を示せば、御本尊)なのだと、誤解を招きそうですが、そうでもなく、漫荼羅と仏像の両立に本意があったと考えます。では、その漫荼羅と仏像がイコールの関係であるというのが、いわば「漫荼羅設計図論」ということなのでしょう。わたしは、これは違うと考えます。

以上の点は粗々記してきましたが、日蓮が漫荼羅と示すのは、上行所伝妙法蓮華経の授与を目的としている。では、漫荼羅図とはいえば、その妙法蓮華経が多宝証明の許に釈迦仏から上行の所伝された様を示しているのだというのが、わたしの見解です。日蓮の判の認められた妙法蓮華経を授与されることが彼の因果の功徳を譲与することなのだという、実に具体的な秘儀が、漫荼羅授与ということではないのかということです。漫荼羅は、紙と墨を使ってのものですが、この授与は一念三千という心法の授与ではないですか。妙法蓮華経の五字は紙に記された墨字ですが、それは容器です。中身は一念三千宝珠。これは仏が上行に伝えた心法です。そして、その授与の時を言えば、法華説教八品のことですね。(しかし、首題は五百塵点已来のことという、さらに一重立ち入った点はありますが、議論を簡潔にするためにこの点は置きます)

一方、一尊四士と刻まれる像は、木絵(草木)に仏菩薩の相貌を示すものです。
日蓮は、像だけでは三十一相しか表せないというのです。(木絵二像開眼之事)
ために梵音声を具すために、その像の御前に法華経典を置き、これを充足するを開眼といったわけですね。これは仏身です。では、四菩薩を脇士にする釈尊、その時とはいつですか。漫荼羅に図示されるの同様の今番法華の会座でしょうか。
わたしは、違うと思います。釈尊の成道、上行等が初発心の弟子となった久遠五百塵点成道のその時ではないですか。故に、そこでは一塔二尊四士の如く、多宝の証明など無用です。釈迦と四菩薩の直接の関係です。つまり、一尊四士は久遠のこと、一塔二尊四士は今番法華会座のことで、その意味は違うということでもあります。

2956犀角独歩:2006/12/01(金) 10:12:00

―2955からつづく―

漫荼羅は上行を介して妙法蓮華経という仏種を下すことでしょう。ここでは上行(日蓮)を能化とし、衆生を所化とします。しかし、一尊四士は久遠已来の師弟の関係、久遠下種を高々と謳い上げるところです。能化は釈尊であり、所化は上行等です。根元的、その意味が違っています。わたしが仏像に拘る理由はここにあります。漫荼羅は、久遠師弟、久遠下種を表に示していないからです。しかし、それは漫荼羅が不完全だからではなく、漫荼羅の前提に一尊四士の関係があるということです。ですから、漫荼羅と仏像、この両者は揃わなければ、日蓮の本意は完結しないということです。まず、これが一つです。

次に『御義口伝』の影響を色濃く受ける中世以降の富士方は、日蓮日興のあずかり知らないところを恰も、日蓮日興の教学であると思いこんでしまっているところが多々あります。「漫荼羅は仏である」という問答さんのご意見をお聞きし、わたしが直ちに想起したのは『秘密荘厳論』でした。

「自受用身者一念三千也。伝教云一念三千即自受用身自受用身者出尊形仏矣。出尊形仏者無作三身云事也云云」

『御義口伝』で引用される件です。この考えによれば、仏=漫荼羅という考えは容易く導かれます。しかし、わたしは日蓮にこの考えはなかった。また、日興の段階でも採用されていなかったと考えるわけです。それを端的に示すのが、実は『本尊問答抄』ではないでしょうか。これも一つです。

次に、石山方では日寛の五重相対の「種脱相対」にまるで誑かされてしまっています。このために、本門と観心の相対を見落としています。日蓮門下一般では、『開目抄』のそれを「教観相対」としますが、『本尊抄』では「迹門一分宣之不云本門与観心」というわけですね。

漫荼羅と仏像。この点を考えるうえで、問答さんもご指摘なさっていますが、実は、教観の相対、正確に言えば、本門と観心の本尊を、『本尊抄』において、巧みに説き分けているのにもかかわらず、富士方の門下教学に誑かされて、この点を見落としていることに、わたしは気づきました。これが、もう一つです。

たぶん、ここまで記せば、問答さんは、ご了解いただけるでしょう。
取り敢えず、ここまでとします。

2957犀角独歩:2006/12/01(金) 11:00:54

【2955の訂正】

誤)仏が上行に伝えた心法です。そして、その授与の時を言えば、法華説教八品のことですね。
正)仏が上行に伝えた心法です。そして、その所伝の時を言えば、法華説教八品のことですね。授与といえば、今時、末法です。

2958素人:2006/12/01(金) 11:37:29
モトミナさん、藤川一郎さん、ありがとうございます。
つぶやきスレッドですが議論の応酬がつづいていますのでチョット遠慮しておきます。
宗祖が祈られるお姿はどうなのだろうなというつぶやきです。
また、あわせて女性はどんな姿勢だったのだろう?と。

2959素人:2006/12/01(金) 11:41:10
重ねてすみません。ここは素朴な疑問でした。
つぶやきではありませんでした。おわびします。

2960問答迷人:2006/12/01(金) 12:05:04

>迹門一分宣之不云本門与観心

「竜樹・天親等は如何。答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はざる仁なり。或は迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云はず、或は機有って時無きか、或は機と時と共に之無きか。」

一尊四士は本門の本尊、曼荼羅は観心の本尊。このいずれも、竜樹・天親は述べなかった、という意味ですね。

そして、蓮祖の語句の使い方としては、「本門の本尊」=「仏像群」と「観心の本尊」=「紙幅曼荼羅」とは別だと。こういう理解で宜しいでしょうか。

ところで、この立て分けは、観心本尊抄では、蓮祖はどう記されているのでしょうか。

2961犀角独歩:2006/12/02(土) 07:23:37

問答さん

> 竜樹・天親等…知って之を言はざる…迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云はず

つまり、この部分は『開目抄』の「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」と対応するわけでしょう。

> 「本門の本尊」=「仏像群」と「観心の本尊」=「紙幅曼荼羅」

ここなんですが、直ちにこのように「立て分ける」ということではないと思うのです。
本門の本尊は一尊四士。観心の本尊は、本尊抄の段階では一念三千における仏法界。『本尊問答抄』では題目本尊へと経年して補完されていくということだと思います。

人本尊・法本尊と言われますが、十界論から捌くのに仏を人というのは不適切である、という提案は以前にしました。仏本尊・法本尊ではないか、というのが過去述べたことです。しかし、日蓮の真蹟から見ると、本門本尊・観心本尊であり、より具体的には仏像(一尊四士)本尊、題目本尊です。そして、後者は授与の形式として判形を為した漫荼羅となる次第です。

わたしは『本尊問答抄』を偽撰ではないのかと主張してきたのですが、しかし、観心本尊という側面から見れば題目本尊は、一連の脈絡と看取できました。

> 観心本尊抄では、蓮祖はどう記されている

同抄を改めて読むと「観心」という用語は、題名を含めて五カ所しかありません。

如来滅後五五百歳始観心本尊抄
観心之心如何。答曰 観心者観我己心見十法界。是云観心也。
迹門一分宣之不云本門与観心。

「観心者観我己心見十法界」は、「釈迦多宝十方諸仏我仏界…我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏…当知身土一念三千…本尊為体」という一連の記述は観心本尊。

「正像未有寿量仏。来入末法始此仏像可令出現…本門寿量品本尊並四大菩薩」「本門本尊」

「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊」は本門本尊と観心本尊の両意。

わたしは教観相対という語彙は、やや正鵠を得ていないと思えます。日蓮は教相をもちろん、語りますが、開観両抄を通じて、その使用はただ1回のみです。教相から観心に臨むと言うより、突然、極意に至る如く、観心を語ります。それも、本門から観心というより、観心から立ち帰るように本門を語る如くです。ですから、言いづらいのですが、本門・観心相対、本観相対とすべきだろうという思いがあります。それはそれとして、『本尊抄』の記述は、本門、観心、どちらを述べているのか誤読しやすく、さらに両意に亘る箇所もあります。
粗々ですが、以上のような次第であろうと思えます。

2962問答迷人:2006/12/02(土) 08:49:45

>本門本尊・観心本尊であり、より具体的には仏像(一尊四士)本尊、題目本尊です。そして、後者は授与の形式として判形を為した漫荼羅となる次第です。

なるほど。すっきりしました。そういうことなんですね。もう一度本尊抄を読み直してみたいと思います。ありがとうございました。

ところで、この粗方の結論が出たところで、日興上人が仏像を安置して拝んでいたかどうか、この結論から見直すと、この点はどうなるでしょうか。

2963犀角独歩:2006/12/02(土) 10:50:31

> 日興上人が仏像を安置して拝んでいたかどうか

ええ、今回の議論はここから始まりました。
この点を考えるに当たり、わたしは言葉の用法を注意しなければならないと思います。日興の記述から事実を考えるとすると、日興の言葉の用法から考えるということです。これを現在、わたしどもが使用してきた石山や、正信会の解釈、誤用といった植え込まれた富士門ならでは先入観を払拭し、虚心坦懐に当時の文をそのままに読むということです。この際、日興の語法の経年変化も考慮されなければならないわけです。

ところが実際のところ、日興の著述というのは、ほとんど伝わらないのであって、伝説と仮託ばかりが目立つわけです。しかしながら、日蓮の薫陶を受けた日興が、日蓮の語法と極端に齟齬を来すことは少ないだろうと考えられます。ただし日蓮から時を経た教学信仰体系そのものの変遷として、語法の変容は当然予想されます。

問答さんとのかつての議論で申し上げましたが、日蓮が漫荼羅を直ちに本尊と呼称することを常としていたのか、わたしはいまもって慎重です。しかし、日興は『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』という如く、漫荼羅を本尊と呼んでいます。また、御影信仰の勃興もまた、たぶん、日蓮在世には遡れないことではないのか思えます(この点は一考を要しますが)が、日興はこれを受容しています。以上のような経年変容は考慮されなければなりません。

今回の議論は、以上の前提から推定されなければならないわけです。
ここのところの議論考証は、日蓮における“仏”の語法を考えたものでした。通読すればわかるとおり、日蓮が漫荼羅を仏と呼んだ用法はありません。となれば、日興もその準じたというのは、無理のない判断と思えます。

さらに経年変化を考慮する必要はあります。日興の確実な著述とされるのは「『三時弘経次第』と『安国論問答』の二書」、その思想を伝えると見なしてよいのは「『富士一跡門徒存知之事』は大体『五人所破抄』と同調のものであるが日澄が日興の義を付嘱されたというように「追加分」が初めからあったとすれば、『五人所破抄』が重須系で成立したのに対し、『一跡門徒事』は大石寺系ではないかと思う。しかしこの両書は比較的日興の思想を伝えるものと思われる」というのが執行師の研究でした。これを考証してみる必要はあります。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_004.html

また、消息文は『日興上人』(継命新聞)に詳しく載りますが、正信会・興風談所における教学解釈は、日興正嫡、日蓮本仏という臭みがあるうえ、彫刻本尊の真偽も語れないお粗末なものです。古文書の識字能力は、教学力とは比例しない皮肉な見本となっているわけで、ここに載る解釈は依用に耐えません。

前置きが長くなりましたが、日興の「仏」という用法は、当の仏(如来)を指すものと仏像を指す範囲であって、漫荼羅=本尊=仏といった用法は、散見できません。用法が散見できない以上、ここにその実例を載せられないということになります。

日興が、漫荼羅を本尊と呼んだことは事実ですが、漫荼羅を仏と呼んだ証拠を、わたしは寡聞にして知りません。しかし、日興が御影信仰の人であったことは知られます。つまり、日興において崇敬される尊像画は、漫荼羅、仏像、御影の三種であったと考えられます。

では、その三種を、他にどのように呼び換えもしたか。漫荼羅は本尊、仏像は仏、もしくは本尊、御影は聖人といったところでしょうか。この語法から見るとき、消息文に見られる「仏聖人」とは、仏像と御影像であると考えられるというのが、わたしの見解です。

ただ、たぶん、ここで信頼できる資料として挙げられる『富士一跡門徒存知之事』、『五人所破抄』のおいて、仏像を造立を非難する記事が載るのに、日興が仏像を拝んでいたとは考えられないというのが、富士門下に刷り込まれた解釈だと思えます。しかし、ここでいわれる仏像批判というのは「一体仏」という限定を示しています。(この点は『御伝土代』も同様です)
しかしながら、門徒事追加八箇条には「日興が義を盗み取って四脇士を作り副ふ」といい、所破抄には「須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ」というわけです。

日興の義と言いながら、実際のところ、日興が釈迦仏像に四菩薩を副えていなければ、このような言説は意味をなさないことになります。以上の点から考えても、日興は一尊四士像を奉安していていたのだろうと考えられます。

2964問答迷人:2006/12/02(土) 13:29:51

犀角独歩 さん

明確ですね。了解しました。曼荼羅を懸けて、その前に一尊四士、そして一番前に御影でしょうか。なにか、日蓮宗の寺院でそのような配置を見た記憶が有ります。

しゅんかん さん

以上の如くですので、先の回答は撤回して、「仏像を崇拝していた」に訂正します。そうすると、まだお答えしなければならないご質問がありますが、少し時間をください。

2965問答迷人:2006/12/02(土) 22:56:50

>2917 独歩さんに以前お尋ねしました所、興師は仏像崇拝をしていたとの
お言葉を頂きました。そこで疑問に思ったことがありました。

>他の掲示板で見かけたのですが、精師(十七世)が謗法を働き、寛永十五年(一六三八年)下谷常在寺の再建並に造仏をしたと記してあり、 後年、俊師(二十二世)啓師(二十三世)が撤去したと思われる。と言う文面をみかけました。 当掲示板でもこのような内容の物を論じられた事がありますか?

当掲示板では、精師の造仏について、特に詳しく議論した事は無かったように思います。

>興師の時代には仏像崇拝をしていた。精師は謗法を働いた(事実なら)のであれば何時の時代ぐらいまで仏像崇拝が続いていたのでしょう?精師の造仏は事実と思思わますか?

精師は京都要法寺の方です。要法寺で、造仏は当然のこととして行われてましたから、精師が造仏しても何ら不思議は無いと思います。

造仏がいつまで行われてきたかは定かではありませんが、第四世の道師の段階では、既に造仏は行われなくなっていたのではないか、と思います。

2966犀角独歩:2006/12/03(日) 07:18:40

問答さん

今回も有意義な議論が出来ましたことを嬉しく存じます。

通途、漫荼羅を懸けっぱなしにしていたのか、それを拝んでいたのかという点で、わたしはやや疑問を懐いております。板に彫られるのは、日有の頃からでしょうか。それ以前、当初は板張りされていたという話もありますので、やはり、奉安しっぱなしということなのかもしれません。けれど、掛け軸に仕立てるということは、懸けたり外したりという便宜であり、その形を残すことにある意味、その扱いの原形があるのかと慮ったりもします。

仏像、御影像は、絵像の可能性も高く、そうなると、堂を分けて、それぞれに奉安、もしくは横並びに懸けていたとも考えられますね。

2967犀角独歩:2006/12/03(日) 09:24:46

やや小結しましたが、問答さんの「漫荼羅は仏」という着想は、しかし、頷く人は多いと思います。その理由は、『本尊抄』と『報恩抄』の対応でしょう。

本尊抄「其本尊為体 本師娑婆上宝塔居空 塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩」

報恩抄「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となる」

この文を比較すると妙法蓮華経=本門の教主釈尊であるように思えるからです。
しかし、果たして、そうでしょうか。

この対応関係を分析すれば、以下のようになります。
(図表が崩れて見える方は、http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

┌──────────┬──────────────┐
│其本尊為体     │本門の教主釈尊を本尊とすべし│
│本師娑婆上宝塔居空 │×             │
│塔中        │宝塔の内          │
│妙法蓮華経     │×             │
│左右釈迦牟尼仏多宝仏│釈迦多宝          │
│×         │外の諸仏          │
│釈尊脇士上行等四菩薩│上行等の四菩薩脇士となる  │
└──────────┴──────────────┘

この対象からすると、まず「為体」は“ていたらく”を意味するのではなく、“本尊が体(教主)と為る”であることがわかります。
そして、教主釈尊に対応するのは妙法蓮華経ではなく、体であることがわかります。体とは仏=本体の意味でしょう。

では、妙法蓮華経に対応するのは、と、『報恩抄』の文を見ると、それがありません。これは「宝塔の内の釈迦多宝」が「宝塔の内の“妙法蓮華経左右”釈迦多宝」ということを意味するのでしょう。つまり、妙法蓮華経の五字が、略されていると解せます。

2968犀角独歩:2006/12/03(日) 09:45:30

―2967からつづく―

以上のように探っていくと、『本尊抄』『報恩抄』の文意における本尊は、単に本門本尊のみをあらわしているのではないことがわかります。

天台を迹面本裏、日蓮を本面迹裏と説明されます。天台は迹門を面(おもて)とし、本門を裏とした。日蓮は本門を表にし、迹門を裏にしたという意味です。

しかし、わたしは日蓮の法門、殊に本尊論は“本面観裏”、つまり、本門を面とし、観心を裏にするものなのだと考えます。

補完した『報恩抄』の該当の文で説明します。

「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の妙法蓮華経左右釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となる」

┌本門:教主釈尊を本尊(色形の仏像:一尊四士)
└観心:宝塔の内の妙法蓮華経左右釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士(心法を図す漫荼羅)

つまり、本門本尊は、観心本尊に裏打ちされる二重構造になっているということです。この観心を欠落して語られてきたのが、旧来の本尊論だったのではないでしょうか。

2969犀角独歩:2006/12/03(日) 11:01:15

2967の図をやや補完しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/2967
(図が乱れるときはhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html


   ┌───────────┬──────────────┐
   │本尊抄        │報恩抄           │
┌──┼───────────┼──────────────┼─┬───┐
│本門│其本尊為体      │本門の教主釈尊を本尊とすべし│色│仏像 │
├──┼───────────┼──────────────┼─┼───┤
│観心│本師娑婆上宝塔居空塔中│宝塔の内          │心│漫荼羅│
│  │妙法蓮華経      │×             │ │   │
│  │左右釈迦牟尼仏多宝仏 │釈迦多宝          │ │   │
│  │×          │外の諸仏          │ │   │
│  │釈尊脇士上行等四菩薩 │上行等の四菩薩脇士となる  │ │   │
└──┴───────────┴──────────────┴─┴───┘

2970犀角独歩:2006/12/03(日) 19:26:35

独学徒さんの掲示板におけるご紹介を受けて、さらに補完すれば、以下の如くです。再々にわたる訂正で恐縮です。
(同掲示板に御礼を記し、いただいたレスにも重ねて御礼を記そうと思いましたが、投稿数に限りがあるので、こちらで、御礼申し上げます)

   ┌───────────┬──────────────┐
   │本尊抄        │報恩抄           │
┌──┼───────────┼──────────────┼─┬─┬───┐
│本門│其本尊為体      │本門の教主釈尊を本尊とすべし│色│仏│仏像 │
├──┼───────────┼──────────────┼─┼─┼───┤
│観心│本師娑婆上宝塔居空塔中│宝塔の内          │心│法│漫荼羅│
│  │妙法蓮華経      │×             │ │ │   │
│  │左右釈迦牟尼仏多宝仏 │釈迦多宝          │ │ │   │
│  │×          │外の諸仏          │ │ │   │
│  │釈尊脇士上行等四菩薩 │上行等の四菩薩脇士となる  │ │ │   │
└──┴───────────┴──────────────┴─┴─┴───┘
(図が乱れるときはhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

『報恩抄』で「妙法蓮華経」が何故略されるのか、という点について、やや違う視点から記します。これはあくまで、試論ですが、『本尊抄』における「塔中」は‘たっちゅう’と読ませ、‘塔の中’の意と解されてきたのでしょう。『報恩抄』で対応するのは「宝塔の内」ですから、中=内ということになります。

しかし、この点は一考を要します。中とは‘あたる’という語法を有するからです。
つまり「塔中妙法蓮華経」とは、‘塔は妙法蓮華経に中(あた)る’という意味である可能性を有しています。しかも、この『本尊抄』の‘中’が、『報恩抄』の‘内’と対応すれば、中(なか)の意味を併せ被せて意味していると、わたしは考えます。

ややしく聞こえるかもしれませんので、簡潔に申し上げれば、『報恩抄』における‘宝塔’とは、直ちに‘妙法蓮華経’を意味するということです。ですから、ここに敢えて五字を記すまでもなかったということです。

なお、以上の議論は、『本尊と曼荼羅』スレッドの2005年5月頃の議論を参考にしてください。ここを基礎としています。問答名人さん、顕正居士さん、愚鈍凡夫さん、真部さん、ひたちさん等、また、他であったと思いますが、パンナコッタさん等の秀でた投稿が見られます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/

なお、この際、顕正居士さんからご教示いただいた行学日朝の見解を、今回の投稿の際で、わたしが忘却していると思われそうなのですが、もちろん、この点は十分に認知したうえで、敢えて、本門・観心立てで論攷しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/350
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40049288&VOL_NUM=00000&KOMA=60&ITYPE=0

2971顕正居士:2006/12/04(月) 13:37:28
本門の釈尊について

ひさしぶりです。ところで本門の(教主)釈尊の語には二義あります。

1 本門を説かれた釈尊 2 本門で説かれた寿命無量の仏自体

日朝や日寛の説は本門の釈尊に2種あるとするものです。
一個だという人がおりますが、その場合は 1 本門を説かれた釈尊 は始成正覚の釈尊と
変わっていない、多宝仏と並坐で本門の教主をあらわすのみだから、
本門の釈尊を 2 本門で説かれた寿命無量の仏自体 の意味だけに使うからです。

それで日蓮自身の究極的信仰対象は2種の本門釈尊のいずれかといえば、報恩抄の表現は
教主といって誤解を招くから、本尊問答抄で法華経の教主を本尊とはしないと明確に訂正した。

釈尊の本師は誰かという比叡山の質問に答えた唐決は名号毘盧遮那如来、国土毘盧遮那国とし、
つまり釈尊以前に人格的の仏は無いとしますが、円珍は無量寿命決定王如来だとしました。
この無量寿命決定王如来は阿弥陀仏の本地ですから、唐決では釈迦・阿弥陀が別仏になるのを
嫌ったのではないでしょうか。

日朝の説は円珍の説と日蓮晩年の修正に基づいたもので、合理的であるかと考えます。

2972犀角独歩:2006/12/04(月) 18:36:43

顕正居士さん

お久しぶりです。嬉しく存じます。
先にご紹介いただいた法華曼荼羅八葉九尊図、久遠寺の漫荼羅相伝資料から見つけました。国立図書館のものは、詳細に見えませんでしたが、こちらのほうは、よく読みとれます。ご投稿の内容とも関連しますので、アップしました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/hokkemandarahatiyokusonzu.html

2973顕正居士:2006/12/04(月) 19:12:37
続きです。
しかし本尊問答抄の修正は別の問題を生じました。仏本尊、法本尊の問題です。
法華宗(天台宗)は所生の仏を本尊としない、能生の法を本尊とすると言った。
第一、史実に反します。どう考えても天台宗の本尊は弥陀、薬師、釈迦など仏です。
それで浄顕房の学問に合わせた特殊な解答だという説があります。
幾分そういう面もあろうかと思います。多分、浄顕房は毘盧遮那如来があらゆる仏の
能生の仏だと考えていたのでしょう。これは先の唐決のように標準的な考えです。
しかし同じ毘盧遮那如来でも、密教が入っていない中国天台と円密一致の日本天台では
違ってきます。毘盧遮那如来はもと華厳経の仏で宇宙そのものを擬人化した仏です。
中国天台で正覚を成じるとはこの毘盧遮那如来を証得することで、したがって
始成即久成、長寿はただこれ証体の用、毘盧遮那一本異ならずです。
密教ではこの仏の具体的人格性を強調します。金剛界智法身の方ですが。
円密兼学の日本天台では密教のそういう思想も入って来ますが、しかしむしろ方向が
反対の思想が発達しました。己心への収束、如来蔵思想の発展、本覚思想です。
毘盧遮那如来は法である仏ですが、如来蔵も法である仏です。けれども密教の普及で
毘盧遮那如来は法である仏ということが(学問が十分でない人には)少し忘れられます。
日蓮は著しく人格化した毘盧遮那如来ではなく、如来蔵を本尊とすることを言わんとし、
幾らか極端な表現をした可能性があります。

2977犀角独歩:2006/12/05(火) 09:02:45

どうも、文章が巧くないので、訂正し、再投稿とさせていただきました。

***

顕正居士さんのご投稿を頂いておりますので、こちらは拝読させていただくことといたします。
わたしも、まだ書きかけの部分がありますので、この点は引き続き記させていただくことといたします。

今回の投稿を始めるに当たり、三学無縁さんに、その粗筋を話したところ、「では、観心ずりで、本覚的な結論なのか」という問いをいただきました。

「本覚」という視点は、実に幅広く、一概に論じ切れませんが、以下の点のみ。わたしは、日蓮のいう観心とは、現在言われていることとは、違っていると考えます。

無作三身、凡夫即極といった本覚的結論は、結局のところ、仏・心の両面に亘り、それを修行者凡夫の一念に帰結していく傾向を有していると、わたしは観察します。しかし、日蓮は、この点において、仏と心と自分自身、すなわち、衆生との距離をしっかりと保って自身の法門を御立てていると思えます。

先に投稿を参考にしていただきたいのですが、結局のところ、日蓮が言う本門本尊は観心本尊を裏打ちされたものであり、この関係は仏と心です。この二つを、では、本来、自分自身に内在するものであるととらえてしまえば、上行所伝も、本仏崇敬も意味をなさないことになります。しかし、日蓮は衆生の立場にあって、久遠下種の本主、受け継ぐ妙法蓮華経の五字を己心からずらしたところでとらえたわけです。これが日蓮が言う本門本尊であると、わたしは考えます。つまり、言われてきたような‘観心ずり’とは異なっています。故に釈迦如来への信仰は厳として護られるわけです。妙法蓮華経という五字(法ではなく五字という文字)の題目を本尊という時、しかし、それは自ら本来覚ったものであるとはいわず‘所伝’というところに重点があります。そして、そこに裹まれる一念三千を観心の側面として打ち出しているのであって、本門本尊が表であれば、観心題目はまさに文字通り、内裏の心に観る本尊にほかなりません。

つまり、本門本尊と観心本尊という表裏をもって見るとき、観心を端的に述べて、教相を論じ儒外・内外・大小・顕密・本迹・教観に亘り整理した開目抄、その前提で、教相というより、直接的に観心を語り、本門と併せ両面から本尊を論じた本尊抄、本門本尊を表に論じた行者値難事、法華取要抄、観心を裏に裹んだ報恩抄、そして、実は本尊問答抄は、観心面から本尊を論じたと見れば、一連の著述は整合性のある脈絡でつながります。

顕正居士さんのお言葉を借りれば、本門本尊とは、本門を説かれた釈尊、観心されて見る無始古仏は、本門で説かれた観心される寿命無量の仏自体ということになりましょうか。

ともかくも、いましばらく、わたしは、一連の教学解釈を敢えて無視し、真蹟遺文を手だてに、日蓮の教説をさらに考えることといたします。
今回の論攷するに、独学徒さんのご紹介は参考になりました。重ねて御礼申し上げます。

2978しゅんかん:2006/12/05(火) 22:17:03
問答迷人さんすいません。
ここのところ仕事が多忙に付き、私の問いかけに
大変ご丁寧なお返事を頂きながらお礼を申し上げる事が
遅れてしまい申し訳ありませんでした。
本当にありがとうございました。
もう少し仕事がたて込んでいます、日を改めて再度、
書き込まして頂きます。

「しかし独歩さんと大変なお話に進展いているようですね」

2979独学徒:2006/12/05(火) 22:19:45

犀角独歩さん、

>今回の論攷するに、独学徒さんのご紹介は参考になりました。重ねて御礼申し上げます。

HPを紹介しただけで、誠に恐縮に存じます。

私は少し前に、犀角独歩さんに一対一で種々質問させていただき、多大なる御教授を賜りました。
加えて、今回の問答さんとの対話にも、日々眼から鱗の落ちる思いで拝しているわけです。
御礼を申し上げなければならないのは、私の方です。本当にありがとう御座います。

「冨士教学研究会の掲示板」にて、「報恩抄」の文について、れんさんがご投稿くださったとき、私は不遜にも蓮師があわてて書いて間違えたのではないか、などと申していました。
今回の犀角独歩さんのご投稿を拝し、報恩抄の一見矛盾する記述もすっきりと理解できました。そして、あらためて自身の教学の無さを痛感し、蓮師に懺悔したい気持ちになりました。

問答さんとの御討論、今後も注目致しております。

2980犀角独歩:2006/12/06(水) 11:23:45

独学徒さん、恐れ入ります。

2981問答迷人:2006/12/06(水) 13:28:14

犀角独歩さん

色々考えましたが、今ひとつ、ぴんときません。一つ質問させてください。

上行所伝の妙法蓮華経の五字が、観心の本尊なら、本門の題目と観心の本尊とが、同じく南無妙法蓮華経ということになります。

そうすると、本門の本尊とは、本門教主釈尊なのか、本門で説かれた釈尊なのか、どちらでしょうか。

もし、本門の本尊が本門で説かれた釈尊なら、それは観心の本尊ですよね、そうすると、それは本門の題目と一緒と言う事になります。これは変ですね。

又、本門の本尊が本門の教主たる釈尊ならば、本門の本尊は仏像ですね。その場合、曼荼羅はどうなるのか・・・

考えれば考えるほど判らなくなります。この辺り、もう少し判りやすく、三つの法門の上からご説明願えないでしょうか。よろしくお願いいたします。

2982犀角独歩:2006/12/07(木) 09:24:20

問答名人さん

どのように言語化して好いのか、やや限界を感じ始めました。けれど、やりとりのなかでできるだけ、埋めてまいりたいと思います。
少しずつ、細分化しながら進めます。

> 上行所伝の妙法蓮華経の五字が、観心の本尊

こう書けば、違いはしませんし、わたしもそのような文面になっていました。
もう少し詳細に論じられると思うのです。
所伝というのは‘伝えるところ’というのは他者から‘伝’であることを意味します。つまり、上行が釈尊からです。一方、観心本尊とは己心の一念三千観法に、仏界を教相との整合性から、さらにそれを超えて観いだしていくことですね。この二つには、以上のような相違がありませんか。

> 本門の題目と観心の本尊とが、同じく南無妙法蓮華経

ええ、言葉としてはそうです。

『報恩抄』で本門題目に該当するだろう件は「一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし」です。では、伝えられ授受される題目と唱える題目は同じでしょうか。伝え授かる題目は釈尊上行からの授かりもの、しかし、唱える題目は、己の口唱です。

> 本門の本尊とは、本門教主釈尊なのか、本門で説かれた釈尊なのか

本門教主釈尊ではないでしょうか。

> 本門の本尊が本門で説かれた釈尊なら、それは観心の本尊ですよね

いや、違うでしょう。法華経の文面では観心は表に現れていません。そのことを『開目抄』に「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」というのでしょう。教観相対を暗示しています。本門の本尊は、教相面から明らかな、文字通り本門の本尊、寿量仏ではないでしょうか。

> 本門の題目と一緒と言う事になります。これは変ですね。

わたしは、当初、本門題目というのは授与された題目の五字を言うのだと思っていました。これは間違いではないと思うのですが、先にも挙げた『報恩抄』では、唱える題目だというのです。たぶん、この点は、妙法蓮華経が能化からの授与の題目であれば、南無妙法蓮華経は所化が唱える題目なのだろうと思えます。
問答さんが疑問に思われるとおり、日蓮が題目と言うとき、所伝の題目、本門の題目、さらに本尊としての題目と三義に亘っています。わたしは、これを択一してどれか一つを選び出すという発想は、はじめの一歩で躓いているのだと思えます。答えは皆、真なのだろうということです。

勝劣的な発想であると、択一を繰り返し、ついに最勝の一つを択びとるのが日蓮の教学であると捉えがちですが、実際は、小さな集合を、より大きな集合で包括し、ついにすべて包括する集合に至るというのが日蓮の論法であると、わたしは観ます。

また、それぞれの用語において、どの言葉を表立てて論じるかで視点の変化があるので、その都度、縦横無尽に受け取る側も視点を変えてみないと景色は歪んでしまいます。

本尊というとき、これを本門立てで考えれば、儒外、内外、大小、顕密、本迹と追って、ついに寿量仏に至るという階梯を踏みますが、観心立てでは、内観し心のなかに仏を観、その仏の因果と功徳が直ちに妙法蓮華経五字に裹まれることを達観し、そこから三身所顕無始古仏という五百塵点成道の寿量本門仏より一重、立ち入っていきます。この点では、仏・菩薩・衆生・法・三世間という隔壁も時間の経過すら超越してしまうわけです。すべてが妙法蓮華経という題目五字に包摂し、しかし、個々が個たるまでで円満に具している様です。この観心は、本門からの景色とは違います。

本門本尊、観心本尊、同じ本尊であるという見方になりがちですが、視点が違っている以上、異なって映じます。また、表しているところも違っています。前者は教相面から本門寿量品に至る階梯で諦かにされるところ、しかし、観心本尊は文字通り、心を観るなかに見いだされる仏法界が三千不可思議境と広が因果が妙法蓮華経の五字に納まるという視点の相違です。前者は仏格からその心法への信仰へと進むのでしょうが、後者は心法から仏格が見いだされます。ところが、前者では仏格は寿量仏という五百塵点から今番という時間軸がありますが、後者の場合、その時間軸を超克するばかりか仏格までも五百塵点を超克し、寿量仏という法華会座も超克していきます。『本尊抄』に「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土。仏既過去不滅未来不生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間也」というのは、このことではないでしょうか。

2983犀角独歩:2006/12/07(木) 09:24:50

―2982からつづく―

同様に本門題目という妙法蓮華経と、題目本尊で妙法蓮華経とは文字は同じでも相違があります。本門立てでは、今番、末法に菩薩に妙法蓮華経を託したという時間軸で活躍する仏です。しかし、題目本尊とは、釈尊五百塵点成道已前の妙法蓮華経への信仰です。本門題目は、寿量仏 ― 四菩薩 ― 末法衆生へと所伝される妙法蓮華経でしょうが、題目本尊は、妙法蓮華経 ― 寿量仏 … というそれ已前の題目ではないですか。しかし、この点を日蓮は、寿量品の文底に観るわけですから、法華経典で文面に載らない観心の辺域の題目です。それを一念三千というか、無始古仏の己心というか、あるいは仏界所具仏界というか、妙法蓮華経というか、そこに文言表現の限界はありますが、題目本尊というのは、そのような規模で言われることではないですか。本門の題目と、本門寿量経典の文面の底・観心の妙法蓮華経は、やはり、違うと言わざるを得ません。

> 本門の本尊が本門の教主たる釈尊ならば、本門の本尊は仏像ですね。その場合、曼荼羅はどうなるのか

ええ、ここです。本門本尊を考えるとき、漫荼羅というのは立地がありません。
ですから、わたしの、漫荼羅を本当に拝んでいたのだろうか?という問いも起きたわけです。

大きな漫荼羅というのは道場奉懸の用途であろうとは思いますが、通常は、漫荼羅は身に帯する、懐中に持つことが基本だったのではないでしょうか。
何故かと言えば、上行所伝の妙法蓮華経とは下ろされた仏種そのものですから、心身に受け持たなければ、熟益の段に入り用がないからです。心田と言いながら、種を棚に祀っていては、田から芽の出ようはずがありません。

しかし、『本尊問答抄』の末には「此御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給候へ」とあり、この文面からすれば、題目を記された漫荼羅は本尊として奉懸されていた如くです。

漫荼羅を、日蓮が如何に扱った、否、扱わせたかという点は、杳として明らかではありませんが、しかし、題目本尊といい、漫荼羅奉懸とさせたとしても、実のところ、それは厳格な意味での観心本尊ではないというパラドクスが、最終段階で持ち上がります。何故か。それはその成句の文字が表すとおり、観心本尊とは、心で観る本尊であるからです。しかし、題目本尊とは、その観心される心そのものである一念三千を裹む題目であり、実に裹まれているのは本門本尊の因行果徳の二法であるといいます。これはつまり、末法衆生救済の仏種にほかならないのだと思います。

観心は、教相を超えたところにあると思われがちですが、この二つの関係は表裏であり、視点の相違にほかならないのでしょう。しかし、本門より、観心はさらに広い範囲を包括している点を見落とすと、それを同一と見誤ることになるのだと考えます。

残念ながら、わずかな真蹟遺文から見える日蓮の真意には限界があります。それは、恰も手に入れた宝の山の地図が、大きく破れ失われているようなものです。
故にその後、700年、数多の偽書が捏造され、まことしやかに相伝・相承、口伝えされたのでしょう。しかし、わたしは、日蓮以後の言説に、ヒントを求めようとは思いません。なぜならば、そこには日蓮の答えがないからです。嘘と思いつき、虚を真を偽ったことが真と扱われ澱んでいった複合汚染もあるからです。真蹟遺文を明確できるわれわれは、700年来の人々の優位に立っています。過去の蓄積に溺れるより、遺された断片に真があります。

また、その地図が完全なものであっても、その文底に沈められたところは見えません。いずれにしても、日蓮の心は、遺文という文字がすべてではないのでしょう。言語道断という限界を、しかし、日蓮は法華経の文字に感じ、そして、文底観心の極意を踏み行ったのだと思います。これを言語化することは、もはや、不可能かもしれませんが、そのさわりの議論はできようかと存じます。

2984問答迷人:2006/12/07(木) 22:24:31

犀角独歩さん

詳細な書き込み誠にありがとうございます。この一点が疑問として残りますので、再度御質問させていただきます・

>題目本尊とは、その観心される心そのものである一念三千を裹む題目であり、実に裹まれているのは本門本尊の因行果徳の二法であるといいます。これはつまり、末法衆生救済の仏種にほかならないのだと思います。

題目本尊をそのまま顕したのが曼荼羅ではないのでしょうか。そうならば、蓮祖の真意は曼荼羅正意となるのでは有りませんか。

2985犀角独歩:2006/12/07(木) 23:37:20

問答さん

ちょっと、敢えて脱線します。
先般の合宿の前、楠山師と話していたのです。そのとき、わたしが「一致派と勝劣派、どちらが正しいでしょうか」、こう尋ねたのです。すると「どっちか一方が正しい、その発想が、勝劣派なんだなぁ」と。
ことんと、目から鱗が落ちる思いがしました。

ここなんですよね、わたしたちの勝劣育ちの習性というか、思考回路は。
蓮祖の正意は漫荼羅か・仏像か、正意はどちらか一方ではないのかという勝劣選択です。

楠山師は、こうも言いました。「法然上人のせんちゃくしゅう、せんちゃくって、どんな字を書く? 選択だよ」
われわれは勝劣という足がかりでやっていることは、まさにこの選択ではないかという指摘です。

前置きが長くなりました。

> 題目本尊をそのまま顕したのが曼荼羅ではないのでしょうか

いえ、そうではないと思うのです。題目をの所伝の有様を書き表したのが漫荼羅だと思います。一方、観心される一念三千観法で至る仏は観心本尊、寿量本門という設定で特化されるのが本門本尊ではないですか。

> 蓮祖の真意は曼荼羅正意となるのでは有りませんか。

択一することではないと思います。
観心本尊も、本門本尊も、題目本尊も、すべて日蓮聖人の正意ではないでしょうか。

2986問答迷人:2006/12/08(金) 10:13:18

>観心本尊も、本門本尊も、題目本尊も、すべて日蓮聖人の正意

ますます分からなくなってきました。少し整理させてください。

先ず、本門の題目。これは、「上行所伝の妙法蓮華経の五字を唱える事」これはそういう理解でよろしいでしょうか。

2987問答迷人:2006/12/08(金) 10:17:00

或いは、表現を変えれば、「上行所伝の妙法蓮華経の五字を信じて南無妙法蓮華経と唱える事」これが「本門の題目」

2988犀角独歩:2006/12/08(金) 10:36:21

問答名人さん

2986、2987、ご質問の趣旨がわからないので、どうお応えしてよいかわかりませんが、まず、そのようなことであろうと存じます。

2989問答迷人:2006/12/08(金) 11:15:45

ありがとうございます。

そうしますと、ここで言う「行所伝の妙法蓮華経の五字」、これが「題目本尊」と言う事になりますか、如何でしょう。

2990問答迷人:2006/12/08(金) 11:17:27

あっ、一字欠字です。

× 行所伝の妙法蓮華経の五字

○ 上行所伝の妙法蓮華経の五字

2991問答迷人:2006/12/08(金) 13:17:39

お忙しそうなので、もう一つ先まで書き込んで見ます。

「上行所伝の妙法蓮華経の五字」=「題目本尊」としますと、「本門本尊」と「題目本尊」とは、同じく本尊ですが、その関係はどのように捉えれば良いでしょうか。

2992犀角独歩:2006/12/08(金) 16:07:44

問答さん、本日、他用がございまして、落ち着いて書き込めません。
明日、改めて書き込ませていただきます。
恐れ入ります。

2993問答迷人:2006/12/08(金) 16:47:51

犀角独歩さん

ご多忙の所、恐れ入ります。

それでは、質問をもう少し進めておきたいと思います。

蓮師の三つの法門は、あくまでも、一人一人の成仏の為、そして立正安国の実現の為のものであると思います。そして、この三つの法門に蓮師の教えのエッセンスが凝縮されているのだと思います。
この考え方が正しいかどうかは分かりませんが、「本門の本尊、題目、戒壇」と述べられる内、本尊について、三種を説かれていると言うのは、不可解なのです。もし、そうであっても、それらは、一つに統合されていると思うのです。逆に言えば、観心本尊、本門本尊、題目本尊、これらの三つの本尊は「本門の本尊」として、或いは、「三つの法門」の構成要素として、統合されているのではなかろうか、そのように思えるのです。

これは、蓮師の法門が、最終的に「三つの法門」に統合されているはずだ、という仮説に立っての推論ですが、「三つの法門」が釈尊が末法の為に残された法門だ、という蓮師の教えから、そうでなければならないと思うわけです。

この点、如何でしょうか。

2994みかん:2006/12/08(金) 18:40:07
こないだから考えているんですが、なんで「本尊、題目、戒壇」なんすかね?

「本門の佛」とか、「本門の法(ダールマの法ね)」とか、「本門の経」とかでもよさそうなモンですが。

まあ、本門とそれ以外で、佛やら経やらダールマやらがかわっちゃったら可笑しいんですが。とくにダールマ。でも佛は変わるっていう人もいますよね。

だいたい、「本門の戒」じゃなくて、「本門の戒壇」ってのがよくわからない。まあ、この点は最澄の影響でしょうけれども。

2995犀角独歩:2006/12/08(金) 20:48:01

問答さん、本日は、地方に来ているのですが、モバイルが不調です。
わたしは、三法門というのは、本門立て、さらに観心立てがあるのだと考えています。
勝れた本尊はひとつ、だから、本門、観心、題目は、統一されて一つになる、というのが、お考えであろうと思いますが、わたしはこの点で考えが違います。
ともかく、明日ということで、申し訳ありません。

2996犀角独歩:2006/12/09(土) 19:10:40

問答さん

昨日は失礼いたしました。
ただいま、戻りました。

問答さんとわたしの見解の差は、ただ一点ですね。
要は本尊が「一つに統合される」か・否かです。

その前に本門の題目と題目本尊が同じか・否かという点ですが、『報恩抄』の文による限り、本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経、しかして、題目本尊は唱えられる妙法蓮華経五字の本尊という関係にあるように思えます。わたしが、題目本尊を観心として捌いたのは、本門という時系列の‘縛り’を題目本尊は超えているからです。そこに裹まれる一念三千は観心に摂すると判断したからです。

さて、本尊が統合されるか・どうかですが、この点についてですが、わたしは、それぞれの相違があり、かつそれらが鼎立することになんの不思議も感じないのです。

観心本尊というのは、観法上における本尊であり、この本尊を達観できたのは、結局のところ、日蓮聖人お一人であったのだと、わたしは思います。
この段階で、ご本人が上行の自覚であったかどうか、わたしはどうも疑わしいとは思っているのですが、それはそれとして、「三身所顕無始古仏」というところに行き着くわけですね。しかし、この仏は凡夫にしては「雖近不見」でしょう。

教義の理解を深めたところで、そのような形に行き着くも、それを実感として得心することは、ほぼ不可能な境地だと思います。しかし、師はここから始められたわけです。観心本尊とは、このようなものでしょう。

では、本門本尊はといえば、以上の観心本尊を得心した菩薩、つまり地涌千界、もっと特化すれば四菩薩が立てるというわけです。ところが、その後、題目本尊であるともいうわけです。

鎌倉時代とは身分制度の時代でした。漫荼羅は限られた人にしか授与されませんでした。この二つの点は看過できません。いまのような民主平等を謳い、漫荼羅濫造総下付をなした恥じることがない乱世とは違います。
現代のわれわれは三大秘法と聞けば、「一閻浮総与」よろしく、等しく民衆すべてがあやかれるものであるという前提で考えてしまっています。しかし、日蓮はそう考えていたでしょうか。

『本尊抄』と『本尊問答抄』を本尊というキーワードでみるとき、対告衆が違っていることに気づけませんか。本門本尊とは菩薩が立て、国家によって論じられています。しかし、題目本尊は「末代の凡夫」をもって論じられています。菩薩、凡夫、この差は看過できません。
三秘正法というのは、わたしは国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。これはまさに秘法に属しませんか。しかし、題目本尊論は違います。末代凡夫を相手取っています。

観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ、本門本尊は凡夫の及ばざるところ、題目本尊は凡夫をもって論じるところ、同じ本尊でありながら、この相違があります。では、この三つは、詰まるところ、まったく別のことを論じているのかといえば、実はそうではありません。そこにあるのは受ける側の相違です。

わたしは、この鼎立は、衆生の機根一様ならざれば、斯くあって然るべきであると思えます。つまり、統合の仕様がないことであれば、その三様ともに是という管見です。

2997犀角独歩:2006/12/09(土) 19:12:44

【2996の訂正】

誤)三秘正法というのは、わたしは国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。
正)三秘正法というのは、国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。

2998再挑戦者:2006/12/09(土) 21:40:14
 横から失礼します。 あまりにも高いレベルでの御提言ですので、、??です、。
 少し疑問ですが、某パトロンさまが「、本仏はいつ頃ですか、?」、という質問を記憶しています。
 これには、さすがの日蓮様も御狼狽なされたようでしょうか、?
 晩年期の「聖人傾向の心は、、???」、、疑問です、。 なぜ「生涯、一求道者としての道を捨て、本仏への思考に執着された」、のでしょうか、?
 また、パトロン様に発した「勧心本尊抄」さえも「ナぜ、秘すべし、秘すべし、、」ともうされたのでしょうか、、??  疑問だらけで済みませんです。

2999問答迷人:2006/12/09(土) 23:16:58

犀角独歩さん

>観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ、

これは違うと思います。確かに天台の説いた止観の法門は極めて高度な内容であり、凡人の到底及ば無い所であり、機根が合わないと思います。それが為に、蓮祖は、凡夫でも「妙法蓮華経の五字を受持すれば、自然に釈尊の因行果徳の二法を譲り受ける事が出来る」と説いたのが、観心本尊を説いた本義であったはずです。どこまでも凡夫の為の観心を説かれていると思います。それを、「凡慮のまったく及ばざるところ」とすれば、蓮祖の本意を見失う危険があると思います。
又、蓮祖の修行は立宗以降、一貫して題目を自らも唱え、他にも勧められた。どこまでも名字凡夫の修行に徹しておられます。題目本尊=観心本尊でなければ、蓮祖の名字凡夫の振る舞いに合致しないと思いますが如何でしょうか。

3001問答迷人:2006/12/09(土) 23:43:23

もう一点です。

>本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経、しかして、題目本尊は唱えられる妙法蓮華経五字の本尊

その関係であれば、「本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経」「本門の本尊は唱えられる妙法蓮華経五字」となれば、すっきりします。妙法蓮華経の五字に釈尊の因行果徳の二法が具わるのなら、「題目本尊」=「本門の本尊」としても少しもおかしくないのでは有りませんか。

3002問答迷人:2006/12/10(日) 06:27:32

2999の補足です。

四信五品抄で蓮祖は次のように説いています。

「問ふ、汝何ぞ一念三千の観門を勧進せずして唯題目許りを唱へしむるや。 ー中略ー 問ふ、其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱へて解義の功徳を具するや不や。答ふ、小児乳を含むに其の味を知らずとも自然に身を益す。耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん。水心無けれども火を消し火物を焼く、豈覚あらんや。ー後略ー」

ここには、『蓮祖が自らも実践し、人々にも勧めたのは、題目を唱える事であり、それが、蓮祖の観心法門なのだ』と書かれていると拝します。

3003天蓋真鏡:2006/12/10(日) 06:54:13
みかんさん、はじめまして。挙証主義のサイトですが、私の所見を書いてみます。■インド・佛(仏の十号などに現される理想)法(ブッダガヤ其他遍歴して悟った真実)経(大乗教団が編纂した土台)⇒日本・本尊(尊ぶべきを形に表す)戒壇(乱世に規定)題目(理想を目指すための方法)■本門は真実開顕、法華一乗の到達点なので佛法経で無くて本尊戒壇題目で書いてあるのでは、と書き込みます。

3004犀角独歩:2006/12/10(日) 07:25:34

問答さん

問答抄に「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」とあります。不識とは識(し)らざるということですね。これが、わたしが「観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ」といった根拠です。

> 蓮祖の本意を見失う危険があると思います。

そうは思わないですね。
引用されておられる「我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」とは、本尊が観心できなくても、五字の受持によって「功徳」を譲られるという趣旨ですから、その意味がわかることとは別の話です。

> 蓮祖の修行は立宗以降、一貫して題目を自らも唱え、他にも勧められた。どこまでも名字凡夫の修行に徹しておられます。題目本尊=観心本尊でなければ、蓮祖の名字凡夫の振る舞いに合致しないと思いますが如何でしょうか。

ですから、そのためにご本人の到達した観心本尊という境地から、題目唱題行を立て、所伝の妙法蓮華経を譲与するという漫荼羅の図示を考案し、四菩薩出現に本門本尊の造立をお考えになるに三秘正法をお考えになった。そして、晩年にいたり、題目本尊というお考えにも至った。
しかし、それをすべて一つのもの=で結ぶことはできない。なぜならば、その意義がそれぞれ違うからです。

> 妙法蓮華経の五字に釈尊の因行果徳の二法が具わるのなら、「題目本尊」=「本門の本尊」としても少しもおかしくないのでは有りませんか

これは、わたしは短絡だと思います。仏と授ける法(妙法蓮華経)という関係が考慮されていません。このように考えてしまうと、法のみとなってしまい仏が不要になります。これでは、仏法とは言えません。日蓮の教えは‘恩’、殊に仏恩を重視しますから、このような考えになっているとは思えません。

3005犀角独歩:2006/12/10(日) 07:54:14

―3004からつづく―

本日はまた、これから出かけなければならず、詳しく記せません。
観心本尊は本門本尊であるということは、その用語の使い方からして、成り立ちません。観心は本門ではないからです。観心とは「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」という点にあります。
本門と文底、その文底の一念三千について論じていくのが観心本尊でしょう。これは本門寿量仏より一重立ち入った段です。

また、補足で引用された『四信五品鈔』の「不知其義人唯唱南無妙法蓮華経具解義功徳不」には、明確に「不知其義」とあります。『本尊抄』には「不識」、両意とも、一念三千を理解できないという意味ではないでしょうか。
問答さんの論法では、仏と仏が授けたものが混同され、さらに本門と観心が混同されていませんか。

3006犀角独歩:2006/12/10(日) 07:57:17

あと、一点だけ。

理解できないことは、通常、実践できないこととなります。
しかし、それを埋めるために五字の授受、実践を考案した。
それが唱題であるという点は、そのとおりです。
けれど、その実践は理解できないうえで可能にしたことに意義があります。
つまり、観心本尊は凡慮が及ばないという前提ではないでしょうか。

3007問答迷人:2006/12/10(日) 08:23:27

犀角独歩さん

>本尊が観心できなくても、五字の受持によって「功徳」を譲られるという趣旨ですから、その意味がわかることとは別の話です。

色々と思うところが有りますが、この一点に絞ります。

「ー観心本尊抄は、蓮祖が題号に書かれている通り、末法に入って、観心本尊を始める事を述べられた書であると思います。そして、本尊抄の趣旨は、妙法蓮華経の五字の受持で一貫されています。末法に始められる観心が「妙法蓮華経の五字の受持」である事は明らかであると思います。もし、そうでなければ、一体、どのような観心が末法に始められるのでしょうか。不可解です。少なくとも、本尊抄を読む限りでは、そのようにしか読めませんが。

また、功徳を得られる、と言うのは、観心が成就した結果であり、観心が成就しないのに、功徳だけが得られると言うのは、不可解です。


>本尊が観心できなくても

「観心本尊」の読み方について、本尊を観心する、という趣旨で独歩さんは書かれていますが、観心の為の本尊では無いかと僕は思っています。寛師の「受持即観心」説が正しいのでは無いかと思います。「本尊を観心する」という意味で書かれている箇所が、本尊抄の中にあるのでしょうか、明鏡の喩えが本尊抄に書かれていますが、その趣旨はやはり、観心の為の本尊としか読めませんが。

3008天蓋真鏡:2006/12/10(日) 12:08:00
横レス失礼します。●問答迷人さんの言いたい事って、三つの法門[本尊・戒壇・題目]は、題目本尊(弘教は其処の所は其処に任す)漫荼羅顕事法華堂、 本門本尊(日蓮の慈悲広大ならば未来万年続く)一尊四士像密事戒壇堂等に関係ありますか?●犀角独歩さん、日興上人が石川一族を頼り建てた?天照太神宮って何なのでしょう。

3009問答迷人:2006/12/10(日) 15:57:40

天蓋真鏡さん

>漫荼羅顕事法華堂、 一尊四士像密事戒壇堂等に関係ありますか

それがどのようなことなのか存じ上げません。関係あるか、関係ないか、解からないので、お答えする事も出来ません。それは、どのような事柄なのでしょうか、よろしかったら教えてください。

3010天蓋真鏡:2006/12/10(日) 18:04:55
私の個人的纏め方見渡し方ですけど、三つの法門(本尊・戒壇・題目)が法華一乗・立正安国の起点で、【顕事】題目本尊(≒漫荼羅)は、鎌倉時代の僧・日蓮を仰ぐ一人ひとりのため漫荼羅を信用信頼できる信心学問修行の人物に下賜されたはずなのでしょう。そして、漫荼羅≒法華堂いわゆる成仏得道の道場である。【密事】本門本尊(≒一尊四士像)は、東大寺、延暦寺を継ぐ密教化してない皆成仏道を求める僧を育てる戒壇堂等の中心でもある。■過去・法華経+現在・漫荼羅+未来・戒壇堂■御義口伝では無い御書遺文等全文を確かめられない事は残念無念です。

3011犀角独歩:2006/12/10(日) 19:29:54

問答さん

> 観心本尊抄…観心本尊を始める事を述べられた書

そうですか。では、なぜ、本門本尊なのでしょうか。

> 妙法蓮華経の五字の受持で一貫されています

そんなことはありません。四菩薩の出現、本門本尊仏像立てること、四菩薩僧摂受正法弘持・四菩薩賢王折伏誡責という多岐に亘ります。

> 末法に始められる観心が「妙法蓮華経の五字の受持」である事は明らかであると思います

何によって明らかなのでしょうか。
『本尊抄』で十界に亘り論じられる日蓮の観心は反故だというわけですか。

> 一体、どのような観心が末法に始められるのでしょうか。不可解です。少なくとも、本尊抄を読む限りでは、そのようにしか読めませんが。

そうでしょうか。先にも述べましたが、『本尊抄』では「観心之心如何」と問いを立て、その観心の実際を十界に亘って論じています。この様はまさに観心そのものです。そもそも「始」を、問答さんは「はじめる」と断定されていますが、「はじめ」と読むこともできます。つまり、末法の始めにおける観心という意味です。題号について、その読みの解釈は蘭菊に賑わいで、断定はできません。ここには述べません。

> 功徳を得られる、と言うのは、観心が成就した結果であり、観心が成就しないのに、功徳だけが得られると言うのは、不可解です。

では、不可能を可能であるというのが『問答抄』ではないでしょうか。
仰るところは道理がありますが、しかし、日蓮は「釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」といい、「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」といいます。つまり、本来、仏因仏果を得ていないもの、さらに観心出来ないもの=不識が対象となっています。

問答さんの解釈は、先に挙げた「不識」、『四信五品鈔』の「不知其義」という一節を無視することでしか成り立っていません。この点は如何でしょうか。


> …観心の為の本尊では無いかと僕は思っています

これは先の問いと同じになります。ならば、なぜ本門本尊なのでしょうか。

> 寛師の「受持即観心」説

日寛の説は正しくは「凡そ当家の意は唯信心口唱を以て、即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心というなり」だと思いますが、いまは、日蓮の素意を論じているところなので、江戸時代の解釈はこれを議論の対象としないことにします。

> 「本尊を観心する」という意味で書かれている箇所が、本尊抄の中にあるのでしょうか

先にも挙げた「観心之心如何」という問いから「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也…本尊」至る一連の脈絡は、本尊を観心する以外にどのような意味と採れるのですか。

では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

問答さんは「受持即観心」に重きを置いていらっしゃいますが、この五字熟語は、純天台文献にはその例を見ず、また、このたび、独学徒さんがご紹介くださった伝教大師全集でもありません。さらに日蓮の真蹟遺文にもなく、写本にもありません。なおのこと、観心を受持、さらには信心に当てはめるような日寛の連想ゲームは日蓮の素意とは無関係でしょう。いまここでは、日蓮の真蹟に基づいて考証を試みているのですから、中世以降の教学解釈を採って、日蓮を捌くことは慎みたいと思います。

以上、いくつか問いを立てました。お応えいただき、次に進めたいと存じます。

3012犀角独歩:2006/12/10(日) 20:20:30

天蓋真鏡さん

> 犀角独歩さん、日興上人が石川一族を頼り建てた?天照太神宮

この辺りの正確な歴史は、わたしよりも、れんさんほか、諸賢方がお詳しいと思います。わたしは余り詳しく調べておりません。
ただ、社檀の建立は、いわば当たり前のことで、天照八幡を祀る堂宇を建立したということだと思います。どなたか補完願えれば有り難く存じます。

3013大縫 薫:2006/12/10(日) 20:35:31
今晩は
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
昔、貫名上人から教わり現地調査に行きました。この論文を読んだ正宗僧侶からは
内容に衝撃を受けたと!!

3014問答迷人:2006/12/10(日) 21:32:43

犀角独歩さん

>なぜ、本門本尊なのでしょうか。

観心本尊が本門で説かれた本尊だから、本門本尊とされているのだと思います。本尊抄には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず」とあり、「妙法蓮華経の五字」が本門の肝心であることが示されています。


>そんなことはありません。四菩薩の出現、本門本尊仏像立てること、四菩薩僧摂受正法弘持・四菩薩賢王折伏誡責という多岐に亘ります。

確かに内容的には多岐にわたりますが、本尊抄の最重要部分と思われる箇所において「問うて曰く、上(かみ)の大難未(いま)だ其の会通(えつう)を聞かず如何。答へて曰く、ー中略ー 私に会通(えつう)を加へば本文を黷(けが)すが如し、爾(しか)りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」として、妙法蓮華経の五字の受持を勧め、結文においても、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ。」として、重ねて妙法蓮華経の五字を受持事を勧められて本尊抄を締めくくられています。


> 『本尊抄』で十界に亘り論じられる日蓮の観心は反故だというわけですか。

反故ではなく、この「妙法蓮華経の五字の受持」を述べるための前提として、十界に亘り論じられていると思います。


>『本尊抄』では「観心之心如何」と問いを立て、その観心の実際を十界に亘って論じています。この様はまさに観心そのものです。

ここに示される観心には、前提があります。「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」と明鏡に依って観心を成就する事が示されています。この前提からすれば、観心の前提として明鏡が先ず示されなければなりません。この観心の前提としての明鏡として、観心本尊をとかれたのだと思います。


> 問答さんの解釈は、先に挙げた「不識」、『四信五品鈔』の「不知其義」という一節を無視することでしか成り立っていません。

そうでは有りません。鏡を見たことが無い人は、自分がどんな顔をしているのか知らないわけです。その知らない人に鏡を見せてあげれば、その人は、その鏡に依って今まで知らなかった自分の顔をはじめて知る事が出来るわけです。これが、蓮祖が明鏡の喩えとして述べられた内容であり、僕は、この蓮祖の説明に基づいて述べています。


> 江戸時代の解釈はこれを議論の対象としないことにします。

これは、了解です。寛師説を引き合いにすることは慎みます。


> では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

これは、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」を以って観心しておられたと思います。

3015再挑戦者:2006/12/10(日) 23:38:49
、、ゴメンします、、。  余りにもハイ・レベルのやりとりのようで、オチコボレのアホ小生にはチンプンカンプンでげぜーーまする、、。
  ただ、両者・諸賢かたの真摯な求道のお姿だけは何とかボンヤリと判明いたしました次第です、、。 心底、、敬意を感じます、!!!

3016問答迷人:2006/12/11(月) 06:17:04

補足です

> では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。

ここで、蓮祖は「我等」、つまり、「日蓮及びその門下」の観心をお示しであり、蓮祖は「妙法蓮華経の五字」をもって観心しておられると拝します。

3017犀角独歩:2006/12/11(月) 09:21:42

3014 問答名人さん

> >なぜ、本門本尊なのでしょうか。
> 観心本尊が本門で説かれた本尊だから、本門本尊とされているのだと思います。

これは違いますでしょう。何度も上げていますが、観心は法華経本門に説かれていません。故に「文の底」というのです。本門までは天台は証しましたが、観心は説いていない。故に『開目抄』に「龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」というのでしょう。
> 本尊抄には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず」とあり、「妙法蓮華経の五字」が本門の肝心であることが示されています。

そうですね、本門です。ですから、なぜ本門が、観心になってしまっているのでしょうか。これでは迹門は本門であるというようなものでしょう。説明になっていません。

> 確かに内容的には多岐にわたりますが…妙法蓮華経の五字を受持事を勧められて本尊抄を締めくくられています。

この答えで、よくわかることがあります。これは長らく問答さんの思惟傾向として、わたしが見てきた点です。何かといえば、この『問答抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。これはあたかも真言宗の法偏重のように映じます。妙法五字は「自然譲与」と言いながら、実際にその所持者である久遠釈尊、そして、使者として菩薩を明らかにしているのが『本尊抄』です。ところがこの仏菩薩が思惟からまったく欠落しています。故に妙法受持しか説かれていないように映じてしまうのではないでしょうか。しかし、これでは、仏法になりません。あるのは法だけです。
『本尊抄』で重要な点は妙法五字の受持であることは動きませんが、しかし、その受持の要法を所伝された菩薩と、久遠下種の本主が釈尊であることを明確に論じることです。ここに仏(久遠釈尊)法(妙法蓮華経)僧(四菩薩)の三宝は整って論じられています。しかし、問答さんの論調は、法のみに目が奪われ、仏菩薩を欠いています。ここから考えられる本尊は、やはり、法偏重となり、日蓮が本門の本尊は釈尊(脇士四菩薩)であるというも、妙法蓮華経五字のみとらわれて、仏菩薩を見落としているようにお見受けします。久種の覚知、その授受の道筋を忘却することは忘恩なのであって、これでは日蓮が言う仏法にはなりません。


> 「妙法蓮華経の五字の受持」を述べるための前提として、十界に亘り論じられていると思います。

ですから、それが観心です。

> …観心…前提…「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」と明鏡に依って観心を成就…観心の前提…明鏡として、観心本尊

これはまったく牽強付会です。なぜならば、お書きになった文章のなかに、日蓮が何を明鏡と読呼んだのかが明らかであるからです。すなわち「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡」という一文です。法華経と止観を明鏡といっています。ところが、それを観心本尊であるとすり替えてしまっています。

3018犀角独歩:2006/12/11(月) 09:22:11

―3017からつづく―

> …鏡

この点は上記に記したとおりです。問答さんは、日蓮が鏡というものを取り違えています。

>> 『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心している
> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」を以って観心しておられたと思います。
つまり、これは妙法蓮華経という本尊をもって観心したということでしょうか。

> 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
> …蓮祖は「我等」、つまり、「日蓮及びその門下」の観心をお示しであり、蓮祖は「妙法蓮華経の五字」をもって観心しておられると拝します

これもまた、上述と同じく日蓮が明鏡を法華経・止観といっているにもかかわらず、妙法五字本尊とすり替えたのと同じ論法です。論として成立しません。

『本尊抄』は、その冒頭に「摩訶止観第五云」と明確にその論拠を示し、十界観心の様を示しています。止観は法華経によっていますから、日蓮が、明鏡を法華経・止観というのは至当です。また、ここで観心されていくのは妙法蓮華経の五字ではなく、己心十界であり、一念三千です。これは妙法五字が此珠(一念三千)を裹むという前段の話です。

この一念三千を観心した末、日蓮は「私加会通如黷本文。雖爾文心者釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」といいます。つまり、問答さんは、まず、本尊ありきで観心であると論を構えておられますが、『本尊抄』の記述はまったく逆になっています。

日蓮は法華経を依経とした止観によって己心を観心し、その一念三千を観法したうえで、‘会通’を加えて五字に具足するとしていくわけです。この会通は観心かといえば、わたしは違うと思います。会通とは「多くの説を集めて説く」ことですから、むしろ、教相に属するでしょう。

故に妙法蓮華経を法華本門に立ち還して、今度は本門本尊を考え、寿量本仏を論じ、その仏像を四菩薩が出現させることを論じていくという側面を同抄は有しています。また、ここでいう本門は「五百塵点已前」というも、その初成道から今番法華会座に至る限って論じられるのが、本門であり、その本尊です。これは観心本尊とは、その意味を異にします。しかし、本門より観心に入り、そこで観る仏は五百塵点成道ではなく「無始古仏」であるという教相、ならぬ経相の紙背、つまり、文底に入っていくのが観心です。しかし、本門三秘正法とは、この観心に裏打ちされて成立していると言うことです。

いずれにしても『本尊抄』の段階で、日蓮は観心本尊を「三身所顕無始古仏…本尊」と言います。つまり、妙法蓮華経五字を本尊であると書いていません。

3019犀角独歩:2006/12/11(月) 11:00:02

【3017の訂正】

誤)この『問答抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。
正)この『本尊抄』において、まったく衆生を済度する仏格、その使者としての菩薩に対する信仰が考慮されていないことです。

3020問答迷人:2006/12/11(月) 12:17:16

犀角独歩さん

> なぜ本門が、観心になってしまっているのでしょうか

要は「上行所伝の妙法蓮華経の五字」が観心本尊であるかどうかです。この点に付いては、関係箇所と一緒にご説明します。


>『本尊抄』で重要な点は妙法五字の受持であることは動きません

この点は、認識が合致しているわけです。


>しかし、問答さんの論調は、法のみに目が奪われ、仏菩薩を欠いています。

先日来の議論で、僕は蓮祖の「上行所伝の妙法蓮華経の五字」と言う表現を用いてきました。今、本尊抄の文を引用した関係で「上行所伝」という言葉を省略しましたが、意味するところは「上行所伝の妙法蓮華経の五字」です。
この蓮祖の表現には、この五字を説いた釈尊、並びに四菩薩等の諸尊を前提とた表現であり、法のみでは有りません。仏菩薩を欠くというのは当たらないです。


>「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡」という一文です。法華経と止観を明鏡といっています。ところが、それを観心本尊であるとすり替えてしまっています。

この批判も当たらないと思います。蓮祖は「法華経と止観」は言っていません。「法華経と止観等」と言っています。この「等」が何を意味するのかが極めて重要であると思っています。これこそ、本尊抄で説かれた「観心本尊たる上行所伝の妙法蓮華経の五字」ではないでしょうか。これは、最初の御質問に対するお答えでもあります。なぜなら、何度も繰り返しますが、蓮師及びその門下は、妙法五字の受持することに依って観心を成就することが出来るからです。これが「観心本尊」という言葉の意味だと思います。


> つまり、これは妙法蓮華経という本尊をもって観心したということでしょうか。

少しニュアンスが違います。文字通り、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」という本尊に依って観心しておられたと思います。


>いずれにしても『本尊抄』の段階で、日蓮は観心本尊を「三身所顕無始古仏…本尊」と言います。つまり、妙法蓮華経五字を本尊であると書いていません。

本尊抄の段階で、という事は、蓮祖の説は、後の「本尊問答抄」の段階では「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明示されるわけです。

私見ですが、この「上行所伝の妙法蓮華経の五字」とは「法」ではなく、仏格としての「無始古仏」なのだと思っています。根拠は、「妙法蓮華経」という題号が指し示す実体は、単なる法ではなく、久遠仏であると読めるからです。

3021天蓋真鏡:2006/12/11(月) 12:49:17
犀角独歩さん、大縫薫さん、ありがとうございます。学問と見れば、分派も其れぞれの趣があり謎は尽きません。其れでも、私は鎌倉時代の僧・日蓮の出世の本懐は「一念三千因果倶時≒唱題」など思い考えます。21世紀には如来神通力を自然治癒力に端初を開き法華一乗と立正安国の理想を描く。喜怒哀楽に悩むヒトの人生に希望になるかは未知数な事で、先々長くなるかもしれませんが、過不足があれば注意を促してもらうと幸いです。

3022犀角独歩:2006/12/11(月) 13:27:04

問答さん

>…蓮祖の表現には、この五字を説いた釈尊、並びに四菩薩等の諸尊を前提とた表現であり、法のみでは有りません。仏菩薩を欠くというのは当たらないです。

この点はしかし、『本尊問答抄』をもってきてしまえば、瓦解しませんか。この点は、のちに記します。

>…「等」…「観心本尊たる上行所伝の妙法蓮華経の五字」ではないでしょうか。

違うと思います。この点は、先に記したとおりです。
また、‘等’とは止観のみならず、玄義・文句、さらに決・籤・記といった妙楽釈、また、その他釈と見るのが至当です。
なぜならば、『本尊抄』は冒頭に「摩訶止観第五」を挙げ、次いで「玄義」「文句」「妙楽釈」と挙げているからです。

そもそも‘等’が妙法蓮華経=本尊であるといい、『本尊問答抄』をもってもすれば「法華経並天台大師所述摩訶止観等明鏡」とは「法華経(=観心本尊)並天台大師所述摩訶止観観心本尊明鏡」ということになっていまいますが、如何でしょうか。証するもの(観心)と証拠(観心本尊)が同じになっています。こんな文章は成り立ちません。

それでももし、「等」が本尊であると仰るのであれば、この点を挙証する必要があります。

> 蓮師及びその門下は、妙法五字の受持することに依って観心を成就する
ことが出来る

これもまた、「受持即観心」という中世の解釈に依っています。
この点が違うことを「会通」という点を挙げて論じましたが、この点を省略して、過去の主張を繰り返しているに過ぎません。証なき反復です。

観心を成就出来るのではなく、観心はできない(不識)けれど、「自然譲与彼因果功徳」、仏因仏果の功徳を譲られることと、己心に十法界を観ることは意味が違います。

> …「観心本尊」という言葉の意味

では、本門本尊との異同は如何ですか。
本門・観心の捌きを、わたしは文底を挙げて論じましたが、この点は、証されていません。

> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」という本尊に依って観心しておられたと思います。

これも先に『本尊抄』の文の運びはそうはなっていないと記しました。この点を無視して、主張を繰り返しているのに過ぎません。これまた、証なき反復に当たります。

> 本尊抄の段階で、という事は、蓮祖の説は、後の「本尊問答抄」の段階では「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明示されるわけです。

いまは『本尊抄』について、記しているのではないでしょうか。また、『本尊問答抄』について、記すのであれば、題目は上行所伝どころか、仏が本尊とするところであるというのです。『本尊問答抄』では上行所伝はまったく論じられていません。また、諸仏の師・本仏である法華経が上行によって所伝されてしまえば、これは下克上です。つまり、上行所伝を言う『本尊抄』と『本尊問答抄』は、その整合性を見ません。よって、『本尊抄』との整合性を証せず、『本尊抄』を考える資とすることは問題があります。また、日蓮の論調は、経年によって変化しているわけですから、過去の文献を挙げて証するのであればいざ知らず、未来の文章を挙げて証することは論攷としては甚だ不可でしょう。

> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」とは「法」ではなく、仏格としての「無始古仏」なのだと思っています。根拠は、「妙法蓮華経」という題号が指し示す実体は、単なる法ではなく、久遠仏であると読めるからです。

各人で、どう読もうとそれは勝手ですが、ここでは議論ですから、何故、そう読めるか記さなければ、単なる信念の押し売りに過ぎません。
わたしは、この考えは教相と観心の混同に原因があると思います。
本門-文底-観心という脈絡について、何度か、わたしは述べていますが、この点に触れず、単に過去の主張を繰り返しているのに過ぎません。

ここのところ、問答さんのご投稿は、わたしの証についても無視するか、反詰するにも証も挙げず、単に「…と思う」と考えのみを挙げるばかりです。これでは議論とは言えません。問答さんらしからぬ、ところと思えます。

3023天蓋真鏡:2006/12/11(月) 16:41:02
横レス失礼します。 問答迷人さんは、妙法漫荼羅には様々な要素・見方が備わるので中心に置いても良いのでは無いかと漫荼羅正意を結論しているのでは無いかなと考えます。犀角独歩さんは、御書遺文の語句を中心に学問を組み立てられて幅の融通が変わるので私は一度御書遺文の法門を整理整頓して語句の羅列形式で纏めて対照表にして頂くと解り易いと思います。表と言っても此の富士門流掲示板の議論に照らし合わせて、尚且、式次第のように見易い語句の羅列で冊子を発刊(範囲は真蹟だけで)してもらうと助かるのですが如何でしょう。

3024再挑戦者:2006/12/11(月) 20:42:55
  、、、横からゴメンします、、。  済みません。
  高いレベルでのヤリトリなのは理解します、、。 ここで、御一服なされてくださいませ、、。
 独歩さまも言われたように700数十年も過ぎ去った、中、での、、疑義などが満載のようでしょうか、? 
  ここで提言です、「、日蓮没後七百数十年を経過しましての、種々の疑問点・肯定店などを改めて議論いたす為の出発点=スタート・ラインのご提示されました、、ようでしょうか、。
 今後、諸賢様が、、立場を定めないで(自由に)、日蓮に関する、さまざまなご賢察こそが、我ら読者の自身の頭で思考する支えになるような気が致します、、。

3025問答迷人:2006/12/11(月) 20:45:05

犀角独歩さん

>「等」が本尊であると仰るのであれば、この点を挙証する必要があります。
>観心を成就出来るのではなく、観心はできない(不識)けれど、「自然譲与彼因果功徳」、仏因仏果の功徳を譲られることと、己心に十法界を観ることは意味が違います。

観心とは自分の心を観察して、そこに地獄から仏までの十法界を見ること。特にこの中で困難とされるのが仏界を観ること。この点を、本尊抄では「教主釈尊ー中略ー 是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」との疑問を立て、無量義経、法華経、天台大師の釈を引きその解釈として「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」「妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや。」と述べられています。ここで「妙覚の釈尊は我等が血肉」とは「凡夫の己心に妙覚の釈尊が住し給う」。或いは「我が身が妙覚の釈尊になる」。こういった意味合いでしょうから、観心の最難事たる、己心に仏界を観ることが、妙法五字を受持ことに依って成就することを述べられていることになります。
 

> 本門本尊との異同は如何ですか。

これは、思案中です。よく考えてお答えしたいと思います。なお、『本尊問答抄』は、例示であり、論証しているわけではありません。参考程度です。


>ここのところ、問答さんのご投稿は、わたしの証についても無視するか、反詰するにも証も挙げず、単に「…と思う」と考えのみを挙げるばかりです。これでは議論とは言えません。問答さんらしからぬ、ところと思えます。

独歩さんご指摘の点、読み返して見ますと、確かにそのような部分があります。議論が成立するように留意してまいります。今後もお気づきの点がありましたら、ご面倒でしょうが、ご指摘戴ければ幸いです。

3026犀角独歩:2006/12/12(火) 08:30:51

問答さん

もはや、水掛け論のような体を為していますが、問答さんの論法は、功徳を具することと観心を混同することによって、その結論を敢えて枉げていると思います。

では、どのように枉げているのか。それはご自身の漫荼羅を本尊とする日蓮没後以降信仰から読むということに、その原因があるとお見受けします。つまり、固定観念から遺文を読むために、ご自身の望む形に遺文が見えてしまっているということです。

これは恰も、創価学会は「仏とは生命のこと」「仏教は生命を説いている」と教え込まれ、固定観念化した眼から見ると、仏典も、遺文も、生命を説いたものと読めてしまうことと同様のことと観察されます。

しかし、考証とは、確実な資料を素直に読むことによって、事実を見ていく作業ではないですか。

本尊によって観心をした。これは日蓮が漫荼羅を確立した以降のことであれば、その信徒ができることです。しかし、『本尊抄』が書かれたころの日蓮は、漫荼羅の試行錯誤を始めたばかりの時期に当たります。拝んでいたのは伊東流罪已来の持仏の釈迦一体像。心血を墨に替え書き込みをしていた注法華経は所持していたでしょうか。梵音声として、寓居に安置した仏像の前に置かれていたことでしょう。また、日蓮の門下との関わりは毎月の大師講を中心とし、さらにしばしば止観を読誦していたことが記されています。

これが『本尊抄』記述の、真蹟から窺える背景です。
この状況で、日蓮が本尊と呼ぶものがあったら、それはまさに生死を共にした釈迦一体像をおいては考えられません。この一体像に向かい唱題をされ、日々、所持された経釈に眼を晒されていた姿が彷彿とします。しかし、この結論は、漫荼羅正意という信念体系から受け容れがたいことでしょう。そのために、自分の欲する‘結論’から遺文を読んでしまうのが富士の所論でした。批判というわけではありませんが、問答さんの言説からも、そのような側面を、わたしは感じます。

止観は禅の指南書であり、その記述の従って行ずるところに一念三千の観法があります。ここで己心仏界を見ることは至難なことですが、この書を通じれば、そのことを確信できます。これは、わたしが、ということより、天台を師と仰ぐ人々であれば、誰しも感じることでしょう。このことは日蓮にしても同様でしょう。日蓮は天台沙門であったし、比叡山に法華六大部を学んだ学僧でもあったのでしょう。となれば、日蓮は、天台妙楽の釈を頼りに法華経に信行学を立てたのでしょう。

その天台宗と決別を意識され本朝沙門の自覚に至った日蓮はしかし、天台と決別したわけでもなく、止観と決別したわけでもありません。講ずるところは、終生、法華経であり、止観その他の天台妙楽の釈であったでしょう。

その日蓮が観心本尊というとき、本尊(妙法蓮華経)で観心したという論調は、事実に沿ったものとは思えません。それは、一念三千の観法を、止観をもって試みたことがある人であれば誰しもわかります。止観なくして、己心仏界など思いもよらないからです。妙法蓮華経の五字を眺めたところで、そんな結論は出ません。南無妙法蓮華経と口ずさみにしても同様です。

止観という明鏡があってはじめて可能なことです。この点は‘人間’日蓮も同様でしょう。先人と同じように己心仏界を止観という明鏡をもって知ったのです。日蓮は特別な人だから妙法蓮華経を本尊であるとわかり、己心仏界をわかることができるというのは、事実の前には、荒唐無稽の理想化された日蓮像ではないでしょうか。

では、天台が三千に思い至れたのは妙法蓮華経の五字かといえば、これも違います。方便品の諸法実相十如是によるでしょう。つまり、法華経典に依ります。

以上のような事実から考えて、『本尊抄』の段階で、日蓮が妙法蓮華経を本尊として、己心仏界に至ったなどということは時系列を反映しているとは思えません。止観の明鏡によって己心仏界を観じ、そこから末法当機の本尊を考えるに至ったという道筋であると考えます。

3027問答迷人:2006/12/12(火) 09:41:43

犀角独歩さん

>その日蓮が観心本尊というとき、本尊(妙法蓮華経)で観心したという論調は、事実に沿ったものとは思えません

本尊抄執筆は52歳、立宗は32歳。この段階で既に20年間、妙法五字を唱え続けておられるわけです。この事実は動きません。それでは一体、何の為に唱えておられたのでしょうか。単に化他の為だけで唱えられたのでしょうか。独歩さんのお考え通りとしたら、この20年間の蓮師の修行・言動は極めて不可解です。

>もはや、水掛け論のような体を為しています

そのようですね。とりあえず、このあたりで中断する事とします。

3028天蓋真鏡:2006/12/12(火) 11:15:40
漫荼羅の本意を考える時「法華経の題目を本尊として唱題する事は動かない」が「シャカを三徳を具備する(本)仏と見ると、観心(無始古仏)&題目 (注法華経)&本門(一尊四士)を志向せざるをえない」と言う事でしょうか。 シャカ本仏論≒漫荼羅本意論≒皆成仏道論は成り立ちますか。

3029犀角独歩:2006/12/12(火) 11:36:55

問答さん

唱える・唱えないの話ではないでしょう。
ここでもまた、日蓮を事績を唱題のみとして、他を差し置いていませんか。
『十章鈔』には以下のとおりあります。

「止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。前六重依修多羅と申て、大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり。今依妙解以立正行と申は第七の正観十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此よりはじまる。
一念三千と申事は迹門にすらなを許されず。何況爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限べし。
されば円の行まちまちなり。沙をかずえ、大海をみる、なを円の行なり。何況爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱をや。但これらは時々の行なるべし。
真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存べき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必体にいたる徳あり」
ここで一念三千は止観にあり、南無妙法蓮華経を唱えることによって体にいたる徳ありといいます。日蓮は、単に題目だけを唱え得ていたわけではありません。また、信者も本尊に向かって、観法していたわけではありません。この事情は、文永10年の段階でも、さして変わってはいないでしょう。

3030問答迷人:2006/12/12(火) 14:30:14

犀角独歩さん

>「心に存べき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。」

日蓮は自分で自分の事をはたして「智者」と言うのだろうか、と思いました。「名字凡夫僧」を標榜された蓮師と「智者」との自称とは馴染まない様に感じます。他の真蹟で類似表現をご存知でしたら、ご教授戴ければ幸いです。

3031犀角独歩:2006/12/13(水) 08:06:07

問答さん、おはようございます。
日蓮における智者の用法は、主に天台智邈を指すようですね。「一閻浮提第一の大智者たる舎利弗」とも言います。対語としては愚者、順位としては、聖人・賢人・福人・智者、さらに智人といったところでしょうか。

さて、自身を指していったかどうか『清澄寺大衆中』に若い頃を述懐されて「日本第一の智者となし給へと申せし事」といい、満願したわけですから智者の自覚ではあったと思います。晩年はさらに聖人の自覚に至ったわけですね。『十章鈔』の用法から見ると智者は在家を簡ぶようで、‘出家’というのが大前提のように思えます。

守護国家論「智者の由を称するは自身を重んじ悪法を扶けんが為なり」「天台智者大師」「権教には学者多く、実教には智者少なし」
顕謗法抄「天台智者大師」「一念三千の法門は天台智者の法門」
南条兵衛七郎殿御書「天台智者大師」
薬王品得意抄「天台智者大師の釈」
法華題目抄「「天台智者大師」「法華経を智者大師」
法門申さるべき様の事「仏天智者の御眼」
十章抄「「心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解」「当世に開会を心え(得)たる智者も少なくこそをはせすらめ」「愚者は智者の念仏を申し給ふをみ」
寺泊御書「天台智者大師」
善無畏抄「智者にて御坐せし」「智者大師」
八宗違目抄「「智者 天台なり」
開目抄上「我が天台智者」「陳隋の智者大師」「華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき、澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々」
開目抄下「華厳経乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子、皆一念三千なり。天台智者大師、一人此の法門を得給えり」「法然智者ならば」「智者に我が義やぶられずば用ひじとなり」「諸経は智者猶仏にならず。此の経は愚人も仏因を種ゆべし」
祈祷抄「智者は麟角よりも希ならん」
木絵二像開眼の事「智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身」「華厳・方等・般若の円をさとれる智者は、死人の骨を生身得忍と成す」「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ」
如来滅後五五百歳始観心本尊抄「智者の弘法三十年」「真旦の智者大師」「天台智者大師」「比叡山竜象の如くなる智者ども」
法華行者値難事「天台智者大師」
聖密房御書「天台智者大師」
可延定業御書「日輪のごとくなる智者」
曽谷入道殿許御書「法蔵・澄観は華厳宗を置いて智者に帰す」「陳・隋の比、智者大師」
依法不依人御書「天台智者大師」
不如治大悪御書「今の智者万善を勧めしむるよりは一大悪を治するには如かず」
法蓮抄「「智者」
一谷入道女房御書「師のごとくひろ(弘)めなら(習)う人々を智者とはをも(思)へり」
撰時抄「天台智者大師」「智者大師」「天台を讃して云はく『思禅師・智者等の如き』」「天台真言の智者」「日本国のそこばくの智者ども」「智者」
三三蔵祈雨事「日本国の智者」「漢土・日本の智者」
大学三郎殿御書「智者大師」「智者と尊む」
高橋入道殿御返事「国中の智者げなる持戒げなる僧尼」
太田入道殿御返事「智者大師」
減劫御書「智者」
清澄寺大衆中「日本第一の智者となし給へと申せし事」
王舎城事「聖人・賢人・福人・智者」
兄弟抄「第六天の魔王が智者の身に入って善人をたぼらかす」「智者大師」
報恩抄「大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」「漢土に一人の智人あり。始は智邈、後には智者大師とがう(号)す」「天台已前の百千万の智者」「慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者」「智者大師」「智者なんども常の智人はしりがたし」「百余人の智者」「阿弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者」「持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も」「愚者と智者」
種々御振舞御書「天台智者大師」
一代五時鷄図「伝教大師…智者」「智者」
上野殿御返事「智者」
下山御消息「世間に智者」「智者賢王」「一閻浮提第一の大智者たる舎利弗」
富木殿御書「智者」
衆生身心御書「智者」「像法の中の陳・隋の代に智邈と申す小僧あり。後には智者大師とがう(号)す」「漢土日本に智者多しというとも」
千日尼御前御返事「天台智者大師」
大学殿事「智者疾を現じ」「智者」
日眼女釈迦仏供養事「天台智者大師」
滝泉寺申状「一閻浮提第一の智者」
諸経と法華経と難易事「天台智者大師」
大田殿女房御返事「天台智者大師」
上野殿御返事「智者も愚者も」
智妙房御返事「わわく(誑惑)のやつばらの智者げ」
越州嫡男並妻尼事「智者」

3032犀角独歩:2006/12/13(水) 09:13:16

> 「名字凡夫僧」を標榜された蓮師と「智者」との自称とは馴染まない

とのことですが、わたしは名字凡夫が智者ではないという論法は、よくわかりません。先に挙げましたが『報恩抄』に「大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」とあります。智者でないと報恩は叶わないというわけで、自ら報恩を勧める日蓮が智者でなければ空文となります。日本第一の智者としての自覚が唱題の勧めとなった考えたほうが自然ではないでしょうか。

ついでにもう一点。富士門下において、止観がなぜ軽視されるのか、それは、日蓮没後に捏造されていった相伝文などに原因があると思います。

「天台の漢字の止観を見て、眼目を迷はし心意を驚動し、或は仮字を漢字と成し、或は「止観明静・前代未聞」の見に耽(ふけ)りて本迹一致の思ひを成し、我が内証の寿量品を知らずして止観に同じ、但自見の僻目を本として予が立義を破失し三悪道に堕つべし」

けれど、日興作である証拠のない『遺誡置文』の

「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」

という如く、当初はもっと緩やかであったと想像されます。
遺文の重視は、日興に見られるところでしょうが、やがて、遺文は止観を凌駕していった爪痕が、上に引用した『本因妙抄』等に散見されます。
しかしながら、止観の重視は、むしろ、日蓮の特徴なのであって、真蹟遺文でざっと数えただけでも100近い使用が見られます。

また日寛の但行唱題といった解釈を日蓮の教えだと思うと、日蓮が止観などの学問を自らもしたにも進めていた実像がかき消されます。しかし、「止観云」とたびたび引用する日蓮が止観を廃していたなどとはとうてい思えません。むしろ事態は逆です。廃されていたものがあるとすれば、それは参禅ではなかったでしょうか。資料名を失念しましたが、日蓮出現前夜の比叡山では、参禅は廃れていたといいます。このような背景は、むしろ、称名念仏が流行る素地となったのかもしれません。次いで称名流行という背景は、唱題を受容する役割となったとも云えるかもしれません。

いずれにしても日蓮遺文は、弟子僧と入道といった学識のある‘智者’との熱心な経釈学習という日常の所作があり、そこから手紙の遣り取りであると見ないと、「日蓮の風景」は見えてきません。

3033問答迷人:2006/12/13(水) 10:22:52

犀角独歩さん

お手数お掛けしました。ありがとうございます。

>いずれにしても日蓮遺文は、弟子僧と入道といった学識のある‘智者’との熱心な経釈学習という日常の所作があり、そこから手紙の遣り取りであると見ないと、「日蓮の風景」は見えてきません。

この点は、全く賛同します。何ら異存ありません。

>止観がなぜ軽視されるのか、

この点に付いては、治病大小権実違目に蓮祖が次の様に述べられている教義に起因すると思います。「一念三千の観法に二あり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。天地はるかに殊なり」

3034犀角独歩:2006/12/13(水) 20:15:44

問答さん

この一念三千の理事と止観をどのような関係でお考えになっていらっしゃいますか。

3035問答迷人:2006/12/13(水) 21:46:30

本尊抄に「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して、百界千如、一念三千其の義を尽くせり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず。」とあります。この文に依って

止観→理の一念三千

南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊→事の一念三千

という関係であると拝しています。

3036犀角独歩:2006/12/13(水) 23:18:36

問答さん

やはり。富士方で教学をすると、そのように考えることになりますね。
本迹は止観ではなく、法華文句に載るところです。
また、引用された『治病大小権実違目』の論理構造は以下のようではないでしょうか。

迹門:理:(方便)百界千如、一念三千其の義を尽くせり
本門:事:南無妙法蓮華経の五字並びに(寿量)本門の本尊

ここで、特に止観を簡ぶ理由は見当たらないと思いますが、如何でしょうか。

3037犀角独歩:2006/12/14(木) 08:46:55

【3036の訂正】

誤)富士方で教学をすると
正)富士方の教学ですると


『四信五品鈔』に「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳。初心行者不知其心 而行之自然当意也」とあります。『治病大小権実違目』とあわせて考えると以下の関係になると思います。


┌──┬──┬──┬─┬─┬──────────┬──┬────┬───┐
│像法│天台│迹門│理│義│百界千如、一念三千 │禅 │    │方便品│
├──┼──┼──┼─┼─┼──────────┼──┼────┼───┤
│末法│日蓮│本門│事│意│南無妙法蓮華経の五字│唱題│本門本尊│寿量品│
└──┴──┴──┴─┴─┴──────────┴──┴────┴───┘
(図が乱れるときはhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

3038問答迷人:2006/12/14(木) 10:13:01

「百界千如、一念三千・禅」これは天台によつて「止観」に説かれます。
「南無妙法蓮華経の五字・唱題」これは日蓮によつて「観心本尊抄」に説かれます。

やはり、僕の頭では、どう読んでも、「止観」を簡んでいるとしか思えませんが・・・

3039犀角独歩:2006/12/14(木) 10:27:18

問答さん

『本尊抄』は『摩訶止観』によって書かれています。
その結果、日蓮は唱題行を採りました。けれど、天台は禅でした。
問答さんが仰っているのは、行の部分でしょう。

また、止観と本尊抄を比較することはできないでしょう。
最高位は法華経、ついで止観、そして、日蓮の著述。この順位は崩せません。
ただし、末法適時の行としては、禅ではなく、唱題であるということではないですか。

学として考えたとき、天台当時も、日蓮当時も、出家は止観を学んでいます。
そのことはいまもって、同様でしょう。学ばない僧侶がいれば、それは怠慢なだけでしょう。

こんな基本のことで、同意が得られないことを実に不思議に思います。
行と学、出家と在家、それらがごちゃ混ぜになっていませんか。

3040問答迷人:2006/12/14(木) 11:03:49

犀角独歩さん

>問答さんが仰っているのは、行の部分でしょう。

そうです。「摩訶止観」は「禅」の指南書だと認識しています。この認識が正しければ「行」についての指南書という認識で良いと思いますが・・・。

本尊抄は、「唱題」という「行」についての指南書であると認識していますから、止観と本尊抄を比較することは可能だと考えています。

3041犀角独歩:2006/12/14(木) 17:54:16

問答さん

では、『本尊抄』において、なぜ、『摩訶止観』が引用されているのでしょうか。

3042問答迷人:2006/12/14(木) 18:22:13

犀角独歩さん

>『本尊抄』において、なぜ、『摩訶止観』が引用されているのでしょうか。

本門の事の一念三千を説くために、先ず、迹門の理の一念三千を示されたのだと思います。

3043再挑戦者:2006/12/14(木) 20:52:06
 済みません、、。 何ゆえに「マカシカン」が重要視されるのでしょか、?
 やはり、、流れを無視・不可でしたでしょうか、、? 本佛さまならば「、、ショウムナイことはお見通しでしたでしょう、、」??
 しかるに「日蓮」、、といえど、「、、凡人、、??」、、かも知れません、???、、!!!

3044犀角独歩:2006/12/15(金) 00:10:25

問答さん

何度か申し上げたところと思いますが、最近の問答さんの論調は、挙証が曖昧です。引用されるところも、ご自身の考え … というより、富士方の学び … 文を取り違えていると、わたしには思えます。

話が、横に滑ってきていますが、ともかく、いまの議論は、日蓮は止観を軽視したということになってきています。この点はしかし、事実と違うとわたしは申し上げました。一つ、端的な証拠を挙げます。日蓮の晩年、弘安2年卯月、身延の山中での書です。

「我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず」(松野殿女房御返事)

以上のように記されています。これでも、日蓮は止観を軽視していたことになりますか。止観を簡んでいますか。

> 「摩訶止観」は「禅」の指南書だと認識しています。この認識が正しければ「行」についての指南書という認識

章安は当然、そのつもりでまとめたのでしょう。しかし、この行の部分を日蓮は唱題と改案したということでしょう。天台法華宗の人々は止観を学んで禅を行じ、日蓮法華宗は止観を学んで唱題を行じた差です。

> 止観と本尊抄を比較できる

この点の根拠は、たぶん引用された『富木入道殿御返事』(治病大小権実違目)の「一念三千観法に二あり。一理、二事なり。天台・伝教等の御時には理也。今は事也。観念すでに勝る故、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門一念三千也。天地はるかに殊也こと也」に根拠を求めているのではないかと、想像します。

ここで、問答さんは理・一念三千は天台・止観、事一念三千は日蓮・本尊抄だというわけです。しかし、一念三千観法とはまさに止観なのであって、その相違は、前項に述べたとおり、行法にあります。止観は簡ばれるのではなく、唱題のための釈証となっているのでしょう。日蓮が終生、止観を講じ続けたことは、先に挙げた『松野殿女房御返事』からわかることです。また、先に問答さんが引用された「不見法華経並天台大師所述摩訶止観等明鏡 不知自具十界百界千如一念三千也」の一節からわかるとおり、日蓮は止観を明鏡として重視しています。(‘等’が本尊であるという挙証は畢えておられませんね)

問答さんは、止観か・本尊抄かという二者択一を考えているようですが、これは択一するものではなく止観によって本尊抄があるという関係です。まったく止観は簡ばれていません。

> 本尊抄は、「唱題」という「行」についての指南書

これも事実と相違していませんか。
本尊抄とは、観心本尊と本門本尊を勘えた書であって、唱題の指南書ではありません。その証拠に、この書の中に「唱」「唱題」に類する説明はただの一カ所も出ていません。それとも、これまた、証なきところを言わざるを得ません。

3046問答迷人:2006/12/15(金) 07:07:05

犀角独歩さん

>止観を学んで禅を行じ、日蓮法華宗は止観を学んで唱題

止観には座禅の作法が事細かく述べられていると理解していますが、唱題の作法についても述べられているのでしょうか。そうでなければ、「日蓮法華宗は止観を学んで唱題」というのは、無理が有りませんか。唱題はあくまでも、蓮祖の教えによると思いますが。


>観心本尊と本門本尊を勘えた書であって、唱題の指南書ではありません。

それではお聞きいたします。蓮祖は観心本尊をなんの為に勘えたのでしょうか。また、「妙法五字の受持」「事行の南無妙法蓮華経」とはどのような内容であるとお考えでしょうか。これらはいずれも唱題の為か、或いは唱題を意味していませんか。

3047犀角独歩:2006/12/15(金) 07:39:40

問答さん

> 「日蓮法華宗は止観を学んで唱題」というのは、無理が有りませんか

これは、意味とを取り違えていらっしゃるのでしょう。
日蓮が朝暮に講義する止観等の天台学を学びながら、行としては、唱題にいそしんだと言うことです。

日蓮が「止観を簡んだ」証拠を挙げてください。

> 唱題の為か、或いは唱題を意味していませんか。

では、反対にお聞きしますが、本尊抄のどの文が、唱題を意味しているのでしょうか。拡大解釈、類推的決めつけではなく、明確に該当する文を挙げてください。

むしろ、経・釈・書を挙げて、挙証をすべきは、問答さんのほうではないでしょうか。

3048問答迷人:2006/12/15(金) 08:37:15

犀角独歩さん

>挙証をすべき

平行線だと思いました。もう、何も申し上げる事はありません。

3049犀角独歩:2006/12/16(土) 08:13:56

問答さん

平行線というより、御説に関して、挙証未説と承っておきます。

わたしはいくつか図形化を試みましたが、このような整理をしていて気づくことは、日蓮の教説は実に簡潔で整合性が採れていることです。論理的も美を尽くしています。だからこそ、図形化が容易だという側面があります。

その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、挙として挙げざるはなしという実感を懐いています。

3050犀角独歩:2006/12/16(土) 08:48:10

【3049の訂正】

誤)その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、挙として挙げざるはなしという実感を懐いています。

正)その日蓮の論理的整理を掴んでかかれば、理として詰まらず、証として挙げざるはなしという実感を懐いています。(もちろん、日蓮の論法という範疇での話ですが)

3051しゅんかん:2006/12/18(月) 21:01:27
問答迷人さんお久しぶりです。
独歩さんとの論議に一段落着かれた様なので書き込ませて頂きます。
2920にて誠にご丁寧なおことば有難うございました。
大変な時間等を費やし折伏と言うものを行っておいて、自分は考えが
変わったから知りませんなんて事は無いだろうなあと、
その様な行為は何か無責任な感じを抱いてしまいますのでお聞きさせて
頂きました。
私は、人間と言うものは何らかの意味付けをしなければ何も出来ない動物
だと考えています。
例えば、店に行って商品を買う時(選択する)何がしかの意味付けをします。
歯を磨くのも、デートをするのも、仏壇の前に座るのも、ダイエットをするのも、
正月を迎えるのも、この様に板に書き込んでいるのもです。
意味付けをしなければ人は動きが取れなくなります。
でなければ自動販売機の前で固まってしまいます(早よ買えっちゅうねん、と
喧嘩になります)これはいけません。
折伏の対象者は事物の判断の出来る人だと思います。
つまり大人ですね。大人(二十歳以上を指していません)とも成りますと
そこそこ人生を経験しておられます。
自分はかくかくしかじかの物だとか、このような時はこうする
ものだとか、私は男だから(女だから)等です(しかしこれらは非常に不安定な
ものです、なぜなら人間は現実を直視出来ない生き物だと考えているからです)
折伏=今までの貴方の考え方(生きて行く術)を変えなさい。
といった所が内在されていると思われます。
先にも少し触れましたが、人間は生きて行くのが非常に不安定です
(これでいいのか?嫌われないないだろうか?躓かないだろうか等々)
不安定なところに新たに折伏されると言う未知の不安定要素が入り込んで
来て七転八倒の末受け入れたら自分に勧めた相手は何の報告も無く、
そそくさと居なくなってしまうのはあんまりだなあと思ってお聞き
したしだいであります。



(ちょっと大きく出ましたねヘヘヘ)

3052天蓋真鏡:2006/12/22(金) 22:45:52
日蓮の弟子の一人・日興は身延の貫首で導師を仰せつかったのでしょうか?漫荼羅の事、堂宇建立の事、ブレが多いのでは無いかと感じます。 《日蓮聖人の花押は前半不動、後半法華(ポロン)だそうです。》  教学大系に纏められていなかった事が、墓輪番制等を崩壊させた一因でしょうか。結果論で見れば「信じさせ給え」の漫荼羅が、成仏得道の基軸であっても可笑しく無いと想います。本尊(仏像)+戒壇(漫荼羅)+題目(法華経典)の三位一体で法華一乗に臨む。

3053犀角独歩:2006/12/23(土) 08:04:09

> 花押は前半不動、後半法華(ポロン)

違うと思います。

3054パンナコッタ:2006/12/23(土) 18:48:16
梵字に関しては、こちらのサイトがたぶん一番とっつきやすいと思います。
 http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/bonzisyo/bindex.html

3055犀角独歩:2006/12/23(土) 23:38:08

パンナコッタさん、このサイト、わたしも愛読しています。

3056パンナコッタ:2006/12/24(日) 12:25:23
通常、蓮祖漫茶羅の向かって右が不動・右が愛染(例外もあり)、花押初期がバン
後期がボロン。 天蓋真鏡さん、ぜひ引用したサイトで形状を確認してください。


独歩さん、
梵字・花押に関してブログとの兼ね合いのところもありますが、元亀三年の妙本寺文書
日我授御判之筆法にでてくる「或時ニハキリク阿ミ陀字ヲ為 正ト」あたりをみると、
この時点で蓮祖から伝えられた直の相伝(この手の意味合いについて)は、ほとんど
無くなっているように思えますね。 御義の成立時期にも当たりますし、
むしろ直の相伝など日興のヘナヘナ不動の形状や、独歩さんが今試みられている
空間的な捉え方が弟子達には理解されていないような感じですね。
後代に無理矢理、陰陽道を当てはめるような事をしていますし、
極論ですが、初めから蓮祖の相伝など無かったんじゃないかと思えますね。

3057パンナコッタ:2006/12/24(日) 12:28:26
失礼、
 右が不動、左が愛染 です。(両愛染もあるけど)

3058天蓋真鏡:2006/12/24(日) 18:19:05
①書き出し母字バン字 ②終筆鍵手 ③バン字からポロン字 ④終筆蕨の穂先のような渦巻 ⑤一気筆運び蕨手 【シャクソンから法華経を本尊とする】

3059天蓋真鏡:2006/12/24(日) 19:07:58
パンナコッタさん、梵字サイトのバンとボロンに相当するかと見えます。

3060犀角独歩:2006/12/24(日) 20:50:39

パンナコッタさん、有り難うございます。
日我の相伝文は考慮していませんでした。
キリークですか、なるほど。これは面白い。

ただ、パンナコッタさんがご紹介くださったサイトの用語を使えばキリーク「右横に点々」が、では、花押のどの部分に当たることになるのかという点が読めないのです。
この点はボロンでも同様で一番右の「<」型の点が、では、花押のどこに当たるのだろうかで、頷けないわけです。

弘安元年から変わる花押のデザインは、しかし、その後、5年間、一定であるというより、前期はア字の如く、中期はボロンの如く、晩期には闊達になりすぎて原形を読み取るのが困難という変遷があります。ロールシャッハ・テストではありませんが、いったん、見えてしまった形が、頭にインプットして見ると、どうしても、そのように見えてしまうという視覚錯覚の側面も考慮しなければならなりませんよね。

わたしは当初、タラーク(虚空蔵菩薩)だと思ったのですが、すると、キリークと同様「右横に点々」の説明が付かないので躊躇いが出ました。

一往、ア(不軽菩薩)ではないかと‘仮設’したわけですが、もちろん、断定ではありません。山川師の‘ロールシャッハー’をいったん離れ、自由に、考えてみるという試みです。

山川、田中の亡霊に、21世紀になってまで、振り回されるのはゴメンという気持ちと、興風などというのは、「本弟子六人」と、当の日興が筆記した日蓮の意に反するという思いもあります。これらの権威を、ちょっと、いったん、横に置いて、自由に考えたいという気分があります。

殊に、談所への敬意は、はっきりと彫刻本尊の偽造を論証し、日興正嫡という偏向を停め、日蓮本仏も否定したあとでの話です。あと、坊さんでないのであれば、坊主頭と法号もやめたほうがいいですよね。坊さんならば、四弘誓願をしっかりと唱え、「愚痴の在家にお導きを」と申し上げたい。

まあ、こんなことを記すので、「坊さん」から憎しみを買うわけですが、折伏批判、田中智学批判をやると、途端に目の色が変わる人というのは、富士門下のみならず、田中の信念体系下でも同様で、大同小異、まるで変わらないという印象を懐いたここ半年でした。

もちろん、これはパンナコッタさんに申し上げているわけではありません。失礼しました。
ご教示につき、御礼申し上げます。

3061犀角独歩:2006/12/24(日) 21:26:05

大事な点を書き落としました。

> 初めから蓮祖の相伝など無かったんじゃないか

このご意見、大いに賛同します。
特に石山が歴代と呼んでいる蓮・興目道行時(阿が抜け)影有の本尊を、一つ不動梵字だけ取ってみても、まるで一貫性がありません。
この点は『日蓮と梵字』(6)で書きました。

それにしても、富要に堂々と本尊相伝を載せながら、頒布する印刷本尊は、その相伝と不一致、また、彫刻本尊とも違うわけです。本尊頒布につき、石山も、学会も、顕正会も、正信会も、もっと真面目に考え、責任を取らなければいけませんよね。

3062しゅんかん:2006/12/26(火) 20:01:53
独歩さん叉、お願いできますか。
① 数珠の持ち方ですが、多くの情報物を見てみましたが。
 梵天三つ(左)二つ(右)となっております。
 正宗系に於いては、逆ですね。
 私の記憶が正しければ、約35年以前では正宗系も梵天三つが(左)
 だったと思います。ある日、母から(今日から今までと反対の持ち方に
 しなさい)と言われた記憶があります。
 私の記憶が正しとすれば、この経緯をご存知ですか。
 先月、要山系のお寺へお会式に参加いたしましたが(左)三つと
 見受けられました。
② 独歩さんは本尊の奉安様式において一尊四士(二尊四士)とおっしゃっ
 ておられますよね(曼荼羅のみは良しとしないと)
 私が幾つか足を運んだ仏具店では(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神と
 大黒天)と言います。四士像は無いですと言う答えが返ってきます。
 どの仏具店でも(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)で祀るのです
 と言われます。(口調としてはこうするものです言った感じです)
 ネット上で真門流のお檀家の仏壇が載っていましたが、四士像を奉安
 していました。独歩さんも四士像を奉安されているのですか?
 叉、(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)は関西圏に多く見られる
 物でしょうか?宜しくお願い致します。

3063犀角独歩:2006/12/27(水) 09:39:29

しゅんかんさん

> ① 数珠の持ち方… 梵天三つ(左)二つ(右)

そうですね。ただ、日蓮宗では、読経などでは二つ輪にして左親指にかけます。

> 正宗系に於いては、逆ですね。

これは「学会が」ということでしょうね。

> 約35年以前…ある日、母から(今日から今までと反対の持ち方に
 しなさい)と言われた記憶

この点は、わたしも共有しています。
第一次紛争(所謂・52年度路線)で、学会が宗門から修正を求められた点の一つです。当時、わたしの地域では、それまで学会が逆にかけていた理由を「牧口先生が、御授戒の際に、日亨上人がかけていた数珠を、両手を差し出されてかけてもらった。向かい合っていたので、左右が逆になった…」などと言っていました。公式見解ではなく、口コミでした。

なお、石山系では、左右の大きな珠を親珠(父珠・母珠)といい、四つの小さな珠を四菩薩といいます。また、母珠に付される小さな珠を「心一境法性珠」といい、これは二房側に付いています。

ただし、数珠の形が左右、二房・三房になったのは、近代のことです。
以下、富要に載る図です。(ジャンプしないときは、アドレスバーにコピペしてください。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/_geo_contents_/juzu.gif

> ② 独歩…本尊の奉安様式において一尊四士(二尊四士)

この点は、一般の家庭での話ではなく、四菩薩が出現して立てる仏像奉安のことです。

> (曼荼羅のみは良しとしないと)

是としないというか、日蓮が漫荼羅を拝んでいた形跡がないということです。
真蹟遺文から見る限り、授与した漫荼羅を奉安し、仏像を拝むようなことはさせていた形跡も感じられないということです。
パンナコッタさんもご指摘なさっていましたが、日蓮は一体像を拝んでいたことは明白です。

> 仏具店でも(一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)で祀る

地域差があることだと思います。関東では、むしろ、漫荼羅で、プラス祖師像というのが一般的だと思います。

> 独歩…四士像を奉安

わたしは楠山泰道師がお手書きなさった曼荼羅二幅を頂戴し、かつ、中村行明師がインドから招来された仏像も頂戴しています。ですから、一方は曼荼羅の前に釈迦座像、もう一方は曼荼羅の前に二体の仏像といった形です。
ただし、これは信仰上の信念に基づいて、ということではなく、頂戴した以上、不敬に扱うことはできず、そのようにお飾りしているということです。

> (一塔両尊)や(曼荼羅に鬼子母神・・)は関西圏

このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
わたしの交友では、自宅に一塔両尊四士を奉安されているのは、中村行明師お一人です。

3064犀角独歩:2006/12/27(水) 10:23:18

三学無縁さん
モーニングさん
藤川一郎さん

昨日は、どうも。
「櫻井よしこを読まずに批判している」という決めつけには驚きました(大笑)

わたしが櫻井氏の感覚を問題にするのは、防衛大学校教授の村井友秀氏を肯定的に捉えた軸から中国問題を論じているからです。
何故か、この教授をもって他国侵逼難をプロパガンダしているもう一人いるからです。言わずとしれた顕正会の浅井さんですよ。
同じ石山系で社会的影響力がある人物が村井氏を軸にして中国を語り、日本の軍備増強を語ることに問題を感じるということですよ。

http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2006/05/post_437.html

かつてオウムは中沢氏の論調を大いに利用した。統一協会は島薗氏でした。
今回は村井氏から櫻井氏、それが一方で布教に悪用され、一方では軍需利権に塩を送る形になっています。

愛国心から自国防衛を考えるのは、結構なことですが、政治家連中のいう軍備増強は、結局のところ、軍需産業にまつわる利権が本音にあるのであって、その利得を肯定するために愛国家ぶっている構造がそこにあるわけでしょう。自ら武器を手にとって国を守る話ではなく、武器を持たせて自分を守らせる論法を、わたしは虚しいと言っているのですよ。

それが法華講であれば、では、石山信徒は国を守るために兵士になるのか、自衛省を奨励する公明党を支持する創価学会は、会を挙げて、会員が兵士になることを奨励するのか、それはしないが軍備増強賛成。では、誰に守らせるというわけなのかという疑問が残ります。

軍事増強を煽る論調は、結局のところ、軍需利権者の蜜を吸わせる方便になっている構造がある以上、櫻井氏の論を、わたしは手放しで賞賛するわけにはいかないということです。

3065天蓋真鏡:2006/12/27(水) 13:43:30
横レス失礼します。小学生の昔ですが●胸に合掌し「法」の字を唱える●廻向の題目、ぐらいでしょうか。愚痴に染まれば呪術になりかねないような気がする昨今。創価学会のみならず、鎌倉時代の僧・日蓮を信奉する人々は[信心、学問、修行]を重んじ『一念三千因果倶時唱題』を祈る事を思い考えて人生を歩まなければならないと想起します。其れから、仏像ではビジュアル的に『正念場』が統一出来辛いので漫荼羅正意なのですが【仏像・漫荼羅・経】が「本門」形成に不可欠なら揃えなければと感じます。

3066天蓋真鏡:2006/12/27(水) 14:00:27
連続?書き込み失礼します。軍国主義的システムに日本が成っても、アメリカと(専守)ミサイル防衛構想が実現するかしないかの話で、ロシアの原潜解体や中国等大気汚染をどう解決するか先決な案件が深刻な事態を突きつける現在、看板を「省」にするかしないかはどっちでも良い話。自衛隊の海外派遣が増えるか増えない話でしょう。自分が北朝鮮指導者なら日本の原子力発電所に(核)ミサイルで潰すだけで日本に兵を送るなんて遣りません。

3067しゅんかん:2006/12/27(水) 14:54:42
独歩さん、早速のお返事ありがとうございます。

>これは「学会が」ということでしょうね。

数日前ですが、正宗の僧侶も左二つだったと拝見したように記憶しているのですが。

>このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
 
(一塔両尊)のことですかそれとも(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)のことでしょうか、それとも両方でしょうか。
(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことです。塔中に首題(南無妙法蓮華経)一段下に釈迦、多宝が並座しています
雛壇のような型をしており私が幾つか見かけたものは一体物ですが、ご存知ではありませんでしょうか。
抜け落ちていましたが、奉安様式は(一塔両尊「三宝尊」)にも曼荼羅を掛けるようにも勧められます。
(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)様式には(鬼子母神、大黒天)が掛け軸物か像物かを選択するようです。
(曼荼羅、一塔両尊「三宝尊」)も(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)にも共通して最前列(下段)祖師像を奉安します。
数店におきましては祖師像のさらに前に八の巻(法華経の事のようです)を置きます。
(正確に八つ有ったかは判りません)私が八の巻の事を驚きますと、お寺などでは置いているでしょと言われました。
確かに身延系で見かけますよね。店員は八品派の檀家を捉えて言っているのでは無いようです。
沢山の選択様式があるようです、一塔両尊には曼荼羅の有無。祖師像の有無。八の巻の有無などです。
独歩さんのお住まいの関東方面では少し違いますでしょうか。

3068しゅんかん:2006/12/27(水) 15:01:15
3067の訂正
誤(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことです。
正、私が言う(一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊のことを指されている様です。

3070犀角独歩:2006/12/27(水) 20:22:10

しゅんかんさん

わたしは学会を去ること16年、石山を去ること11年で、昔の記憶が曖昧になっていました。
しゅんかんさんが仰るところが合っていました。石山は、日蓮宗とは逆だったんですね。
写真は、聖教新聞社発行『日蓮正宗』の丑虎勤行のショット。日達氏です。わかりづらいかもしれませんが、二房が左になっています。
手前の鶴丸バッジ(創価学会・財務部員の証)を付けた青年は左が三房ですね。
話題からは逸れますが、この写真、大客殿なのでしょうが、導師の前まで在権信者が入り、小僧さんも後ろになっています。学会登山の盛況ぶりが窺えます。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/juzugyaku.html

いま藤川さんに尋ねたら、この件では顕正会も学会と同様で、批判されていたということでした。わたしはほとんど見ることがないサイトですが、以下を紹介されました。

珠と母珠を逆に指導
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/1558/page019.html#gyaku

日蓮宗一般では以下のとおりです。

お数珠の持ち方と基礎知識
http://www2.117.ne.jp/~daishoji/q&a2.html


>> このお話は、関東のわたしには、むしろ、新鮮な響きがあります。
> (一塔両尊)のことですかそれとも(曼荼羅に鬼子母神、大黒天)のことでしょうか、それとも両方でしょうか。

両方です。
もっとも、わたしは、仏具店というのはあまり行きませんし、まして、仏像、漫荼羅の類を買ったことはありませんから、知らないだけかもしれません。

> (一塔両尊)とは仏具店に於いては三宝尊

これは、仏壇屋さんの慣習は間違っていますよね。三宝は仏・宝・僧ですから、僧は日蓮大菩薩とした祖師像ではないでしょうか。一塔両尊とは別のはずです。

> 「三宝尊」)にも曼荼羅を掛けるようにも勧められます。

それはそうでしょうね。門下一般、漫荼羅は法本尊ですから、三宝というのであれば、必須となります。
日蓮宗では、購入した漫荼羅掛け軸を寺院に持っていき、裏書きをし開眼とするのだそうです。その段階ではじめて本尊となります。

> 祖師像のさらに前に八の巻(法華経の事のようです)を置きます。

これは一般的です。石山は日有化儀抄で定められてありますが、いまの宝前の経箱は空箱という杜撰さです。

> 関東方面では少し違いますでしょうか

違わないと思いますが、漫荼羅に祖師像というのが、まあ、一般信徒の家での奉安ではないでしょうか。

3071しゅんかん:2006/12/27(水) 21:08:59
独歩さん、重ね重ね誠に懇切丁寧な御文有難うございます。
勉強になりました。

3072犀角独歩:2006/12/28(木) 09:06:35

【3070の訂正】

誤)珠と母珠を逆に指導
正)父珠と母珠を逆に指導

3073しゅんかん:2006/12/28(木) 17:14:40
ご存知のお方宜しくお願い致します。

富士宗学要集 史料類聚別巻 富士宗学要集 10冊 11巻欠
著者名:雪山書房 刊行年:昭14
下記書店のHPで見かけました。
有限会社 東陽堂書店 東京都千代田区神田神保町1-1
http://touyoudou.jimbou.net/

上記の富士宗学要集は堀 日亨師によるものではないのでしょうか?

※情報のお願いを致します。
富士宗学要集(堀日亨師、編纂)ですが1.2.3.6巻が入手出来ません。
聖教新聞社(現在の取り扱い者)に問い合わせましたが、絶版で上記四巻も在庫なしとのことです。
どなたか入手方法をご存知の方お知らせ頂けますでしょうか。(古書でもけっこうです)
宜しくお願い致します。

3074しゅんかん:2006/12/28(木) 17:49:59
追記
日興門流上代事典、(興風談所 発行 非売品 限定500部)
上記、書物も合わせて宜しくお願い致します。

3075ラキ:2006/12/28(木) 22:18:46
「富士宗学要集」現在古書で入手可能なのは、下記の分が出ております。
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon_result

3076しゅんかん:2006/12/29(金) 17:27:14
ラキさん早速の情報ありがとうございます。
6巻を申し込ませて頂きました。

3077んっ?:2006/12/30(土) 06:53:00
犀角独歩さん、挙げられたページの次のページに
「今曰く数珠を指に掛ける事、父玉のほうを以って右手の人差し指に掛け
母玉の方を以って左手の中指に掛く・・・、日芳愚意して曰く左右共に
中指なるべきか・・・」とあります。
むしろ逆になったのは宗門側ではないでしょうか?

3078犀角独歩:2006/12/30(土) 07:57:32

んっ?さん

はじめまして、で、よろしいでしょうか。

> むしろ逆になったのは宗門側

話が錯綜してしまい、ややこしいことになってしまいました。仰るとおりです。

引用なさったところは保田妙本寺日我の義の部分ですが、父珠・右(今の二房、心一境法性珠のある方)、母珠・左(今の三房の方)という点は同じわけです。

引用は石山33代日元の文章です。
つまり、石山の数珠の掛け方は「御歴代上人」に反していることになります。

3079再挑戦者:2006/12/30(土) 21:03:34
、、、横から失礼いたします、、。  
 些細と言える一見ではございまするが、、。 小生には、、グッサッ、、感じました。
  「清く、綿々、、よどみ無き血脈(?)、誠に麗しゅう事事」ばかりが言い伝えられていたようでしょうか、、(?)  昨今の諸賢方の御努力に依りまして、次々と「過去の団体様による日蓮・聖人化傾向への短絡的逃避的なエエカゲン、さが、主流を占め、一時しのぎの、ダマシの手口、が勝ち組になった」、、という化けの皮(?)、、が少しずつ判明しつつ有るようでしょうか、。 
真の「ホトケ」を本当に体感・体現などが可能か、、??、、それに、、繋がるよう(?)ですので、今後ともご期待して居ります。早々、。

3080大晦日:2006/12/31(日) 12:56:40
右左の手どちらが優位なのでしょうか。
亡者に懸ける時は数え珠は切って懸けるのだと聞いたことがあります。

3081しゅんかん:2007/01/02(火) 13:08:26
皆さん明けましておめでとうございます。

菊水護国さんはじめまして、しゅんかんと申します、菊水護国さんの古い書き込みで
下記の件に付いてお教え頂けますか。

『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

39 菊水護国
> 宗教法人日蓮正宗と宗教法人創価学会の間には「包括法人関係がありません」・・・・
 だからこそ「準信徒扱い」として、会員は原則御形木様しか下付せず、学会本部にすら紙幅の常住御本尊しか無・・・・

では、法華講員として正宗の檀信徒となると先ずどの様な御本尊さまを御下付され、
宗門への貢献度が大きいと認められた場合にはいかような御本尊さまと換わっていくのでしょうか。

宜しくお願い致します。

3082ろばくん:2007/01/07(日) 11:56:07
私はこの富士門全般のコーナーを毎日読んでいます。信仰対象としての日蓮正宗末寺の参詣も途切れました。何を信仰対象にすればよいか迷っています。自分の心の中にお題目を保てばよいのかと思います。難しいことは分からないのですが、信仰とは何かがよく見えなくなりました。これまで日蓮宗や神社参詣は絶対いけないと教えられてきました。これもわかりません。ちなみに私は正信会でしたが、信者獲得のために僧侶がお金に目がくらんでいることも残念です。大石寺そのものが腐っているからですね。毎日このコーナーを読んで真の意味で覚醒してきたことに感謝しております。どこに書いたらよいかわからず、ここにしました。間違っていたら申し訳ありません。

3083問答迷人:2007/01/07(日) 12:26:13

ろばくん さん

始めまして。

>何を信仰対象にすればよいか迷っています。

色々と不明な部分があるにせよ、蓮祖が弟子檀那の為に夥しい数の紙幅曼荼羅を認められた事、そして、蓮祖が自ら、弟子檀那の為に残された信仰対象が紙幅曼荼羅以外に無い事、これらを勘案すれば、少なくとも紙幅曼荼羅を信仰対象ではないと否定された遺文は有りませんので、日蓮門下の信仰対象から紙幅曼荼羅を外す必要はないと思います。

僕は、67世日顕師書写の形木曼荼羅を仏壇に掛け、仏様と拝して御給仕申し上げています。勤行・唱題も、日蓮正宗の勤行要典で行っています。

大石寺戒壇板本尊が後世の贋作で有る事は、犀角独歩さんの研究により、もはや動かないと思います。今なお日蓮正宗が、蓮祖の出世の本懐だとして、御開扉し続けている様は呆れるばかりです。

形木曼荼羅は、戒壇板本尊の写しだからご利益がある、というアナウンスは、出鱈目ですが、蓮祖曼荼羅の形式を踏んだものであれば、蓮祖の本意からそう離れるものではないと僕は思いますので、他に、紙幅曼荼羅を持ち合わせていませんし、どなたに書写しもらえば、一番蓮祖の本意に叶うのかも、判然としませんので、現状を続けています。

まぁ、これから先の方法としては、適切な蓮祖曼荼羅を選んでネットからダウンロード・印刷し、表具屋さんに表装してもらうのが良いのかな、等と思っていますが・・・

3084しゅんかん:2007/01/07(日) 13:09:35
問答名人さん、おめでとうございます、今年もよろしくお願い致します。
>ネットからダウンロード・印刷し、表具屋さんに表装してもらうのが良いのかな、等と思っていますが・・・

〇このお考えに私も賛同いたします。私はすでに表具屋さんより曼荼羅に適した紙を購入し
印刷をしております。後は表装に出すのみですが。
蓮祖曼荼羅のダウンロードは立〇〇〇〇より行いました(日蓮〇〇〇〇〇集よりの・・・・
私の思うサイズに拡大印刷するとドットが荒くNGでした)
他にも可能なHPご存知でしょうか、良ければお教えいただけますか?

3085犀角独歩:2007/01/07(日) 14:50:58

しゅんかんさん

御本尊集のサイトとしては、海外に以下のところがあり、ここでは大きなサイズでも収蔵されています。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

ただし、日蓮の大漫荼羅は白黒ではありません。
信者会員に配布されているような墨跡のわからないようなものはありません。
また、たぶん、紙の色は正式には黄色で、軸は朱とするべきではないかと思います。経巻がそうであるからです。

以下は、わたしが所有している御真筆の写真です。実際は色が少し違います。大きくアップしたいところですが、とある方から、わたしを信頼して下さり贈呈されたものなので、この程度で勘弁してください。
写真でも筆跡はある程度、確認できるほどです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/rinmetudo.html

3086しゅんかん:2007/01/07(日) 18:28:00
独歩さん、明けましておめでとうございます、本年も宜しくお願い致します。
>海外に以下のところがあり、・・・

〇私が明記させて頂きました、(日蓮〇〇〇〇〇集よりの・・・・)はまさにこのHPなのです。
ただ拡大印刷するとドットが荒くNGでした。とは正宗下付の様なサイズにしたかったのです、
NGと言うのは私がこの様な事に関する技術、知識不足に起因するものかもしれません。

>紙の色は正式には黄色で・・・

〇表具屋さんに曼荼羅に適した紙は?と問うと、黄色い紙で妙法紙と言いますとの事でした。
大変薄く透けていますが、私が御経本で見かける物よりも濃い黄色でした。
S会二世の者には黄色い曼荼羅には違和感がありまいた。(私の認識不足?)
{私は此処数ヶ月の内でこの黄色い曼荼羅には出会っていました、京、本圀寺と此処最近
出入りさせて頂いている日蓮宗の(関西唯一の末寺)お寺です}
蓮祖の御真筆曼荼羅をダウンロード印刷には或る程度の妥協(譲歩)が必要なのかと思っています。
それは、①この黄色い紙②蝋燭による煤煙、③経年劣化(②以外によるその他の劣化)
以上のことより正宗や、S会よりの下付曼荼羅のみを見て来た物にとっては、
もう少し綺麗に出来ない物かと抱いてしまうのですが致し方ないのでしょう。

3087しゅんかん:2007/01/07(日) 18:50:06
独歩さん、他の御方に問合せた物と特定をしていないの物でお返事の無い物が
ございます、宜しければお答えいただければ幸いです。

①日興門流上代事典、(興風談所 発行 非売品 限定500部)は入手はほぼ不可能でしょうか。
②当スレッド3081の件ですよろしくお願い致します。(菊水護国はご自身で海外転勤と何処かの
スレッドで見かけた様な記憶があるのです?)
③万年救護本尊(保田妙本寺の)の万年救護とは曼荼羅の何処かに記されているのですか、
記されているのでしたら叉、それは誰が記したと言われているのでしょうか。
ただの通称名でしょうか。
以上、宜しくお願い致します。

3088れん:2007/01/07(日) 22:40:08
横レス失礼致します。
しゅんかんさん、初めまして。
日興門流上代事典は、私が耳にした範囲では、もう在庫が無い由で、東京神田の東陽堂書店で出るのを気長に待つ以外無いと思います。
日蓮正宗の御本尊につきましては、法華講所属の方にお聞きしたほうが良いと思います。
保田妙本寺奉蔵の万年救護大本尊につきましては、“万年救護”は通称で、山中喜八師の御本尊集目録に拠る限り、万年救護云々の添書はないようです。保田妙本寺日侃師門下と思われる薩摩日長師の書状に「万年救護之御本尊」また、日侃師の相伝目録に「末法万年御本尊 流布之日本堂ニ可奉懸之」とあり、日侃師の代には“万年救護”の通称が妙本寺奉蔵の蓮祖御筆文永十一年十二月の御本尊に使用されていたようです。なお“千葉県の歴史 資料編中世3”によりますと、同御本尊には「本門寺建立之時懸本御影堂可為末代重宝也」云々の別幅の副書がある由であり、“万年救護”の通称はこの別幅の副書に由来するのかもしれません。
興門一般では、どうも蓮祖御筆漫荼羅への興師の添書で特に「末代重宝」「万年重宝」云々と記されたものを“万年救護”と通称しているようですね。
取り敢えず右、ご参考まで。

3089犀角独歩:2007/01/08(月) 10:06:49

しゅんかんさん

> 表具屋…黄色い紙で妙法紙…御経本で見かける物よりも濃い黄色

誤解はないと思いますが、わたしが「経本」と記したのは、経紙と漫荼羅紙が、同じ紙という意味ではもちろんありません。「黄紙朱軸」が常套句であるという意味です。いわば、仏教界の常識だと言うことです。別段、白だろうが紺だろう各人の嗜好の問題だと思います。
軸も同様で朱軸より、たとえばわたしの個人的な嗜好で言えば水晶のほうが好きです。
表層の織紋も同様だろうと思います。
日蓮聖人の漫荼羅を表具するのに鶴丸というのは、通日蓮からすれば、むしろ、違和感があるところですが、興門にとってはかくありたいとなるかもしれません。

ただ、せっかく、日蓮漫荼羅をダウンロードし、お金をかけて表層するのであれば「木に竹を接ぐ」ようなというか、着物にシルクハットをかぶるような、見る人が見れば、嗤われてしまうようなものにしないようにしたほうがいいという意味で申し上げたのに過ぎません。

> ①日興門流上代事典

これはれんさんがお答えになっていますので、省略しますが、一点、申し添えれば、日蓮仏教系教団の図書館であれば収蔵されています。

③万年救護本尊

これまた、れんさんがお応えになったので省きます。
この「万年救護」という語彙については、2年半前に投稿しました。
以下記したとおりの変遷があります。
万年救護本尊、戒壇本尊神話というものは、いつのころからか醸造され、その漫荼羅がどれか、「うちのものこそ、そうだ」、「あっちが万年救護本尊というのなら、こちらは戒壇本尊だ」「うちなんか、もっとすごい、万年救護戒壇本尊だ」という、言い合いが実は富士門下で過去に起きた結果を、いま真面目にとらえすぎている側面があると、わたしは考えます。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/552

3090しゅんかん:2007/01/08(月) 12:58:01
独歩さん、ありがとうございます。

>誤解はないと思いますが、
〇おっしゃられます通り読解しております。(紙類に濃淡、薄厚は当然でしょうねエ)
>仏教界の常識だと言うことです。
〇そうなんですか!黄紙を使用するは常識だんたんですか、勉強になりました。
>別段、白だろうが紺だろう・・・
〇そうでしたね、このHP内でも紺紙金泥・・・(でしたかね?)記してましたよね、
思いかえすに、とある日蓮宗寺院の宝物館でも紺紙金泥・・・を拝見していました。
(お恥ずかしいかぎりです直ぐに忘れてしまいます)
>お金をかけて表層・・・嗤われてしまうような・・・
〇ありがたいお言葉、御指導、心にとめておきます。

3091しゅんかん:2007/01/08(月) 13:20:41
れんさん、初めましてお返事有難うございます。
勉強になりました。叉、情報ありがとうございます。チェックする様に致します。
これからも宜しくお願い致します。

3092れん:2007/01/09(火) 13:25:51
“万年救護”の語彙についての犀角独歩さんの御投稿、読ませて戴きました。
なるほど、保田、石山、北山の間で、本尊をめぐって言い争いみたいなことがあったのですね。時系列から見れば、先ず保田妙本寺が同寺蔵の文永十一年の蓮師御筆大本尊に“万年救護御本尊と命名して口火をきり、ついで石山が彫刻本尊を作成して“戒壇本尊”を言いだし、最終的に北山が禅師授与漫荼羅を万年救護戒壇本尊と命名して、三つ巴で正当性を争った、西山でも万年重宝と興師添書のある興師祖父授与の蓮師御筆漫荼羅を万年救護と称してますから、富士四山四つ巴ですね。文献的には江戸時代直前中世末期あたりから、本尊をめぐってのこの手の争いがあったろうことは保田日侃師の弟子薩摩日長師の書状から伺えますね。

3093犀角独歩:2007/01/09(火) 18:06:43

れんさん、補完有り難うございます。
日侃書状に、その模様が窺えますか。となれば、わたしの類推も、大きくははずれていなかったわけですね。

3094れん:2007/01/09(火) 21:25:46
犀角独歩さん
房山日侃師の門弟と思われる薩摩阿闍梨日長師の書状(無年号、三月八日付け)に「代門・道門等与問答之為申候、日目付法之御文言、並ニ万年救護之御本尊授与之御文言等、為未来写御こし可有候」とありますので、房山侃師の代に本尊や相伝をめぐり、房山と石山・西山との間に問答があった様ですね。公開されている文書の中では、天正年間頃と推定される日長師書状が“万年救護御本尊”の名称の初見だと思います。

3095犀角独歩:2007/01/09(火) 22:54:42

れんさん、重ねがさね有り難うございます。
参考になりました。

3096再挑戦者:2007/01/10(水) 17:59:05
、、、横からゴメン致します。
 さすがはIT(情報化時代)の現代のようでせしょうか。
 小生は、個々の曼荼羅・本尊はいかようにも細工可能な現今ですので、一宗・一派のメシの種になる犠牲になるよりも、一応はご理解できますです、、。    

 ただ、、、やはり、死んだ時の”葬儀”が難儀で御座います、???     

 ワシは、役所の福祉係員と地元民生委員が持参した「白い袋に無造作に入れられて〜斎場〜無縁墓地埋葬への一本道の途上にある身分です、、。 
 今後、、いかなる死期を迎えるのが理想的なのか、?、素朴に、?、、愚考・愚疑問に執着するアホの一人で御座います、、。

3097不可解者 2:2007/01/10(水) 20:08:21
 >> 、、、死期、、。
  自分が死んだら、その後のことを「自分が果たして、意識が存在」するのでしょうか、、。 
 自分では意識が不可能 =、、死、ですから、、。   その後の件は、誰が?どの方? がご判断するのでしょうか、、。
 マーー、−−、、だから、こそ、、宗教の、、???、、が存在、、でしょうか、、???

3098一字三礼:2007/01/15(月) 22:51:05
素朴とは言えないかもしれませんが。

「法華経方便品の譬喩の成立に影響を与えた書ではないか」との見解を持たれている方から、「南伝大蔵経 第二十七巻 小部経典5」というのをお借りしてきました。
この本は、パーリ五部のうちの小部(クッダカ・ニカーヤ)と総称される15経のうちの『譬喩』もしくは『宿世物語』と言われる経です。

南伝小部の中には、『法句』や『経集』といった経典の中でも最古層に属するものと、比較的遅れて成立した『天宮事』、『釈義』などのような経とが混在しているのですが、私のお借りした『譬喩』は、かなり遅れて成立したもののように思えます。
もしかしたら、『法華経』より後に成立したのではないか、との疑いからなかなか集中できないでいるのですが、私には解らない語が出てきたので、この掲示板の碩学の方にご教示いただきたく思います。

「長者の譬喩(畢隣陀婆蹉)」の157詩

「煙管を勝者と最勝最上衆なる僧伽に施せしかば、我が業に適はしき三つの利益を享けたり。」

この詩に出てくる「煙管」は「喫煙の道具」という意味なのでしょうか。

喫煙の文化はアメリカ大陸から世界に広まったというのが私の理解でしたが、インドにも固有の喫煙とそのための道具の文化が古代からあったのでしょうか。

3099顕正居士:2007/01/16(火) 11:53:35
>>3098
「煙管」の他の意味はボイラーなどの用語しかないようです。
南伝大蔵経が今日の形に編纂されたのはそう太古ではないのですが、
大航海時代以後の事物が出て来るのは変ですね。
巴利、英訳のどこに相当するか、わかりますでしょうか?

巴利南伝大蔵経(フォントはトップページにあります)
http://www.metta.lk/tipitaka/
英訳南伝大蔵経(小部は全文はない)
http://www.accesstoinsight.org/

3100パンナコッタ:2007/01/16(火) 14:08:24
経典に"煙管"って、何か変ですね。
『語源については異説もあるが、カンボジア語で管を意味する『クセル』が、
 訛ったものとされる(渡邊實「日本食生活史」- 吉川弘文館)』
割合新しい言葉のようですし、南伝大蔵経65巻の訳出は昭和10〜16年ですので、
語彙の意訳っぽい気がしないでもないですね。

また、インド発でイスラム圏に広まった水パイプを指しているようにも思えますね。
(時代的に錯誤しているかもしれません。すんません)

3101一字三礼:2007/01/16(火) 16:37:12
顕正居士さん

私のお借りした南伝大蔵経は、「巴利聖典出版協会」Mary E.Lilley女史刊本(1927)を底本として邦訳されたものです。
各詩の行頭にローマ数字が付されているのですが、それは底本と対応しているようです。

先に挙げました経文を正確に。
譬喩経(阿波陀那)二 
第四十 畢隣陀品
三八八 畢隣陀婆蹉
の、一五七詩目にあたる箇所のものでした。
「煙管を勝者と最勝最上衆なる僧伽に施せしかば、我が業に適はしき三つの利益を享けたり。」

そこから考えますと、顕正居士さんの挙げてくださった「巴利南伝大蔵経」では、
Khuddhaka Nikaya、Thera Apadanaの40Pilindivaccha Vagga
2531. Dhumatette jine datvà saïghe gaõavaruttame, Tiõànisaüse anubhomi kammànucchavike mama.
に該当するのではないかと思うのですが、翻訳をお願いできますでしょうか。

ちなみに、前の156詩は、
「三昧に於て動ぜず、三昧に於て自在にして、衆分裂することなく、言常に信頼されき」
です。この詩は
2530. Samàdhisu na kampàmi vasi homi samàdhisu, Abhejjapariso homi àdeyyavacano sadà, Jàyati bhogasampatti bhàve saüsarato mama.
にあたるのではないかと推理(?)しました。英訳南伝大蔵経からは探せませんでした。

3102一字三礼:2007/01/16(火) 18:07:46
パンナコッタさん
ご無沙汰しております。

> 経典に"煙管"って、何か変ですね。

私もご指摘のような違和感を感じたのですよ。
仏と僧達が、みんなで煙管で煙を燻らせている、というのも絵的にありえないような気がしますし。

> 語彙の意訳っぽい気がしないでもないですね。

そうですね。お調べいただいた昭和10年〜16年の学者達が、「煙管」という語で、何を連想させようとしたのか。時代の隔たりのせいでしょうか、さっぱり検討がつきません。

3103顕正居士:2007/01/16(火) 20:21:56
>>3101
一字三礼さん。

その箇所と思います。Dhumatetteを「煙管を」と訳しています。
dhuma=dhūmaなら「香 incense」の意味です。
「香を燃やし」という意味ではないかと。
何で煙管と訳したのかはわかりません。
あるいは現代パーリ語で煙管を意味するのかも知れませんが。
(パーリ語は上座仏教圏の僧侶の共通会話語になっています)

3104一字三礼:2007/01/16(火) 23:35:50
顕正居士さん

ご教示ありがとうございます。

Dhumatetteが「香を燃やし」という意味であれば、意味がすんなり通りますね。

仰るように、「煙管」と訳した意図は謎ですが、もしかして「香炉」のようなものを意識していたのではないか、とも考えました。

それにしても、完成されたアビダルマの六因・四縁の用語が頻繁に使われているので、このアパダーナは内容的にかなり新しい成立のように思えてなりません。

3105犀角独歩:2007/01/20(土) 08:23:23

彰往考来さん、独学徒さん、れんさん、他諸賢

相伝書などの書写で知られる「日源」が、水口であるとするのは、どのような根拠によるのでしょうか。ご教示いただければ幸甚です。

3106独学徒:2007/01/20(土) 09:35:07

犀角独歩さん、先日はブログにて種々ご紹介賜りましてありがとう御座います。

「日源」については、もとは「水口説」と「岩本説」とがあったようですが、堀日亨師が筆跡から「岩本説」を否定し、現在に至っているようです。
堀日亨師の文献に出ているかどうかはわかりませんが、創価学会最初の建立寺院といわれる相模原の正継寺住職で、元富士学林教授であった大橋慈譲師が、大白蓮華95号「富士宗学要集の解説③」にて述べています。
これから一寸出かけてしまいますが、帰宅後該当の文献が見つかりましたら談議所の方にアップします。

3107れん:2007/01/20(土) 12:18:10
水口日源師は、興師御筆漫荼羅の脇書きなどによりますと、寂日坊日華師の弟子で、讃岐公・讃岐阿闍梨を名乗った方で、正和年間には興師より熱原法難にかかる興師宛ての蓮師遺文の興師写本を授与され、師の確かな真筆としては、先に挙げた興師写本遺文への師の書き入れと立正安国論の写本二巻が北山本門寺に現存します。岩本実相寺の日源師の確かな真筆は同寺所蔵の本尊問答抄の正応年間の写本があるくらいでしょうか。
堀日亨師は“本尊三度相伝”の筆者を水口日源師の筆とされたのは、どのような理由によるか、分かりませんが、独学徒さんがアップされる資料で分かるかもしれませんね。但し、先行する“伝説”としては、完則宝蔵目録には実相寺日源の筆との伝承がありますから、堀師の鑑定のみをもって水口日源師の写本と断定するのは、やや早計かもしれません。
本尊論資料では、朗門や常門にも同内容の文献が見え、順師撰とされる本門心底抄にも三度相伝と同内容の文章が引用されますから、本尊三度相伝に記される個々の法義やその原書は、室町中期の成立と見られる両巻血脈の法義の影響が見える本尊七箇相承よりも、そこそこ上代(富士で言えば早ければ興師の直弟の世代か孫弟子の世代)にその成立を遡れる可能性はあると存じます。

3108れん:2007/01/20(土) 13:23:10
蛇足ながら、讃岐阿日源師を“水口”日源と称するのは、同師が貞和五年(1349)五十四歳の時書写した立正安国論の奥書に「貞和五年已□卯月十三日、富士上方上野郷水口に於いて日源五十四歳にて之を書写す」とあることによると思います。

3109犀角独歩:2007/01/20(土) 13:33:32

独学徒さん

有り難うございます。資料のアップを楽しみにしております。


れんさん

ご無沙汰しております。レス、有り難うございます。

わたしが、疑義を懐いたのは、日亨氏が、文字鑑定を経た結果として、各相伝書などを水口日源としたのかという点です。

たとえば、単に、文献に「日源」とあった。日源ならば、れんさんがお示しくださったような日興に係る富士門下の僧侶がいる、これに違いないといった形で当て嵌めてしまったのではないかという危惧です。

『本尊論資料』をお読みのようなので、この点に沿って記します。

「日源」の名は本尊相伝ではお馴染みのところですね。常門では、日實の文献を載せますが、ここで語られる伝法の次第は 日源―日實―日得―日怡 ですね。
たとえば『日蓮上行等之事』では「日源自(よ)り之を聴聞す」(原文漢文 P515)などとあります。

執行師『日蓮宗教学史』(平楽寺/昭和29年9月15日2刷) 第2篇 室町時代 第1章 中山門流の教学 第2節 中山系教学の展開 1正行日源(P67) 2本成日實(P68)に載ります。

「妙覚寺の正行日源」と名声を博した人物であるわけですが、「著述には、講演法華義抄23巻、四宗要聞私聞書、御書音義等」(P67)というわけです。
こんな日源の著述や、署名を為した写本が、ある時期、石山が手に入れ、所蔵された。その後、日源とあるので、水口に違いない、水口日源といえば、日興に係る人物である、となれば、この相伝は日興が日蓮が受けたものだ… といった連想ゲームの結果、これらが、日興相伝と思い込まれていった可能性はないのかという疑問です。

この点を証するためには、れんさんがお示しくださったような水口日源直筆の文献があれば、それと相伝類の文字を対校してみればよいわけです。実際のところ、日亨氏は、この手順を踏んで断定したことなのだろうかというのが、わたしの疑問です。

重ねて、独学徒さん、れんさんほか、諸賢のご教示を期待します。

3110犀角独歩:2007/01/20(土) 14:08:05

読み直して、誤解が招きやすい拙い文章だったので、ひとこと。

「れんさんがお示しくださった…形で当て嵌めてしまった」という一連の記述は、もちろん、れんさんが当て嵌めたということではなく、日亨氏が、ということです。

3111れん:2007/01/20(土) 14:51:33
犀角独歩さん、こちらこそ大変御無沙汰致しております。
仰るところの疑惑、私もその可能性があると思います。いつの時代か他門徒の“日源”師の写本を石山が入手し、事情が分からなくなった後代の石山門下が連想ゲーム的に日源→実相寺日源師或いは水口日源師に当てはめた可能性は確かにありますね。水口日源師・実相寺日源師の書蹟は現存しますから、堀師がしかるべく筆跡鑑定したのか否か、した上ならば、水口日源説は一応首肯できますが、現時点では、疑惑は拭えませんね。
富士においても、伝日順師撰の心底抄に引用、房山に室町中期の写本があるのでそれなりに古い文献ですが、石山蔵の日源筆については、犀角独歩さんの仰るように疑う必要があると考えます。

3112犀角独歩:2007/01/20(土) 16:27:12

れんさん

仰る「室町」、やはり、この時代辺りがネックですね。正行日源はまさに室町時代の人でした。結局のところ、相伝の類というのは、ここら辺で文献化されているのかなと思います。

各本弟子門下の相伝類を俯瞰して、首を傾げたことが一つあります。
ブログで書いていることとも関連する判形相伝のことです。
常門を含む五老門下では、たいがい、その象りがボロン字であることを言っているわけです。ところが、興門にはこれがないのですね。「在御判」だと言います。日尊実録なんかも併せて、善意に解釈すれば、祖師の花押を模写しない矜持のように取ることもできます。しかし、実のところはどうなんでしょうか。知っていて書かないことと・知らないことでは天地雲泥の相違があります。

(日興が、ではなく、日興に仮託して)興門の本尊相伝を文書化した人々は、実のところ、判形ボロン字の相伝を持っていなかったように見受けます。

全門下の本尊相伝を集大成するのは、身延の行学日朝なのだと思います。
正行日源と本成日實の授受があったわけですね。
これら一度文書化されたものというのは、どんな動きをしたのでしょうか。

石山では日寛が六巻抄などとまとめるわけです。
ここら辺の論調を読んでいると、この相伝は日興のものである、日興のものであるということは日蓮直授、日蓮日興のものであれば、すべて当山のものといった、いわば「他人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの」といった強弁が罷り通って、日寛の虚構は成り立っていますね。それ以前、日精の蒐集が、その前提となっているわけですね。

富要に日亨氏が参考資料を記した結果、石山には日興以来伝わっている相伝文書など、何もなく、すべて他山の写本ばかりだったことが明るみに出る結果となりました。そんななかで、「日源」写本ばかりは、自山のものであるといった論調です。

ここで二つ問題があります。まず一つは、石山の歴代でもない水口日源が「唯授一人」に係るはずの相伝を何で写しているのかという疑問です。
もう一つは、先より記しているとおり、写本に記される日源とは、本当に水口日源なのかという疑問です。

諄い文章になりましたが、れんさんも、疑っている点であると確認でき、少し安堵しました。

3113独学徒:2007/01/20(土) 17:14:42

れんさん、お久しぶりです。

>独学徒さんがアップされる資料で分かるかもしれませんね。

いえいえ私がアップしようと思ったのは、大橋住職が「富木公胤」のペンネームで書いていた、昔の大白蓮華の記事ですから、画像でもなく、文書でもなく、ただ大橋住職は堀日亨師の水口説を紹介しているといっただけのものです。

それをみれば、犀角独歩さん、れんさん、のもたれている疑義は全くその通りで、ほとんど根拠らしいものは見当たらず、「堀上人が言ったからきっとそうだ」的なものだけで、「本尊三度相伝」の日源が、水口日源といわれているだけだとわかると思います。

その意味では、深い考察の参考資料には到底なりえません。
一応今日中にアップしたいと思います。

3114れん:2007/01/20(土) 18:07:41
独学徒さん、ご無沙汰しております。
敢えて、富士門伝承の蓮師花押の梵字のボロンに関する文献を挙げるならば房山所伝の御本尊梵字口決(“千葉県の歴史”所収の妙本寺蔵のものは後欠で、宮崎県史の所収の“定善寺文書”の中に全文の翻刻文掲載)にボロン字の意義について述べられている位ですね。この御本尊梵字口決も常門の“本尊灌頂秘決”と内容が重なる部分があるのは、以前何方かご指摘の通りでした。
富士の場合、漫荼羅は書写様式で、首題の下は“日蓮聖人”か“日蓮在御判”(この両者の折衷で“日蓮聖人〈在〉御判”の例もありますが)と記して蓮師の御筆花押まで臨写する如きことはないので、どうも富士では、蓮師の花押に使われた梵字の意義についての伝承はされなかったか如き様子ですね。

3115独学徒:2007/01/20(土) 18:15:01

れんさん、

>どうも富士では、蓮師の花押に使われた梵字の意義についての伝承はされなかったか如き様子ですね。

実に的を射た御高察です。
花押だけでなく、以前の犀角独歩さんのブログでも紹介された通り、興師の不動・愛染は、かなり元の梵字とかけ離れているようですし、梵字自体の相伝が無かった可能性もありますね。

まさか何の相伝も無かったから「書写」にした、なんて事は無いですよね。

3116れん:2007/01/20(土) 19:39:09
独学徒さん、
過分のお言葉痛み入ります。興師の梵字は、犀角独歩さんのご指摘の通り、だ
いぶ元の梵字と違いますが、これは現時点では、相伝云々以前に、興師の個性
と言うか、センスに由来するものかもしれない思います。
興師も天台僧でしたから、梵字については蓮師に習わずとも、基本的な学問は
四十九院あたりで一般教養的に習学されていたと思います。
又、興師は蓮師在世の弘安四年三月五日に観心本尊抄を書写していますから、
興師も何らかの蓮師からの教示は受けていると思いますが、公開された資料か
らは、それを窺う資料は現存し無いと考えられるのが現状といった所だと思い
ます。

3117犀角独歩:2007/01/20(土) 22:09:14

独学徒さん

どちらで御礼を述べてよいのかわかりませんが、言い出した場所でということで、こちらに。

有り難うございました。参考になりました。
あとは、石山所蔵の日源の影本、また、正行日源の影本を対校すれば、ことの次第は解明することになります。例の興風ではやっていないのでしょうか。


れんさん

日興の不動の書法は、ブログでも記しましたが、初期の日蓮の如きで、またもし、梵字の知識があったとしたら、敢えて、日蓮と違う字を記した可能性がありますね。これが単なる書き癖であるとしたら、随分と軽薄だというのが正直な印象です。

日朗、また、日像などの本尊を見ても感じることですが、派祖の段階では、あまり、日蓮の書風に拘らず、むしろ、我流の筆跡を重んじている感がありますね。日蓮が考案気になって定型化していく書法より、書いてある諸尊に重があるように思えます。

3118犀角独歩:2007/01/20(土) 22:19:09

やってしまいました。3117の訂正です。

誤)日蓮が考案気になって定型化していく書法
正)日蓮が弘安期になって定型化していく書法

3119教えてください:2007/01/20(土) 23:23:56
玉井礼一郎さんは、今どうしているのでしょうか。また、顕正会に昔いた海老原さんという男子部だったかの幹部の方、私、以前電話でお話したことがあったのです。どうしているものなのか。そして、高橋公純さんのことも、知っている方がいれば教えてください。

3120れん:2007/01/21(日) 13:00:00
犀角独歩さん
3117
>日興の不動の筆法…初期の日蓮の如き…
興師の不動の筆法は独歩さんが御自らのブログで御紹介の通りですね。私は梵字についての知識が無いので、ここらへんのことは何とも言えないのですが、興師の御筆漫荼羅は年令を重ねる程に全体の筆法が草書化していくように感じますが、該当の梵字の“草書”で興師の如き崩し方は有り得るのか否か、知りたいところです。
>日朗…日像などの本尊…派祖の段階ではあまり、日蓮の書風に拘らず、むしろ我流の筆跡を重んじている感…日蓮が弘安期になって定型化していく書法より、書いてある諸尊に重がある…
仰る通りですね、興師に限らず、昭師や朗師・向師の御筆漫荼羅を見ますと、筆法そのものは、蓮師の弘安期の筆法(不動・愛染の●型の起筆など)などは、必ずしも継承したとは言えず、各々自分の書風で思い思いに書いていると私も感じているところです。ただ、勧請の諸尊は各師それぞれの定型的な形がありますから、仰る通り、「書いてある諸尊に重が」あったのではと、私も感じております。

3121犀角独歩:2007/01/21(日) 17:11:47

れんさん、有り難うございます。

どうも、一人で考えておりますと、いったい、自分の考えが正しいのかどうか、呻吟している時間が無駄になります。長らくご教示をいただいているれんさんにも、同様のお考えを存するとお聞きすると安堵するものがあります。

3122れん:2007/01/22(月) 18:51:06
「師範松寿院贈上人よりの聞書」(当方未見資料)に掲載されているという大石寺蔵「首題点画秘抄」とは、日蓮宗宗学章疏目録の興師著述の部にある「本尊点画伝」と同じものでしょうか?ご存知の方がおられましたらご教示戴ければ幸甚です。

3123しゅんかん:2007/01/24(水) 22:51:05
独歩さん、随分以前の独歩さんの論ですが、宜しくお願い致します。

富士大石寺の歴史についてに於いて。

>28・・・折伏大行進賑やかな頃、元よりの法華講衆を旧信徒と言って折伏対象とし、先祖伝来護持してきた歴代の
成就曼陀羅本尊、また御影を功徳のないものとして・・・
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rekisi.htm

〇成就曼陀羅本尊とは常住(常什)本尊の事でしょうか?
〇御影とは身延派等の信徒のお方が仏壇内に奉安される祖師像の事でしょうか?

●成就=常住だとすれば創〇〇会→池田教と行動を一にしていた時代なら常住さまのご下付は数量及び
体力等、鑑みましても不可能と思われます。
創〇〇会と組する以前の常住さまの下付は、入信時=形木。その後数年間、信心が確かと認められれば
常住さまの下付が認められたとの事でした。
が、現時点に於いては、成就=(常住)の下付は池田教と組していない現在では可能ではないかと思いますがいかがでしょうか?
(当然以前の様に数年と云う時間では無理でしょうが)

●御影=祖師像であるとすれば現在、石山は信徒に於ける祖師像の奉安は認めていませんよね。
石山は創〇〇会の教えに習って撤廃したのでしょうか?
石山は御影=(祖師像)の撤廃に付いていかような見解であったかご存知でしょうか?

3124犀角独歩:2007/01/25(木) 07:58:26

3123 しゅんかんさん

> 成就曼陀羅本尊とは常住(常什)本尊の事でしょうか?

そうですね。打ち間違えています。
慣例で一部、やっと手書きの本尊が授与される=成就といった言い慣らしがあったので、そう打ってしまったのだと思います、5年前のことなので記憶は定かではありませんが。

> 御影とは身延派等の信徒のお方が仏壇内に奉安される祖師像

たしかに日蓮の祖師像です。ただ、身延に限ることではなく、石山の信徒でも行います。しないのは創価学会、顕正会だけでしょう。
石山の実質的な本堂は昔から御影堂であり、当然、ここには祖師像が祀られています。また、末寺でも、ある程度、格が認められた寺院は祖師像を置き、さらに日興像と並べ下種三宝(仏宝=日蓮、法宝=漫荼羅本尊、僧宝=日興)とします。御影堂奉安を一体三宝、後者は石山では客殿の奉安で別体三宝といいます。
しゅんかんさんはどちらのお住まいか存じ上げませんが、東京で言えば、新宿の大願寺などは祖像が奉安されています。

> …常住…数量及び体力等、鑑みましても不可能と思われます。

そうですね。しかし、これは信徒になれば、100%漫荼羅本尊が下付されるという近代の‘商い’に関連することでしょう。上古は、不惜身命の一部の僧俗にしか漫荼羅は下付されなかったわけです。これが日蓮日興の規範です。信者に漫荼羅を絶対に下付しなければならないということは、まったくもってありません。

> 創〇〇会…入信時=形木…その後数年間、信心が確かと認められれば常住さまの下付が認められた

なにも伏せ字にすることはありませんよ。創価学会ですね。
たしかに仰るような手順です。これが、法華講になれば、さらに板本尊に改め、また、御影も置くといった具合に進捗することになります。
石山は何故か、どんなに創価学会が発展寄進を繰り返しても、板本尊を下げなかった。それで勝手にやったのが本尊模刻という一連の騒ぎでした。しかし、近代は、板に改めるのに、一々、石山に連絡をしていたと思われず、要は「入仏式」を坊さんを呼ばず、池田さんが自分でやった点を「越権行為」だと立腹したのがはじまりだったろうと思います。

> 現時点に於いては、成就=(常住)の下付は池田教と組していない現在では可能ではないかと思いますがいかがでしょうか?
(当然以前の様に数年と云う時間では無理でしょうが)

池田教という団体はないわけで、単に、宗門に言わせれば破門、学会に言わせれば独立した創価学会があるのみです。この掲示板では、斯様な別称は馴染みません。

仰るのは石山末寺の信徒に関することでしょうが、仰るような手はずで、実際に行われているでしょう。

> 御影=祖師像であるとすれば現在、石山は信徒に於ける祖師像の奉安は認めていませんよね。

これは日顕さんの段階、もっと言えば、創価学会が力を持つようになった頃からそうですね。
しかし、祖師像を奉安する信者はいくらでもいるでしょう。
当掲示板の常連さんにもいらっしゃいます。
だいたい、それを制する根拠などあり得ません。祖像信仰は日興已来のことです。

> 石山は創〇〇会の教えに習って撤廃したのでしょうか?

教えを習うということはないでしょう。
ただし、創価学会は小樽法論の昔から、なぜか御影像が嫌いでした。
池田さんが第2次紛争の時に、説法がわからないと奥さんと話し合った件が、石山に伝わり、日顕さんとその取り巻きは激怒したということがありました。これは御影像での説法についてでした。これが関連するかどうか知りませんが、なんら日蓮に関わる遺物を有さない創価学会、新興宗教ならではの、古物アレルギーみたいな鋳物ではないでしょうか。

> 石山は御影=(祖師像)の撤廃に付いていかような見解であったかご存知でしょうか?

いま、具体的な文献は挙げられませんが、日顕さんは、今後は漫荼羅本尊のみの安置を主流とするような発言をしたことを覚えています。これは、しかし、化儀の簡略化に重点があったのではないでしょうか。
祖像撤廃などという意図は皆無だと思います。

3125犀角独歩:2007/01/25(木) 08:03:23

【3124の訂正】

誤)御影像での説法についてでした
正)御影堂での説法についてでした

3126しゅんかん:2007/01/25(木) 19:02:55
独歩さん早速のご教示有難うございます。

〇信徒の仏壇にも祖師像を祀る・・・とは、私としまして初耳なので少し驚きました。

>御影堂奉安を一体三宝・・・
〇一体三宝とはどの様な奉安様式なのでしょうか?
曼荼羅の真前に祖師像が祀られている様式ですか?(御影堂内を拝見した事が無いもので)
としますと曼荼羅、祖師像で二宝。他にも何か祀られているのでしょうか?
申し訳ありません。物分かりがわるいものですから、もう一度お願いします。

>日顕さんは、今後は漫荼羅本尊のみの安置を主流とするような発言をしたことを覚えています。
〇やはり何らかの動きがあったのですね。去年のお彼岸時にお寺に行った折、法華講の心得?なる
小冊子で仏壇内の祀り方、の項には祖師像は明記されていなかったのです。(30数年ぶりの訪問です)

>仰るような手はずで、実際に行われているでしょう。
〇いえ、それが私が知る限りどうも、常住さまの紙幅(板本尊も)は10年、20年の信徒でも下付をしていない様なのです。
開基20数年と言う寺で一人もいないと直接耳にしたのです。叉、(日要、一四三六〜一五一四)日要が開創した寺院と伝えられている
大阪府堺市の本伝寺の住職さんに(去年のお会式の時期)も尋ねたのですが檀家で数人との事でした、
そして紙幅?の様なニュアンスだったと記憶しております(真面目に信仰するだけではNGなのですかね
もっと別の何らかの行動を要するのでしょうか?)宗門の怠慢だと思えてなりません。
私の住まいは大阪です。本伝寺にも御影さまは祀ってなかったのです。関西には少ないかもしれませんね。
大阪市東住吉区、法住寺で本尊に向って左(蓮祖)右(興師)を昨年見かけました、
法住寺に行った経緯は、本傳寺の住職さんから頂いた祖道と言う大阪のみで発行されている小冊子内に
この別体三宝を認めたためです、私は何度も申し上げますが、信仰はしていませんが学会二世で
母より仏像(曼荼羅以外の像物)を置くのは邪教だと聞いていた為、驚いて確認に出向いたのです。
この様式を別体三宝と云うのですね。
何時も何時も本当に有難うございます。

3127犀角独歩:2007/01/25(木) 21:43:53

しゅんかんさん

> 一体三宝…曼荼羅の真前に祖師像

そうです。詳しくは『日蓮正宗要義』に載っていたと記憶しますが、いま、手元にありません。

> 曼荼羅、祖師像で二宝。他にも何か祀られているのでしょうか?

祀られていなくても三宝の意義を具えるので一体というのでしょうね。
しかし、何が僧宝に当たるのか、不明瞭なのはたしかですね。

> …私が知る限りどうも、常住さまの紙幅(板本尊も)は10年、20年の信徒でも下付をしていない

これは、そんなことはないと思いますよ。わたしが石山から出て10年です。
その頃、常住本尊の話はあったような記憶があります。
それと、何より誤解があると思うのは、本尊授与というのは、『下付願』が原則ですよ。お願いしなければ、書かないでしょう。
常住本尊となれば、一宗の代表者に自分専用の本尊を書いてもらうわけです。それ相応の奉供養を伴うことでしょう。

> 宗門の怠慢だと思えてなりません。

別段、石山を庇い立てする理由は、わたしにはありませんが、色紙にサインするようなお気軽なことではないですよね、本尊書写は。
日蓮の現存する大漫荼羅は200舗足らず、日興の本尊でも300舗ほどではなかったでしょうか。実際はもう少し書いているかも知れませんが、日蓮は10余年でこの数です。多くても月2舗程度でしょう。日興は40余年です。ペースで言えば、日蓮より少ないことになります。それでも現存する本尊は、群を抜いています。これが個人における限界ではないですか。でも、これでも超人的なペースだと思います。
詳しいことは知りませんが、日蓮宗で言えば漫荼羅相承は300日の荒行で受けるところでしたか。一生涯で1舗とか、数十舗程度ではないでしょうか。

石山ほど、手書きで本尊をするところは他に類例がないと思います。
要は、お考えの中に、漫荼羅は信者全員に下付すべきものという固定観念が働いているのではないでしょうか。漫荼羅がないほうが、絶対的な多数なんですよ。あれば、その漫荼羅を護持せんがために一寺がなるような話です。そして、漫荼羅があるから、人々が参詣に集まるという構図です。これが各家庭に等しくあれば、寺院は存在しなかったでしょう。寺院が墓地を持つようになるのは近代のことです。

> 母より仏像(曼荼羅以外の像物)を置くのは邪教

石山で言えば、日道以降、そんなことが言われるようになったわけですね。
学会は、ここ半世紀に出来た日蓮とは何の脈絡もない団体です。ご母堂様の信仰の在り方は学会経由石山式です。

仏像を置くのが邪教なら、日蓮その人が邪教であったことになりますね、日蓮は終生、仏像を拝んでいましたから。

『忘持経事』に「案内(あない)を触(ふ)れて室に入り、教主釈尊の御宝前(ごほうぜん)に母の骨を安置し、五体を地に投げ合掌して両眼を開き尊容(そんよう)を拝し、歓喜身(かんぎみ)に余(あま)り心の苦しみ忽(たちま)ち息(や)む」とあります。

弘安5年『八日講御書』には「抑八日は各各御父釈迦仏の生させ給候し日…法華経と釈迦仏とを御信心ありて、各々あつまらせ給て八日をくやう申させ給のみならず、山中の日蓮に華かう(香)ををくらせ候やらん。たうとし、たうとし」

反対に、日蓮が、自分が描いた漫荼羅を拝んだという証拠は何一つありません。

ご不明な点があれば、いつでもお気軽にどうぞ。わかる範囲でお応えは出来ようかと存じます。

3128しゅんかん:2007/01/25(木) 23:13:41
独歩さん、早速のお返事有難うございます。

>『下付願』が原則です・・・
〇そうなんですか、納得いたしました。 宗門の怠慢だと思えてなりません、は撤回いたします。
石山関係の方々、大変申し訳ありませんでした。

>一寺がなるような・・・人々が参詣に・・・各家庭に等しくあれば・・・
〇この様な発想はとても私には浮かびません、全くおっしゃる通りだと思います、流石ですネ。

>要は、お考えの中に、漫荼羅は・・・
〇以前もお話しましたが、認知症の母はS41年1月7日ご下付の特別御形木を戒壇の本尊を写したものと信じ、
そして貫首さまの直筆と信じています(この掲示板に出会うまで私も母の様に思っていました)
母は今もこの御本尊を有難い、有難いと申しております。この母の姿が私はいたたまれないのです。
直筆で下付を受ける者(授持者ですか)名を入れて頂く曼荼羅に執着しているのだと自分を分析しております。

>いつでもお気軽にどうぞ・・・
〇お気遣い頂き有難うございます。毎回ド素人な質問ばかりで書き込みに気が引ける
部分もあるのです(嘘ではないですヨ(^^))このお言葉で少し気が楽になりました。

3130犀角独歩:2007/01/26(金) 09:06:00

しゅんかんさん

ご母堂様への思いに胸が熱くなりました。

わたしの恩人の一人である楠山泰道師の御尊祖父・楠山日かん(=王編に官)師は、昭和35年に『大石寺本尊真疑問答』という書を記しています。原本はガリ版刷りの小冊子です。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001.html

このなかで

【問】その板本尊も、創価学会特定の印刷本尊も功徳利益があるというのですが、実際利益はありますか。

【答】利益―功徳はあるでしょうよ。元来、利益というものは自分の観念の上にとらえられるものですから、何宗でも利益はあります。「僕は利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せなのです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001_ifn.html#kudoku

という問答があります。結局のところ、信仰というのは、斯様な側面を有していると思います。

ただ、わたしはいつも語るのですが、「タネがわかってしまった手品では感動できない」ということです。

疑うことなく信じ、拝み、体験を得た。この実感が信仰を支えます。
その後、自分が信じたものが紛い物であるとわかった。でも、自分はこの御本尊を拝めば、昔と同じように功徳の体験を得、感動の実感を得られるのだ…、こう考える人は多いと思います。しかし、それは最後の悪あがきの類であるとわたしは思います。

そんな過去の自分の体験に囚われていれば、前に進むことも、広大な眺望を見ることも、次のステージの感動の実感を得ることもできなくなります。
日蓮が図した大漫荼羅は、石山・学会が言うような代物ではありませんでした。説いたところも違っています。
わたしたちは、石山・学会での経験・学びの踏み台に乗れば、その上を見ることが出来ます。

しかし、御母堂様は認知症とのこと、思索の猶予はわずかかもしれません。
その場合、かつての経験のなかで、いったんの安堵を得ることも一つの方策なのだと思います。その傍らで、次のステップに進んだ人が … つまり、しゅんかんさんが … 暖かく見守りながら、ご自身は前に進み、その功徳を御母堂様に回り向かわせればよろしいのではないでしょうか。

修行というのは、自分のためではなく、そこで得た功徳を、今度は修行を出来ない衆生に布き施すところに菩薩の精神があるのだと思います。
生育で親に受けた恩に報いる方途でもあろうかと存じます。

僭越ながら、一言申し上げました。

3131藤川一郎:2007/01/26(金) 11:14:22
余談を1つ。

常住御本尊について言えば、顕正会が複製して有名な「日布上人」は数千幅と言う脅威な数の直筆本尊を書かれております。
その中の一幅と言われるものが某寺院の御虫払に出てきますが、たくさん書かれていても、かなり丁寧に書かれております。
その他でもたくさんおられます。
最近では、立宗750年の時には、もの凄い数(累計1万以上)の申請が出たようです。
ある方の例を出せば、前年(平成13年)に申請した御本尊が、平成14年の4月に下りてきて、それを板にするのに半年と言う長いスパーンとなってました(これはA仏具店の混雑もありますが)。
「日顕上人が腰を痛められたのは1日に信じられない量の御本尊を書かれたためでは?」と言う真偽不明の逸話がある位の数だったそうです。

3132犀角独歩:2007/01/26(金) 19:49:32

自己レスです。

> 御母堂様は認知症とのこと、思索の猶予はわずかかもしれません


そのようなつもりではなく、厳正な考証は、婚儀が必要ですから、馴染まない程度の意味で記したのです。しかし、文章が拙く、これは、心ない発言と誤解を招きかねませんね。。

薬も発達し、特に認知症の有効薬のドキュメント過日、テレビで観ました。
症状が進まないこと、良くなることを、お祈り申し上げます。
失礼いたしました。

3133独学徒:2007/01/27(土) 00:53:27

犀角独歩さん、横レスにて失礼致します。

>一体三宝…曼荼羅の真前に祖師像

石山における『一体三宝』は、大曼荼羅本尊一体のみの勧請をいうのではないでしょうか?
たしか曼荼羅の真前に祖師像を安置する方式は、『住持三宝』であったと思います。
石山でいうところの『別体三宝』は、他宗でいうところの『現世三宝』のことで歴史上存在した三宝のことですね。ここでいうところの「法宝」は仏の音声であり、「僧宝」は最初の継承者ということになります。
『住持三宝』の場合、法宝は経典となり僧宝は貫首・住職ということになります。
石山ではこうした通仏教の三宝義が混ざった解釈になっていますので、創価学会との間で「僧宝」に法主を含むのかどうかなどという議論が起こるのでしょう。
『現世三宝』(別体三宝)の義からいえば「僧宝」に法主は含まず、『住持三宝』の義からいえば「僧宝」とはまさしく法主を指すということだと思います。

3134犀角独歩:2007/01/27(土) 08:03:02

独学徒さん

> 『住持三宝』の義からいえば「僧宝」とはまさしく法主を指す

執行師は『初期の興門教学に於ける本尊意識の展開』で

――弁阿闍梨の筆録したる「日有御談」には
「上行菩薩の後身日蓮大師は九界の頂上たる本果の仏界と顕れ、無辺行菩薩の再誕日興は本困妙の九界と顕れ畢りぬ」
といって、暗に宗祖脱仏、派祖本仏の思想を洩らしている。なお日要述日我記の「顕仏未来記聞書」によれば、日要上人当時、大石寺には「大聖冥益・当住顕益」の思想があったものゝようである。 ――

と記しております。
富士門下に住持三宝を当て嵌めれば、独学徒さんが仰る筋だと思います。

なお、石山義における一体三宝=御影式、別体三宝=客殿式という記述は、たしか『日蓮正宗要義』のなかに載っていたと記憶します。いま、この本を人に貸しており、手元にありません。もし、お持ちでしたら確認してみてください。或いは、わたしの記憶違いかも知れません。その節は、また、ご教示いただければ幸甚です。

なお、当掲示板で言えば、文殊さんが『現代人が納得できる日蓮教学』579に「生御影と曼荼羅本尊一体三宝奉安」と、わたしの同様の論法で記されていました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/579

石山には三宝を三義に立てる考えはなかったと思うのです。
富要で検索すると横浜問答で、蓮華会側の発言では見られます。

「釈尊を仏宝とし題目を法宝とし宗祖等を僧宝…三宝一躰にして差別なく互に冥じ相彰はして一心の本躰を理躰法躰と名け・一心の本性を覚性仏宝と名け・理智和合を僧宝と名く・故に一躰といふ、此の中一躰三宝は理にして相にあらず事にあらわれ相を現ぜば則ち別相の三宝…一躰三宝の徳相をとどめたるが住持の三宝」

日亨氏にも「未来の学問者の為め殊に当寺の住持三宝の為に」という使用は見られますが、これはたぶん、「当寺の住持(住職)と三宝」の意味だと思えますので、三宝三義とは違うでしょう。

恐縮ですが、ご確認いただければと存じます。

3135独学徒:2007/01/27(土) 13:00:29

犀角独歩さん、確認しました。
犀角独歩さんの仰せの通りでした。

日蓮正宗要義307頁、日蓮正宗要義改訂版317頁に、御影堂の勧請形式が「一体三宝」に含まれるとの記述がありました。

御影堂の勧請形式を「住持三宝」としたのは、柳澤宏道師の「石山本尊の研究」の記述でした。

しかし通仏教の方程式からいえば、柳澤宏道師の著作の記述が正しく、新旧日蓮正宗要義の記述はどうかと思います。
宗門公式見解の書がこのような記述では、創価学会との「僧宝」問答は起こることは不思議ではないです。

通仏教上では、『現世三宝(別体三宝)』と『住持三宝』の関係は以下の通りといわれます。

現世三宝(別体三宝)=歴史上存在した三宝

仏法=釈尊
法宝=釈尊の説法(音声)
僧宝=最初の付法者(摩訶迦葉?)

これが住持三宝では

仏法=仏像
法宝=経典
僧宝=貫首・住職

となります。以上、インターネット資料参照「三つの宝)(http://www.plinst.jp/musouan/aoyama13.html

仮にこの方程式で石山の日蓮本仏・曼荼羅法宝を『住持三宝』に配当すれば、

仏法=日蓮御影
法宝=板曼荼羅
僧宝=法主・住職

が適当ではないかと思います。

しかし石山自体が御影堂の勧請は『一体三宝』と公言している以上しょうがないですね。

3136しゅんかん:2007/01/27(土) 16:01:13
独歩さん、有難うございます。

>>3130すごいですね!ここ数日、曼荼羅にはもうあんまり捉われないでもよいのでは?
と思ったりもしていた所なんです。
母は症状に波が有り、46歳になる私の細君にもう直ぐ赤ちゃんが出来るんやなあ、と言ったり。
亡くなってもう20年もなる亭主(父)は今何処に居てるんだと云ったり、食事を取っていても
食していないは常ですが経本を見なくても方便品、寿量品を正確に読誦します。
昨年のお盆にわけあって母のご本尊さまを私の家に持ってまいりましたが、「このご本尊さんは私のんや
からな」と云っています。ですから、母には私が此処で学んだ事を伝えませんし生存中には曼荼羅を
掛け返えたりはしないつもりです。なにより私も勉強中で考えも一向にまとまりませんし。
>修行というのは・・・
〇このお言葉胸にしっかりと刻んでおきます。有難うございます。

>>3132心ない発言と誤解を招きかねませんね。
〇いいえ、前後段の温かいお言葉でそのような意でない事は読み取れております。
〇余談!!テレビを御覧になられるのですか?!!何時睡眠を・・・

3137しゅんかん:2007/01/27(土) 16:06:39
藤川一郎さん、ご教示ありがとうございます。
これからも宜しくお願い致します。

3138しゅんかん:2007/01/27(土) 17:59:12
独学徒さん、はじめましてご教示ありがとうございます。
HP拝見させて頂いております。博学で敬服いたしております。

ご教示お願いいたしたく、此処に記しておりましたがご迷惑かもと思いまして
つぶやきすれっど2
2368へレスし、つぶやきと致しました。
未熟者ですがこれからも宜しくお願い致します。

3139犀角独歩:2007/01/28(日) 10:18:06

独学徒さん

今回、しゅんかんさんからご質問を受け、独学徒さんから疑義を呈していただき気が付いたのですが、石山で言う一体三宝というのは、たしかに一体ではなく二体になっていますね。二体であれば柳澤師の言うように別体ということになりますね。

日蓮の段階で考えます。一体仏で、その前にはたぶん法華経典を置かれていたと思います。『木絵二像開眼事』の意義から考えるとき、法華経典は宝宝ではなく、梵音声でした。
もちろん、日蓮自身は漫荼羅を拝んでいたとは到底思えません。

では、日興の段階ではどうか。日興は漫荼羅を本尊と見なしたのではなく本尊と見なしたわけです。漫荼羅を法と見なしたか、どうでしょうか、この点は。
仮に法と見なしたとします。そうなれば漫荼羅は法宝です。では仏宝と僧宝となりますが、つまり、これは一尊四士に契当するわけでしょう。日興に三宝奉安の意図があれば、漫荼羅を懸け、その前に一尊四士の仏像ということになります。

しかし、実際は、漫荼羅を本尊と奉懸し、さらに御影像を懸けていたように思えます。
かつて、愚鈍凡夫さんがご指摘なさったことでしたが、御影は塑造彫刻の類ではなくではなく画であったのではないかということでした。これは「正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人の御影堂に於いて、日興に給はる所の御筆本尊以下廿‘舗’、御影像一舗並に日興が影像一‘鋪’御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ」という記事に置いて、本尊と御影を‘舗’と数取りしています。もし、これが造立像であれば、躰と数えられるはずだというのがその根拠です。鋭い指摘であると思ったものでした。

日興は仏像を奉安していたかどうか、わたしは少なくとも初期はしていたと思っていますが、もし、していなかったすると、重須には漫荼羅本尊と御影絵像が奉懸されていたことになります。
この場合、石山がいう御影式(一体三宝)といった漫荼羅の前に御影像を置くことはできません。できるとすれば、二枚の掛け軸を左右に並べ懸けることでしょう。

もし、日興に三宝奉安の意図があり、かつ日蓮本仏という教学も、漫荼羅が人法体一という教学もなかったとき(実際なかったでしょう)、いったい、この奉安は何でしょうか。まことに美を尽くさざるものと言うほかありません。

先に『木絵二像開眼事』における日蓮の開眼義は挙げましたが、これはつまり、仏像に三十二相八十種好を完備させる要件としての立論でした。
けれど、仏像の開眼とは実際に目に瞳を書き込むことでした。脇士のない仏像もあります。このような事例を考えるとき、そもそも、宝前と称される奉安において三宝が意識されていたのでしょうか。わたしはされていなかったと思うのです。

四菩薩副造がない、さらに漫荼羅も奉献しないという実際の有様から考えるとき、弟子達は、宝前にどのように三宝を見いだし得たのでしょうか。いや、もっといえば、宝前に三宝を見いだす必要などあるのでしょうか。宝前にあるのは仏のでよく、その御前で説かれた法を誦し唱え、その当事者が僧宝であって、整うところではないかと思うわけです。

宝前は三宝、わたしはこの点に、改めて疑問を懐いた次第です。

ただ、漫荼羅を見れば、そこに図された妙法蓮華經は法、釈迦は仏、四菩薩は僧と見なせ、となれば、三宝は具えていることになります。しかし、だから一体三宝本尊であるとえるかどうか、この点に消極的な気分です。

3140犀角独歩:2007/01/28(日) 15:42:01

しゅんかんさん

行儀が悪いのですが、飯を食うときだけはテレビを観ます。
朝は遅くとも、4時5時には起きますが、夜は11時から3時の時間帯はしっかり寝るようにしています。この時間の睡眠は、体に善いという実感があります。

3141独学徒:2007/01/28(日) 22:21:34

犀角度歩さん、

>正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人の御影堂に於いて、日興に給はる所の御筆本尊以下廿‘舗’、御影像一舗並に日興が影像一‘鋪’御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ

これは要法寺中興の日辰の祖師伝の記述だと思いますが、少々次代が下っているものと感じます。
むしろ日順雑集に「御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり。」『御影を造らせ』とあることを考えれば、日興が拝したものは日蓮木像であろうと考えます。

この日興の振舞は、日蓮本仏圏にとっては『住持三宝』として十分説明がつくものと思います。
つまり、

仏法=日蓮御影
法宝=大曼荼羅
僧宝=日興

です。
『住持三宝』ですから、「日興」の部分が貫首・住職となって現在まで続くという考えです。
なので、私はてっきり石山の御影堂形式は『住持三宝』を顕していると思い込んでいました。
しかし石山は『一体三宝』というわけです。これはやはり「人法一箇」の思想の影響ではないでしょうか。

北山や要法寺は広布達成時は仏像造立で、釈尊久遠本仏義に立っていますので、こちらはむしろ曼荼羅一体安置をもって『住持三宝』とすべきなのかと考えます。
釈尊久遠本仏義に立つ、要法寺や北山が、日蓮御影と曼荼羅を持って本堂に安置し、『住持三宝』の形をとっている方が矛盾しているように感じます。
郷門や石山あるいは西山は、日蓮本仏義ですので、その思想自体に問題はありますが、一応、教義と三宝奉安形式は一致していると思います。

3142れん:2007/01/29(月) 07:52:49
横レス失礼します。
犀角独歩さんが引用された日代宛て日興置状の重須盗難の資料は、日辰師祖師伝が初出ではなく、もう少し時代が遡ると思います。石山六世日時談「大石記」に日代宛て日興置状の存在に触れてますので、南北朝末期には置状は成立していたとみるべきで、日順血脈には大体同時期の盗難事件の記述がありますから、当時の盗難品に関する記述として参考資料として扱えると思います。
日順雑集から、池上の御影とそれ程変わらない時期に日興が日蓮御影木像を造ったと思われ、また日興置状から、日蓮の絵像もあったということになるのでしょうね。

3143犀角独歩:2007/01/29(月) 09:38:38

そうすると、日興の往時、すで日蓮木像があったということになるわけですか。なるほど。この点、ちょっと、最後に記します。

独学徒さん

> 日興の振舞…日蓮本仏圏…『住持三宝』…仏法=日蓮御影/法宝=大曼荼羅/僧宝=日興

これは石山では下種三宝です。住持三宝ではないでしょう。
「住持」というのは、いまの言葉で言えば、住職ですね。
ですから、執行師が指摘されたように、当住に重があるわけですね。
日蓮の段階では釈迦冥益・日蓮顕益、日興の段階では大聖冥益・日興顕益、歴代「法主」の段階では日興冥益・当住顕益とスライドしていき、さらに隠尊冥益・当住顕益とまで、位置づけられる論理です。要するに「法主」の今日蓮論であり、石山能化が言った「御法主上人猊下は戒壇の大御本尊と不二の尊体」などという表現は、本仏でその彫刻と人法一箇であるはずの日蓮のオハコが石山住職に置き換えられてしまっています。つまり、これでは、日蓮は本仏の脱仏で、下種仏が当住であると暗に言っているようなものです。まさに当住顕益です。

元来、三祖に絞る石山教学は、保田の日要の扱いなどと、この点でやや相違していたとわたしは考えています。ですから、住持三宝という考えが、石山に根付かなかったのでしょう。しかし、日顕さんの段階ではそうではなくなった。以上のような次第ですから、当住三宝と下種三宝は、ややニュアンスに相違があります。

なお、わたしが宝前の三宝と言ったのは、日興在世当時、宝前は漫荼羅本尊(法宝)と日蓮像(五老方義:僧宝/石山義:仏宝)で、三つが揃わないという意味です。
石山の現行の客殿式は、先に独学徒さんが挙げた次第ですから、下種三宝を並べた形です。この点、教義の是非は別として、理路が会っているというのは、ご指摘のとおりであろうと思います。

しかし、日興は漫荼羅本尊と日蓮像を置いただけであれば、二宝にしかならないという指摘をしたわけです。日興は宝前のなかに漫荼羅本尊、日蓮像に並んで座っているわけではなかったでしょうから。

さて、では、仏像を置いたかどうか、置けば、揃うが、置かなかったというのが大方の富士義ですね。

石山のような客殿奉安は、他では、あまり、見られません。となると、仏壇に、そもそも三宝を具えさせようなどという考えは、従来の教団にも、当初の日蓮・日興の段階でもなかったのではないかという指摘をしたのが先で言ったことです。

3144犀角独歩:2007/01/29(月) 09:39:06

―3143からつづく―

れんさん

> 日興が日蓮御影木像を造った…日蓮の絵像もあった

この二つはどんなふうに扱われたのでしょうね。
ありのままに日興の言かどうかわかりませんが

「日興が云はく、先づ影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為なり、是に付け非に付け有りのまゝに移すべきなり。之に依って日興門徒の在家出家の輩、聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体に異ならずと雖も大概麁相に之を図せり、仍って裏に書き付けを成す云云。但し彼の面々に図する像一つも相似せざるの中に、去ぬる正和二年日順図絵の本あり、相似の分なけれども自余の像よりもすこし面影有り。而る間後輩に彼此の是非を弁ぜんが為に裏に不似の書き付け之を置く」

・善いところも悪いところもそのまま描け
・評議して年月を書け

これは尊像というより、もはや記録ですね。

たくさん書かれたり・造られたりしたけれど、どれも似ていない、そんななかで正和2年に日順が描いたものは、少しは面影がある。でも、のちに誤解があるといけないから、裏に「似ていない」と書き付けたというわけですね。

この文章が信頼できるものであるとすれば、本当に日興は御影像を造っていたんだろうかという疑問が彷彿とします。だいたい、ここまで厳しいことを日興が言っていたとして、(これは言っていたでしょうが)では、日興が造らせた日蓮木像があったとして、どんなに似ていたのか?、似ていたのであれば、その像を写生すればいいではないかという疑問が生じるわけです。

自分の造った木像だけは僧宝の意義を有する尊像だけど、あとはみなスケッチ、日付をちゃんと入れとけ、似てないと書いた?

本当にそんな遣り取りだったんでしょうか。

むしろ、日蓮の面影を写すものは何もなく、だけど、あとからあとから、まるで似てない絵像が、日蓮だといってたくさん造られる、これは困ったことだという日興の心中と見たほうが自然と感じます。すると、そもそも日興造立の日蓮像なんて、ほんとうにあったんだろうか。あったとすれば、「儂のだけが似ているぞ」と言っているようなものですね。これも似てないけれど、だけど、これは僧宝日蓮像でいいんだと、そんな強言を日興がしたかどうか。
どうも、すっきりしません。

3145犀角独歩:2007/01/29(月) 10:05:58

でも、以上のようなわたしの疑問からすると、日興所蔵の日蓮画像を拝んでいたという論法も成り立ちませんね。うーん。
お二人のご賢察を期待します。

3146れん:2007/01/29(月) 11:34:02
犀角独歩さん
石山文書に「日興御さく釈迦」とありますから、日興は日蓮と同じように釈尊木像を安置していたろうと思います。信用できる日興文献では、日興自身は釈迦本佛観で、日蓮勝釈迦劣という意味での日蓮本佛観は有さなかったと思います。
しかし日順雑集に写本を有する垂迹堂棟札に三堂の一つとして「日蓮聖人御影堂」とあり、独立した堂宇としての「御影堂」には日蓮の木像の御影が安置されていたのではないかというのが、私の現時点の見解です。
日順雑集には日興が身延在山中の事績として、日蓮の住坊を御影堂にして、御影像を安置したとあり、雑集の当該文のニュアンスから、日興が身延の御影堂に安置したのは独学徒さんのご指摘の如く絵でなくて木造の御影のようですので、独立した堂宇としての「御影堂安置は日蓮木像御影」の傍証となるかもしれません。
それに対し、絵像の方は、大師講に天台大師の絵の御影が懸けられていたように、日蓮の追善の十三日の講・法要などにおいて懸けられる用途もあったのではと思います。
あと、殊の外、日興が日蓮御影を尊重した理由は、もちろん日蓮本仏義の解釈からではなく、むしろ、台当違目の上からの処置だったのではと愚考します。

3147きゃからばあ:2007/01/29(月) 11:49:36

ちょっと脱線します。

3127犀角独歩さん

>常住本尊となれば、一宗の代表者に自分専用の本尊を書いてもらうわけです。それ相応の奉供養を伴うことでしょう。

常住本尊の下付についてですが、『教師必携』には「10年以上の者」とあった記憶があります。
また法道院では「1年に1人以上の折伏で10年続いた者」と定めていました。
ところが本山近くの檀家には「3年御形木」と言われ、入信して3年は御形木でその後常住本尊が下付されます。あくまでも願い出があればです。
参考までに常住本尊(信徒用)の御供養ですが、
冥加料(奉御供養)10万円以上
板の場合、彫刻代等50万円
紙幅の場合、表装代等8万または10万5千円(大きさの違い)

3148きゃからばあ:2007/01/29(月) 12:05:53

さらに脱線します。

よく内拝は強信な人だけに許されると言われています。
しかし内拝できるほとんどの方々は御形木本尊です。
さて本門戒壇の大御本尊の内拝と常住本尊の下付とではどちらが強盛な信者なのでしょう。
言い方が変でした。
常住本尊を下付してもらえない信者を強信者として内拝させて、なおかつその方々から御供養を受け取るのはやっぱり変でしょ。
内拝できる人はすべて常住本尊を下付させるか、または常住本尊の下付者以外は内拝させない。
これなら理屈が通るのだけどなぁ。
じゃないとやっぱり大御本尊は偽物、と思いたくなっちゃうよ。

3149独学徒:2007/01/29(月) 21:48:40

犀角独歩さん、

>これは石山では下種三宝です。住持三宝ではないでしょう。
ええ、これはあくまでも通仏教上の住持三宝義をもとに、日蓮本仏論圏の思想を、私なりに当てはめてみたものです。

>「住持」というのは、いまの言葉で言えば、住職ですね。

私は先に紹介しました、青山先生の「三つの宝」で示されている『「住持」とは「法に住し、法を護持する」という意味です。』という解釈を通仏教上の概念として依用しました。
ここでは、「住持」とは「法に住し、法を護持する」との意ですので、必ずしも「住職」の意としては使用していません。この意味からすれば、日蓮本仏論圏にとっては、まさに日興の振舞は日興在世における『住持三宝』の姿と主張することも可能です。
もちろん当の石山では、これを『住持三宝』の姿としていません。私はむしろそのことが不思議に思えました。

>日興は宝前のなかに漫荼羅本尊、日蓮像に並んで座っているわけではなかったでしょうから。

漫荼羅本尊、日蓮像に日興が並んでいた場合は、『現世三宝』(別体三宝)になるというのが私の見解でして、その意味では、日興在世の日興の振舞は現在の御影堂式であり、『住持三宝』の形式であると思いました。
しかし繰り返しになりますが、当の石山は御影堂式を『住持三宝』といわずに、『一体三宝』といっています。

>石山のような客殿奉安は、他では、あまり、見られません。

私は石山の客殿は、ビデオと写真でしか見たことがありませんが、確かに石山の客殿は変わっていると思います。
他の富士門本山クラスも客殿は、曼荼羅を中心に日蓮(向って左)・日興(向って右)という勧請はありますが、私の直見した限りでは皆「絵像」です。
しかし石山は「木像」ですね。
私は「絵像」に関しては、その描かれ方からして、仏像もしくは曼荼羅の脇に置かれたものと思います。
「木像」と違って、水鏡にしても波木井の御影にしても、古い「絵像」は真正面を向いていません。これはつまり真正面に奉掲するものとして書かれたものではないからだと思います。
その意味では、石山以外の富士門本山で、曼荼羅の両脇に「絵像」を配置するやり方は、向きとしては間違っていないと思います。
しかし石山の客殿は「木像」ですので、皆真正面を向いています。これは本来、何かの脇に配置するものというよりも、真ん中に位置するものと思います。
もちろん、犀角独歩さんご指摘の通り、日興在世には石山の客殿形式はもとより、富士門他山で見える勧請形式もなったと思います。

れんさん、

「大石記」のご教示ありがとう御座います。
たしかに「数通の御譲リ状」などの記述がみえますね。
興風談所の「日興上人全集」にて「日興置状」の頁を見ると、註に「本状における重須本門寺の重宝盗難事件は、日代師関係の八通遺状の史料的価値を考慮に入れれば事実とは認めがたい。」とありますので、かなり後世のものかと思っていました。
しかし「大石記」にその存在を示唆する記述がある以上、れんさんご指摘の通り、「祖師伝」よりもずっと次代を遡れる事になりますね。

>石山文書に「日興御さく釈迦」
これは「家中抄」でしょうか。ここまで次代が下ると、どうなんでしょう。
私としましては、一寸依用に耐えない感があります。

私は日順・日代の思想に、仏像造立を広布の時としていることが観取されるということは、日興も日興在世には仏像の造立は無かったのではないかと考えます。

本門本尊である本仏・釈迦仏像は、広布の時、国主によって造立されるものとの思想であったのであれば、広布に至らないうちは、三宝は揃わず、二宝をもって時を待ったのではないかと考えます。

3150れん:2007/01/29(月) 22:42:16
独学徒さん
雪山書房版の富士宗学要集の口絵に筆者不明の切紙目録があり、その中にありましたので一応引用しましたが、成立時代が分かりませんから、これはややフライングでしたね。
石山に日蓮の真蹟のある宝軽法重事に「寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず」と逆説的に本門寺構想の一端が示されています。この日蓮の書いた文章の「寿量品の釈迦仏の形像」を「かきつく」ったものを安置する堂塔が日興がのちにいう本門寺の原型ということになるのでしょうね。
日興が釈迦像を所持していたか否か、資料が無い分わかりませんが、四十九院の供僧だった青年時代の日興が自作かどうか分かりませんが、持仏として釈迦像を所持していてもおかしくないと思います。まあ、現存しないのでなんとも言えないのですが。

3151犀角独歩:2007/01/29(月) 23:07:34

れんさん、有り難うございます。

木像がないと辻褄が合わないでしょうね。
お二方のご指摘は目が覚める思いがしました。
善いですね、こういった思いこみを揺らがせるご批正というのは。脳が若返る気がします。と言っても黴びかけていますが(笑)
釈迦仏像(仏宝)・漫荼羅本尊(宝宝)・日蓮木像(僧宝)と揃うわけですね。

日興木像のことが、先の盗難記に出てきますが、こうなると、独学徒さんがおっしゃるような住持三宝の線が出てきます。この場合、どんな奉安であったのでしょうか。大漫荼羅を挟んで日蓮日興という、いまの石山客殿のような具合でしょうか。


独学徒さん

「住持」を辞典で引いてみてください。
青山さんが仰っていることはどうか知りませんが、わたしが記したことは一般的な語彙の意味です。
住持という言葉があり、次に住持三宝という語彙が生じ、ついで青山さんの解釈という時系列です。

「法に住し、法を護持する」とは、まさに住職(当住)の責務だと思います。
たとえば、住職以外に、日興の時でいえば、日順でも誰でもいいですが、「我こそは法に住し、法を護持する故に住持である」と主張したところで、何言っているんだという話になりませんか。住持は、住職以外では意味をなしません。

それでも、「住持」が富要上で、この語句の使用が見られないと言うことは、この信仰圏では意識されていなかったと言うことでしょう。それを、その信仰圏で用いられない語彙で解釈しても意味はないと思いますが。

日精の記述はともかくとして、一尊四士を自身の義とした日興が一尊四士の仏像を奉安せず、それをした人間を「盗んだ」と非難すると言うことはあるのでしょうか。これはないとわたしは思います。故に日興は一尊四士像を祀っていたと思います。それをかき消したのは、その後継者ではないでしょうか。

いずれにしても日蓮・日興の段階で奉安を三宝を基本に考えるというのは、実状に沿わないと思いますが如何ですか。

だいたい、日蓮は一体仏のみでしたでしょう。四士をも副えず、御影もなし、漫荼羅も奉懸せず、日蓮の奉安は三宝具足であるはずはないと思いますが、この点はどうでしょうか。

3152犀角独歩:2007/01/29(月) 23:32:27

きゃからばあさん

お久しぶりです。
ぜんぜん、関係ありませんが、ブログで梵字のことを書いているとき「キャカラバア」を文献随所で見て、いまさら、すごいHNだと思いました。

しかし、石山の教師必携から引用とは恐れ入りました。
なんともマニアックな資料をお持ちですね。

実際の‘費用’はもう少し高いですよね。

形木、常住、内拝の関係、「なるほど」と納得しました。
これは確かにおかしいですね。

わたしが法華講で、登山したとき、一般信徒でも内拝はできても、「猊下」へのお目通りは限られた人だけ。これも逆じゃないでしょうかね。
今の調子じゃあ、「猊下」のほうが「御戒壇様」より上位の扱いとなってしまいますね。

3153独学徒:2007/01/30(火) 00:16:48

犀角独歩さん、

『住持』の語句の意味としては犀角独歩さんのご教示の通りと思います。
私がこれまでの投稿で用いたのは、一般論としての「住持」の解釈ではなく、青山先生らの解釈を通仏教の解釈と考えて依用し、それに日蓮本仏義を当てはめてみたものです。
これは石山義とかではなく、私の個人的な解釈としてです。あえて富士門の言を借りれば、柳沢宏道師の著作に御影堂の奉安形式をもって、『住持三宝』としていたということです。
私は青山先生の説明は、通仏教上の説明ととらえてもいいと思うのです。
以下は、法隆寺系の話ですが、『住持三宝』のとらえ方は、青山先生とほぼ一緒です。

http://www.pref.nara.jp/koho/kenseidayori2/tayori/t2005/tayori1712/1300tobira1712.html

青山先生も、法隆寺関係者も、『住持三宝』の「僧宝」を、貫首あるいは住職とはいっていません。
これを私は石山よりに「貫首・住職」としたわけです。
つまり、犀角独歩さんは、一般論としての「住持」の解釈を用い、私は青山先生らの解釈を通仏教の概念として依用しました。
この点ですれ違いがあったものと思います。

いずれにしましても、石山は御影堂の奉安形式を『住持三宝』と言っていない訳で、私の投稿したことは意味の無い内容でした。

>一尊四士を自身の義とした日興が一尊四士の仏像を奉安せず、それをした人間を「盗んだ」と非難すると言うことはあるのでしょうか。

私は、むしろ日興自身が造立する前に、他門徒のよって造立されてしまったからこそ、「盗む」などという感情的な表現があるのだと考えます。
日興が先に造立していれば、他門の所業は、むしろ日興の例に習ったと解するところだと思います。そうであれば、「盗んだ」などといわずに、他門に先駆したとして、もっと誇らしげな表現があっていいと思います。
そしてもし、日興在世に仏像造立なされていれば、日興直弟子でもある、日順・日代の思想の中に、広布時造立といった思想は起こらないと思います。
そもそも仏教で「仏像」を造らないこと自体が異質ですが、日興には本門本尊たる一尊四士は、広布の時、国主によって造立すべきといった拘りがあったように感じます。

開祖・宗祖を「僧宝」と位置づけるならば、三宝思想は、どの宗派も開祖・宗祖の滅後に起こる思想であると思います。
したがって、日蓮門下にとっての三宝は、日蓮滅後より起こるものと考えます。
その意味では、富士門では早くて日興の代ということだと思います。
そして日興の代には広布には至らず、故に本門本尊たる「仏宝」の一尊四士の造立には至らず、自身の拘りからニ宝をもって時を待ったのではないかと考えた次第です。

3154犀角独歩:2007/01/30(火) 09:04:54

独学徒さん

お気づきかどうかわかりませんが、独学徒さんとわたしでは住持のとらえ方が違っています。何が違うかというと、独学徒さんはこの用語を僧宝に用いられているとお考えになっているようですが、執行師が仰る「当住顕益」といった思想では、仏宝としての扱いであるということです。わたしはこの筋から記しています。より厳密に言えば、顕益、つまり、衆生済度の主役が仏から僧、それも当住(一宗の統率者、もしくは大本山格の住職)が主役になるという論法です。ここで言われる当住は、もはや僧宝ではなく、仏宝に匹敵しています。つまり、これは日蓮本仏論、さらに派祖(日興)本仏論を換骨奪胎して、当住こそ、顕益(仏宝)の主体者なのだというものです。この時点で、もはや、通仏教における住持三宝論は通用しないのです。
柳澤師の記述も、単に奉安という形式で論じられていますが、本質は以上のようなところではないでしょうか。

ですから、もし、当住三宝を石山に当て嵌めれば、別体三宝ではなく一体三宝となりませんか。この一体とは当住の一身です。これを具体的な教学相伝系譜で言えば、「唯授一人」です。

さて、次に日興一尊四士義と実際の造立ですが、仰るところは理路が整っています。説得性もあります。わたしのなかでは日興の仏像造立という考えは捨てていませんが、可能性として、このお考えには賛同します。

「日興には本門本尊たる一尊四士は、広布の時、国主によって造立すべきといった拘りがあった」とは、『本尊抄』からするとき、まさに至当なお考えであろうと存じます。また、日興は『本尊問答抄』の書写?者として知られるわけですから、題目本尊論者(法本尊ではなく、題目という文字を本尊とする)であったと考えることもできますから、持仏も有さなかったのかも知れません。
この点は、もうしばらく考えてみたいと思います。

> 日蓮門下にとっての三宝は、日蓮滅後より起こる

たしかにこの側面はあります。ただ、在世にも三宝観はあったでしょう。
僧宝は日蓮である、日興であるというのは総別では別の論です。
在家の立場からすれば、僧侶は国の宝であり、みな僧宝です。

たとえば、日蓮は『立正安国論』に「三宝在世百王未窮此世早衰其法何廃」などといいますから、通説としての三宝観は基本として有していたわけです。

先の話題の一尊四士とは、久遠五百塵点成道の釈尊と初発心の弟子上行等の四菩薩、所伝の妙法蓮華經から仏像造立を考えたものですね。日蓮がその門下に訓えた三宝観はここにあります。仏宝は久遠成道本師釈迦如来、法宝は所伝の妙法蓮華經、僧宝は上行等の四菩薩です。では、この法華久遠三宝観が滅後に発したかと言えば、そうではなく、既に『本尊抄』の段階で確定していたでしょう。

日蓮滅後に起こる三宝観は、では、この上行が日蓮である、ならば、日蓮こそ僧宝であるという前段を基礎にしたところでの変遷でしょうね。

ここから、宝前を、画・像で三宝を象る動向に進んでいったのだとは思います。軈て、傍流では、いずこからの影響で住持三宝を編まれ、さらに石山門下の下種三宝として定着していく流れとなっていったのでしょう。

一つ、重要な点は、日蓮・日興における三宝観は先に挙げた如く、久遠釈尊・妙法蓮華經・四菩薩であったのに、そこに御影信仰は興ったために、一尊四士の担い手を自負した日興自身がそれを撤廃する役割を果たしたと言うことでしょうか。しかし、これは富士方の動向で、むしろ洛陽では、一塔両尊四士等、新たな発展も遂げていったわけでした。

独学徒さんに沿って記せば、広宣流布の暁まで、一尊四士像を棚上げにしてしまったために、ついにこの仏像奉安は定着することもなく、忘れられ、漫荼羅一辺倒から、戒壇本尊という奇妙な考えが創案され、ついに彫刻板に仕立て上がられることによって、日興の一尊四士義は、完全に消え去りました。歴史の皮肉といったところでしょうか。

3155独学徒:2007/01/30(火) 22:46:20

犀角独歩さん、私の勘違いから発した議論にお付き合い下さり恐縮です。

以下、「三宝」の部分に絞って、もう一度私の考えを整理させていただきます。
私は『住持三宝』の「住持」は、仏・法・僧の三つ全てにかけて用いているつもりです。
つまり『住持三宝』とは、「住持仏宝」「住持法宝」「住持僧宝」です。
また私が依用したのは執行師の考えではなく、青山師の三種三宝の定義です。(以下、「青山定義」とします。)
そして「住持」の一般的解釈も用いませんでした。
私が「青山定義」を通仏教上の三宝観とした点は、早計であったと思います。

ちなみに「青山定義」の三種三宝とは、『一体三宝』『現世三宝』『住持三宝』です。
「青山定義」では、『一体三宝』は究極の真理そのものといいます。
また『現世三宝』とは、歴史上存在した仏・法・僧をいい、『住持三宝』は『現世三宝』の仏・法の二宝を常住の形象化した形で表現し、僧宝については、現在存在している二宝を常に持つ人物とします。
「青山定義」では、具体的に『現世三宝』と『住持三宝』を次のように説明します。

    現世三宝     住持三宝
仏宝  釈尊       仏像・・・・・・・・・・・>人間から木像へ
法宝  釈尊の説法    経典・・・・・・・・・・・>音声から文字へ
僧宝  在世の弟子    現在存在している和合衆・・>直弟子から当住へ

この「青山定義」に、富士門の日蓮本仏思想を当てはめてみたのです。
それを以下のように考えました。

     現世三宝    住持三宝
仏宝   日蓮      日蓮御影
法宝   日蓮の題目   大曼荼羅
僧宝   日興      貫首・住職

以上のことから、石山の御影堂式は『住持三宝』をあらわしているのではないかと思ったわけです。
また石山の『別体三宝』は、「青山定義」の『現世三宝』と意義を同じくすると考えました。
しかし、犀角独歩さんご指摘の通り、石山では御影堂式を『一体三宝』としているわけで、その時点で、私の意見は石山の見解とは相違していることがわかりました。
そして御影堂式を『住持三宝』とするのは、柳澤宏道師の「石山本尊の研究」の記述であることも確認しました。
私は御影堂式を『住持三宝』と呼ぶ分には、日蓮本仏論圏としては一応、教義と本尊勧請は一致していると思いました。
しかし、繰り返しになりますが、石山はこれを『一体三宝』といっているわけで、この時点で私の議論は終わったと思っています。

つまり石山の三宝観は、「青山定義」では説明できないものということです。

三宝以下のところは、実に仰せの通りと思います。
一尊四士が仏・法・僧の三宝を具備していると考えますと、「青山定義」でいえば、日興の義である一尊四士は『一体三宝』ということなのだと思います。
そうしますと、先に私は日興は広布に至らないうちは、二宝をもって時を待ったと記しましたが、この考えは成り立ちませんね。
むしろ広布に至らないうちは、師・日蓮を偲んで、三宝尊成就の時をまったということでしょうか。

3156犀角独歩:2007/01/31(水) 09:51:33

独学徒さん

青山説のレクチャー有り難うございます。

わたしは、三宝というのは、本来、信仰者の心の問題であると思っています。ブッダとダルマとサンガの三つを、宝として大切に思う心ということです。

原始仏教教団では、文字で記すことはされなかったわけですね。ダルマは口伝えと身の実践で伝承されたわけです。この段階で既に三宝はいわれていたと思います。いま生きておわしますブッダを宝として尊敬帰依し、お説きになるところをダルマを宝として帰依実践した。サンガは元来四衆ですから僧侶ばかりではなく、在家男女信者もこれに含まれました。共にブッダ・ダルマの元に衆の集まりをサンガという宝と考えたということです。

お釈迦様がお亡くなりになり、その後、100年は仏像と経典は造られなかったと言います。舎利崇拝は興り、仏塔信仰も徐々に興っていったでしょう。この段階でもブッダ・ダルマはサンガの人々の心の中にあった。

軈て、仏像と経典が造られるようになります。この辺りのことは一字三礼さんがお詳しいところでしょう。
像自体を仏と見なすようになるのはこの頃でしょうか。経典に特別な霊力を有すると言った聖典信仰も文字の発達を相互関係をしながら発展していくのでしょう。所謂「大乗」と称される運動は在家信者が主役であったと思います。菩薩は在家の姿であったでしょう。しかし、軈てそれも僧侶となっていきます。いつしか、三宝は仏・法・僧を指すようになります。

あまりわたしは詳しくありませんが、イスラム系などでは、聖典を聖堂に飾り崇拝の対象とするようなことが興りますね。このような影響かどうかわかりませんが、ダルマというより経典そのものの信仰が興っていきます。法華経創作はこのようなコンセプトに基づくとわたしは考えています。こうなってきますと、ダルマが経典とみなされていくことになります。仏像もそのようになって本来のブッダに取って代わっていったのでしょう。

仏教教団の場合、しかし、祀られるのは、やはり仏像だったのではないでしょうか。三宝を祀る習慣は本来なかったのでは、と記したのは、そのような意味です。仏像の開眼も、目に瞳を書き込む法要を意味しました。仏宝のみの奉安です。

しかし、日蓮は『木絵二像開眼事』で釈迦仏像の前に法華経典を置くことを開眼とします。ここに仏宝・法宝の奉安となっていきます。
『本尊抄』では四菩薩像を暗に示します。これを具体的に受けるのが日興であるわけですね。

日興が漫荼羅を本尊と顕彰するようになり、一尊(仏宝)四士(僧宝)像もあまり流行らなかった。そして、御影信仰を起きた。日蓮上行論が盛んになった。こうして、御影は僧宝像と見なされるに至ります。一経読誦を斥ける日興門下では法華経典の崇重は弱まっていったのでしょうか。漫荼羅も本尊として確定していった。法宝と見なされるようになっていった。そうこうするうちに宝前を三宝と整える風潮が高まっていったという歴史の経緯があるのではないでしょうか。

わたしは三宝というのは崇敬の対象を言うのだと思います。
それは像に刻まれたものであるとか、文字に表されたものであるとかではなく、かつてこの世に生きたブッダ、そこで説かれた教え、そして、それを必至に守り実践した人々そのものです。日蓮門下で言えば、祖師信仰となったのでしょうね。それが三宝尊信だと思います。その三宝尊信から、それを像に刻むのも善いでしょうし、文字として書き、描いたものを大切にするのも、それは善いでしょうね。

前置きが長くなりましたが、住持三宝というのは、日蓮宗では像として実際によくありますね。わたしは行学朝師像はよくみかけます。漫荼羅の前に置かれたり、並べられたりするわけですね。こんな延長に日興像というのもあるのでしょうね。

記憶が曖昧なのですが、どこかで左右に日興・日目像というのを見たことがあったような、それとも、石山客殿の奉安をそのように聞いたような。

この三宝という問題はしかし、僧宝は日蓮だ、日興だ、いや、僧侶みんなだ、いや、四衆だとやっていくうちに、どんどん、本来の僧宝四菩薩が薄まるという相乗効果があり、実際に歴史でもそうなっているのだと改めて思いました。

3157犀角独歩:2007/02/01(木) 15:01:46

れんさん、独学徒さん、彰往考来さん他 諸賢

『聖人御難事抄』、熱原法難、「戒壇本尊」がセットになって語られるようになるのは、いったい、いつ頃からでしょうか。富要で見る限り、こんな関連を述べる文献は見られませんね。

日亨氏『熱原法難史』(大正11年)で否定されるわけですから、それ以前にあったことになりますが、これを言ったのは誰でしょうか。

日柱氏の染筆、並びに常在寺蔵<248>日興本尊が口絵に載る、熊田葦城著『日興上人』を読んでみたのですが、上記の関係についてはまったく触れていませんでした。この書の発刊は大正14年ですね。

誰が言い出し、また、昭和以降、誰が再燃させたのでしょうか。

3158再挑戦者:2007/02/01(木) 20:25:50
 ゴメンします、。
 今も、ドーモ 不可解 なのは 、 日興さんが定めた「日代さん」です、。 されど、、、されど、、石山、、西山、、 保田、、などは、、ナニユエ に この決定に逆らった のでしょうか、、??
 日興さんの神通力消滅、、と言ってしまえば、、オシマイでしょうが、、?
 誠に 不可解 の起点 のような気持ちがしますです、。 諸悪 の 根源 の起点 がこの一点に 、、??? かも、、?

3159れん:2007/02/01(木) 20:38:25
犀角独歩さん
聖人御難事・熱原法難と彫刻の製作縁起をセットで繋げた記述をしたのは、石山三十一代の日因師が初見だと思います。因師の“宗旨建立三四月会合抄”上巻に、聖人御難事の文を挙げて釈する中に「蓮祖は建長五年より弘安二年己卯十月十二日に至て本門戒旦の御本尊を顕す故に出世の御本懐を遂げさせ給ふ、是故に二十七年と云ふなり。其間の大難、弘長・文永次下に之を述す。又法師品を引いて況滅度後の文を釈し御身に当てさせたまふ是なり。又弟子旦那を殺され追出等の無量の小難は御一期に亘るなり。熱原の二十四人等是なり」
今のところ、この因師の記述以前に、聖人御難事・熱原と彫刻とのセットで記述した石山歴代の記述は管見に入っておりません。
以前、顕正居士さんでしたか、寛師が彫刻を蓮師出世の本懐と記述した依文が聖人御難事であると記されておりましたが、寛師の記述は因師ほど露骨ではないようです。
昭和のこの神話復活を誰がしたかは、守備範囲外ですので、どなたかご教示頂ければ幸甚です。

3160独学徒:2007/02/01(木) 22:58:19

犀角独歩さん、何時もご教示ありがとう御座います。

『聖人御難事抄』、熱原法難、「戒壇本尊」の件ですが、恐らくれんさんの仰るとおりだと思いますが、一応私も調べてみたいと思います。
ただ、しばらく仕事の方がたてこんでいまして、日曜日まで毎日遠方まで日帰り出張となっています。
申し訳御座いませんが、少々お時間を下さい。

3161犀角独歩:2007/02/02(金) 07:15:14

れんさん、独学徒さん

有り難うございました。
参考になりました。
引き続き、よろしくお願い申し上げます。

3162犀角独歩:2007/02/02(金) 09:44:54

もう一点、お願いできますか。

今回、熊田葦城著『日興上人』を読んだのですが、このなかで熱原信徒の処刑は弘安3年4月8日であるとしていました。
この根拠は<81>日興本尊にその根拠を求めていました。
この本の発刊は大正14年、巻頭に日柱氏の揮毫が載り、常在寺蔵日興本尊も載せていますが、この二つは当然、石山の許可に依るのでしょう。日柱氏が全文を読んでいるかどうかわかりませんが、熊田氏が調査研究で達した日付と見るより、当時、石山ではその考えがあり採用したと見るほうが至当であると思えます。

富要で検索する限りでは、4月8日説には当たれませんでした。
4月8日説というのは歴代文書に載るものでしょうか。

3163きゃからばあ:2007/02/02(金) 10:12:44

私は書籍を実家に置いているので明言できませんが、
堀上人は『冨士日興上人詳伝』において4月8日としていた記憶がありますが…。

3164犀角独歩:2007/02/02(金) 10:45:17

きゃからばあさん

有り難うございます。
わたしもこの本を手元から離しています。
そうですか、日亨氏は、その立場ですか。

4月8日、説得性がありますね。
この筋で御伝草案を考えると、この処刑以降に日興上人と遊ばす本尊ということになりますね。

3165問答迷人:2007/02/02(金) 11:03:12

富士日興上人詳伝(昭和三十八年十月二十四日 第一刷発行 発行所 創価学会) 第三節 熱原の法難(九十一頁)

「これが記念曼荼羅書写の日は、かならず当時の命日とみるべきであれば、−中略ー神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。」

3168犀角独歩:2007/02/02(金) 13:26:56
問答さん

有り難うございます。
日亨氏は、4月8日が当然であると主張ですか。
こうなると、いまの石山の主張はまるで書き変わりますね。
まあ、日亨氏の間違いと言えば、現説は守れるとことになりますが、そうも言えないでしょう。

忘れ去られるのを待って変えてしまうというのが、『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』以降使われた石山お得意の常套手段でした。

弥四郎国重が波木井実長の実子であったと言ったこと
彫刻の材木は七面大権現に祈って手に入れたと言ったこと、
浮いていた池は七面大権現を祀る場所であったと言ったこと
弥四郎国重は神四郎であったと言ったこと
二千二百二十余年と書いてあると言ったこと
命日を4月8日と日亨氏が言ったこと
ついでに言えば、妙海寺大曼荼羅を臨写であるといったこと

みんなないことにして現説が成り立っています。
信徒会員はそれで騙せますが、そうはいきません。

ところで熱原の信徒はどうして処刑にされたのでしょうか。
蟇目の矢で射られても題目を唱えたというのは、事実でしょうが、もし、信仰を捨てないことで処刑になったとしたら、日禅、日秀、日弁、さらに日興、日蓮はなぜ処罰されなかったのでしょうか。

次の質問になりますが、熱原信徒が処刑になった理由は、皆さんは何であるとお考えですか。

3169犀角独歩:2007/02/02(金) 13:34:00

もう一つありました。

「本門戒壇の大御本尊」日蓮日興共同建立であると言ったこと

3170犀角独歩:2007/02/02(金) 13:47:55

○日亨氏、熱原法難に関すること

「熱原の法難は直に大聖人の御一身には関係ないが、御自身では一期の大難として法難終息として其普賢色身の表徴として本門戒壇の本尊を顕して末法万年に残された」

富要に以上のようにあります。「法難終息…本門戒壇の本尊を顕」すとあります。これを問答が挙げてくださった熱原法難史の記述に併せ考えると、本尊の図示は弘安三年四月八日以降になってしまいますが、本尊脇書で、日亨氏は「弘安二年十月十二日」と明記しています。この三つの記述はまったく整合性がありません。この点、石山ではどんな辻褄合わせをしているのでしょうか。

富要で、分与帖を引き、以下のように記しています。

「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥六郎」

しかし、熊田氏は『日興上人』では違っています。

「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥次郎」

手元に宗全がなく、確認できませんが、熊田氏と同じく、‘弥次郎’となっていた記憶があります。どなかた、この点をご教示願えませんでしょうか。

以上、追加の質問です。
皆さんのご賢察をご披露いただきたくお願い申し上げます。

3171犀角独歩:2007/02/02(金) 13:52:50

どうしてこう打ち間違いが多いのでしょうか。

誤)問答
正)問答さん

訂正をお詫び申し上げます。

3172れん:2007/02/02(金) 15:41:41
犀角独歩さん
熱原の信徒三人の処刑日は、今となっては特定できないと思います。堀日亨師は神四郎追善の日興書写曼荼羅の書写年月日により、四月八日に比定してますが、四月八日に関しては、日興は仏生日に漫荼羅を書写する例が蓮師命日に続いて多いことを考えると、必ずしも、神四郎追善の漫荼羅書写日のみをもって、三人の処刑日と断定するには根拠が薄く感じます。日興写本の現存する弘安三年四五月頃の日蓮遺文に(いま、出先なので原文に当たれませんが)「先もそらごとなり…」云々と、熱原についてのべた下りがあり、おそらく、本消息の書かれた弘安三年春には熱原法難は終息していたと思われますから、三人が処刑されたのは、法難が勃発した弘安二年九月から日蓮遺文から法難の終息がうかがわれる翌年春の間と、大雑把ですが推定するしかないと愚考します。
さて熱原信徒の張本三人が特に斬首という厳しい処断を受けた理由は、日蓮の宗教活動は、幕府から見れば、元冠にて非常事態体制下にあった幕府の挙国一致の宗教政策に従わずに反対・反抗する“悪党”勢力であり、特に駿河は得宗領でしたから、厳しい姿勢と処断をもって、得宗権力が反幕府の“悪党”としての日蓮門下信徒の弾圧を行ったというのが実際ではないでしょうか。幕府(内実は得宗権力)は熱原の農民信徒に対する厳しい処罰を通じて、日蓮やその門下僧俗等の反得宗権力・反幕府的な宗教活動を牽制しようとしたというのが、当たらずとも遠からずの“理由”でありましょう。
熱原の三人の中の弥六郎と弥次郎の表記の相違は、現存する日興正本「本尊分与帳」は痛みが激しく判読不可ですが、江戸期の北山歴代である日優の写本では、「弥六郎」ではなく「弥次郎」となっており、かつての日興正本では「弥次郎」であった可能性があり、弥六郎は石山の所伝で次を六と誤読した結果の誤伝の可能性の方が高いと思います。

3173きゃからばあ:2007/02/02(金) 15:45:21

大石寺にある三烈士の墓は、
中央 熱原住人 神四郎
右側 田中住人 四郎
左側 広野住人 弥太郎
となっています。(弘化3年、日英上人の代に改築)
また後ろの板碑にも日柱上人の文で同様の名前になっています。

3174犀角独歩:2007/02/02(金) 16:49:47

れんさん

有り難うございます。
わたしも処刑は弘安2年(1279)に行われたのではないかと思います。
その理由は日興が<81>本尊を書いた徳治3年(1308)は29年目に当たるからです。つまり、数え年ですからいまの数取りより1年早くなければなりません。すると、弘安3年からだと数が合いません。30年を期したとすればかくのごとくです。この年の敢えて仏生日を選んだということでしょうか。

先ほど、神四郎の墓がある本照寺に問い合わせたところ、こちらでは、いちおう弘安2年10月15日としているとのことでした。墓の発見者は「田中智学先生」だということでした。

ネットで少し検索したところ、本多日生氏に係る『統一主義』に「不借身命:熱原神四郎国重(1)知足道人」という項目を見ました。さて、弥四郎国重が神四郎という説と脈絡のあると思いました。

この熱原信徒の処刑が宗教弾圧であるという点をまったく否定する気はないのですが、わたしが解せないのは、では、日秀・日弁には、なぜ厳しい咎めがなかったのかという点です。となると、その罪状…あくまで名目上ですが…『滝泉寺申状』にいう冤罪をもってされたということになるのだろうかと思った次第です。

きゃからばあさん

有り難うございました。この情報も是非とも欲しいところでした。
こちらでは「弥太郎」ですか。弥六郎の‘六’と‘太’は似ていないことはありませんね。‘次’となるとどうなんでしょうか。しかし、「四郎」はぜんぜん違っていますね。歴史上の記述ですから、特に論おうとは思いませんが、仮に日宗全興尊部と富要で、違いがあるとなると、これは問題だと思います。両方とも同じ日亨氏に依るわけですから。

しかし、ここで熊田氏の『日興上人』に係る日柱氏の名が出るとなると、この時点では諸説紛々、まあ、特に統一見解を出さず保留といった状態にあったのでしょうか。いまのように決めつけてしまうより、歴史の扱いとしては、こちらのほうが自然な感じはしますね。

3175れん:2007/02/02(金) 18:38:07
犀角独歩さん
ご指摘の通り熱原法難の事件が冤罪というのが、日秀・日弁、日蓮・日興に塁が及ぶことがなかった一番の原因ですね。
弘安三年五月三日付けの窪尼御返事(御真蹟断片四紙 保田妙本寺蔵)に「さてはあつわらの事こんどをもつてをぼしめせ。さきもそら事なり…これはそらみげうそと申ス事はみぬさきよりすいして候…」とあって、この時期熱原の事件が冤罪であったことがはっきりしたらしく、法難そのものも終息したことがニュアンスとして伝わります。日興の本尊分与帳には熱原の張本三人の名乗りが「神四郎、弥五郎、弥次郎」であったことが本尊分与帳の日優写本でわかりますが、本尊分与帳と石山の三烈士の墓碑の名前が神四郎以外全く一致しないのは、やはり、石山の熱原の三人の墓碑(作り替えられる以前のものも含め)は相当後代に、正史が失われた時代に作成されたものとしか言えないですね。

3176犀角独歩:2007/02/02(金) 20:55:26

れんさん

なるほど。御説、一々に納得できました。
「そらみげうそ」は虚御教書でよかったのでしたっけ?

3177れん:2007/02/02(金) 21:46:00
引用した窪尼御返事の文中の「そらみげうそ」はご指摘の通り「虚御教書」です。
先に、きゃからばあさんが御提示下さった石山の熱原三烈士の墓標の名乗りの典拠は日精の日蓮聖人年譜や家中抄でしょうか。それ以前には開山日興の本尊分与帳以外、石山歴代の著述には熱原三烈士の名乗りに関する記述は皆無ですね。今でこそ熱原法難と彫刻の製作神話は結び付いていますが、彫刻の脇書にある「弥四郎国重」の初期の設定は波木井実長氏の嫡男であったわけで、その初期に作られた製作神話は熱原法難とは無関係であったわけですが、おそらく日因の時代に、聖人御難事の「出世本懐」「あつわら」に絡めて現行の彫刻神話の原型というべきものが形成されていったのだと愚考しております。

3178犀角独歩:2007/02/03(土) 09:34:42

れんさん

有り難うございます。

映画制作を少しかじったことがある人であれば、知っていることだと思いますが、モンタージュという技法があります。まったく関係のない場面をつないで物語を構成するものです。

感動して涙を流している人の映像がある。この次にヒットラーの映像をつなげ、連続して映写すると、ヒットラーを見て感涙しているように見えることになります。熱原法難と彫刻本尊は、こんなモンタージュされた物語であったわけですね。

かつて問答さん方と議論したことであったと思いますが、御伝草案の熱原法難の御本尊、条々事の弘安二年本尊、そしていまの彫刻、これらもモンタージュして創作された物語でした。

このようなモンタージュされたトリックを、れんさんは解きほぐしてくれました。感謝します。

3179彰往考来:2007/02/04(日) 12:26:51

熱原法難の処刑日について(その1)

各種文献資料を精査したところ管見に入った限りでは、熱原法難の処刑日については下記8種類があります。

①建治2年4月8日説
②弘安2年10月12日説
③弘安2年10月15日説
④弘安2年冬説
⑤弘安2年末説
⑥弘安3年4月8日説
⑦弘安3年3月説
⑧弘安3年説

このうち、④と⑤は実質的に同じ説と判断され、⑧は⑥もしくは⑦に包含されるものと考えます。これら諸説のうち、主要な説は③の弘安2年10月15日説と、⑥の弘安3年4月8日説の二説です。
ここでは、これらの諸説を唱える主要文献を紹介します。

【1】建治2年4月8日説
・荒木英一(清勇)『世界第一本尊論』平成14年覆刻版(初版大正12年:藤波印刷部)、興門資料刊行会、31頁
・堀慈琳(日亨)『熱原法難史』大正12年、雪山書房、187頁
上記2点の資料で建治2年4月8日説が紹介されていますが、富士市厚原にある本照寺の過去帳記載によるもので、上記2点の資料が建治2年4月8日説をとっているわけではありません。
『世界第一本尊論』31頁には「問ふ本照寺の過去帳に藭四郎氏の殉死を建治二年と云ひし所以知らざるや。答えて曰く是れわ(引用者注:“わ”は原文のママ)北山本門寺に於て徳治三年の興師の御本尊を。藭四郎氏の三十三回忌の爲に御認めありしと誤傳せし故。同年より遡れば建治二年が三十三年に相當するを以て建治二年の殉死とせしものと。北山よりの回答書にあり。これを見て安政年代に過去帳に建治二年の恂死と書入れしものなるべし」とあります。また『熱原法難史』187頁には、「本照寺の過去帖には建治二丙子年四月八日とある、過去帖の事であれば日附の誤謬(あやまり)はあるべきでない、次に月も大した間違ひはなからう、年代は何かすると轉寫(うつしかえ)の際(とき)に間違なき(引用者注:〝間違いなき〟と思いますが原文のママ)を保せぬで、先づ其四月八日だけは取るべきであらうと思ふ」とあります。両書は同じ大正12年の発行ですが、荒木英一氏の解説が的を得ていると考えます。なお後で出てきますが、堀慈琳『熱原法難史』では弘安3年4月8日説をとります。また美濃周人氏の『日蓮正宗・創価学会50の謎』1994年、三一書房によれば「現在の富士市厚原にある本照寺の住職は次のように証言している。 (中略) ●本照寺では、最後に神四郎たちの存在が確認されているその十月十五日をもって、毎年神四郎を供養している」(92頁)とありますので現在の本照寺は弘安2年10月15日説をとるものと考えられます。但し、『日蓮正宗・創価学会50の謎』の93頁に「本照寺の住職も、同じようなことを証言している。いわく、「十五日に農民たちは鎌倉に着きましたが、その後、当然、取り調べ、投獄、裁判などがあったはずですから、着いたその日に処刑されるということはなかったでしょう。一説によれば、神四郎たちが処刑されたのは、翌年の三月だということです」と。」とあり弘安2年10月15日説は少々疑問があり弘安三年三月説が有る旨の紹介をしています。(つづく)

by 彰往考来

3180しゅんかん:2007/02/04(日) 17:49:40
申し訳ございません、少し割り込ませて下さい。
彰往考来さん、はじめましてしゅんかんと申します。

本照寺の名称が出ましたので少し調べたのですが。
本照寺とは、日蓮宗静岡県中部宗務所教化センターHP
http://www.myouhou.com/home.html
内の寺院案内に本照寺が案内されてますが、こちらの寺院でしょうか。

3181しゅんかん:2007/02/04(日) 19:25:50
日蓮宗静岡県中部宗務所教化センターHP内の寺院案を拝見いたしますと。
興統法縁の寺院がやはり結構ありますね(お膝元なので)
独歩さんにお教え頂いたのですが、古くからの法華講のお方の仏壇には御影さま
(祖師像)を奉安されておられる方もおられるとお聞きしました。
そこで新たに疑問に思った事なのですが、上記HPの寺院案内で、
「当寺院は興統法縁で祖師像は読経像である」と記載されております。
確かに私が唯一拝見しました石山の末寺での御影さまも読経像でした。
身延派(一致派)等は説法像が大多数のようですね、
この件どなたかご存知のお方宜しくお願い致します。

下記の件もどなたかお願い致します。
法華講で仏壇に奉安されます御影様も読経像のものをされているのでしょうか?

3182独学徒:2007/02/04(日) 19:30:14

犀角独歩さん、少し時間ができましたので調べてみました。
江戸期の日蓮宗の史料です。
皆さんとは視点が違い、議論がずれてしまうかも知れませんが、境持院日通筆「日蓮門下系図」(興風談所)に富木常忍の御妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘であるとの記述があります。
また波木井実長の子・南部六郎次郎の系図上に熱原神四郎の名が見えます。
上記2点の画像を、後ほど談議所にアップさせていただきます。

引き続き、関連史料をあたってみます。

3183彰往考来:2007/02/05(月) 06:49:44

>3180しゅんかんさん

そうです。静岡県富士市厚原489の本照寺さんです。

3184彰往考来:2007/02/05(月) 06:51:31

熱原法難の処刑日について(その2)

スレッド3179の続きです。

【2】弘安2年10月12日説
この説は、弘安2年10月12日に顕されたとされる本門戒壇の板漫荼羅絶対視からくる原理主義的なものでしょう。御書である「聖人等御返事」の内容からもこの説は否定されるべきで、当の石山(日蓮正宗大石寺)でもこの説をとっていません。後で出てきますが現在の石山は弘安2年10月15日説をとっていると判断されます。
弘安2年10月12日説は下記資料に記載されています。
・手塚寛道『富士の教義(下)』昭和50年第5版(初版:昭和43年)、青金社、123頁
・安立行(玉井禮一郎)編著『日蓮大聖人自傳』昭和57年、墨水舎、413頁
・菅原関道『興風〔第5号〕』所収「開山日興上人についての私論(1)」昭和61年、興風談所、21頁
『富士の教義(下)』には、「滝泉寺申状には次のように書かれています。 (中略) 鎌倉在住の多くの御門下も百方手をつくされましたが、これらは一切認められず、黙殺され弘安二年十月十二日(西紀〜1279年)神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の首を切り、残りの十七人は追放したのであります。以上で熱原の法難は終わったのであります」(123頁)と書かれていて、いやはや実に単純・明快な論調で信じるものは救われるということでしょう。こんな単純な弘安2年10月12日説を今でも信じている人がいるのか疑問です。
『日蓮大聖人自傳』では、堀日亨師は弘安3年4月8日説であるが「富士門流の中では定説となっていない」(412頁)と指摘しています。そして日蓮正宗宗門は十月十五日説であるとし、日蓮正宗妙信講(現在の顕正会)の弘安2年10月12日説を紹介しています。安立行(玉井禮一郎)氏のいう妙信講(当時)の主張内容は「一方同じ日蓮正宗妙信講では、三人の斬首がおこなわれたのは十月十二日であるが、その〝私刑〟の事実が外部に知れたのが十月十五日であるとし、十月十七日にその報に接せられた大聖人が、日付を遡上って十月十二日とされて図顕されたのであるとしている(同講本部幹事村岡長治氏談)。」というものですが、安立行(玉井禮一郎)氏は同書415頁に「果たせるかな、十月十二日、神四郎ら三人は斬首され、それにもめげず残りの法華講衆は退転せず、強信を貫いた。十月十七日にその報に接せられた大聖人は十月十二日を永遠に記念すべく、すでに造立されていた「戒壇本尊」にその日付をあらためて〝画龍点晴〟されたのではなかろうか」と妙信講(当時)の主張内容と同じ自説を展開しています。しかしながら玉井禮一郎氏はその後の著書である『創価学会の悲劇』(平成4年第5刷(初版:昭和63年)、たまいらぼ)に、「私もかつて大石寺の板本尊をまがりなりにも信じていた時期があった。 (中略) そしてそのような信解のもとに、昭和五十五年四月、安立行というペンネームで『日蓮大聖人自伝』(たまいらぼ発行)という約五百ページの膨大な日蓮伝を世に問うたことがある(引用者注:『日蓮大聖人自傳』の発行日は昭和57年(1982)5月31日。また発行所は「たまいらぼ」ではなく「墨水舎」。墨水舎=たまいらぼ であるかどうかは不明ですが、発行所住所は両社とも同じです)が、いまそれを読みかえしてみると、大石寺の板本尊論の不整合性、不蓋然性に対する私の疑問のかずかずがあらためてもっともなこととしてうなずける。そこで拙著からその部分に若干の訂正を施してつぎに掲げる」(30頁)として引き続き修正版を再録していますが、そこでは弘安2年10月12日説は消え、堀日亨師の弘安3年4月8日説を紹介しつつ「大石寺流の中でも定説となっていない」(51頁)と指摘しています。そして日蓮正宗宗門の十月十五日説には、「十月十五日説が正しいとすると、板本尊の十月十二日との三日間のズレが説明できない」(52頁)とするに止めています。『創価学会の悲劇』を読む限り玉井禮一郎氏は堀日亨師の弘安3年4月8日説のようですが明確にそう書かれているわけではありません。(つづく)

by 彰往考来

3185彰往考来:2007/02/05(月) 06:57:31

熱原法難の処刑日について(その3)

スレッド3184の続きです。

菅原関道師は『興風〔第5号〕』(昭和61年、興風談所)所収の「開山日興上人についての私論(1)」21頁に、
「従来、十五日説(山川智応著『日蓮聖人伝十講』等)を主張する依據となるものは、『伯耆殿御返事』の「但シ熱原ノ百姓等安堵セ令(メハ)日秀等別ニ問注有ル可ラ不ル歟」(引用者注:原漢文。(メハ)は菅原論文にはなく『昭和定本 日蓮聖人遺文 第二巻』1676頁により補記しました。堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』での読み下し文は「但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか」(1456頁)とあります)の文であり、この書状が十二日付になっていることから十二日には三烈士が生存していると断定したようだが、それは誤断である。宗祖が身延で十二日に認められた書状をもって、同日の鎌倉の様子をその中に見い出すことは無理である。つまり、宗祖は、鎌倉の八日、九日の状況を知らせにきた使者(多分、十一日か十二日に身延に着いたであろう)に対して十二日に書状を認めているのである。そして竜泉寺申状とこの書状を携えた者が鎌倉へ向って、十四日・十五日に到着した。その時すでに処刑が済んでいる。それで十五日酉の刻に日興上人からの書状になり、身延の宗祖のもとに十七日酉の刻に到達したと考えられる。さすれば、十二日に生存の根據は何処にも見い出せず、十五日処刑説もかなり薄弱となる。もとより現実に、十二日処刑の当該史料もなく史実的に十二日に断定するわけにはいかないが、十二日〜十五日と巾をもたせて考えることが妥当であることは十分指摘しうる。ならば、大石寺としては、古伝による十二日処刑、それが戒壇本尊由来および意義を顕わすという『三師伝』の伝承が存するのであるから、それに立脚すべきではないだろうか。(現在宗門では富士年表によれば十五日説)」とあります。
しかしながら菅原論文の論旨は、〝最初に弘安二年十月十二日の戒壇本尊ありき〟であって、とても文献史学的な観点からみた時に耐えられる内容ではありません。ご自身で「十五日処刑説もかなり薄弱」、「十二日処刑の当該史料もなく史実的に十二日に断定するわけにはいかない」とおっしゃりながら、「十二日〜十五日と巾をもたせて考えることが妥当であることは十分指摘しうる」という論理の飛躍にはついていけません。論拠とするのが「古伝による十二日処刑」では説得力はゼロに等しいでしょう。“古伝”とおっしゃるのであれば、どの史料なのか、どういう内容なのか明確にすべきでそれをせずして「妥当である」もへったくれもないでしょう。「家中抄」には「同(引用者注:弘安)三年に法華宗の檀那三人をば頚を切ってぞ捨たりける」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』昭和53年、創価学会、152頁)と、明確に「弘安三年」とあるのと、いわゆる“古伝”との内容差はどう説明されるのでしょうか? なぜその“古伝”内容を日精師は「家中抄」に記載していないのでしょうか?それは、日精師が「古伝による十二日処刑」という内容をご存知なかったからでしょう。(つづく)

by 彰往考来

3186彰往考来:2007/02/05(月) 06:58:46

熱原法難の処刑日について(その4)

スレッド3185の続きです。

菅原関道師の論文(「開山日興上人についての私論(1)」)でいう『三師伝』の伝承とは何でしょうか? 『三師伝』とは「三師御伝土代」のことでしょう。「三師御伝土代」に「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』8頁)とあるのが「戒壇本尊由来および意義を顕わす」という伝承なのでしょう。しかしながら、どうしてこれが「十二日処刑」につながるのでしょうか? 興風談所の池田令道師は、『興風〔第16号〕』(平成16年、興風談所)所収の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」の444頁に、「はたして堀日亨師が述べるように、本当に日道は熱原法難のことを詳しく知らずに人数を誤記したのであろうか。私はそうは思わない。『弟子分本尊目録』の述作が永仁六年で日道十六歳。記念本尊の徳治三年は堀日亨師も言われるように日道二六歳である。とりわけ日興に薫陶を受けていた日道がこれらの記述を知らないで生涯を過ごしたとは思いづらいことである。おそらく『御伝土代』の作者は『弟子分本尊目録』や本尊脇書の記述を知らず、伝聞をもとに作文したものと思われる。それが日時であれば得心がいこう」と記述されているように、「三師御伝土代」は日時師が「伝聞をもとに作文した可能性」があり、文献史料として信頼するのは問題があると考えます。もっとも菅原関道師は『三師伝』の〝伝承〟としています。〝伝承〟ということは、最初から信憑性に欠けることを認めているわけです。

堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会)に、「飛曼荼羅(中略)は、三枚続き、全面興師の壮年時代の筆法、年代が文永五年十月十三日とあるの相応するが、書式はまったく弘安年度のでありて、日蓮の名は興師御筆で花押だけが蓮祖のであり、荒町より青葉城内に飛んで火難を避けたというよりも、大いに不可思議な御本尊であるが、ここには早くより座側にありては代筆をも勤められたことの証左にならぬでもない」(16頁) とありますが、これはおかしな内容です。堀日亨師は「三師御伝土代」に「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」とある内容の傍証に、「飛び漫荼羅」を持ってきたのでしょう。日精師の「家中抄」にも、「同(引用者注:弘安)三年に一百六箇血脈抄を以って日興に授与し給ふ、剰ひ此ノ書の相伝整束して日興に伝ふ、亦本尊の大事口伝あり是レを本尊七箇口決と申すなり、是の故に師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多し 日興書写の本尊に大聖人御判を加へ給へるあり奥州仙台仏眼寺霊宝其証なり」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』154頁)とありますが、弘安3年に蓮祖から興師へ本尊の口決相伝があり、御本尊の代筆を興師がしていたという証左には “文永5年”の「飛び漫荼羅」はなり得ませんし、師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多しという事を証明する弘安期の御本尊は存在しません。そもそも「飛び漫荼羅」は偽筆です(拙稿:「飛(と)び漫荼羅(まんだら)」に関する一考察 
http://fujikyougaku.fc2web.com/ronbun/tobimandara.htm
を参照ください)
から、そのようなものを証拠にかかげても墓穴を掘るだけです。

by 彰往考来

3187犀角独歩:2007/02/05(月) 09:59:26

独学徒さん

たいへんに興味深い資料のご呈示有り難うございます。

江戸期ですか。
つまり、この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか。
ご教示いただければ有り難く存じます。


彰往考来さん

久方のまとまったご投稿ですね。
これまた、興味深く拝読しました。

やや、所見。
『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』では「一日に本懐に達すと仰せ給い、徐ろにご用意の上十二日の日を選んで御本尊を顕発遊ばされたと拝するならば最も自然の事ではないか」(P27)と言っていました。また、ブログでも取り上げましたが、日興と共同建立だというのが細井氏の言うところでした。12日に日興宛に手紙を書いているわけですから、論として破綻していますね。

模造品であるとわかったいまでは、よくまあ、いろいろな屁理屈を考えこねてきたものだ、ご苦労なことだったというほかありません。

わたしは個人的に、『弘安二年十月十二日』と彫刻に刻んだ理由は、一つは熱原法難物語とのモンタージュ、それともう一つあると考えています。
そのヒントは日蓮の生誕日伝説です。『三師御伝土代』の「貞応元年二月十六日誕生」という一節以外、上古でそれを伝えるものがないために、門下一般で定着した説でした。この日にちを見れば、直ちにわかるわけですが、要は釈尊入滅の翌日です。実際に日蓮がこの日に生まれたかどうか、生まれたかも知れませんが、あるいは誕生日をこの日にしたという可能性もありますね。いまは、法律が厳しくなった行われなくなりましたが、むかしは出生届で日にちを変えて出すと言うことはよく行われていました。近代でもそうですから700年前となれば、もっとおおらかだったのではないかと思います。「お釈迦様の入滅が2月15日だから、その翌日としておこう。釈迦滅後、法華経を流布する意義を籠めて…」といった調子ではなかったかということです。

同じように、日蓮の遷化が10月13日なので、その前の日としようという底意があったのではないかという仮説です。誕生日と同じ調子であれば、10月14日でよいわけですが、では、何故前の日としたか。明星直見相伝があります。
「明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり」
日蓮が池の水面をのぞき込むと、自分の顔が写るはずが、大曼荼羅が写っていたという相伝です。日蓮が本当に語ったかどうか、まあ、語らなかったでしょう。もし、こんなことを知っていたとすれば、本尊集で見られるような、曼荼羅作風が10年間で劇的に変化していくようなことはなかったでしょうから。ここに明瞭に試行錯誤のあとが看取されます。
その真偽はともかく、この相伝からすれば、まず曼荼羅あり、次に日蓮という時系列が物語の根底にあります。(いわば本尊勝日蓮劣、そんなことは言いませんが、実際の扱いはそうなっています。信者では顕著で、日蓮像はそっちのけで漫荼羅ばかりを置いています)

そこからすると、日蓮遷化の日に曼荼羅造立日を置くという発想となります。年次として熱原法難とのモンタージュ、日付としての遷化1日前という2つのアイディアが「弘安二年十月十二日」伝説を生んだのではないか、やや想像を逞しくすれば、そんなところではないかと考えています。

「飛曼荼羅」のご高察は、当オフ会で発表していただいたものでした。
既に1年半前のことになりました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/21187099.html

最近、この曼荼羅の写真をしみじみ眺めたのですが、この「日蓮花押」
誰が模したものにしても、ひどいですよね、これは。
これを堀日亨氏は、日蓮の花押だと言ったわけですか。もはや、ほとんど、この人の曼荼羅の鑑識眼はゼロに等しいと思えます。
彰往考来さんが最後に、謙遜されながら、書かれた一節に、わたしは大いに賛同します。また、このことは、日蓮作と偽った「本門戒壇の大御本尊」、日興作と偽った「大石寺持仏堂安置本尊」にも言えます。

「…ちょっと調べれば偽筆とわかるのが「飛び漫荼羅」である。このようなものを "真筆だ"、"重宝だ" といって騒いでいたプロの宗教家たちはいったい何者なのであろうか。恥ずかしくないのだろうか。金儲けのためには何をやってもよいのであろうか。 故意か過失かは別にして詐欺行為に等しいことを自覚してもらいたい。すでに鬼籍(きせき)に入った人を含め、猛省(もうせい)していただきたいものである」

3188独学徒:2007/02/05(月) 11:36:03

犀角独歩さん、

はじめに昨日の投稿に誤記がありました。

誤:富木常忍の御妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘である
正:富木常忍の後妻・妙常日妙が駿河国熱原弥四郎国重の娘である

です。失礼しました。


>つまり、この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか。

「日蓮門下系図」では、日通が披見した身延や中山法華経寺の宗祖真蹟遺文や真蹟曼荼羅に関する記述があるので、日通は系図作成の為にそれらの諸山を遊学していたものと思われます。
「日蓮門下系図」では、富木常忍の後妻を駿河国熱原弥四郎国重の娘としていますので、あるいは中山門流にそのような伝承があるのかもしれません。

「日蓮門下系図」は玉沢妙法華寺第33世の境持院日通によって書かれたもので、日通は1702年に出生し1776年に没しているとありますので、18世紀中ごろに作成されたものであろうと思います。
「日蓮門下系図」は日通の師僧である能持院日週が作成した、「過去帳」の裏に書かれているもので、興風談所の解題を要約しますと、当時の日昭・玉沢門流の思想的影響の下に作成されているとのことです。
能持院日週は1677年出生で1714年に没しています。そのことから日週と日通の接点は、日通が12歳までの間の期間ということになります。内容的に見ても、師日週の残した「過去帳」の裏に、ある程度修行を積んだ日通が書き込んだものと思われ、日週・日通の共同・同時進行的に作成されたものとは思えません。
よって、「日蓮門下系図」自体は18世紀中ごろの作成ではないかと思われます。
その意味では、れんさんご指摘の大石寺歴代としては、31世日因師の活躍された時代とほぼ同時期ということになろうかと思います。

3189独学徒:2007/02/05(月) 11:52:25

犀角独歩さん、

「日蓮門下系図」でもう一箇所、熱原弥四郎国重に関する記述を見つけました。
こちらは系図の註より、「東鑑」(吾妻鑑)を参照したことがわかります。
後ほど談議所の方に画像をアップします。

3190犀角独歩:2007/02/05(月) 22:03:21

独学徒さん

有り難うございます。
少し考えてみます。

3191彰往考来:2007/02/06(火) 06:50:14
犀角独歩さん

>明星直見相伝があります。
「明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり」

明星直見相伝を詳しく知らないのですが「明星が池を見たもう」とあるこの日が弘安2年10月12日であるなら、すでに日宗研で発表していますが、弘安2年10日は金星(明星)が伏の時期で夜空に現れていません。従って史実的に論理破綻しているといえませんか?

3192彰往考来:2007/02/06(火) 06:52:18
>3191誤記訂正

誤:弘安2年10日は金星(明星)が
正:弘安2年10月12日は金星(明星)が

彰往考来   拝

3193顕正居士:2007/02/06(火) 08:03:01
>>3191
これは清澄寺の明星池です。
日寛師は建長5年4月28日としているそうです(取要抄文段)。

3194犀角独歩:2007/02/06(火) 08:34:16

彰往考来さん

『御本尊七箇相承』に

一、明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅なり云云、
此の事を横川の俊範法印に御物語りありしを法印讃歎して言く善哉々々・釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、日興は浪の上にゆられて見へ給ひつる処の本尊の御形なりしをば能く能く似せ奉るなり、仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ

日寛『六巻抄・三重秘伝鈔』に

御義口伝に云わく、自受用身即一念三千。
伝教の云わく、一念三千即自受用身云云。
御相伝に云わく、明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり云云。
本尊抄に云わく、一念三千即自受用身云云。
報恩抄に云わく、自受用身即一念三千云云。

同『同・当流行事鈔』に

我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや。謂わく、本門の大本尊是れなり。本門の大本尊其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖人是れなり。故に御相伝(御本尊七箇之相承)に云わく、中央の首題、左右の十界皆悉く日蓮なり、故に日蓮判と主付給えり。又云わく、明星が池を見るに不思議なり日蓮が影今の大曼荼羅なり。又云わく、唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち真実の十界互具なり云云。

同『蓮祖義立の八相』に

清澄山に池あり明星水と名づく、祖師行法の時定んで此の水をむすべば、毎夜明星天子池の辺に下りて、吾祖師を守りたまふ

同『観心本尊抄文段上』に

…明星直見の伝受…

同『観心本尊抄文段下』に

…「明星直見の口伝」に云云

同『開目抄下愚記』に

明星直見の口伝に云く「即ち明星池を望みたまえば、日蓮が影は即ち今の大曼荼羅なり」と云云

同『取要抄文段』に

御年三十二歳、建長五年癸丑の春の比、再び故郷に帰り、末法の本尊を祈りたまうに、四月二十八日の暁天に、古僧示して云く「汝が身を以て本尊と為すべし」と。即ち明星池を見たまえば、不思議なり、蓮祖の影即ち今の大漫荼羅なり。この時、正しく我が身は法華経の題目なりと知り、朝日に向って始めて南無妙法蓮華経と唱え、而る後、無量の巨難を忍び、三大秘法を弘む。文永八年九月十二日子丑の刻、竜口御難の時、名字凡身の当体即久遠元初の自受用身と顕れたまえり。具には開目抄愚記の如し。故に蓮祖大聖人は末法下種の本仏、主師親の三徳なり。故に本尊と仰ぐべきなり。



七箇相承の段階で、言うところの本尊は、もちろん、いまの彫刻本尊とはまったく関係はなく、のちのモンタージュですね。
また、建長5年4月28日という特定もありませんが、日寛は、こう記します。
清澄寺に明星池というものがあったのかどうか、いま、ちょっとネットで検索したところ、星の井戸(明星井)というのはあるそうです。
http://astro.ysc.go.jp/izumo/n_kanto.html#070

日蓮が虚空蔵菩薩に祈願して、「明星の如くなる大宝珠」(清澄寺大衆中)とも言うわけですが、清澄寺には明星にまつわる何かがあるのでしょうか。
彰往考来さんが得意とされる分野のように思えます。

3195きゃからばあ:2007/02/06(火) 09:38:29

犀角独歩さん

大過去帳ですが、江戸時代から使われていると聞いています。
その大過去帳には5老祖も書かれているのに三烈士がないのは本当に変です。
それにしてもペットにも卒塔婆を勧める宗門が、三烈士に卒塔婆がないのはつまらない。
また今年の2月14日は大聖人の父(妙日尊霊)の750回忌もやらない。
さて4月2日の戸田城聖氏(大宣院)の50回忌はどうするのかなあ?
結局、宗門にとって俗は下という考えは変わらないのでしょうか?

3196パンナコッタ:2007/02/06(火) 14:50:58
しかし熱原の事件は、みなさんの考証を見ていると無理矢理"三烈士"を作り出した伝説のような
気がしないでもないですね。(烈士の語彙は池上兄弟を二烈士に譬喩した兄弟抄に対するのかな?)
御伝の「大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるはなし」→おかしいですね。八月に弥四郎男が頚を切られているのに。
これは彰往考来さんご指摘のように後世の産物でしょうし、追伸末尾の「在世一代乃至于時応永十年癸予九月廿二日の
三行あるに依り後師誤りて日時上人作の三師之伝とせし事あり今因に之を記し置く」が、言わずものがなでしょう。

この時期の日興写本"伯耆殿御返事"を見てみますと、『但現証の殺害刃傷のみ』は、御神事の時の四郎男、
八月に頚を切られた弥四郎男の事でしょう。 また、この弥四郎に関連づけて本門戒壇の板本尊伝説が形成された
パッチワークの一助になっている(日付の相違を含め後代に混乱・改竄はされたでしょう)ような気もしますね。

さてここからは単なる主観なのですが、この弥四郎男、本当に個人の弥四郎さんなのでしょうか?
滝泉寺申状(今では滝泉寺大衆日秀日弁等陳状案と言うそうですけど)の該当文は、
 『政所代去四月御神事之最中
  法華経信心之行人令刃傷四郎男去八月令切弥四郎男之
  頚【日秀等擬刎頭事此中書入】』
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html  (原文17年2月のC参照)
"弥"という字は妙楽の「教弥」でおなじみの、弥【いよいよ】という副詞の意味もとれますので、
"去ぬる八月弥(いよいよ)四郎男の頚を切らしむ" だったのかもしれません。(?_?)エ?
まあ、これは単なる思いつきに過ぎないのですし、その様に読めないこともない程度のことですが、
独学徒さん指摘の常忍筆の、この部分の文章のつながりは悪くはないでしょう。(被害者は一人でより強調された文意になりますな)

いずれにせよ苅田狼藉事件以後ばかりがクローズアップされますが、人が斬り殺されたことに言及できるのは八月に頚を切られた
この"男"であり(弟子分本尊目録の記述や徳治三年の脇書があった上で)、この人物の扱いが自分にはチト不憫に思えたので、
この様な愚考をした次第です。

3197しゅんかん:2007/02/06(火) 18:11:50
>8183彰往考来さん有難うございました。

3198れん:2007/02/06(火) 18:55:28
独学徒さん御提示の資料で他門にも、江戸時代においては一連の弥四郎国重伝説が定着していたことが分かりますね。
このネタ元が石山ならば、石山の江戸初期以来の彫刻成立神話の口コミ宣伝?が功を奏したということになりますし、弥四郎国重が他門に先行していた伝説ならば、むしろ、それをパクッたのは石山ということになると思います。
郷師門流の小泉久遠寺の伝承では、同寺蔵の板本尊にならって石山で彫刻が作成されたとされております。私見では両寺の板本尊は安土桃山時代から江戸時代初期の両寺の復興に伴い、最初に小泉久遠寺で板本尊が作成され、その後、小泉の板本尊から着想を得て、石山の彫刻が作成された可能性が高いと考えていますので、石山彫刻の「弥四郎国重」も他門に先行して存在した弥四郎国重伝説からパクッて来た可能性も有るでしょうね。
少なくとも、江戸時代においては、他門でも弥四郎国重を肯定的に捉えていますから、他門に先行して存在していた弥四郎国重の伝承を採用して「本門戒壇之願主」に仕立てたというのが、史実に近いものと愚考します。
しかし、きゃからばあさんが仰るように、熱原法難における張本の神四郎・弥五郎・弥次郎の三人の存在がクローズアップされすぎて、熱原における最初の犠牲者というべき四郎男や弥四郎男の伝が、竜泉寺申状以外失われてしまったのは残念ですね。

3199彰往考来:2007/02/06(火) 20:43:40
>3193 顕正居士さん
>3194 犀角独歩さん

よく解りました。ありがとうございました。

>日蓮が虚空蔵菩薩に祈願して、「明星の如くなる大宝珠」

本件、思うところがあるのですが、分析などに時間がかかりまして後回しになっています。
まあ、将来への楽しみということで。この解析をしないと死ぬに死に切れませんので長生きできそうです。

3200れん:2007/02/06(火) 21:53:49
横レス失礼します。
池田令道師著「富士門流の信仰と化儀」によると清澄寺では鎌倉期の当時盛んに修行僧による“虚空蔵求聞持法”が行われていたと紹介されています。
その求聞持法の際の所作の中には「明星天子供の時は別して本尊を安置せず、窓アケテ直ちに生身の明星に之れを供し奉る」という儀式があるようです。
あとは彰往さんの後々の分析とその結果の御発表を待ちますが、富士の明星口伝はともかく、開宗以前の出家前後の蓮師の清澄寺における修法には興味深く思います。彰往さんの御研究と後々の御発表に期待申し上げるものです。

3201独学徒:2007/02/06(火) 22:08:49

彰往考来さんの解析、私も楽しみにしています。

以下、私は詳しくないのでつぶやきですが、田中成明著『虚空蔵求聞持法』には、「求聞持法の修法には月と星の位置が重要であり、方位、地形が大事なのです。」とあります。
どの本で読んだか記憶が定かでないのですが、『虚空蔵求聞持法』は開始と終わりも、月・星の関係が重要であると読んだ記憶があります。
また開始から終わりまで100日間を要しますので、年の初めの良月星日に開始したと考えれば、終了は4月のいつかになると思いますので、4・28というのは、あるいは日蓮が『虚空蔵求聞持法』を終えた日となんらかの関係があるかもしれませんね。

3202独学徒:2007/02/06(火) 22:23:56

れんさん、ググッて見ますと、空海の「三教指帰」の「谷、響を惜しまず。明星来影す。」がヒットしますね。
空海は口中に明星が飛び込む神秘体験をもって『虚空蔵求聞持法』を終了したようですね。

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/gumonnjihou.htm

3203犀角独歩:2007/02/06(火) 22:30:18

みなさん、今日、五老門下の本尊相伝に類似したものはないかと読みはじめました。いまのところ、ヒットしません。

明星の意味、わたしは頭がまるで文系なので、現段階でリタイヤです。
彰往考来さんのご賢察に期待しています。
「長生き」などと先のことを仰らず、早々の経過報告も期待します。

3204れん:2007/02/06(火) 23:03:50
独学徒さん、弘法大師における“虚空蔵菩薩求聞持法”につき、ご教示頂き有難うございます。
先に引用した池田令道師の著書によりますと、鎌倉末期の天台僧光宗が著した「渓嵐拾葉集」には、当時、行者が憶持不忘の心地を獲得するために虚空蔵菩薩求聞持法を行ずるならいがあったそうです。
清澄寺には不思議法師が造立したという虚空蔵菩薩像がありますし、当然、若き日の日蓮も修法したでしょう。
中ん就く空海のそれと対比する時、「清澄寺大衆中」に見える神秘体験が蓮師における求聞持法の“成就”を意味したといえるのかも知れませんね。
それがいつ行われたかを解析できるのは、やはり彰往さんですね。

3205犀角独歩:2007/02/06(火) 23:30:14

きゃからばあさん

2月14日で妙尊の七百五十回忌でしたか。
これって、どこもやらなかったんではないでしょうか。
14日が妙日、15日はお釈迦様、で、16日は日蓮誕生、目白押しなんですね。


パンナコッタさん

なるほどと思いました。

それにしても、石山正統の後継者であるはずのが、日道が熱原三烈士を二人と間違え、それでも、「本門戒壇の大御本尊」は日蓮と日興が共同して作ったという石山の言い分は、ほとんど、笑い話ですね。

わたしの前哨で頚を切られて顧みられない弥四郎男を気の毒に思っていました。

3206きゃからばあ:2007/02/07(水) 11:05:11

独学徒さんこんにちは。
独学徒さんのサイトは素晴らしいですね。

>4・28というのは、あるいは日蓮が『虚空蔵求聞持法』を終えた日となんらかの関係があるかもしれませんね。

私は4月28日は方便品の『我始坐道場 観樹亦経行 於三七日中 思惟如是事』「われ始めて道場に坐して 樹を観じまた経行して 三七(21)日の中において かくの如き事を思惟せり」をみて、釈迦の生誕(4月8日)から21日目の4月28日が満願日と想像しています。

3207犀角独歩:2007/02/07(水) 20:44:02

3205への自己レス

> 2月14日…どこもやらなかった

これは過去形で記していますね。来週のことでした。
やるかやらないかは結果待ち、さて、どうなるでしょうか。

3208独学徒:2007/02/07(水) 20:54:14

きゃからばあさん、今晩は。
>釈迦の生誕(4月8日)から21日目の4月28日が満願日
なるほど、こちらも説得力ありますね。


犀角独歩さん、
>> 2月14日…どこもやらなかった
一瞬、バレンタインディのことかと思ってしまいました。

3209犀角独歩:2007/02/10(土) 06:33:31

723 藪の中さん

こちらに移動しました。

> 日蓮さんの遺骨は何処にあるのでしょうか?

身延山久遠寺の、宗廟と御真骨堂の2カ所ではないでしょうか。
宗廟から御真骨堂に移されたときの最後の証言者が、前法主であったという話でしたか。そんな話を聞いた記憶があります。
また、その際、御真骨は拝観できたということでした。
あと、日蓮の荼毘は東京大田区池上でなされたわけですが、この際、分骨があったようで、ここに遺り、御影堂にも籠められていたという記事があったのでしたか。この件は、随分と皆さんの議論したことでした。どなた補完していただければと存じます。

> 身延の特別参拝で見られるものでしょうか?草庵跡近くのお墓にあるのでしょうか?

あります。見られないと思います。

可能性の一番高いことを、教えてください。

> もし法華経が御釈迦さんの説かれたものでは無いと知っていたら、どうなっていたのでしょうか。

この点は難しいところですね。
容易に答えは出ませんが、真剣に考えなければならない点だと思います。

3210犀角独歩:2007/02/10(土) 06:40:38

【3209の訂正】

誤)御影堂にも籠められていた
正)御影像にも籠められていた

3211顕正居士:2007/02/10(土) 08:17:57
日蓮の遺骨を祀るのは
甲斐久遠寺、鎌倉本覚寺、京都妙伝寺、京都宝塔寺、池上本門寺の5箇寺ですか。
本覚寺のは日朝が身延から分骨したもの。本門寺のは日蓮坐像(重文)の胎内です。
妙伝寺や宝塔寺のは縁起が幾らか不分明です。

3212犀角独歩:2007/02/10(土) 09:14:28

顕正居士さん

補完、有り難うございました。

3213パンナコッタ:2007/02/10(土) 12:36:36
御廟所の参考に。
 http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-n-sisou.htm#nichiren
関西身延 妙伝寺の一般的な寺伝。
 http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/folder/1463035.html

3214再挑戦者:2007/02/10(土) 18:28:51
 素朴な疑問です、、。
 昨今、、甲府市周辺で、墓石、、灯篭への倒壊の被害が連続のようです。 ナゼ、、ナニユエ、、にこのようなケッタイな事件が起こるのでしょう、、、ネ、、?   一般の庶民はアセ水たらして必死にガンバッテいますが、(正社員にイジメられながらも)、シコシコとガマンの労働に甘んじています、。
 しかし、、何もアセミズも流さず、人の死ぬのを、、ただ葬儀を待機、?、、して、いるような葬式仏教世界が存在、のようです、、? 片方で楽な、、甘い社会を満喫するオカシナ時代でしょうか、?? この一件は時代の裏側からの厳しい、?、シッペ返しの一端のような感じをいたします、、。 愚考でした、、。

3215藪の中:2007/02/10(土) 19:13:04
有難うございました。犀角独歩さんと交流できるとは、感動です!

お墓参りは、いつも身延の草庵跡横のお墓に行ってます。
御遺骨が、有るとの説明で、よかったと思いました。
お釈迦さんのことですが、日蓮さんは、実直な人と思われ、もし説かれていなかったら、
私は日蓮宗は無かったように思います。そうでなければ、嫌いです。って、自分の
感情をいっても仕方ないけど・・・

3216天蓋真鏡:2007/02/10(土) 20:24:11
横レス失礼します。 ●分骨ですか。私は粉にして土に帰すなり川海に帰すなりで、拘りませんが拘りませんが、、 ●信仰では無くて学問に進んで世の為人の為に仏教界に法華の世界を説いた。と想います。三身説を用い本仏はシャクソンかもしれません。何故なら、法華一乗で成仏、立正安国の仏国土を一人ひとり現出させる教えを、鎌倉時代の僧・日蓮は説いた。と思い考えます。

3217パンナコッタ:2007/02/10(土) 20:35:40
再挑戦者さん、甲府周辺での墓石倒しの犯人は逮捕されていますよ。
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070210i306.htm

別に意味など無いでしょう。
むしろ倒された墓石が、自分の家のものだったらと考えてみてください。

3218しゅんかん:2007/02/10(土) 22:53:35
蓮祖の御真骨

真如寺(通称、能勢妙見山・大阪、兵庫、山頂に在り両県にまたがっている)
妙顕寺(京都市)蓮永寺(静岡市)妙本寺(鎌倉市)妙顕寺(栃木県)
孝勝寺(仙台市)

御歯二顆
妙照寺(新潟県)
         {以上、日蓮宗の本山めぐりより}

3219藪の中:2007/02/10(土) 23:38:13
早速有難うございました。犀角独歩と、交流でき、感動です。
 いつもお墓参りは身延の草庵跡横のお墓です。そこにご遺骨が
有るとわかり、ほっとしました。

お釈迦様の件ですが、日蓮さんは実直な方と思い、もし偽経とわかっていたら
日蓮宗は無かったと、思いたいです。ってなんの確証も無いですが・・・

3220再挑戦者:2007/02/11(日) 19:27:15
3213の方
 意味なし、、とは、、??
 貴殿も感度がかなり低下のようですナ、?
 庶民があらゆる宗教から見放されている現実の一端緒、、として、、?? 感じても、??
 無理かもしれんが、 一般信者への配慮が、、???、、のようでしょうか、、??

3221再挑戦者:2007/02/11(日) 19:48:23
 続、、。
 イワユル 登山会なるニセ・イベントを企画・運営された方方は、、??誰、??誰、、?? でしょうか、??
 この一件だけは、、決して、、看過、、は、、不可能、、でしょう、、。
 ナぜなら、、この一点に、、、全てのダマシの凝縮が存在する、からです、。
 「イチエンブダイの、、ミゾウの、、戒壇さま、??、、」、、なるエエカゲンな御伽噺にマンマと引きかかり、騙された我らの悔しさを、、今こそ、、再確認をしたいものです、!!
 このまま、、ダマサレ続けるのは、??ゴメンこうむりたい、、が、、。

3222パンナコッタ:2007/02/12(月) 12:39:52
>>3220
 >貴殿も感度がかなり低下
錯乱状態の男が引き起こした器物損壊事件を、主観で凶相の意味づけにするのは勝手ですが、
 "人間が引き起こした人間界の出来事は、人間の手で対処する"という
一般社会の成り立ちを、まずあなたは理解した方がよいでしょう。



管理人さんへ
もしこの先、この件についてスレが荒れるようなことがあれば、直接蓮祖とは関係ない事ですし
また書き込み諸賢の迷惑になりますので、>>3217 を考慮していただき削除のご判断をしてください。

3223藪の中:2007/02/12(月) 17:24:49
 犀角独歩さんから、お答えいただき 感動しています。
身延山の草庵跡横の御廟のにいつもお参りに行きますので、お骨のあるとの回答
ありがたいです。

法華経の偽経の件は、日蓮さんは、実直な方、法華経は選ばなかったと私は
思いたいです。 勝手な解釈。

3224犀角独歩:2007/02/12(月) 17:39:59

藪の中さん

恐縮です。

身延の御廟をわたしもとてもいい場所であると思っています。

法華経が偽經という点ですが、これは最大の難問です。
少し前、松山俊太郎師の「法華経講義」に参加していたのですが、法華経を人類史の金字塔であるとまで仰っていました。
また、種々の新しい神仏信仰の習合から、釈尊信仰への復帰なのだと講義されていました。

法華経は西暦前後数百年の間に創作された物語である。
その法華経を創作し、決して怒らず、艱難辛苦に耐え、軈て滅んでしまったこの集団が遺したもの。わたしは法華経の精神性は、決して嫌いではありません。
ただ、これは釈尊の直説であるという蛮勇はもちろん、持ち合わせていません。

これらの点は、法華経のことと併せて、以下でスレで議論してきたことでした。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/l50

3225再挑戦者:2007/02/12(月) 19:29:04
3222様、、かなりのきついご要望です、。 御削除はおまかせします。
 ただ 小生が申し上げたかったのは、、親しい人の死を悼み、悲しみにくれる遺族を慰める寺院関係のシガラミがいかがでしょうか、?? と言う感じがございました。
 昨今、音楽葬、海への散骨葬、親族だけの家族葬、過疎地では僧侶不在の無住寺も増えています、。
 現今はマスマス宗教色が薄れていますようです、、。 庶民の本音は「、、たかが、葬式、、されど、、葬式、、には金、、カネ、、おかね、、を掛けたくない、、??」、、と言う現実が存在のようでしょうか、?
 だからこそ「、火葬だけの”直葬式”」、が急増のようでしょうか、?
 もうすでに、お寺さんは高すぎる存在のようでしょうか、? 愚考でした、、。

3226顕正居士:2007/02/12(月) 19:34:56
大乗経はインド以来、報身仏(ビルシャナ仏)の説法であるとしますから、
肉身の釈尊(化身、応身)がそれらを説いたと考えたのではありません。
肉身の釈尊が説かれたのは三蔵の経、戒だけとするのです。

3227パンナコッタ:2007/02/12(月) 21:11:06
再挑戦者さん、
削除云々というのは、もし自分とのやりとりで荒れてしまった場合は、
その原因となる>>3217を、管理人さんの判断で削除して下さいと云うことで、
意見を削除しろという意味ではありません。

3228再挑戦者:2007/02/15(木) 20:00:22
 、、ご了解いたしました、、。 ご心労は深く陳謝致します、、。

3229きゃからばあ:2007/02/16(金) 10:14:45

3173の訂正

>また後ろの板碑にも日柱上人の文で同様の名前になっています。

三烈士の後ろの板碑(英魂之碑)ですが、『諸記録』によると日応上人となっていました。
そしてさらに「刎頭之日実弘安三年四月八日也」とありました。

3230犀角独歩:2007/02/16(金) 10:29:59

3229 きゃからばあさん

有り難うございます。
わたし個人にとっても有意義なご投稿でした。

3231彰往考来:2007/02/17(土) 08:19:04

弥四郎国重伝説

>3187 この図は、それまでの資料を整理して、江戸期の人が、作図したものということでしょうか
>3188 あるいは中山門流にそのような伝承があるのかもしれません
>3198 独学徒さん御提示の資料で他門にも、江戸時代においては一連の弥四郎国重伝説が定着していた

堀日亨師は、『熱原法難史』(大正12年、雪山書房、170頁)に、「辨師の俗姓は自門では不明であるが他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の妙常日妙は其姉で下野公日忍は其弟、日頂日澄乙御前は其甥姪、天目も亦甥である様に云うてある」と記しています。
いつもながら日亨師の文章は解かり難いのですが、「日弁(辨)師の俗姓は大石寺門流では不明であるが、他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の(後妻である)妙常日妙は日弁の姉で下野公日忍は日弁の弟、日頂日澄乙御前は日弁の甥と姪、天目も亦甥であるといっている」という意味です。ここでいう他門とは中山門流ではなく身延門流を指すと私は判断します。その根拠は享保15(1730)年に成立した身延山36世の六牙院日潮師の『本化別頭佛祖統記』の「巻二十四〔列傳〕優婆塞」の記載(『本化別頭佛祖統記』昭和48年、本山本満寺、522頁)です。
堀日亨師は、『熱原法難史』238頁の「古史傳集録」にこの『本化別頭佛祖統記』の「巻二十四〔列傳〕優婆塞」の個所を引用しています。そこには、
「日住禪門ハ日辨日忍兩師ノ父熱原氏甚四郎國重ナリ、駿州富士郡ニ農耕ヲ業ト爲ス、家世豪富頗ル才識アリ邑ノ小吏ト爲ル、又一女アリ天目ヲ産ム(以下略)」(引用者注:「熱原氏甚四郎國重」は“氏”が挿入されていますが原文ママ)とあります。「日住禪門」とは「熱原甚四郎國重」の法名ですが、堀日亨師は、『熱原法難史』175頁に、「本照寺の明暦元年(引用者注:1655年)の舊記には「熱原甚四郎國重法名法喜日住禪門當村ノ郷士ナリ時ノ名ハ熱原彌太郎宗祖ノ教化ヲ受ケテ歸伏ノ後藭四郎ト名ク」とあるのを取れるかとも思はる、併し三百年後の記録なれば信を措かれず法喜日住禪門の法號も疑わしいのである」と「熱原甚四郎國重」の法名が「日住禪門」というのは疑わしいとされていますが、日潮師の『本化別頭佛祖統記』が本照寺の明暦元(1655)年の古記などを参照したことは『本化別頭佛祖統記』成立年(1730年)から考えて十分有り得ることです。
独学徒さんがご紹介の興風叢書〔8〕の「能持院日周筆 境持院日通筆 過去帳・日蓮門下系図」(平成16年、興風談所)
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/8/8/

の「日辨」の項にも『本化別頭佛祖統記』と同じような内容が記載されています。本過去帳の成立年は未詳ですが、当該部分は「日通筆」(3頁)とのことで、日通師は(1702−1776年)ですから、本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より古いと考えます。
よって他門流にある弥四郎国重伝説は、『本化別頭佛祖統記』によるもので、その出所は本照寺の明暦元(1655)年の古記などであり、中山門流にそのような伝承があったとは考え難いということです。

by 彰往考来

3232彰往考来:2007/02/17(土) 08:27:01

>3231 誤記訂正

誤:本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より古いと考えます。
正:本過去帳の当該部分の成立は『本化別頭佛祖統記』の成立した享保15(1730)年より新しいと考えます。

彰往考来

3233犀角独歩:2007/02/17(土) 09:25:26

彰往考来さん

「‘甚’四郎國重」でよろしいのですね。

もう一つ質問をさせてください。

●郎の頭に付く、神、弥、また、甚は、名前の内ですか、それともそれ以外でしょうか。

3234彰往考来:2007/02/17(土) 09:54:44

>3233

3231投稿で使用した資料のうち『本化別頭佛祖統記』は「‘甚’四郎國重」となっています。
再度よくみたところ、『熱原法難史』175頁では、「本照寺の明暦元年(引用者注:1655年)の舊記には「熱原‘藭’四郎國重(以下略)」となっておりました。謹んで訂正いたします。

>●郎の頭に付く、神、弥、また、甚は、名前の内ですか

名前の内と考えています。但し、“神”は最初は“四郎”であったが処刑後に、“神四郎”となった可能性があると考えています。
それは、「龍泉寺申状」(『日蓮大聖人御書全集』昭和46年第67刷(初版:昭和27年)、創価学会、853頁)に「四郎男」が出てくるからです。
なお、『日蓮大聖人御書全集』に「弥四郎坊男」(853頁)とありますが、これは「弥四郎男」(やしろうお)の誤記で、ご真筆により訂正した旨の謹訂が、『日蓮大聖人御書講義 第13巻』(平成13年、政教新聞社、380頁)に書かれています。
参考までに『日蓮大聖人御書講義 第13巻』に「「男」というのは、当時、農民等の名に慣用的につけれれたもの」(352頁)
とあります。

彰往考来

3235彰往考来:2007/02/17(土) 09:57:23

>3234

またやってしまいました。誤記訂正です。

誤:政教新聞社
正:聖教新聞社

ゴメンナサイ。

3236彰往考来:2007/02/17(土) 09:59:40

>3235 もう一箇所誤記訂正です。

誤:農民等の名に慣用的につけれれたもの
正:農民等の名に慣用的につけられたもの

謹んで訂正いたします。

3237彰往考来:2007/02/17(土) 10:04:13

>3234の追記

『熱原法難史』170頁は、「‘甚’四郎國重」となっています。

3238彰往考来:2007/02/17(土) 11:55:33

熱原法難の処刑日について(その5)

スレッド3186の続きです。

【3】弘安2年10月15日説
現在の日蓮正宗は弘安2年10月15日説をとると判断されます。それは日蓮正宗発行の下記書籍(一部創価学会他発行も含む)が弘安2年10月15日と記載しているからです。
・『日蓮正宗要義』202頁
・『慧燈〔創刊号〕』所収研究発表 熱原法難史146頁
・『熱原法難の歴史』103頁
・『富士年表』44頁
・『日蓮大聖人正伝』370, 476頁
・『日興上人日目上人正伝』84,92,491頁
・『法教学報〔第5号〕』所収「日興上人御入門時期拝考」183頁
もちろん探せばもっとあるでしょう。興味深いのは日蓮正宗関連の書籍で正式に弘安2年10月15日説が記載されるのが昭和53年の『日蓮正宗要義』からであることです。もっともこれは管見に入った資料での判断ですから、先行資料が存在する可能性はあります。ただ昭和45年発行の『日蓮正宗大石寺』(鳳書院、252頁)には「十月、頼綱は、神四郎等二十人を自邸に引き出し取り調べもせず、法華経の題目を捨て弥陀の念仏を称え(引用者注:“唱え”と思いますが原文のママ)よと迫ったが、神四郎等はあくまで法華経の信心を捨てず、題目を唱えぬいた。そこで頼綱は神四郎、弥五郎、弥六郎等(引用者注:“等”は不要ですが原文のママ)の三名を首謀者として、非道にも斬首っしてしまった」とあって記載内容から弘安2年10月15日説をとると考えられますが、具体的な処刑日は書いてありません。昭和50(1975)年発行の東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』(第三文明社)には、「1979年(弘安二年)九月二十一日、富士郡熱原の、大聖人門下の僧の持ち田で信徒が協力して稲刈りの最中、役人が大挙して襲い、農民二十人を捕え、その罪名を窃盗罪として幕府に訴えて、直ちに鎌倉へ連行したのである。その取り調べには平頼綱が私邸であたり、事件そのものには全くふれずに、拷問までして改宗を強要した。それはまさに私刑だった。二十人は拷問にもひるまず、信仰を貫き通したため、指導者格の神四郎ら三人が斬罪に処せられ、残りの十七人は追放された。日蓮大聖人は、このめざめたる民衆が権力に屈せず、生命を賭して法を守った法難を眼前にみて、大御本尊を受持しきるだけの信心、機根が調ったと確信し、全世界の民衆が根本として信仰すべき(一閻浮提総与という)本尊を建立されたのである」(210頁)とあり、処刑日を特定して書かれていなのです。もっとも「日蓮大聖人は、〜」以後の文章を読むと、“一閻浮提総与の大御本尊”の図顕日は弘安二年十月十二日ですから、生命を賭して法を守った法難を眼前にみてから建立されたのなら、熱原の法難の処刑日は弘安二年十月十二日より前となってしまうのですが、重箱の隅をつっつくようなことを言うのはよしましょう。「サンタさんなんてホントはいないんだよ、プレゼントは親が枕元に置いているのさ」と、サンタさんを信じている子供に言うようなものですから。ここで問題とすべきなのは、東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』が、昭和37(1962)年に発刊された東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』および、昭和42(1967)年に改訂版が発刊された東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』の再改定版にあたるということです。そして『創価学会の理念と実践』の元本である『日蓮正宗創価学会』ではなんと、弘安3年4月8日説をとっているのです。(つづく)

by 彰往考来

3239彰往考来:2007/02/17(土) 11:56:11

熱原法難の処刑日について(その6)

スレッド3238の続きです。

東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』(昭和37年、山喜房仏書林、82頁)には「神四郎等の二十人は、その後獄中に投ぜられること半年、そのあいだ唯一心に題目を唱えて信仰ますます強盛であったが、弘安三年四月八日、神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟は刑場に引き出され、発起人という廉(かど)によって哀れ斬罪に処せられ、残る十七人は付和雷同の従犯者として追放に処せられた」とあります。また昭和42(1967)年発行の東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』(昭和42年改訂5版、山喜房仏書林、85頁)にも全く同じ文章が載せられています。昭和38年には堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(創価学会)が発刊されていて91頁に、「神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する」とありますから、昭和38年ごろ日蓮正宗内は弘安3年4月8日説が主流であったと判断されます。これが昭和45年発行の『日蓮正宗大石寺』や昭和50(1975)年発行の東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』では明確な処刑日記載が消え、昭和53年の『日蓮正宗要義』202頁で明確に弘安2年10月15日説が現れるといった流れとなります。日蓮正宗内で弘安3年4月8日説から弘安2年10月15日説にコペルニクス的転回になっているわけです。弘安3年4月8日説は堀日亨師の説ですから、それを覆す論拠がなければなりません。その論拠は、私は日達師のご説法であったと考えます。
 河合一編『熱原法難の歴史』(1993年第14刷(初版1978(昭和53)年10月15日)、聖教新聞社、103頁)には『大日蓮』昭和38年11月号掲載の第六十六世日達上人のご指南を掲載し、ここでは明確に弘安2年10月15日説をとっています。残念ながら『大日蓮』昭和38年11月号は眼福を得ていませんが、河合一編『熱原法難の歴史』の<注六>に「昭和38年10月6日 法華講関西地区連合会第一回総会「御法主上人猊下御言葉」」(184頁)とありますので、『大日蓮』昭和38年11月号掲載の第六十六世日達上人のご指南は昭和38年10月6日の御言葉であることが解かります。これはひょっとしたら昭和38年10月24日に発刊された堀日亨師の『富士日興上人詳伝』での弘安3年4月8日説への日達師の反論であったのかもしれません。発刊日は前後していますが、第六十六世日達上人が10月13日付けで序を『富士日興上人詳伝』で書かれていることから正式発刊前に第六十六世日達上人に届けられたと考えられます。少なくとも『富士日興上人詳伝』の記載内容は、創価学会発行の『大白蓮華』創刊号から第四十四号(昭和24年7月10日−昭和30年1月1日付発行)までに掲載された内容をまとめたものですから、昭和38年10月6日以前に堀日亨師の『富士日興上人詳伝』は公開されていたわけです。
『熱原法難の歴史』からの孫引きとなりますが『大日蓮』昭和38年11月号掲載の日達上人のご指南内容を少々長いですが以下に引用します。(つづく)

by 彰往考来

3240彰往考来:2007/02/17(土) 11:57:00

熱原法難の処刑日について(その7)

スレッド3239の続きです。

「では、三人が処刑されたのは、いつだったのでしょうか。第六十六世日達上人は、次のようにご指南くださっています。
「上野賢人殿御返事を拝しますと、この御書は一名『竜門御書』と申しまして、大聖人様の御真筆が本山に保存されております。これは弘安二年十一月六日の御書であります。この御書には、『此れはあつわらの事の、ありがたさに申す御返事なり』と、お添え書きがありまして、この御書を拝しますと、『をなじくはかりにも法華経のゆへに命を捨てよ』とあります。病気や飢饉や戦争のために捨てる命ならば、かりにも、法華経のために命を捨てよ、と南条時光殿にお書き送りになった御書でございます。これは熱原の人びとが、法華経のために命を捨てたことを示されておるのでございます。この御書は、十一月六日付でありますから、この時はもう既に熱原の神四郎、弥五郎、弥六郎の三人は、平ノ左衛門尉のために殺されてしまった後であるとゆうことがわかります。そこで、聖人等御返事、一名変毒為薬書と申しますが、これを拝しますと『今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す。彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、偏に只事に非ず』とお書きになっております。これこそ、熱原の人びとの処刑された時日と判明できるのでございます。(中略)大聖人は、神四郎が死に直面して、しかも自若として南無妙法蓮華経と唱え奉っておったことは、只事ではない、平ノ左衛門尉の身に十羅刹入りかわりて、法華経の行者を試み給うたと、仰せになっておるのでございます。故に、この十五日に神四郎は処刑せられたことは明らかであります」<注六>(「大日蓮」昭和38年11月号)」(『熱原法難の歴史』103頁)

さて、『竜門御書』には「此れはあつわらの事の、ありがたさに申す御返事なり」とあります。日達上人は、「熱原の人びとが、法華経のために命を捨てたことを示されておる」とされていますが、これは変です。御門下が弾圧で殺されて“ありがたさ”というでしょうか? ちょっとオーバーな表現ですが当時は日蓮教団と国家権力とがいわば戦闘状態とでもいえる状況でいつ誰が殺されても不思議がなかったのですよ。日達上人さ〜ん・・・平和ボケされていませんでしたかぁ?と私は朝晩、日達上人の御形木御本尊に問いかけています。“ありがたさ”とは南條時光が危険を顧みずに熱原法難で逃亡中の神主等を匿っていたことに対する御礼の言葉であると私は解釈します。「逃亡している弟子を匿ってくれて有難う」とは直接書けないので間接的に「此れはあつわらの事の、ありがたさに申す御返事なり」と書かれたのでしょう。南條時光が逃亡中の神主等を匿ったことは御書に出てきます。弘安三年七月二日の「上野殿御返事」に「かうぬし(藭主)等が事、いまゝでかゝへをかせ給て候事ありがたくをぼへ候」(『定本 日蓮聖人遺文 第二巻』昭和63年改訂増補版(初版昭和28年)、身延久遠寺、1766頁)とあります。ここでも“ありがたく”と出てきます。(つづく)

by 彰往考来

3241独学徒:2007/02/17(土) 12:12:56

彰往考来さん、以下の堀日亨師の記述は、「能持院日周筆 境持院日通筆 過去帳・日蓮門下系図」(以下「日蓮門下系図」)と相反します。

>、「辨師の俗姓は自門では不明であるが他門では熱原甚四郎國重の長男で富木殿の妙常日妙は其姉で下野公日忍は其弟、日頂日澄乙御前は其甥姪、天目も亦甥である様に云うてある」

「日蓮門下系図」では、

弥四郎国重の娘⇒日妙・日妙の子⇒日頂
        (日妙は富木常忍の後妻、日頂は日妙と前夫との子)

神四郎の長男⇒日辨

◎弥四郎国重は南條家の血筋
◎神四郎は南部家の血筋
両者は別人。

となっているわけです。

これは堀日亨師の記載が滅茶苦茶であるか、もしくは「日蓮門下系図」またその作者が参考にしたものとは無関係であるか、そのようなことが考えられると思います。

3242乾闥婆:2007/02/18(日) 02:34:57
みなさま。

素朴な疑問なのですが、では「聖人御難事」の「余は二十七年なり」とは
蓮祖は何のことを言われているのでしょうか。

3243犀角独歩:2007/02/18(日) 09:06:29

3234 彰往考来さん

ご教示有り難うございます。
熱原法難は神事との関わりがありますね。
処刑後、神を冠されたというのは、説得性を感じるところです。

中世、神四郎と弥四郎国重が、どのように考えられていたかは、さらに皆さんのご賢察を窺いたいと思いますが、さらにもう一点、決し得ていないのは、「国重」というのは、これは名前なんでしょうか。
わたしは国重と聞くと刀工のほうを先に思い出すのですが、なにか職業、地位に掛かる呼称の可能性はないのでしょうか。

彰往考来さんのご投稿の続きをお待ちする傍ら、この点もお考えを披瀝いただければ有り難く存じます。

3244彰往考来:2007/02/18(日) 10:26:20

>3242 乾闥婆さん
>「聖人御難事」の「余は二十七年なり」とは

本件につきましては、かつて「他宗、他派をほめよう」のスレッド64(2005.12.15)に投稿しましたので参照ください。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610635/64

彰往考来

3245彰往考来:2007/02/18(日) 10:29:29

>3243 犀角独歩さん
>「国重」というのは、これは名前なんでしょうか

そうなんです。一連の熱原法難の資料をひもとく中で本件が謎なのです。
少し別のアプローチが必要ですがよいアイデアがない状態です。

彰往考来

3246乾闥婆:2007/02/19(月) 00:58:45
>3244

彰往考来さん。

ありがとうございます。

しかし「聖人御難事」は他の年数表記と違って、釈尊、天台大師、伝教大師のそれぞれの出世の本懐を遂げた年数に比較して表記されています。普通に読めば、それぞれの先師の出世の本懐に比すべきような事柄がその頃の蓮祖にあったと受け止められるのではないでしょうか。もちろんそれは「本門戒壇之御本尊」御図顕ではないのでしょうけれど。

3247顕正居士:2007/02/19(月) 04:56:14
聖人御難事
http://sgi.daa.jp/cgi/P1189.html

この書は続きを読めばわかりますが、本懐を遂げた年数を比較しているのではなく、
その間の難の大きさを比較しています。

なお日蓮の本懐とは
諸人御返事(平賀本土寺) http://www.city.matsudo.chiba.jp/data/7d580f0a0022267/syonin.jpg
に述べるように、権力者にその主張が採用されること以外にあり得ません。

3248臨時:2007/02/19(月) 12:04:37
顕正居士さん一寸御教授願いたいのですが、「余は二十七年なり」における
「なり」はどのような意味になるのでしょうか?国語辞書によれば「なり」は
「成り」か「生り」または「為り」を意味するように思われなす。この文面か
らは「業」「鳴り」さらには「也」「哉」等を指す言葉とは思えません。

したがって、「余は二十七年なり」の「なり」は「成り」か「生り」または
「為り」のどれかにあたるのではないかと思われますがいかがなものでしょう。

難に会われた年数を意味することは私には思えないのですが御教授よろしく
お願いします。

3249天蓋真鏡:2007/02/19(月) 13:11:25
横レス失礼します。 ありがとうございます。真筆で主上(天皇)の語を確認取れました。国主は権力者を意味していると言う事になりましょうか。文章の後先を考えればすっきりするでしょう。

3250顕正居士:2007/02/19(月) 16:07:55
「なり」は「である、is、是」の意味。
AはBなり A is B  A 是 B。
断定の助動詞といいます。

伝聞の助動詞の「なり」もありますが、それは終止形に着く。
動詞は「なる」で「なり」ではない。体言に着くのは断定の助動詞です。

3251臨時:2007/02/19(月) 21:35:24
顕正居士さん早速の御教授ありがとうございました。

そうですね、この「聖人御難事」で使われている「なり」は断定の助動詞で
あることはよくわかりました。

ただ私にはどうしても「仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年
に出世の本懐を遂げ給う」に架かっているように思えてならないのです。
特に「出世の本懐を遂げ給う」というところに連動しているように思えるので
す。

顕正居士さんがおっしゃっる「体言」とは「用言」つまりは動詞・形容詞・
形容動詞として使用される場合もあると考えてよろしいのではないしょうか?
とすれば、「なり」を「終止形」の活用形と考えれば、「である」とする単な
る断定形でなく、「断定」「疑問」「共感」「驚き」「同定」等々日本語の文
末によくある、様々な表現者の主観があらわされている場合にあたると考えて
もよろしいいのではないでしょうか?

つまり、宗祖は「仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹天親天台伝
教は余に肩を並べがたし」として竜樹天親天台伝教の出世の本懐よりも釈尊の
出世の本懐に焦点を当てて、この「聖人御難事」を著わされたのではないでし
ょうか、したがって私には「余は二十七年なり」は宗祖の出世の本懐を意味す
ると読むほうが正解のように思われてしかたがありません。

失礼な点がありましたら文法的なことに疎い人間が書いたものとして御寛恕く
ださい。

3252乾闥婆:2007/02/19(月) 22:52:34
>3247

顕正居士さん。

>この書は続きを読めばわかりますが、本懐を遂げた年数を比較しているのではなく、
その間の難の大きさを比較しています。

文章の流れは釈尊・天台大師・伝教大師が出世の本懐を遂げるまでの年数のあいだに受けた難の大きさと比較していますので、蓮祖もまたその出世の本懐を遂げるまでの年数とその難、ということになるのではないでしょうか。

>なお日蓮の本懐とは諸人御返事(平賀本土寺)に述べるように、権力者にその主張が採用されること以外にあり得ません。

しかし権力者に自身の主張を受け入れさせるのは、蓮祖にとって、法華経を流布して日本を仏国土と為すことの手段に過ぎないのではないでしょうか。

3253犀角独歩:2007/02/20(火) 06:20:43

横レス失礼します。

> 権力者に自身の主張を受け入れさせる…蓮祖…法華経を流布…日本を仏国土

これは『立正安国論』の趣旨そのものですね。

3254パンナコッタ:2007/02/20(火) 12:41:10
横レス失礼します。

該当部分の原文を見てみますと
『佛ハ四十余年天台大師ハ
 三十余年傳教大師ハ
 二十余年ニ出世の本懐を
 遂給其中乃大難申計
 なし先々ニ申かコとし
 余ハ二十七年なリ其間の
 大難ハ各々かツしろしめせリ』

この文を見る限り、"二十七年"は大難に掛かっているように見受けられますね。
また後代の筆写時(活字化の時か?)に、「遂げ給う。其の中」とした読み下しに
混乱の一因があるように思えますね。

3255しゅんかん:2007/02/20(火) 12:43:50
独歩さん
古い内容ですが、創価学会の携帯式本尊についての板で、独歩さんと菊水護国さんのやりとりで叉、
お尋ねしたい点がございました御教示の程宜しくお願致します。

>No31
一般の仏具店で御影を買ったら、体内になにが入っているかちゃんと確認したほうがいいですよ。

〇石山はいかよう物が入っていないといけないと云っているのでしょう?
仏具店で購入できる様な2寸・3寸、叉それ以上の物でも木彫りの中に何かを
入れている物なのでしょうか?

>No135
緋衣の御影?
だって、菊水護国さんだって、薄墨の置くんでしょう。

〇石山に於いては御影様も薄墨が好ましいのでしょうか?

以上、宜しくお願致します。

3256天蓋真鏡:2007/02/20(火) 13:10:54
横レスすいません。●パンナコッタさん、「なるほどね」点線面が繋がってきた気がします。●私が21世紀の宿題にと思い描くのは【法華一乗(本尊・戒壇・題目)∈法華経・覚者仏像・漫荼羅本意】《真実一念三千、正法》●文字変換できなくてごめんなさい。

3257顕正居士:2007/02/20(火) 15:14:33
>>3252
仏国土を待望する如きは仏者に共通でありますから、「本懐」とか「目的」とかは
具体的なものでしょう。最澄の場合ですと、六宗に加えて天台宗が公許されましたが、
依然、南都僧綱の支配下にはあったので、これから独立することが悲願でした。
実現するのは最澄の滅後ですが、ほぼ期待できる情勢を作れたので、本懐を遂げた
と述べているかと思います。日蓮の場合はやはり諸人御返事の「公場対決」であった
でしょう。

3258犀角独歩:2007/02/20(火) 16:14:32

3255 しゅんかんさん

少しお久しぶりですね。

> 御影…石山はいかよう物が入っていないといけないと云っている

そのような具体的なアナウンスがあるかどうかわかりませんが、腹篭本尊を入れるのでしょう。

> No135

これはどこでしょうか、原文に当たれないんですが。

> 石山に於いては御影様も薄墨が好ましいのでしょうか?

というより、その以外は考えられない宗派ですね。

3259れん:2007/02/20(火) 19:56:10
横レス失礼します。
顕正居士さん
>3257
…日蓮の場合はやはり諸人御返事の公場対決であった…
としますと、熱原法難と連動して日蓮門下と他宗との「公場対決」の気運が高まっていたことを、暗に示すのが聖人御難事の文章ということでしょうか?
また「滝泉寺申状」はその前哨戦としての役割もあったということでしょうか。諸人御返事に見られるように前年の弘安元年から日蓮と他宗との公場対決の気運の高まりが見られ、幕府というか得宗家の日蓮門下の出訴の扱い如何では、公場対決の実現も考えられますから、日蓮は聖人御難事の文章を見るに弘安二年中に公場対決が実現すると睨み、あのような文章になったということでしょうか?

3260顕正居士:2007/02/21(水) 04:04:21
>>3259
難とは本懐を遂げるまでの間に起こるものであるから、三師について本懐というので、
自らは「今に二十七年」、本懐を遂げる過程にあるということでしょう。
この書は難の話ばかりで、最初の文以外に「本懐」のことはまったく出て来ません。
したがって「諸人御返事」との関連は特にないと思います。
この書は弘安2年10月、諸人御返事は先年の3月で、「公場対決」を期待できる状況
はこの書の時にはもう存在していなかったと想像します。

3261天蓋真鏡:2007/02/21(水) 04:16:40
横レスすいません。 ●顕正居士さん、鋭い。●まことの一念三千、真の十界互具。

3262しゅんかん:2007/02/21(水) 11:10:15
独歩さん
早速の御教示有難うございます。

>腹篭本尊・・・
〇あっ!この文言どこかで見た事が在りますが今、思いだせません。池上は御真骨で非常に稀の様ですね。腹篭本尊は石山特有と云う理由ではなく、身延もでしょうか?

>薄墨は当然・・・
〇私の関西での仏具店等は彩色、白木、金泥ぐらいしか見かけませんから、ですが当然ですね。別注されるんでしょうか、それとも東海・関東方面では販売されてるんでしょうか?

>見当たりません・・・
〇同じく創価学会の携帯・・・でした、すいません説明不足でした。

>少し久しぶり・・・
〇此処の所の皆さんのやり取りはとても私など知識も無く入って行けませんでした。少し考えたんですが、余りにも奥が深いので的を絞って勉強させていただこうと思っております。今、考えてますのは石山は何時、誰が何故、他門派と組みしない孤立する様な教義を唱えるに至ったのか。この辺りに絞ってと考えています。解らない事だらけです、今後とも独歩さんはじめ皆様方、宜しくお願いします。※PCでの時間がなく、今回初めて携帯での書き込みで読みずらいかもしれませんお許し下さい。

3263乾闥婆:2007/02/21(水) 12:38:12
>3257
>3260

顕正居士さん。

>日蓮の場合はやはり諸人御返事の「公場対決」であったでしょう。
>自らは「今に二十七年」、本懐を遂げる過程にあるということでしょう。

ありがとうございます。大分腑に落ちてきました。「五五百歳の仏記」、広宣流布こそ蓮祖の目指されるところであるでしょうから、公場対決は「日蓮一生の間の祈請並びに所願」であったのですね。本懐を遂げることへの並々ならぬ意志を「聖人御難事」から感じました。

3264パンナコッタ:2007/02/21(水) 15:14:55
横レス失礼します。

諸人御返事の約半月後の壇越某御返事の段階で、三度目の難を危惧する記述のため
公場対決の話は、この時期に無くなり却って弾圧が強まったように見受けられますね。

3265しゅんかん:2007/02/24(土) 16:41:01
石山の松竹梅(寺門?)についてご教示お願致します。

重ね亀甲や五三の桐が寺門のようですね。(重ね亀甲は形木本尊の表装にも使用されてます)
先日、御曼荼羅を表装に出そうと思いまして表具屋さんからの裂地のサンプルを
拝見させて頂きました。
その中で表装の部位で一文字(曼荼羅部の上下に使用する裂地)と云う裂地で
鶴丸を指定したのですが、お願しました所には鶴丸のみは無く
(鶴丸・重ね亀甲・松竹梅)と三つの柄が編み込まれていました。
重ね亀甲は存じておりましたのでNGと伝えました。
松竹梅は認識しておりませんでしたが、先ほど冨要を手に取りますと
ケースに松竹梅が見て取れます。(ケースには鶴丸・重ね亀甲・松竹梅と在ります)
この松竹梅も石山のみに関係がある物なのでしょうか?
宜しくお願致します。

3266大縫 薫:2007/02/24(土) 17:38:36
しゅんかん今日は!!
鶴丸紋の表装でしたらhttp://www.okayama-kakejiku.jp/newpage1.html
錦司堂さんが有名です。
http://www.kyoushindo.com/ 経新堂稲崎表具店
http://www9.ocn.ne.jp/~hyogu/index.htm 小沢表具店
稲崎表具店と小沢表具店は、正宗専門の表具店です。
文京区本郷の篠田表具店さんも御本尊表具の専門です。
その他、要山御用達の堤黙光堂さん 075-231-1878
これらの店舗に問い合わせをしてみたら如何でしょうか

3267しゅんかん:2007/02/24(土) 22:16:10
大縫 薫さん
早速のご教示有難うございます。

錦司堂さんは私も存知あげておりました。(有名なんですか?)
稲崎表具店・小沢表具店・堤黙光堂の三店ですが早速参考にさせていただきます。

3268犀角独歩:2007/03/02(金) 11:28:36

こちらとは関係ないのですが、とあるサイトを眺めましたら、シャキャムニが仏教の祖師であるような論調になっていたので驚きました。
バラモン教という文化圏にいたシャキャムニは、文字通りシャカ族の聖者であるけれど、その時代において、新しい祖師になったという認識はなかったのではないかと思います。修行者として、その当時、言われている覚者という自覚があったのみだろうと思います。

この点は、たぶん、日蓮も同様で、天台沙門といえば、天台法華宗という枠組みでしょうし、本朝沙門といえば、三国四師といった釈迦牟尼世尊以来の系譜に自身を置いたものでしょうから、新しい宗教を立ち上げたという認識は、なかったように思います。

3269ラキ:2007/03/11(日) 09:14:25
釈尊(仏)がいた時代から正法・像法・末法と時代分けしていましが、連師を末法のご本仏とした場合、仏の出現であり、正法時代とならないのでしょうか?
仏が出現しても末法は、末法となるのでしょうか?・・・
連祖が生まれた時代は、像法時代ですが、(連祖本人は末法との認識あり?)石山系の連祖本仏論で言うと、連祖滅後700年ちょいですが、現在は末法ではなく正法時代とならないのでしょうか?

3270天蓋真鏡:2007/03/11(日) 13:48:17
此の掲示板で論議してきたものを拝見すると、鎌倉時代の僧・日蓮は真言化した天台を法華一乗に仕立て治し末法の世が続くから法華経行者として修行して行きなさいと弟子を育てた人に思います。其れから、貴辺に任せるとか、己が信心が大事で成仏できなくても日蓮の所為にするべからずみたいな事を書いてある文言を見た事があります。人其れぞれ何時成仏するか解らないのなら何月何日頃から末法でなんて決め付けられないでしょう。其れと、実力が無いなら自分が謗法になるかもしれない参詣は止めておいた方が良いのでは無いでしょうか。

3271顕正居士:2007/03/11(日) 16:37:09
>>3269
富士派などの宗祖本仏論というのは日蓮という新仏が出現したという主張ではありません。
釈尊初発心の時の名字即菩薩の姿そのままが日蓮だというのです。日蓮の本果の姿が
五百塵点第一番成道の時の釈尊になります。つまり教相の末法は観心では久遠であって、
日蓮は釈尊の過去の姿になるのです。
「末法が釈尊の未来に非ず却て釈尊の過去也」(堅樹日寛「末法は釈尊の過去なる事」)

3272ラキ:2007/03/12(月) 00:22:08
顕正居士さん
解説ありがとうございます。

石山教学ではなくて他宗または一般の人から見た場合、連師が仏としたら、仏が誕生したから正法となるのか?
それとも、仏が誕生しても末法のままなのでしょうか?
どのように解釈したら良いのか、御教示して頂きたく存じます。

3273顕正居士:2007/03/12(月) 04:00:10
もし新仏が出現したらそれは末法なのか正法なのかということですか。
これは××仏の正法、末法という意味です。正法はその××仏の教えが
正確に伝えられている期間、末法はもう大いに変形してしまっているが
かろうじて存続している期間です。その後はもう形も留めません。
そして仏の出世は優曇華の花が咲くよりも稀で、たとえばこの娑婆世界の
次の仏、弥勒仏の下生までは56億7千万年もあります。
つまりたいがいの期間には仏教というものは存在しないというのが
仏教の世界観です。弥勒仏が現われる時代の人の寿命は大変長いので
その正法も非常に長く続きます。

3274ラキ:2007/03/12(月) 10:46:30
顕正居士さん
詳しい御教示ありがとうございます。
もやもやした、疑問が晴れてスッキリしたした。
本当にありがとうございました。m(_ _)m

3275しゅんかん:2007/03/15(木) 10:49:18
独歩さん、宜しくお願致します。
独歩さんのHPに於いて故、執行海秀先生の著を紹介されておられますね、
私も手に入れたく調べて見ましたが手掛かりがつかめませんご教示頂けますか?

①『興門教学の研究』海秀舎=一冊の書なのでしょうか。
②現在販売しているのでしょうか?

3276犀角独歩:2007/03/15(木) 18:41:18

しゅんかんさん

仰るとおりです。
神田の古本屋などでは、途方もない値段が付いています。
立正大学などの、日蓮系の図書館を当たられたほうがよろしいかと存じます。

3277しゅんかん:2007/03/15(木) 23:27:09
独歩さん

ありがとうございます。
絶版の様なのですね、ネット上での古書店でも目に止まりませんでしたが図書館
を当たってみます叉、古書店も気長にチェックしてみます。

3278ラキ:2007/03/17(土) 19:41:19
平成17年の夏期講習会で日顕上人の講義で、「戦争中御本尊の写真を持って戦争に行った」と言う話を聞いた記憶がありますが、何故、書写御本尊ではなく写真御本尊だったのでしょうか?
お守り本尊ではなく、大御本尊の写真をお守り代わりにしていたかった思いなのでしょうか?・・・
その辺の諸事情を知ってる方がおりましたら教えていただけないでしょうか。

3279犀角独歩:2007/03/18(日) 09:52:01

ラキさん

この本尊写真、O師が売ったと噂される彫刻本尊写真護、しかし、細井さんが『悪書板本尊偽作論を粉砕す』で
「某信徒が葦城氏と相談して写真を出したならば世間に知らしめて非常に効果があると考えて大石寺に願ってやったことである。
 しかるに効果どころか甚だ面白くない結果となったので、その掲載を禁止したのである。その悪い結果とは此の写真を複写して本尊に売買する者があらわれ、或は偽作するものがあるとかいう事であった。恐らく安永君の門徒の者の行為ではないか?」(P11)
と、日蓮宗が行ったこととしています。ところが、ラキさんの投稿のとおりであるとすれば、それを所持していたのは、日顕さんだというわけですね。となれば、それは石山宗内で撮影されたものとなりますね。

興味深い話です。

3280ラキ:2007/03/18(日) 18:56:10
日顕さんが、戦争に行かれた時なので、個人で写真を撮る事は無理だと思いますので、宗門の偉い方の許可か?戦争に行く人に僧侶か寺属の方にだけ特別に内緒で渡していたのかもしてませんね。
日蓮宗どうのこうのの話は無かったと記憶してますので、石山独自の写真を使用していたと思われます。

3281犀角独歩:2007/03/18(日) 22:30:44

ラキさん、その発言の正確なところを知りたいですね。

3282ラキ:2007/03/19(月) 23:00:41
正確な発言記事を記載したいのですが、夏期講習の大白法がないので、確認できません。
日顕さんの発言の夏期講習は、5回目か6回目だったと記憶してます。
夏期講習には珍しく、時間を10分ぐらい延長したときです。

3284ラキ:2007/04/19(木) 01:32:27
昭和30年代に「日蓮正宗の基本を守り結局離脱に追い込まれた僧俗。」(自称?)
見たいな、事件が大石寺であったのでしょうか?
ネットで調べても判らなかったので、ご存知の方がおりましたら教えてください。

3285顕正居士:2007/04/19(木) 09:20:40
大阪蓮華寺(久保川師の蓮華寺とは別)のことではないでしょうか。

下のページの「戦後60年と日蓮正宗の歩み⑰」
http://www.fujimon.or.jp/keimyo.html

3286ラキ:2007/04/19(木) 20:14:18
顕正居士さん。
情報ありがとうございます。
他にも疑問に思っていた情報が載っていて、掘り出し物を見つけた嬉しさで、感激しております。
本当に、情報をありがとうございました。m(_ _)m

3287偶ロム偶ログ(別HN御免):2007/04/22(日) 13:42:13
昭和30年代に「日蓮正宗の基本を守り結局離脱に追い込まれた僧俗。」(自称?)

僧ということであれば、旧蓮華寺と高知県の大乗寺、自称ではありません。
俗ならば東京蒲田の某会、この会については犀角独歩さんがお詳しいかと。
また、戸田会長推戴に反対して学会を離脱したグループもありました。

3288犀角独歩:2007/04/22(日) 23:03:33

> 3287

ご指名ながら、ちょっと、いまは思い当たりません。
ただ、昭和30年代のことといえば、顕徳会のことか、その他諸々。何について、ラキさんが問うているのかと。

3289ラキ:2007/04/23(月) 10:03:54
某巨大掲示板で見たのですが、昭和30年代に学会の圧力で「日蓮正宗の基本を守り結局離脱に追い込まれた僧俗。」が居た。
との、記載を見たのです。
石山でも戦後の復興をしなければならない時期なのに、多少の揉め事はあったにせよ”正宗の基本を守り”宗門から離脱した僧俗等が居たのかと思い、質問させて頂きました。
うちの住職に聞いても「知らない」と、無関心だったので、(教えたくなかったのか?)宗門として、汚点となるような隠したい事が有ったのかと、気になっております。

3290藤川一郎:2007/04/25(水) 09:25:59
「日蓮正宗の基本を守り結局離脱に追い込まれた僧俗。」
この投稿をした方の意図と日蓮正宗の基本を守ったか否かは別問題ですが、浅井氏が金科玉条のように使用する「時の貫首と雖も・・・」を主張して、自身らの正義を主張し、離脱していったのは
「大阪蓮華寺問題」と「高知大乗寺問題」の事では無いでしょうか?

3291しゅんかん:2007/04/28(土) 21:03:07
皆さ叉、ご教示お願致します。

石山に於いては法華経の一部読誦として他派、他門流を批判していますね。

福岡ふるさとの歴史再発見と云うHPに於いて、
正中二年銘梵字板碑の解説で
(法華経を一部読誦するのに現代の僧侶が唱えて9時間かかると言われており・・・)

と在ります、石山と正中二年銘梵字板碑の解説、一部読誦とは異なるのでしょうか?

ご教示お願致します。

3292しゅんかん:2007/04/28(土) 21:05:16
3291補記

福岡ふるさとの歴史再発見HP
http://www.educ.pref.fukuoka.lg.jp/bunka/cgi-bin/detail/detail.cgi?number=85

3293ヨブ:2007/05/05(土) 05:09:10
みなさま、はじめまして。
大聖人の仏法に莫大な関心があるものです。
ですが、宗教団体には入っていないため、
どこからどんな風に勉強を始めていけばよいのか分からず
困っています・・。

ところで、私は創価学会版の御書を持っているのですが、
日蓮正宗は平成に入ってから、平成新編御書を発刊したと知りました。
この御書はどのようにしたら手に入れられるのでしょうか?
日蓮正宗の信者じゃなくても、
正宗寺院に行けば売ってもらえるのでしょうか?

突然の投稿ですが、もしよろしければ教えていただけるとうれしいです。
よろしくお願いします。

3294犀角独歩:2007/05/05(土) 09:40:57

ヨブさん、はじめまして。

大石寺の出版物は、以下で購入できるのではないでしょうか。

株式会社 大日蓮出版
〒418-0116 静岡県富士宮市上条546−1
TEL 0544-59-0530
FAX 0544-58-0909

余計なことかも知れませんが、日蓮を真面目に研鑽しようとするのに、なぜ、大石寺の御書のようないい加減なものを欲するのでしょうか。批判資料にこそなれ、日蓮遺文の研鑽には不向きでしょう。

学術資料としてみるのであれば、定本は座右に置かなければならないでしょうし、確実な真蹟遺文ということであれば、『平成新修日蓮聖人遺文集』となりませんか。

定本に関しては現宗研のサイトで、データ版がダウンロードできます。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

3295犀角独歩:2007/05/05(土) 09:58:45

れんさんほか、諸賢

(1)『三八教』の花押について

日蓮花押についてですが、『日蓮聖人真蹟集成』第2巻に載る『三八教』は、如何様な取り扱いとなるのでしょうか。

同書解説(日教研)では、正嘉元年とし、しかし、文永6年説(対象緑)も紹介しています。

正嘉元年の花押を日教研がいちおうでも認めているのはやや驚きですが、いっぽう、文永6年としても、鍵手がはっきりとしていること、バン字とみえる部分はあるものの、その後半がないことなどで日蓮の花押の体裁をなしているように思えません。如何お考えでしょうか。


(2)「本門本尊与四菩薩戒壇南無妙法蓮花経五字残之」の読みについて

もう一点。同書第1巻『法華取要抄』解説に『法華経行者逢難事』の以上の訓読を「本門ノ本尊ト四菩薩ト戒壇ノ南無妙法蓮花経ノ五字与(ト)之ヲ残シタマフ」(このP284)と田村芳朗師はしています。取要抄、報恩抄等との兼ね合いからすれば「本門ノ本尊ト四菩薩ト戒壇“ト”南無妙法蓮花経ノ五字」とするほうが相応だと思うのです。田村師の見解はともかくとして、この点はどのようにお考えになりますか。

ご賢察をお聞かせいただければ幸甚です。

3296犀角独歩:2007/05/05(土) 10:05:44

(3) 諫暁八幡抄の花押

もう一点。これは独学徒さんに主にお尋ねしたいのですが、編集・大石寺学頭/由井日乗『日蓮大聖人御真筆』(昭和14、5年頃刊)に載る『諫暁八幡抄』47紙の文末、花押はどのようになっているのでしょうか。ご承知のところあれば、ご教示ください。

3297顕正居士:2007/05/05(土) 10:17:42
>>3291
ご質問の趣旨が分からないですね。福岡の記事は大石寺とも日蓮宗とも関係ないようですが。

法華経一部読誦すると9時間というのはそんなものでしょう。1品20分弱×(28品+開結)。

ところでお経を読誦するのは何の意味があるのかと考えると、仏様にお経を聞かせるのは
無意味です。釈迦に説教です。だからこれは自分が暗記するためなのです。
方便品読不の論争とか、富士派に限りませんが、読誦は何のためにするのか、肝心なことが
消し飛んでしまった低レベルの議論が上代の日蓮宗には多かったようではあります。

3298犀角独歩:2007/05/05(土) 10:22:53

(4)祖翰難字集

あと一点。彰往考来さんが『富木常忍に授与された御本尊について』(http://fujikyougaku.fc2web.com/ronbun/toki.html)で取り上げられている京都頂妙寺/真如院日等の事績に係ることですが、『祖翰難字集』は、影本その他出版されているものなのでしょうか。これまた、ご承知の点がございましたら、ご教示ください。

3299独学徒:2007/05/05(土) 12:24:43

犀角独歩さん、

>3296
以前、昭和6年発行の由井一乗「日蓮大聖人御真筆写真集」は拝したことがあるのですが、その当時『諫暁八幡抄』に関しては、特に気に止める事はしませんでした。
コピーを持ち帰った部分は、日朗代筆の『伯耆公御房御消息』(御書全集未入集)と巻末の発行者その他の記された部分だけでした。
確かに、犀角独歩さんが注目するように、発行者由井一乗となっていますが、編纂者は堀日亨となっています。
『諫暁八幡抄』巻末の「日道花押」は、御書全集でも隠蔽工作がなされていますので、最初に禁忌を犯したのが、堀日亨師である可能性は十分にありますね。
しかし今は手持ちの資料では、可能性以上の事は判らず、ご期待に沿えず申し訳なく存じます。

話は変わりますが、由井一乗「日蓮大聖人御真筆写真集」所載の日朗代筆『伯耆公御房御消息』が御書全集に収録されなかったのは面白いですね。
弘安五年という日蓮最晩年の時、日朗が日蓮の側にいて、日興は駿河の国という日蓮から離れたところにおり、日朗が日蓮の代理者として日興に消息文を送られているわけです。
消息の巻末には「日朗花押」と認められており、しかも内容は今で言う所謂「御秘符」に関するものですね。
御書全集の編纂姿勢には、いまさらながら特定意図が反映されていることを痛感しますね。

3300パンナコッタ:2007/05/05(土) 12:38:04
三八教は、御書システムの系年備考では、
「真蹟本状奥に「三月十六日」の日付があり、且つバン字形とおぼしき花押があるが、これは他筆である。
寺尾英智はこれを京都妙顕寺五世朗源の筆跡と推定している(「京都妙顕寺所蔵の日蓮真蹟」『仏教思想仏教史論集』418頁)。
『日明目録』『高祖遺文録』『縮刷遺文』『定本』『新定』は正嘉元年三月十六日とする。『対照録』は日付は他筆であるので採用せず、
系年は「文永六年、或謂文永八年」とする。文中爾前経の円と『法華経』の円との相違が示されており、これは文永六年に系けられる
番号81「十章抄」、同じく文永六年に系けられる「双紙要文」(『対照録』下巻164頁)と共通しており、『対照録』の文永六年を可とする」
 となっていました。

3301犀角独歩:2007/05/05(土) 13:02:09

○独学徒さん、有り難うございます。

『日蓮聖人真蹟集成』第1巻の兜木正亨師の解説は以下です。

「2A、日蓮大聖人御真筆写真帖 1帖
 編集者 堀日亨 発行元 大石寺大学寮 昭和6年650遠忌記念刊
 (内容)大橋書・重須女房御返事・龍門御書・上野殿御返事・上野母尼御返事・筵三枚御書
 2B、日蓮大聖人御真筆 2巻
 編纂 大石寺学頭由井日乗 昭和14、5年頃刊
 (内容)宝軽法重事・衆生身心御書・減劫御書(以上巻1)・諫暁八幡抄(巻2)」(1-277)

由井一乗は「由井日乗」の間違いでした。
どうやら、独学徒さんが御覧になった写真帖から10年足らずして、別刊された巻2に諫暁八幡抄が所載されたようです。

> 「日蓮大聖人御真筆写真集」所載の日朗代筆『伯耆公御房御消息』が御書全集に収録されなかった…編纂姿勢…特定意図が反映

兜木師の記述には、この書が触れられていませんが、所載されているわけですね。学会分離以降、刊行された石山版では載せていますね。

仰るとおり、この日蓮の許の日朗、その代筆が離れた日興に送られたという位置関係は興味深いですね。

わたしは、日興は、日朗、さらに日昭を兄弟子として尊敬し、敬愛していたと信じたいと思います。


○パンナコッタさん、有り難うございます。

文自体は真蹟ながら、花押は他筆。文永6年説は花押からではなく、内容から、ということですね。納得できました。

3302独学徒:2007/05/05(土) 13:42:35

犀角独歩さん、

由井日乗でしたか、とんだ勘違いをしていました。
大変に失礼致しました。

3303犀角独歩:2007/05/05(土) 13:43:21

独学徒さん、いやいや、これはわたしの間違いでした。
失礼いたしました。

3304れん:2007/05/05(土) 21:01:32
犀角独歩さん
まず三八教は本文は蓮師真蹟ですが、末尾の日付・署名花押はパンナコッタさんご指摘の資料にあるように、後世の加筆にかかるものです。ほぼ同じ筆跡の日付・署名花押が妙顕寺蔵の蓮師真蹟の“八宗違目抄”の末尾にもありますので、三八教・八宗違目抄のそれは、パンナコッタさん御提示の資料にあるとおり後の妙顕寺歴代による加筆ですね。
法華行者値難事の本門三法門の部分の読みに関しては、独歩さんの方が無難ですね。日尊門流(日蓮本宗)中興の広蔵日辰は「四菩薩の戒壇」と読みを付していますが…、これはどうでしょうか?私は「本門ノ本尊ト四菩薩、戒壇ト南無妙法蓮華経ノ五字」と本門三法門の上から読み下しますがこれは私見です。 以上、雑文ながらご参考まで。

3305犀角独歩:2007/05/05(土) 22:48:59

れんさん、有り難うございました。
まずは、ご賢察を拝聴し、考えも整理がつきました。

また、事後報告で恐縮ですが、ブログにコメントを頂きました件につき、愚案を記しました。引き続き、コメント等、頂戴できれば幸甚です。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50957981.html

3306犀角独歩:2007/05/06(日) 17:22:49

こちらでは、画像がアップできませんので、『三八教』の後加の日付と日蓮花押を、わたしのブログにアップしました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50963427.html

3307独学徒:2007/05/06(日) 19:07:25

犀角独歩さん、

ブログのご紹介恐縮です。
れんさんご指摘の『三八教』と同筆の後加文である、『八宗違目抄』巻末部分を談議所の方にアップしてみました。

http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html

3308しゅんかん:2007/05/06(日) 22:03:27
顕正居士さん

ご教示有難うございます。
稚拙な文、申し訳ありませんでした。

一部=一部分なのか?とも思ってる附しが在りました。
一部=法華経二十八品とは理解していなかったのでした。

3309再挑戦者:2007/05/19(土) 18:56:38
 、、横レスゴメンします。
 先日、日蓮宗・重鎮の某寺院に参詣した。
 ボランテアの案内人が居ました。 でも、 庶民を無視するような、殿様応接にウンザリしました。
  門板には「、、久遠実成の教主釈尊を本尊とする、!!!」、、です。
 諸賢様、、何か、、変では、、ないでしょうか、、??
 日蓮宗には、日蓮真筆のご本尊が120数体記録されておるが、ナぜ、、「、、本尊、、として成立、」、、がなされていないのでしょうか、???
  日蓮さまが「魂を墨に託して書きて、候、、ぞ、、」、、と言う、お言葉を、余りにも軽視、、無視、のようでしょうか、??
 日蓮さんの「魂、」を理解不能な「オチコボレ、のような方方には、、」、、所詮は、「、???、、」、、でしょうか、、??

3310犀角独歩:2007/05/20(日) 07:37:33

> 久遠実成の教主釈尊を本尊

とは、教相の本尊でしょう。漫荼羅とは別です。

3311アンジ:2007/05/20(日) 11:52:52
ちょっと失礼します
再挑戦者さん
人に読んでもらい、意見を求める文章ならきちんと書くことをお勧めします
内容云々ではなく、読みづらいです

3312れん:2007/05/20(日) 17:08:15
再挑戦者さん
犀角独歩さんが述べておられるように、本門(教相・色法)本尊は寿量品に説かれた久遠実成の釈尊であることは、蓮師が報恩抄で明記されるところであり、また富士門流の祖師である興師も「南無妙法蓮華経の教主釈尊・久遠実成の如来」(原殿書)とお題目の教主を久遠実成の釈尊と示されており、この点特に異とするところはありません。初期富士門・特に目師門弟の著述に引用される蓮師記述とされる“三法妙の図”を読みますと仏法妙(本門、仏法妙を能開とし、衆生法妙・心法妙を所開とする)に対応するのは“寿量品の釈迦仏”(宝軽法重事)であり、心法妙(観心、心法妙を能開とし、衆生法妙・仏法妙を所開とする)に対応する蓮師の遺物は御筆漫荼羅であると愚考しますので、敢えて記すなら久遠実成の釈尊の色法(仏像)が本門本尊(教相)であり、心法(題目)が観心本尊に相当するのではないでしょうか?初期富士門では広宣流布・国主帰依を待って本門本尊(久遠実成の釈尊の仏像)を造立し、それまでは観心本尊(敢えて飛躍的に言えば御筆漫荼羅?)のみを安置するという意見だったと思いますが、いつまでたっても広宣流布の兆しがないこと、かつ御影信仰の興隆と室町期の中古天台の教学・慶林日隆師の教学の摂取により、末法の教主を日蓮とみなすに至り、御影本尊観から日蓮本仏観に進んだのが富士の本尊観の変遷と思います。

3313マハー:2007/05/21(月) 20:21:25
先日、日寛の題目抄文段を読んで、日寛が釈尊実子三人説を採用していたのには驚きました。
報恩抄を読むと日蓮が釈迦の実子三人説に否定的なのが覗えます。
では日寛は実子三人説をどこから引っ張ったのか?

最澄の血脈系譜からか、はたまた慈恩大師の玄讃からか・・・
日寛の「中古天台の影響」をふと感じた一文でした。

3314再挑戦者:2007/05/26(土) 18:20:25
3311,アンジさま、失礼しました、今後はその方向に向けて自助努力したい所存です。
 3312、れん様、3310、独歩さま、ご指導のほど痛く感涙します。
 >、、,、広布の兆し、、云々、、<      
  これには、グサリと、説得力999%を超えるかと、存じます、。
 只、当時、鎌倉時代の識字率、紙の生産量、郵便率、など、から勘案しますと、「、日蓮さまの意図する事柄の何%、が信者諸賢にに正確に伝達されたか、?」、と言う、更なる疑問を感じます次第です。

3315再挑戦者:2007/05/29(火) 20:44:19
、、ゴメン下さい。
 諸賢方のご意見・御主張、などは、「、、現職・僧侶サイドからのご意見、?、」、、が多くを占有?していますよようですか、?
 然るに、小生は「、、ロクニ背景も考慮もせずに?、信者サイドからの思い??、」を、? 発言させて戴きました、。 此処において、多種の食い違いと、読みズラさ、?、、が、存在したようでしょうか、?失礼しました、。 疑問は継続中ですが、、 早々、。

3316再挑戦者:2007/05/30(水) 22:01:46
 、、ドーモ、、です。
 昨今、「ササニシキ偽造で七名逮捕(読売新聞)」、のニュースがありました。  たかが「米、、!!」、、「、されどコメ、、??」、、でしょうか、?
 只、我らは、笑っては、? 済まされないでしょう、? 是と、同じ「根っこを源流とする、、ニセ・ササニシキ、、問題
、?」、、に関連するようでしょうか、、?
 寄ってたかって、、「、、日蓮さまの魂を、ニセモノへと誘導したパターンと相似形が、、?、」、懸念、、されますでしょうか、?

3317れん:2007/06/05(火) 06:25:03
再挑戦者さん
少なくとも、私の投稿内容に関しては、私のこれまでの見聞したことや文献調査等に基づき、自分の見解を書いておりまして、他の方(たとえば高僧など)の影響など受けてのものではありません。そこのところ、ご理解戴ければ幸甚です。

3318マターリ:2007/06/05(火) 21:27:22
日蓮聖人の文章について解釈に悩んでいます。教えていただきたく、宜しく
お願い致します。

秋元御書↓

是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説き
給う也。

治部房御返事↓

例せば父母を殺す人は何なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、
又、法華経のかたきとなる人をば、父母なれども殺しぬれば大罪還って
大善根となり候。

この文章の、「害す・殺す」というのを、そのまま受け取ると、とんでもない
ことになりますが、どう考えたら宜しいでしょうか?

3319問答迷人:2007/06/05(火) 21:59:44

マターリさん

ご参加有難うございます。

秋元御書、治部房御返事、いずれも真蹟遺文が有りません。これら、真蹟の無い御書をどう考えるか、難しいところです。

もし、これらが、蓮祖の文章そのままだとすれば、バリバリのポァ思想ですね。涅槃経の中に、仏教の教えでないものが紛れ込んでいると聞いていますが、これはその代表格だと思います。オーム真理教の麻原教祖の教えと同じですね。涅槃経に書かれているからといって、蓮祖がそれをそのまま踏襲したとは、僕は考えにくいのですが、仏教に有らざる考え方であり、排斥されるべきものと考えています。

3320マターリ:2007/06/05(火) 23:23:49
>問答迷人さん、教えていただき、ありがとうございます。

真蹟遺文が無いとすると、その先の解釈が難しくなりますね。

ところで撰時抄は、真蹟遺文なのでしょうか?↓

建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔を
ばやきはらいて彼等が首を由比の浜にて切らずば日本国必ず滅ぶべしと申し
候了んぬ。

3321犀角独歩:2007/06/06(水) 00:34:12

マタリーさん、はじめまして。

まあ、こう書いては語弊があるかも知れませんが、日蓮とはそんな人と、わたしは考えています。日蓮を自由平等、民主主義、平和の使者、非暴力の代名詞みたいに評価するのは、およそ、現実からかけ離れています。

折伏を殺の義という天台釈を採った日蓮ですから、法華不信者を殺すことを是とするのが日蓮の為政観だということですね。

ただし、日蓮が言う、折伏・摂受とは、今で言えば、刑罰と更生のようなものであると、わたしは考えています。涅槃経は、中国でまとまっていた経典ですが、いまで法律と仏教を併せ持った性質を有しています。つまり、為政者にとっては法律法典で、為政者は国を統治するために刑罰を以てせざるを得ずそれを意味したのが折伏っです。出家にとっては仏典です。出家は如何なる悪人も仏の前に救うことを前提にしますから摂受となります。今で言えば、死刑囚の最期に聖職者の教誨があるごとくです。救えるのであれば更生もあるでしょう。そして、この二つが一致することを祭政一致、王仏冥合となるわけでしょう。

このような関係を日蓮は『本尊抄』に「当知此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」と言ったのでしょう。

要するに、日蓮がいった折伏=殺とは、為政者の権限範囲とした刑罰、いまでいう死刑執行の権限を示したことであると、真蹟遺文を精査すれば読めます。

ただし、現在の死刑執行に値する罪状は、複数に及ぶ殺人罪等ですが、日蓮が言う殺人に匹敵する罪状は「法華誹謗」という仏法違背であるという点で、「ポア」と重なる点があるのでしょう。しかも、その系譜は、日蓮から天台、涅槃経に遡れ、チベット仏教とも同等の意義を有していると言うことでしょう。

この事実を厳正にとらえ、「取捨得宜不可一向等」という釈に依ろうというのが、わたしが記してきたことでした。

3322れん:2007/06/06(水) 00:55:22
マターリさん、初めまして。
秋元書については、弘安三年あるいは四年に係る真蹟遺文“慈覚大師事”に「法門の事は、秋元太郎兵衛尉殿の御返事に少々注して候。御覧有るべく候」とあり、その存在を確認できますから、後世の作品とは言い切れない部分があります。また撰時抄はほぼ全文真蹟が現存する遺文です。
日蓮聖人といえども、前近代の中世・鎌倉時代に生まれ生きた御方であり、鎌倉時代当時の日本の仏教学の常識のうえからネハン経のポア思想を受容していた一面も有していたことは認めざるを得ないでしょう。
ただ私が敢えて鎌倉時代とことわったように、蓮祖のそれは一切衆生の得道を思っての発言であって、遺文を委細に読めば解る通り、蓮祖は犯罪行為としての殺人思想を肯定していた訳ではもちろんありません。蓮祖のそれは、あくまで、その執行者は本化国主に限定されるものでしたでしょう。ご自身はあくまで聖僧として不軽菩薩の立行に徹していたのが事実です。
先に記したように、鎌倉時代という時代背景から蓮祖の中にはネハン経の負の部分を受容した事実があるが、現代の視点と常識から、勿論この部分の思想は理由の如何に関わらず全否定・捨て去るのは当然で、この点、門下は蓮師の露払いをするのは当然のことですね。

3323パンナコッタ:2007/06/06(水) 14:19:08
撰時抄なら、ご参考に。
 http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/bunka/myohokkeji/myouhokkejibunka.htm

3324マターリ:2007/06/06(水) 18:21:09
>犀角独歩さん、れんさん、教えていただき、ありがとうございます。

偉大な仏教者なので、深い意味があるかとも思いましたが、ポア思想と重な
る部分がある、ということで、心がかえってすっきりとしました。

日蓮聖人も人間ですから間違いもあると思います。また、末法思想が流行し
た鎌倉時代にあっては、殺人ということが当たり前だったように思います。

秋元御書では、仙予国王が五百人の法師を殺し、阿育大王が十万八千の外道
を殺したと書いてあります。そして二人を褒め称えています。

しかし、二人と併記して覚得比丘が無量の謗法の者を殺したと書いてあり、
持戒第一の智者と誉め称えています。比丘とは出家した男子ですから、僧
が謗法の者を殺しても構わないという考え方ではないかと思えますが、
どのように考えたら宜しいのでしょうか?

れんさんが、おっしゃるような「その執行者は本化国主に限定」ではなく、
僧も執行して良いように受け取れます。秋元御書が真蹟だとすれば、
ですが。

>パンナコッタさん、絵曼荼羅には、びっくり仰天しました。

3325犀角独歩:2007/06/06(水) 19:37:50

マターリさん

厳正な判断をしようとするのであれば、それまでの信仰や、関係してきたグループと知り合いに、いやまして、日蓮その人に遠慮も出ようと言うのも人情ですが、それがかえって事実を正視することを歪めます。

わたしは、あなたのご判断は、資料からすれば当然の帰結だと思います。

半世紀前、世界最終戦争、聖戦だという日蓮門下の戦争翼賛論は、以上の脈絡から出た事実を、厳正に受け止め反省しなければならないでしょう。

いまだ折伏正意だという人々は、あなたが正視した文献を度外視して、日蓮を言論折伏の人に仕立て上げて是としようとしています。いまだに、そんな論理が尊ばれています。折伏 … 折り伏せるんだそうです。こんな言葉を使って、何とも感じない知性の鈍化、わたしは、このような態度を欺瞞であると思うのです。

「日蓮聖人が、そう仰っている」と嘯きます。ならば、法華誹謗の者の頚でも刎ねて歩ければいいのです。折伏正意をいいながら、後世の捏造に過ぎない彫刻を批判するわけもなく、摂受よろしく遊戯雑談をする自語相違の有様は、もはや、なに折伏なのかと、刎ねられないこの頚を傾げるばかりです。

なお、断罪執行者は『本尊抄』から離れれば、本化国主に限ることではないのは、涅槃経の規模からすれば、そのとおりであろうと、わたしも思います。

3326マターリ:2007/06/06(水) 22:03:14
>犀角独歩さん、レスありがとうございます。

王仏冥合とは法華経を国教化し、謗法の者にたいしては折伏し、死刑を前提
にして、改宗を迫ると考えて宜しいのでしょうか?折伏には殺の義があるん
ですね。私は、折伏というものを、軽く考え過ぎていました。

しかし、こうした国教化は、全体主義と同じような恐ろしい体制だと思いま
す。

太平洋戦争の発端は、2.26事件にあると考えていましたが、この事件に、
田中智学の国柱会が思想的に影響を与えたようですね。

また、太平洋戦争前のスローガン「八紘一宇」は、日蓮を中心にして「日本
國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」ということですから、
恐ろしいことです。

日蓮仏法を突き詰めていくと、こうした思想になっていくのは必然なので
しょうか?

また、満州事変の立役者は石原莞爾だったと思いますが、彼も国柱会の一員
なので、世界最終戦争の思想的背景には、日蓮仏法があると思います。

石原莞爾が満州に手を出さなければ、満州事変は起こらなかったと思います。
満州事変が起こらなければ、後の上海事変・日中戦争そして太平洋戦争も、
起こらなかった可能性もあり、彼の責任は重大だと思います。

3327青蓮:2007/06/07(木) 00:39:32
マターリさんはじめまして。私は王法=政治や権威権力ではないと思っています。何故かならば日蓮聖人は時の権力者に対してわずかな島の小主とも言われており、政治や権力だけを聖人が王法と捉らえていたならばそんな大切な王法をわずかな島の小主とは言われないでしょう。わずかな島の権威権力を仏法と肩を並べさせて何の意味があるでしょうか?その答えは法を下げるだけです。故に政治という狭い枠だけではなく社会のあらゆる生活(教育、経済その他の学問や職業を含めた広い意味を持つ)を指して王法と言われているのだと私は感じています。王仏冥合を政教一致のような方向に捉らえてしまうのは院政期ごろに見られる時の権力者の考え方と同じで、聖人の言う王法はもっと広い意味での考え方であると私は思います。

3328犀角独歩:2007/06/07(木) 07:46:20

マターリさん

ご投稿の歴史観は、ほぼそのとおりであろうと思います。
そのことを忘れて、折伏、本化、国主、国立戒壇などを軽々に口にせず、歴史的な反省を踏まえたうえで、未来を目指すのであれば、再構築かが必要なのだと考えます。

日蓮の思想を煎じ詰めていくと、必然的に戦前のようになるのかという問いですか。さて、この点はどうでしょうか。

戦後の創価学会の歩みは、いわば、国柱会の軍隊セッションを、折伏大闘争という民衆運動へ転化し、そこでは、原水爆反対、平和憲法擁護を中心に据えてきました。ところが、ここに来て、民衆主体から、自民党の連合から大資本主体へ傾き、いきおい、平和憲法擁護も揺らぎ、自衛隊の軍事強化から軍隊化へ、軍需産業による利権という方向性で、民衆と平和から乖離していっています。
ここでもし、日蓮を据えた「平和」を言うのであれば、つまるところ、戦前の悪夢に逆行するでしょう。この創価学会の変貌の原因を、日蓮の考えによると見るかは、意見の分かれるところでしょうか。


青蓮さん

3327のご投稿は、日蓮の王法二文論が考慮されていませんね。
日蓮にとって、王は正法護持と不信に二分立されているのであって、前者の場合、『本尊抄』に「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王」という四菩薩としてとらえ、いっぽう後者の場合、ご引用の根拠となる所謂釈尊御領観による『法門可被申様之事』の「日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし」という一節と現るのでしょう。

正法護持の四菩薩応現・賢王は、御領主釈尊からの使いであるのに対して、不信の「嶋の長」とは違います。
この両者を、国王として束ねて同じカテゴライズをしないのが日蓮の発想です。国王に判断肢があるのではなく、法華護持の信不信に基準があるからです。
正法護持において執政する王仏冥合国家を考えた日蓮における国王観は、現代語で言えば、間違いなく「政治権力」でしょう。


では、ここで、マターリさんと青蓮さんが取り上げられた国王という一点に就き、戦前日本の日蓮門下における国王観を、いまいちど見直してみるとき、この天皇は正法護持の法華を以て立正安国を目指したわけではありませんでした。しかし、これをもって本化国主として、極論においては天皇本尊論まで鼓舞されたわけです。つまり、不信の但嶋の長を採って、正法護持の賢王のように扱ったという点が指摘できます。わたしは、この戦前の有様は、『本尊抄』の道筋から言えば、甚だ不可であると考えます。

では、さらに天皇が法華護持を正法流宣の仁となったモデルを考えてみます。ここでは、れんさんが「執行者は本化国主に限定」という道筋から考えられます。日蓮は武力行使、この本化国王の武力行使を肯定していたかどうか。それは、上述書にも、「日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並天照大神等隣国の聖人に仰つけられて謗法をためさんとせらるゝか」などと、記すわけですから、武力による「正法」弘宣を、日蓮はまったく受容していることがわかります。

以上、日蓮のおける国王の規模でしょう。

3329犀角独歩:2007/06/07(木) 07:47:59

【3328の訂正】

誤)日蓮の王法二文論
正)日蓮の王法二分論

3330青蓮:2007/06/07(木) 09:50:21
独歩さん

独歩さんの御見識毎回の如く勉強になります。個人的には鎌倉時代と現代社会という時代的な変遷を考慮してから現代にそぐわない鎌倉時代においては常識であったであろうと思われる日蓮原理主義的なものは現代ではどのように考えるべきかと展開していくのがむしろ宗祖の心に叶うものであろうと考えているのですがまだまだ無知である故に勉強不足な点のある事をお許し下さい。

3331マターリ:2007/06/07(木) 18:30:55
>青蓮さん、初めまして、宜しくお願い致します。

>犀角独歩さん、教えていただき、ありがとうございます。日蓮聖人の
王仏冥合論と、それに対する国柱会と創価学会の歩みが、よくわかり
ました。ありがとうございました。今後とも宜しくお願い致します。

3332犀角独歩:2007/06/07(木) 18:37:37

青蓮さん

返レス、有り難うございます。
わたしたちが、真摯に日蓮の実像を考えようとするとき、日蓮を信仰する各集団、各個人の思惑が、その正視を妨げます。それぞれの信仰者が懐く日蓮のイメージは、願望によってデフォルメされ、時に歪んでいます。

わたしの3327のご投稿を拝見して、目についたのは「法を下げる」という一言です。この奇妙な(と敢えて言いましょう)表現は、創価学会とその周辺の得意な用法の一つですね。

たとえば、以下、livedoor で検索してみました。

http://search.livedoor.com/search/?k=search&amp;ie=utf8&amp;flag=1&amp;q=%E6%B3%95%E3%82%92%E4%B8%8B%E3%81%92%E3%82%8B


一瞥してわかりとおり、ヒットするのは創価学会関連です。つまり、他の日門下、仏教一般で、こんな用法はないということです。

つまり、この考え方は日蓮に遡源できません。日蓮に遡源できない用法で、日蓮の素意を探ることを、わたしはナンセンスであると考えます。もっといえば、日蓮の思惟から程遠いと言うことでもあります。

自分が記したこと、考え方、遣り方は何の影響か、そのゲタを外してから、「さて、日蓮は」と正視しない限り、日蓮だと思うのは、後の信仰者が思惑で揺らめかせた陽炎を、実像であると延々と勘違いする砂漠を彷徨することになります。

もちろん、日蓮を信仰から眺めることは各人の勝手ですが、しかし、それぞれの思惑を押しつけられる筋合いはありません。真の日蓮に会いたいと思えば、まずは、自分が過去に見聞し、以上のような思惑に満ちて語られ染みついてしまった固定観念を打ち砕くところから始める必要があります。

わたしは常に自問するのは「何で、このように考えてきたのだろうか」ということです。その影響を去って自力で考える。そこで見える日蓮、また、日興は、自分の信仰対象としての日蓮と乖離してしまうことはしばしばです。しかし、わたしは正視をやめません。信仰者の執着に遠慮会釈もいたしません。
なぜならば、わたしが知りたいの実像の日蓮だからです。

3333マターリ:2007/06/07(木) 18:55:33
>犀角独歩さん、私は創価学会・非活動家とはいえ、毎日、曼荼羅御本尊
様に手を合わせています。物心つくかつかないうちから、ずっと御給仕
と唱題をしていますので、日蓮聖人に対する信仰が、しみついています。

日蓮聖人の負の部分を知ってしまった現在、どのように御本尊様に向かっ
たら良いのか、悩むようになりました。なかなか題目があがらず、信仰が
薄らいできたように思います。

学会にはもちろん、親にさえも話せない内容ですので、ご指導のほど、宜し
くお願い致します。折伏=殺と、親が聞いたら、即座に信仰をやめそうな気
がして怖いです。

どのような気持ち・姿勢で、御本尊様に唱題すれば宜しいのでしょうか?

3334犀角独歩:2007/06/07(木) 21:35:26

マターリさん、こんばんは。

まず、ご指導などとおこがましいことはできません。これは前提として、ご理解ください。

こちらの過去ログをどれほど、お読みになりましたか。
わたしが、ずっと記してきたことは、この「本尊」についてもあります。
そもそも、「本尊」語は、天台の用法にはまったく見られません。
顕正居士さんとの議論では、真言密教の用語とのことでした。つまり、その影響が法華天台に及び定着し、日蓮も依用したということでしょう。

日蓮が本尊というのは、寿量仏、つまり、教相から考えれば、法華経から考えられる久遠五百塵点成道の釈迦牟尼仏、観心から考えれば「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏」。そして、『本尊問答抄』が真筆であれば「法華経の題目」でしょう。漫荼羅を本尊というのは、もはや例外に属します。

そのことから、わたしは、漫荼羅を本尊であるとは考えていません。
ただし、日興は漫荼羅を本尊といっています。この日興の考えに、わたしは、消極的です。わたしの日興嫌いは、こんな側面にもあります。

もっともいえば、本尊を策定する日蓮の発想には、仏法・仏教という見地からは、やや賛成しかねます。漫荼羅は、密教の影響としての漫荼羅であり、日蓮は、これを弟子檀那の允可証として活用したというのが、わたしの見解です。

以上の次第ですから、仏道修行において、ことさら、本尊と唱題を絶対視する必要性をわたしは感じていません。ただし、それを活用することを否定するということでもありません。もっと言えば、仏道修行において、信を絶対必須条件などと考えることもありません。以上がわたしの見解です。

この次第から、では、マターリさんの質問を摺り合わせてみてください。
何が違っていると思われますか?

3335マターリ:2007/06/07(木) 22:07:26
>犀角独歩さん、申し訳ありません、過去ログはまだ、ほとんど読んでおり
ません。初めてこの掲示板を拝見したのが、今週の月曜日ですので。

本尊に関する過去ログを、よく拝見してから、再びお伺いしたいと思います。
ありがとうございました。

3336マハー:2007/06/09(土) 16:08:35
>>3333
マターリさん
>日蓮聖人の負の部分を知ってしまった現在、どのように御本尊様に向かっ
>たら良いのか、悩むようになりました。

門外の私が日蓮を庇うつもりではありませんが・・・
秋元御書の
「是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説き
給う也。」を、<ポア思想>と位置付けるのは拡大解釈かも知れませんよ。
(オウム事件から広く知られるようになった「ポア」は多義に及ぶので、一応私のこの投稿においては、「殺人奨励」程度の意味で使用します。)

「第一の功徳と説き給う也、況や供養を可展哉」と続きますね。
秋元殿は上級武家でしょう。何かしらの殺害と隣り合わせの立場です。
日蓮のこの引用は涅槃経からとのことらしいが、当然ですが、涅槃経に「法華経を誹謗する人」と出てくるわけではありません。
曇無讖訳の、大般涅槃経第十二では

我於爾時心重大乗。
聞婆羅門誹謗方等。
聞已即時絶其命根。

法華経ではなく大乗経典と出てくるわけです。
私は、日蓮が「害することが第一の功徳」ではなく「大乗の中で法華経が第一」との日蓮お得意の意に読みます。確かに、法華経が第一なのだから功徳も第一となるのでしょうが、ここでいう功徳とは、「地獄に落ちない功徳」です。(ややこしい書き方ですみません)
これは次に「以是因緣従是已来不墮地獄」とありますからね。
また地獄に落ちないのは、「害する方」ですね。「殺される側」ではありません。この辺が「ポア=殺人奨励」とはやや違うところだと思います。

私は、例え多くの戒律を護ったとしても法華経を誹謗すれば堕地獄であり、また、多くの戒を破ったとしても、「況や供養を可展哉」と、この手紙の文意と読みました。

横言失礼致しました

3337マハー:2007/06/09(土) 16:18:57
訂正
以是因・従是已来不墮地獄
  ↓
以是因縁従是已来不墮地獄

3338犀角独歩:2007/06/09(土) 18:24:26

マハーさん

ここのところの議論は『秋元御書』から事及んでいますが、日蓮の“殺”もしくは“折伏”については、まず『開目抄』から見るべきでしょう。つまり、

若有更為当断其首 如是等文 並是折伏破法之人

また、

止観云 夫仏両説 一摂・二折 如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖乃至斬首是折義

ここでいう大経とは涅槃経ですね。両引用とも首を刎ねることを言っていますよ。また、これらの引用は功徳との対比で述べられるわけではなく、台学の五時判において法華・涅槃と束ねた見地を前提にしています。そのために、涅槃経の文は涅槃経を指すところ、法華経を指すことに転換されるレトリックを有します。この点を、わたしは過去に指摘し、法華・涅槃を束ねることに反対し、涅槃経を簡ぶことを述べました。

曽存ながら『光日房御書』には

念仏を、無間の業と申、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頚をはねらるべしと申上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕給たりと申ほどの大禍ある身なり

とまで記しているわけです。マターリさんの解読に別段間違いはありません。

ただし、わたしがマターリさんに記したことは、この解読についてではなく、本尊への勤行ということにつき、「本尊」義についてです。天台文献には、「本尊」語の用法がないこと、また、日蓮の教説から、漫荼羅を本尊とすることは例外に属すること、もっといえば、そもそも印刷複写漫荼羅が本尊といえるのか、さらにいえば、いま、行われている勤行が日蓮の言う勤行といえるのかという問題もあります。これら一切合切を、この段階で、マターリさんは再考され、そして、一体、何が残るのかを考えてみたらどうかというのが、わたしが記したことです。

3339マターリ:2007/06/09(土) 20:24:00
>マハーさん、ありがとうございます。秋元御書と撰時抄については、
2チャンネル創価・公明版で昨年、見て知っていました。しかし、日蓮聖人
の弟子、数百人が殺害されたことを考えると、謗法の者を殺害せよ、と殺人
奨励したとしても、ある程度、お気持ちを理解することができました。
(行敏訴状御会通を見ました)

しかし、何気なく治部房御返事を読んでいて、この文章を見つけ驚いてしま
いました。親が謗法をした場合、殺害しても構わないなど、日蓮聖人の言葉
とは、思えませんでした。時代が違うことを考慮しても、信じられない内容
です。(真蹟かどうかわかりませんが)

本尊スレッドにも、同じような内容が書いてありました。

治部房御返事↓

例せば父母を殺す人は何なる大善根をなせども天・是を受け給う事なし、
又、法華経のかたきとなる人をば、父母なれども殺しぬれば大罪還って
大善根となり候。

>犀角独歩さん、本尊スレッドと鰯の頭スレッドを、ざっと拝見しました。
犀角独歩さんの御名前は、原始仏教典・スッタニパータからとられたのです
ね。・・・犀の角のように独り歩め、ですね。私もスッタニパータを読みま
した。

犀角独歩さんの御高説を伺って、概要を箇条書きしました↓

1.大石寺の大御本尊は偽作
2.日蓮聖人は、本尊を釈迦立像としていた。将来的には、釈迦坐像を。
3.日蓮聖人は、御本仏ではない
4.曼荼羅御本尊は、弟子への允可状のようなもの
5.信仰の奇跡は、プラシーボ効果による錯覚

2と3は、御書から拝し、その通りだと思います。
2・・・釈迦像建立を弟子に勧めている御書がありました
3・・・ご自身を、上行菩薩の再誕と、言われていると思います。

1・4・5について・・・私は、曼荼羅御本尊を拝んでいる身ですので、申し
訳ありませんが、信仰上、肯定することはできません。しかし、理論で否定
するには、証拠が無く、不可能な状態です。

色々考えましたが、私は、以下のような気持ちで唱題したいと思います。↓

南無妙法蓮華経という名は、諸仏諸尊の総称であり、有縁無縁の諸精霊を
供養する言葉であるという思いを持ち、唱える。

曼陀羅とは、諸仏の悟りの世界を表現したもの。南無妙法蓮華経と唱えなが
ら、諸仏の悟りの世界に没入して行く。

自信はありませんが、どんなものでしょうか?

3340犀角独歩:2007/06/09(土) 21:13:09

マターリさん

石山の彫刻が偽造であることは、拙書をお読みいただくこととして、いちおう、もっとも簡単な説明は以下で公開しています。
こんなものが本物であるはずがありません。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

また、ブログもご参照ください。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/

第一、日蓮は彫刻師ではありません。日蓮の真筆というのは、紙に墨で記したものを言います。彫刻に彫ったものを真筆かどうかと議論すること自体まったくのナンセンスです。もし、彫刻が真筆であるというのであれば、紙幣を板に彫刻して買い物をすればよいことになります。

> 南無妙法蓮華経という名は、諸仏諸尊の総称であり、有縁無縁の諸精霊を
> 供養する言葉であるという思いを持ち、唱える。

> 曼陀羅とは、諸仏の悟りの世界を表現したもの。南無妙法蓮華経と唱えなが
> ら、諸仏の悟りの世界に没入して行く。

> 自信はありませんが、どんなものでしょうか?

まったく違うと思います。

さらに異轍を述べれば、唱題の方法について、マターリさんは、どのように行っていますか。

日蓮の唱題は、「めうほうれんくゑきやう」ですが、大野晋師の日本語の研究では「はひふへほ」は鎌倉時代「ぱぴぷぺぽ」であったといいます。また、蝶を「てふ」と記しますが、これもそのまま、「てふ(Te-Hu)」と読んでいたというのが、『平家物語』の研究などから言われたことであると記憶します。
となると、「Me-u・Po-u・Ku-We・Ki-Ya-u」ほどの発声になります。また、一唱一呼吸であったという説(松本師)などとも言われますが、マターリさんは、どのように唱えていますか。あなたの唱え方は、日蓮の原形と同じでしょうか。

自分のやってきたとこにしがみつくことより、日蓮の素意に迫ることをお考えになることです。

3341犀角独歩:2007/06/09(土) 21:14:56

【3340の訂正】

誤)「Me-u・Po-u・Ku-We・Ki-Ya-u」
正)、「Me-u・Po-u・Ren・Ku-We・Ki-Ya-u」

3342マターリ:2007/06/09(土) 21:53:52
>犀角独歩さん、失礼致しました。既成概念を捨てて、HPとブログを拝見
させていただきます。

日蓮聖人の唱題の仕方については、全く知りませんでした。

3343天蓋真鏡:2007/06/10(日) 02:02:48
横レス失礼します。自分は、経典の説明、反法華への警告、日蓮を害する者への威嚇に想います。武士の時代、煽りを行ったと指摘されても仕方無いかなと考えます。 灰を薬代わりに飲ませた話がちょっとびっくりしました。

3344犀角独歩:2007/06/10(日) 08:05:59

マターリさん

わたしたちは、21世紀という時代を生きています。
科学的証明という現実を突きつけられています。

日蓮の時代は末法ではありませんでした。末法を説いた『大集経』は後世の創作でした。なにより、法華経は西暦前100年から後150年に創られたものであり、釈迦の直説ではありませんでした。漢訳された法華経、すなわち『妙法蓮華経』は恣意的訳が多く、原意から乖離している部分がありました。その漢訳を元に構成された天台(実際は章安の述)の釈でした。その天台の釈をさらに説明した妙楽には飛躍があります。これら釈は妙法蓮華経という漢字5文字に基づく構成です。梵語原典とは距離があります。さらにそれを踏襲した伝教は、その釈に積極的に「本尊」語を適用していきます。日本仏教の特徴、本地垂迹説、神仏習合があり、その様相は原意からさらにかけ離れていきました。日蓮は本覚の影響も、本地垂迹の影響を受容し、さらに本尊義、漫荼羅(密教)の影響も受けて、独自の法華観を展開します。日蓮の没後、日興は漫荼羅を本尊と定着させ、日蓮の仏像崇拝を撤廃、さらに日有に前後し、日隆の影響を受けました。日蓮本尊論の展開がありました。中世に恵心流口伝法門、また、日教が招来した京都の影響を受けました日蓮本尊は日蓮本仏へと変容しました。財力にものを言わせ、文献収拾した日精はm本門戒壇堂(御影堂)を建立し、この頃より、「本門戒壇の大御本尊」が看板になります。この文献収拾(つまり相伝、口伝の寄せ集め)を大成したのが日寛であり、さらに日蓮本仏と捏造された「戒壇本尊」を一体のものとする珍解釈を以てこれを鼓舞しました。

以上、雑駁な記述ですが、このような延長に、我々が信じ込んだ教学と本尊があります。ひと言で言えば、一切合切、後世の創作であったということでしょう。
しかしながら、これはわたし個人がなす批判と言うより、現代科学が実証した偽らざる実像であるということです。しかし、反面、われわれは数十年に亘る信仰経験を有しています。所謂「体験」というものです。この創作という事実と、体験には歪みがあります。

真実であるが故に体験があったと思っていたのにもかかわらず、創作虚偽であるにもかかわらず、体験が生じていたという歪みです。

この体験を生んでくれたシンボルとしての日蓮、南無妙法蓮華経、もっと言えば本尊、勤行、唱題にたいする畏怖と崇敬の念もあるでしょう。

この事実と虚偽、体験との狭間で、21世紀の日蓮を考えようというのが、当掲示板の趣旨でした。

単に反対者を侮蔑、悪口雑言したところで、科学が証明した事実は何ら変わることはありません。その事実を真摯に見つめ、では、どうするのかというアポリアは、超えられるかどうか。しかし、まず、大切なことは100年前に崩壊した「我々日本仏教」の実態を、正視することから始めることである。何故ならば、創価学会を含む大石寺圏の教学は冒頭に記した創作に基づく虚構であったからです。

出発はここにあります。

3345マターリ:2007/06/10(日) 12:37:11
>犀角独歩さん、仏教の変遷について、詳しく教えていただき、ありがとう
ございます。納得いたしました。

>この事実と虚偽、体験との狭間で、21世紀の日蓮を考えようというのが、
当掲示板の趣旨でした。

そうでしたか。掲示板の趣旨がよくわかりました。ぜひ、末席に加えていた
だければ、と思います。

>しかし、まず、大切なことは100年前に崩壊した「我々日本仏教」の実態
を、正視することから始めることである。何故ならば、創価学会を含む大石
寺圏の教学は冒頭に記した創作に基づく虚構であったからです。

創作だったんですか。プラシーボ効果について反論を述べさせていただきま
した。しかし私自身、いくら祈っても叶わないことの方が多く、悩んでいま
した。「祈って叶わざるなし」なので、信心が弱いせいだと思っていました。

HPを拝見しました。以前に拝見したことがあります。曼荼羅の写真集も、
昨年、見ました。第一本尊の、のんびりとした感じが好きでした。

ブログも拝見しました。彌彦神社に行かれていますが、日蓮門下として、
神社に行って良いものなのでしょうか?

3346そううそ:2007/06/10(日) 12:47:11
>>3323
パンナコッタさん、ALL
ご参考までに。
本境寺:絹本著色十界勧請大曼荼羅図
http://www.city.obama.fukui.jp/section/sec_sekaiisan/Japanese/data/263.htm

蓮祖及び門下の曼荼羅について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1114674169/
こちらでリンクを張ったほうがよかったかな?

3347犀角独歩:2007/06/10(日) 14:13:33

マターリさん

> 日蓮門下として、神社に行って良いものなのでしょうか

たとえば八幡神社の多くは日蓮宗寺院と隣接して造立されています。

創価学会もかつては、大石寺の信徒団体でしたね。
富士宮にある浅間神社は、その大石寺が統括していました。
日興が造立した重須談所には、本地垂迹堂やら、八幡社がありました。
石山にも垂迹堂がありました。都合が悪いために資料性に難癖をつけられている日量の『大石寺明細誌』には以下の記述があります。

「天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧
請す神躰は板本尊。
 垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本
尊」

ここに「神体」とあります。寺院境内に造立された神社ですね、両方とも。
たぶん、これら堂宇は明治の廃仏毀釈、神仏分離令まで存続していたのでしょう。もし、神を拝んではいけないのであれば、漫荼羅にある神はどうなるのでしょうか。

日有は『化儀抄』に

「一、他宗の神社に参詣し一礼をもなし散供をも参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人なり、就中正直の頭を栖と思し召さん垂迹の謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還つて諸神の本意に背くべきなり云云、但し見物遊山なんどには神社へ参せん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云」

ここに「神社へ参せん事禁ずべからず」と明確に記されてあります。化儀抄は南条日住の正本を存します。一方、神社不参の根拠とされるのは『日興遺誡置文』の一節でしょう。

「一、檀那の社参物詣でを禁ずべし、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。返す返すも口惜しき次第なり。是全く己義に非ず、経文御抄等に任す云云」

この金科玉条の如く扱われる文献は、しかし、その正本が日興のものである証拠は何一つありません。また、先の『化儀抄』には「日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり」とあります。

わたしの個人的見解から言えば、「天照大神」「八幡大菩薩(神)」と大書された漫荼羅を拝みながら、神社不参もないものだということです。

そもそも神社不参より、もっと悪いことがあります。日蓮の真筆だと謀った彫刻を本物である偽って信者を集め、その写しであるといって、まるで内容が違う漫荼羅を本尊といって印刷大量複写して信者に拝ませる。わたしは、こんなものは戦前に郡部が配布した神札よりもっと日蓮の意に背くものであると思いますが。神社不参を云々する以前に斯様な漫荼羅本尊の成否を問うことが先決であると、わたしは思いますが、如何でしょうか。

3348犀角独歩:2007/06/10(日) 14:15:00

【3347の訂正】

誤)郡部が配布した神札
正)軍部が配布した神札

3349犀角独歩:2007/06/10(日) 14:19:42

一つ、書き忘れました。

> 「祈って叶わざるなし」

こんなことは、単なる世迷い言でしょう。
もし、こんなことができるのであれば、「病気にならない」「年を取らない」「死なない」という願いを、わたしなら立てます。
しかし、四師を自称した日蓮も病になり、年取り、軈て、死にました。

仏教とは、できもしない願望を「叶う」と偽って、信者を集めるものではなく、現実を直視させ、よりよく生き、よりよく死んでいくことを教えるものであるはずです。

「祈って叶わざるなし」などということを宣伝文句に使った段階で、なんとも胡散臭い団体であると、常識があれば、誰しも思うでしょう。

3350犀角独歩:2007/06/11(月) 09:12:21

やや基礎的なことを記せば、「祈って叶わざるなし」とは、正確には以下のとおりです。出典は日寛『観心本尊抄文段上』。

「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」

では、ここでいう‘本尊’とは

「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」

すなわち、「祈りとして叶わざるなく」とは、日寛の言に拠れば弘安二年の本門戒壇の御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるという要件を満たすことによって成就するというのが、その意味です。

では、その本尊が後世の捏造贋作であれば、この言はどうなるか、根本から瓦解するわけです。

3351天蓋真鏡:2007/06/11(月) 18:16:51
でも、信心も鰯の頭からって申します云々。学問なら尚更。 自然現象や新陳代謝を 神通力て゛どれぐらい起こせるのか。

3352マハー:2007/06/12(火) 09:47:26
>>3338
独歩さん こんにちは
御返事遅くなってすみません。

>日蓮の“殺”もしくは“折伏”については、まず『開目抄』から見るべきでしょう。

『開目抄』は重要な御書のようですね。
しかし、それは止観、弘決からそのまま引用であって、日蓮自身が言っているのではないでしょう。そうなれば、日蓮だけに限定した問題ではないと思います。

>これらの引用は功徳との対比で述べられるわけではなく

止観では、雖与奪殊途俱令利益と功徳の対比を述べています。

>ここでいう大経とは涅槃経ですね

止観で指す大教とは、涅槃経のことで間違いないと思いますが、「執持刀杖乃至斬首」は
大般涅槃経の3巻後半から4巻の部分で、所謂、「有徳王の説話」の部分です。
最終的に殺されるのは、有徳王の方です。またこの止観の引用部分は巻10の終わりのところですが、「是折義」というのは、折=正法護持、 伏についてはその後に見られる衆生調伏でしょう。
よって、折伏=正法護持衆生調伏 の意であって、この引用から、折伏=殺 というのは飛躍しすぎだと思います。

>法華経を指すことに転換されるレトリック

う〜ん。なるほど。
この件よく気付きませんでした…。熟考したいと思います。

私がマターリさんに言いたかったことは、こう言った日蓮の論調は「救済志向」が底にあって論を展開してるのではないですか?という事です。破戒を容認してるのではなくて、破戒した者でも法華経によれば救うことが出来るとしているのでしょう。

>「本尊」義についてです。天台文献には、「本尊」語の用法がないこと、

仰る通りだと思います。
日本での本地崇拝が、その専一思想が進む中で根本崇拝にに変わっていったのではないだろうかと思います。

3353マハー:2007/06/12(火) 09:49:47
訂正

雖与奪殊途・令利益
   ↓
雖与奪殊途倶令利益

3354パンナコッタ:2007/06/12(火) 13:34:14
横レス失礼します。
 >折伏=殺 というのは飛躍しすぎ   
これは、摩訶止観 第十 下の
「夫佛法兩説一攝二折。如安樂行不稱長短是攝義。大經執持刀杖乃至斬首是折義。
 雖與奪殊途倶令利益。若諸見流轉須斷令盡。若助練神明迴心入正皆可攝受」

大経の刀杖を執持し、乃至首を斬るは是れ折の義なり と、物騒な事が明示されていますね。 
この論旨をどう取るかによって解釈の差異は出てきますけど、以上ご参考に。

3355マハー:2007/06/12(火) 15:47:19
>>3354

パンナコッタさん

>大経の刀杖を執持し、乃至首を斬るは是れ折の義なり

違うと思います。

大経の、「執持刀杖から斬首まで」、是れ折の義なり

3356犀角独歩:2007/06/12(火) 18:03:50

マハーさん

何点か同意点がありましたね。
しかしながら、以下の点の相違について、わたしも記します。

「大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れというはこれ折の義」というのは、門下一般の訓読(全集)です。ちなみに全集に載る現代語訳は「涅槃経金剛身品に『刀や杖をいつも携えて、あるいは首を斬れ』と説くのが折伏の意義である」となっています。パンナコッタさんに何ら間違いがあるとは、わたしは思いません。

なお、この引用は『金剛身品第五』の「執持刀杖」文、乃至『四相品第七』の「斬首」までではないでしょうか。

> …「是折義」というのは、折=正法護持、伏についてはその後に見られる衆生調伏でしょう。
> よって、折伏=正法護持衆生調伏 の意であって、この引用から、折伏=殺 というのは飛躍しすぎだと思います

さて、では、「飛躍」はどちらでしょうか。

まず第一に、止観の原文はパンナコッタさんが引用くださったとおりです。
ここに「雖与奪殊途俱令利益」とあります。これは与=摂:奪=折で、この与奪とは命を奪わず与える摂受と、命を奪う折ということを「与奪ことなりといえども、倶(とも)に利益せしむ」というわけですから、正法護持に守護があるのではなく斬首と同じく命を奪うこと、つまり「殺」にその意義があります。そしてですから、利益・功徳の対比ではなく、摂・折の対比のうえで共に利益ありという対比です。

また「衆生調伏」について、あとのほうに出るというのは、間違いではないでしょうか。これは『序品第一』の段階で出ています。以下のとおりです。

「爲欲利益安樂衆生 成就大乘第一空行 顯發如來方便密教 爲不斷絶種種説法 爲諸衆生調伏因縁故」

伏という字は同じでも、これを折伏の伏とする理由がわかりません。
衆生を利益‘安楽’せんとするという道筋ですから、寧ろ安楽、摂受に親和性があるのではないですか。

以上の次第ですから、マハーさんの折伏の解釈は意に沿っていません。
意はあくまで斬首=殺=折ということでしょう。

第二に、止観の原文はパンナコッタさんが引用してくださったとおりで、ここでは、安楽行品の「長短を称せざれ」を摂:大経の「刀杖を執持・首を斬る」を折の対比であり、後者の折は正法護持には違いありませんが、その折を斬首とした止観の文です。これが‘殺’以外の何でしょうか。止観で述べるところは以上のとおりで、飛躍でも何でもありません。

第三に、日蓮は、止観の意をそのままに採ったわけですから、折=斬首=殺と記しているとして、何ら原意から外れるところはありません。

なお、これはマハーさんのご投稿とは関係ありませんが、以上の止観の部分は、パンナコッタさんが引用くださったとおり「入正皆可攝受」すべしであり、いまの日蓮門下が摂受も折伏だと乱暴な意見を強言することと裏腹に、「皆まさに摂受に入らしむべし」とは、なんとも味わいのあるところです。

> 日蓮の論調は「救済志向」が底にあって論を展開してる

日蓮が救済思考を有していた点について何ら異論はありません。
ありませんが、斬首断命という手段をも、その手段の内であるという点で「ポア」と一脈を通じると論じたわけです。

3357マターリ:2007/06/12(火) 20:02:43
「立正安国論」によりますと、

主人は、「邪宗の坊主を殺害しても、罪にはならない」とか、「正法を護る
ために、武器を持つべきだ」という経文を、これでもか、これでもかという
ほど、引用します。

客はそれに対し、

謗法を誡むるに似て既に禁言を破す。

(涅槃経の説示は謗法を禁めるようではありますが大集経の仏の禁を破るも
のではないでしょうか)

此の事信じ難し、如何が意得ん。

(ですから謗法者の命を奪うというようなことはとても信じがたいことであ
ります。いったいこれをどのように心得たらよろしいのでしょうか。)

と質問します。

それに対し、主人は、

全く仏子を禁むるに非ず。唯偏に謗法を悪む也。

(この経文の意味するものは、仏弟子を禁めるというのではなく、謗法の罪
を責め、除こうというのであります。)

夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁以後の経説は則ち其の施
を止む。

(そもそも謗法を禁断する方法として、昔の釈尊の事蹟を語るときは、仙予
王や有徳王として謗法者の命を断ったことを説きましたけれども、今の釈尊
が教えるのは、謗法者に対して布施をしてはならないということでありま
す。)

以上のことから、折伏とは、謗法の者を斬首するのではなく、布施を止めよ、
という意味だと解釈していますが、いかがでしょうか?

3358犀角独歩:2007/06/13(水) 00:56:53

マハーさん

この件は、既に問答さんとわたしが議論した件です。
日蓮は、あなたが引用した『立正安国論』をあとから書き直しています。
以下のとおりです。

「夫釈迦之以前仏教者雖斬其罪能忍之以後経説者則止其施。此又一途也。月氏国之戒日大王聖人也。罰其上首誡五天之余党。尸那国之宣宗皇帝賢王也。誅道士一十二人止九州仏敵。彼外道也 道士也 其罪是軽。是内道也 仏弟子也其罪最重。速行重科。然則四海万邦 一切四衆 不施其悪 皆帰此善 何難並起 何災競来矣。」(能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。此れ又一途也。月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。)

外道・道士より、さらに重科に行え、です。つまり、斬首です。
御書は学会版を使っていますか。信頼できる遺文集を使われることです。

3359犀角独歩:2007/06/13(水) 00:58:13

おっと、間違えました失礼。

【3358の訂正】

誤)マハーさん
正)マターリさん

3360犀角独歩:2007/06/13(水) 01:05:10

あと、もう一点、マターリさん。

こちらの掲示板では、先に語りかけられたこと、応答した内容に何らレスをなさず、次に議論を進めるような無礼な態度は、歓迎されません。
わたしは、あなたに対して、3347から3350に亘り、応答しております。
これに答えることもなく、次の投稿をする態度は礼を欠いています。
改めることを勧告します。

3361天蓋真鏡:2007/06/13(水) 02:08:38
横レス失礼します。立正安国論は教科書で、そっくり其儘行われるとは限らないのでは無いでしょうか。改宗しなければ改心しなければ斬首と言う選択肢があると言うのを示したのではないかと考えたいです。選択肢です。日蓮の人物像を見て考えないと、大雑把なパターン分けで見るのは危険では無いでしょうか。自分は武士の世に習いそんな選択肢を極端ですが、出したのだと考えます。

3362マターリ:2007/06/13(水) 08:50:10
>犀角独歩さん、

こちらの掲示板では、先に語りかけられたこと、応答した内容に何らレスを
なさず、次に議論を進めるような無礼な態度は、歓迎されません。
わたしは、あなたに対して、3347から3350に亘り、応答しております。
これに答えることもなく、次の投稿をする態度は礼を欠いています。
改めることを勧告します。

そうでしたか。こちらの掲示板での慣習を存知ませず、失礼致しました。
私個人の信仰の、最深部にかかわることですので、スルーさせていただき
ましたが、失礼に当たるようですので、今日のうちにレスさせていただき
ます。

3363犀角独歩:2007/06/13(水) 17:43:52

天蓋真鏡さん

> 立正安国論は教科書で、そっくり其儘行われるとは限らない

では、その証拠は、どのようなことでしょうか。

> 選択肢です

日蓮に選択肢などありません。あるのは法華信仰のみです。

> 日蓮の人物像を見て考えない

日蓮の人物像を見るためには、その確実な資料に拠るほかありません。
わたしは、実際にその資料を挙げています。
いっぽう、あなたは自分の思惑で述べているのに過ぎません。希望的観測や、あなたが望む日蓮は、実際の日蓮とは違うということです。
違わないというのであれば、実際の資料を提示されれば済むことです。

> 大雑把なパターン分けで見るのは危険

これは、あなたの投稿に当て嵌まりませんか。

3364マハー:2007/06/13(水) 21:35:46
>>3356
独歩さん

>パンナコッタさんに何ら間違いがあるとは、わたしは思いません。

そうですね。確かに書き下し文としては間違いではないでしょう。
「大経ニ刀杖ヲ執持シ、乃至首ヲ斬レ トイウハ是レ折ノ義」ですからね、
これは明治の小川孝栄氏の訳もこうなっています。

それでは、整理する為に当該部分の創価学会の英訳を記載しましょう。
But when the Nirvana Sutra says that one should carry swords and staves or that one should cut off their heads, it is referring to the shakubuku method.

ここでは、乃至を、OR と訳しています。
「OR」は、「あるいは、または、」ですね。文節省略の意は消えますね。
折伏の義をその宗教団体がどのように教示していくかの是非は後廻しにしても、
止観の「大経執持刀仗乃至斬首是折義」の乃至を「あるいは」「OR」に読むのはおかしいでしょうと、私は言っているのです。
「あるいは首を斬れ」であれば、「乃至斬首」の文字を涅槃経に見つけなければなりませんが、これはないわけです。

>なお、この引用は『金剛身品第五』の「執持刀杖」文、乃至『四相品第七』の
>「斬首」までではないでしょうか。

日蓮は北本の方の引用が主ではないかと思っていましたがどうでしょうか?
であれば、「金剛身品第二」でしょう。ですが、北本、南本 当該部分はほとんど変わりないと思いました。
それよりも、独歩さんは、私が示した、「乃至」は、「範囲を示す省略」の文意であるとの意見に賛同してくださっていると思っていいのでしょうか?

>また「衆生調伏」について、あとのほうに出るというのは、間違いではないでしょうか

これは間違いではありません。
於一念処起一切念処調伏衆生。(何故か旧字が出ないので変換しています。→処)

そして、これは、前段の 本有解脱摂一切法 と摂との対比で述べられていますので、私はあながち飛躍しているとは思っておりません。
それから、止観に10巻の(下)はありませんので、後世に託されたのかもしれませんし、序品に戻るのかもしれませんが、これは私にはわかりません。

>後者の折は正法護持には違いありませんが、その折を斬首とした止観の文です。

斬首とした止観の文ではなくて、斬首まで、とした止観の文と思います。
そして後文で、衆生の法性の本有を摂と伏とで説明していくのだと思います。
(もっとも残念ながら、この「諸見十乗止観修」に限らず、この難解すぎて止観を説明することは私には出来ませんが…。)

>斬首断命という手段をも、その手段の内であるという点で「ポア」と一脈を通じると論
>じたわけです。

そうですか。
私が「ポア」と結ぶのは誤解を招くと言ったのは、「ポア」は中間に対する言葉とされているからです。

>涅槃・法華経のレトリックについて

涅槃経=折、法華経=摂、が、いつのまにか、法華経=折、涅槃経=摂 に展開されるレトリックがあるように思えますが、日蓮は、法華経=摂を、更に「折」と「摂」を分けているのではないかと・・・

3365マターリ:2007/06/13(水) 22:52:58
>犀角独歩さん、レスありがとうございます。

>日興が造立した重須談所には、本地垂迹堂やら、八幡社がありました。

そうでしたか。氏神様だけは、参拝しても良いということでしょうか?

また、日量の『大石寺明細誌』、日有の『化儀抄』の文献を提示していただ
きまして、ありがとうございます。

ところで日蓮聖人は、富木殿御返事で次のように言っています。↓

天の加護を蒙らざるは、一には諸天善神此の国を去る故か。

ということは、諸天善神は、日本の神社を去ってしまっている、ということ
ではないでしょうか?

この曼荼羅を身にたもちぬれば、王を武士のまほるがごとく、子をおやの
愛するがごとく、魚の水をたのむがごとく、草木の雨をねがうがごとく、
鳥の木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつまりまほり、昼夜にかげのご
とくまほらせ給う法にて候。

(妙心尼御前御返事)

神仏は、曼荼羅にこそ、集まって来るということでは、ないでしょうか?

>すなわち、「祈りとして叶わざるなく」とは、日寛の言に拠れば弘安二年
の本門戒壇の御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるという要件を満たす
ことによって成就するというのが、その意味です。

ところで、日蓮聖人の、曼荼羅についての言葉は↓

日蓮が魂を墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え・・・・・
あひかまえて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給え、何事か成就せざる
べき、「充満其願・如清涼地・現世安穏・後生善処」疑いなからん。

(経王殿御返事)

これからすると、この御書において、全ての祈りが叶う御本尊とは、弘安二
年の本門戒壇の御本尊ではなく、経王殿に与えられた御本尊ということにな
るかと思います。

大石寺の彫刻御本尊ですが、「日蓮聖人の御真筆」という考え方より、家にあ
る御本尊の「本家の御本尊」と考えていました。私にとっては、御真筆でなく
ても別に問題ではありません。

何しろ何百年か前の、巨大な木彫りの御本尊様、ということですので、それ
だけで畏敬の念を生ずると思います。

インターネットの真筆画像を拝見しましたが、第1御本尊から第123御本尊
まで、たくさんの真筆がありますね。

しかしインターネットの画像では解像度が低く、プリントしても、細かい
文字が出ないと思います。

私個人としては、日寛上人の御本尊様を拝んでいきたいと思っています。

3366マターリ:2007/06/13(水) 23:17:30
>犀角独歩さん、たびたびすみません。m(__)m ここのところ体調が悪く
明日は病院へ行くことになっています。入院ではありませんが、2〜3日
自宅療養ということになり、PCが打てなくなると思います。

レスが多少、遅くなるかと思いますが、必ずご返事致しますので、お待ち
願いたく、宜しくお願い致します。

3367天蓋真鏡:2007/06/14(木) 00:11:09
犀角独歩さん、レスありがとうございます。 立正安国論は諫暁であり経典の説明であり具体的な計画予定表ではありません。像法の時代であっても末法の様相を呈している事を日蓮の宗教学の背景か゛わかるかもしれません。 自分は法華一乗が日蓮のテーマだと事ある毎に書きました。掲示板でないですけど。私の言う選択肢とは学問のルート人生の縁の事です。 挙証主義は大事ですが 日蓮が云うように 言葉文字では意を尽くさない場合があるでしょう。此の掲示板に書いたか忘れましたが、武士の世に習い勢いで誤解を省みず若気の至りで物騒な物言いを書いてしまった事があるのて゛は無いかと想います。 私のはパター ン分けでは無くてメ モの整理整頓。

3368犀角独歩:2007/06/14(木) 07:37:06

3364 マハーさん

> 乃至を「あるいは」「OR」に読むのはおかしい
> 乃至」は、「範囲を示す省略」

これは、もちろん、そう思います。

> 於一念処起一切念処調伏衆生…前段の 本有解脱摂一切法

北本では、この文がありますか。南本にはありませんね。
できましたら、該当部分を提示願えませんでしょうか。

> 斬首まで、とした止観の文

そうですね。そのつもりで書きました。

> 「ポア」は中間に対する言葉

これは意味が採れないのですが、もう少しご説明願えますか。

> 涅槃経=折、法華経=摂、が、いつのまにか、法華経=折、涅槃経=摂 に展開されるレトリックがあるように思えます

そう思います。いまの日蓮門下全般の二分立は、このレトリックです。間違いであるとわたしは考えます。

> 日蓮は、法華経=摂を、更に「折」と「摂」を分けているのではないか

わたしは、そうは思いませんが、
マハーさんは、そう仰る根拠は何でしょうか。

3369犀角独歩:2007/06/14(木) 18:35:31

3367 名前:天蓋真鏡さん

> 日蓮が云うように 言葉文字では意を尽くさない

さて、日蓮がどこで斯様なことを記していますか。
むしろ逆で「不立文字 教外別伝」を批判していませんか。

日蓮の法華信仰は、換言すれば法華文字信仰であり、その極地が妙法蓮華経五文字への信仰です。

3370マハー:2007/06/14(木) 22:22:21
すみません。NGワードで投稿が出来ません。
テスト投稿
T46n1911 p0140c01(03)

3371マハー:2007/06/14(木) 22:24:28
>>3368
独歩さん

>北本では、この文がありますか。南本にはありませんね。
>できましたら、該当部分を提示願えませんでしょうか。

お互いのやりとりに、かなりの食い違いがあったようです。
経文資料の貼り付けは、漢字の変換が大変なので、URLと電子記号でどうですか?
ROMの人が大変かもしれませんが…
記号を提示しますので、面倒でしょうが、この記号をグーグル検索かけて下さい。

大経執持刀杖乃至斬首是折義   T46n1911_p0137c27(00)

於一念処起一切念処調伏衆生   T46n1911_p0140c01(03)

…前段の 本有解脱摂一切法   T46n1911_p0140b14(01

3372マハー:2007/06/14(木) 22:26:06
現在、涅槃経と呼ばれる訳はかなりの種類になると思われますが、スタンダードなものでは、

根本説一切有部毘奈耶雑事
ttp://www.cbeta.org/result/T24/T24n1451.htm

長阿含経の2~4巻の遊行経
ttp://www.cbeta.org/result/T01/T01n0001.htm

般泥洹経
ttp://www.cbeta.org/result/T01/T01n0006.htm

大般涅槃経 法顕訳
ttp://www.cbeta.org/result/T01/T01n0007.htm

大般涅槃経 慧厳 (南本)
ttp://www.cbeta.org/result/normal/T12/0375_009.htm

大般涅槃経 曇無識 (北本)
ttp://www.cbeta.org/result/normal/T12/0374_002.htm

智ギの示す「大経」とは南本、北本、ひっくるめて、「大経」と呼んだのかも知れませんね。
(因みに関係ないですが、真如苑は南本を依経としています。)

いちおう、北本で行くと、独歩さんの仰る通り、「執持刀杖」は、T12n0374_p0384a02(03)
〜斬首は、T12n0374_p0387b28(01) だと、私も思うのですが…

弘決の「乃至下文仙預国王等文」なんですが、北本では、仙預の名はでませんね。
T12n0374_p0459a23(01)

どちらにしても、仙預国王までが「斬首」の引文だとすれば、相当長いです。

3373マハー:2007/06/14(木) 22:26:47
>> 「ポア」は中間に対する言葉
>これは意味が採れないのですが、もう少しご説明願えますか。

チベット密教でも「ポア」は使われます。 ナーロー六法 などでも出てきます。
中有状態においての、転移 転生を指しているようなので、日本の葬式仏教はすべて「ポア思想」ですよ(笑

>> 日蓮は、法華経=摂を、更に「折」と「摂」を分けているのではないか
>わたしは、そうは思いませんが、
>マハーさんは、そう仰る根拠は何でしょうか

これは、正直、ちょっと整理がつきません。
日蓮の言う「弘持」というのが引っ掛かります。
独歩さんが前レスで引用した観心本尊抄
「当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」
確か正宗の…摂受の折伏とか、折伏の折伏とか言う時の依文ですよね。
摂受を、「弘」と「持」に分けるのかと思っていましたがどうでしょう?
これは、日蓮というより、日寛の宗学ですか?

3374天蓋真鏡:2007/06/15(金) 00:15:46
太田入道殿御返事「書は言を尽くさず言は心を尽くさず事事見参の時を期せん」 此の御書遺文は真筆では無いのでしょうか。言葉文字は心の意思表示を明らかにする形。教義理屈と方法手段を対峙させすり替えるが如き物言いは求道者らしく無いです。 鎌倉時代の僧・日蓮は、妙法蓮華経で何を信じろと言ったのでしょうか。最下層救済の教え、天台の教え、成仏得道の教え何でしょう?

3375犀角独歩:2007/06/15(金) 05:52:59

3374 天蓋真鏡さん

> 教義理屈と方法手段を対峙させすり替えるが如き物言いは求道者らしく無いです

これは、わたしのことをいっているのですか。無礼でしょう。
貴殿の文章は、法華経の文字と手紙を同一に語っています。
法華の文字を語るところを、一片の手紙に対する言を挙げて、「すり替える」などと相手を愚弄する、さてすり替えているのは、いずれでしょうか。

わたしは「法華文字信仰…その極地が妙法蓮華経五文字への信仰」だと言ったのです。では、実際を挙げましょう。

守護国家論「念法華の文字とは此の経は諸経の文字に似ず、一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり」

祈祷抄「法華経と説きをかせ給へば、此の経の文字は即釈迦如来の御魂なり。一々の文字は仏の御魂」

木絵二像開眼の事「法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形(ぎょう)の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益する」「仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思(おぼ)し食(め)す事なかれ。すなはち仏の御意なり」

法蓮抄「『今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子』等云云。教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給ふ」「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼(にくげん)なれば文字と見るなり」「天台の云はく『稽首(けいしゅ)妙法蓮華経、一帙(ちつ)八軸四七品、六万九千三八四、一々文々是真仏、真仏説法利衆生』等と書かれて候。之を以て之を案ずるに、法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す。此の文字の数は五百十字なり。一々の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地をつきとをし、三悪道無間大城を照らし、乃至東西南北、上方に向かっては非想非非想へものぼり、いかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給ひて、彼の聖霊に語り給ふらん。我をば誰とか思(おぼ)し食(め)す。我は是汝が子息法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり。此の文字は汝が眼とならん、耳とならん、足とならん、手とならん。たとへば餓鬼は恒河(ごうが)を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る」

御衣並単衣御書「法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。此の仏は再生敗種(さいしょうはいしゅ)を心符とし、顕本遠寿(おんじゅ)を其の寿(いのち)とし、常住仏性を咽喉(のんど)とし、一乗妙行を眼目(げんもく)とせる仏なり。「応化は真仏に非ず」と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。仏の在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり。仏の滅後に法華経を信ずる人は「無一不成仏」とは如来の金言なり」

以上の如くです。それに対して、文字を離れて、ほかに教えがある如き言う「不立文字 教外別伝」を、日蓮は厳しく誡めています。
貴殿の物言いは、法華文字仏か・不立文字か、いずれとなりましょうか。

3376犀角独歩:2007/06/15(金) 06:07:14

3373 マハーさん

詳細のご教示、有り難うございます。
恥ずかしながら、南北の比較を怠っていました。
読み直してみます。

わたしはもっぱら『電子天台宗典』を活用していますが、こちらでは「涅槃南」が採用されています。

http://www.biwa.ne.jp/~namu007/gaiy/gaiy.htm

> 摂受の折伏とか、折伏の折伏

この愚論ですか。何が何でも折伏だと強言するのに使われるところですね。
こんな物言いが成り立つのであれば折伏の摂受、摂受の摂受という言葉も成り立つことになります。この批正は以下のスレで行いました。

摂受と折伏について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/

近日の議論では、今成師が「摂受か・折伏か」ということで折伏を簡び摂受を言ったことに議論が再燃しました。反論側の論法は折伏だというわけです。この議論で言えば、わたしは今成に理があると思います。

ただし、摂受か・折伏かという二者択一ではなく、日蓮が言うところは「摂受も・折伏も」です。そして、その際にどちらを先にするのか、先があればあともあるわけですから、摂折二門、ともに採るというのが日蓮であるというのは、わたしの言い分です。

3377天蓋真鏡:2007/06/15(金) 09:00:53
自分は本尊論と四箇格言を持って論議を求めていたのでは無くて、日蓮の実像と言って犀角独歩さんが十全完璧な挙証では無いかもしれないのに十の内一つでも違えば実像と違ってしまうかもしれないのに断言する勢いで議論を持っていくのは危険だと思ったまでの事。求道者と大袈裟に書いてしまったのは言い過ぎでした。犀角独歩さんの人生とキャリアとノウハウを否定したい訳では無いので御容赦願います。

3378犀角独歩:2007/06/15(金) 15:34:36

天蓋真鏡さん

わたしはあなたが指摘する危険について、十分に認知しています。
しかし、あなたは重大な見落としがあります。それは何かといえば、証拠を挙げての議論と、証拠を挙げない議論とでは、後者のほうがよほど、危険だということです。つまり、あなたは、わたしよりも危険な議論をしていながら、それよりは安全を確保している議論を危険というのは、説得力がないということです。

わたしとて、証拠を挙げず、恣に論じて善いというのであれば、富瑠那の物真似よろしく、恥知らずに莠言を吐くなど、容易いことです。

それをしないのは、証拠も挙げない放言は危険だからにほかなりません。

あなたは、他の過ちに厳しくするより、まずはご自身の危険を如何に回避することをお考えになることが先決なのではないでしょうか。

3379天蓋真鏡:2007/06/16(土) 00:23:16
拝聴に値するお言葉ですが、挙証の無い放言に 振り回されたり悪用する等暴走するのを放言した人間の所為にだけ?するのは如何でしょう。 危険回避の方法は此の掲示板では真筆で無いか違うかと言う事でしょう。

3380犀角独歩:2007/06/16(土) 08:53:08

3379 天蓋真鏡さん

あなた、なにか誤解していませんか。

> 挙証の無い放言に 振り回されたり悪用する等暴走するのを放言した人間の所為にだけ?

だれがいったい、そんなことをしたのですか。
要は、あなた自身の投稿の証憑性を上げるも下げるも、ご自身の問題でしょう。
他人のことを言う前に自分のことをまずしっかりなさったら如何でしょうか。
無意味な言いがかりはおやめください。時間の無駄ですし、議論の妨げになります。

3381犀角独歩:2007/06/16(土) 09:09:05

> 危険回避の方法は此の掲示板では真筆で無いか違うかと言う事

もちろん、この面はあります。
しかし、それだけではありません。実際に日蓮が引用した経釈に戻り、その引文の正当性も考えています。また、現代科学から結論される事実も参考にし、日蓮その教えと本尊も考えています。

いっぽう、では、天蓋真鏡さん、あなたはどうでしょうか。いったい、どんな危険回避の方法を採っていますか。

そして、挙証義務を遵守することに言いがかりをつけているだけです。
挙証に対して、応えるのは挙証です。挙証できないなかに真実もあることは事実であり、何ら否定するところではありませんが、それを証明するためには、単に自分の考えを挙証もせず挙げたところで、何の意味も有しません。
そんなことに一々対応するのは正に時間の無駄で、得るものがありません。

3382マターリ:2007/06/16(土) 14:01:20
>犀角独歩さん、PCを打てるまでに回復しましたので、また参加させてい
ただきます。

摂受と折伏スレッドを拝見しました。立正安国論では、「首をはねる」のでは
なく、「布施を止める」と書いてあります。

しかし、犀角独歩さんは、立正安国論は書き直されていると書かれています。
この、「布施を止める」という個所は、後で付け足されたのでしょうか?

3383犀角独歩:2007/06/16(土) 18:12:40

立正安国論には、概ね2本あります。

#0024-0K0 立正安国論 文応元年(1260) [p0209]
#0279-0K0 立正安国論(広本) 建治・弘安の交(1275-78) [p1455]

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

あなたが見ているのはこの文応本でしょう。その15年後に書き換えられています。

ここに「夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。【此れ又一途也。月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。】」

書き足されたのは「施を止む」ではなく【】部分です。この点は、3358に書いたとおりです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3358

しかしながら、偽物の彫刻でも、改竄された日寛の原本を用いた印刷でも本尊でよいあなたにとって、こんな原意の追及は意味はないでしょう。

3384マターリ:2007/06/16(土) 18:23:41
>犀角独歩さん、ありがとうございました。書き換えられている、とすると
やはり折伏=殺、という犀角独歩さんの考えが正しいと思います。

>しかしながら、偽物の彫刻でも、改竄された日寛の原本を用いた印刷でも
本尊でよいあなたにとって、こんな原意の追及は意味はないでしょう。

それとこれとは話が違います。失礼ながら、犀角独歩さんは毎日、どの御本
尊様を拝んでおられるのでしょうか?

3385犀角独歩:2007/06/16(土) 18:48:57

> それとこれとは話が違います。

どのように違いますか。
偽物でよいのであれば、文意の遡源など元より無意味でしょう。
そもそも偽物でよいというものの言など、証憑の対象にも、議論の対象にもなりません。

> 犀角独歩…どの御本尊様を拝んでおられる

先より記したとおり、「本尊」語は伝教以降に導入される観念であって、わたし自身は崇拝の対象と考えておりません。わたしが敬礼するのは、もちろんお釈迦様です。そして、多くの示唆を与えてくれた日蓮にも敬意は表します。

教学的な整理として、日蓮の真意を探れば、教相としては法華経寿量品五百塵点成道釈迦牟尼仏、観心からは所顕三身無始古仏でしょう。また、真偽追及の余地はあるものの、妙法蓮華経五字題目ということでしょう。

その五字を書した漫荼羅を本尊とするのが、日興の意図であれ、それを複製したものは、この限りではないというのも日興の意図でしょう。

ただし、漫荼羅であれ、尊像であれ、日蓮像であれ、その形に刻まれたものを通して、ブッダとダルマとサンガを仰ぐことに異論があるわけではありません。実際にそのような礼拝はいたします。しかし、それは創価学会等のように、近代、それぞれのグループが勝手気ままに会員向けに決めた「勤行」??という奇妙な遣り方を「拝む」というのであれば、そんなことは、やるわけもありません。

漫荼羅の彫刻は彫刻であり、漫荼羅を写真製版し印刷したものは印刷です。
こんなものが本尊であるというのは、鰯の頭と同様ですが、各人がそれを有り難がるのは勝手です。しかし、このような議論の場で、そのような代物が本尊たり得るというのであれば、きちんとした挙証を以て議論をするべきことです。

それが偽物でもよいなどということは、もとより、議論のレベルに達していない個人の範疇であると申し上げているのです。そして、そのようなものでよいのであれば、日蓮が書いた‘とされるもの’で十分なわけで、真偽論攷も、これまた無意味ということでしょう。

もっとも重要であるはずの本尊が偽物でよいあなたにとって、遺文の真偽など、論ずるに足りない問題ではないでしょうか。なぜならば、漫荼羅そのものが書き物なのであって、もっとも真偽をやかましく言われるものであるからです。

3386マターリ:2007/06/16(土) 19:44:42
>犀角独歩さん、

>こんなものが本尊であるというのは、鰯の頭と同様ですが、各人がそれを
有り難がるのは勝手です。しかし、このような議論の場で、そのような代物
が本尊たり得るというのであれば、きちんとした挙証を以て議論をするべき
ことです。
それが偽物でもよいなどということは、もとより、議論のレベルに達してい
ない個人の範疇であると申し上げているのです。

おっしゃる通りです。これは、私個人の信仰にかかわることですので、スルー
させていただこうと思いました。しかし犀角独歩さんが、レスを返すのが礼
儀とおっしゃいましたので、仕方なくレスをさせていただきました。

しかし、こちらの掲示板は科学的に、日蓮聖人の実像に迫る、ということで
すので、私の鰯の頭的・個人的信仰はさておき、真実に迫りたいと願ってい
ます。

今まで私が積み重ねてきた既成概念や信仰体験を排除して、客観的かつ科学
的に日蓮聖人を研究したいと思っています。

犀角独歩さんの日蓮研究に対しては、尊敬の念を抱いています。

創価学会員の場合、創価学会の組織を辞めて、池田氏のマインドコントロー
ルから逃れても、日蓮聖人のマインドコントロールから抜けられません。
それで法華講に移ったりするのだと思います。

私自身の独学で、いくら日蓮研究をしても、MCを脱しきれないので、こちら
で勉強させていただければと思っています。

3387マターリ:2007/06/16(土) 20:33:40
>犀角独歩さん、

>わたしが敬礼するのは、もちろんお釈迦様です。そして、多くの示唆を
与えてくれた日蓮にも敬意は表します。

>ただし、漫荼羅であれ、尊像であれ、日蓮像であれ、その形に刻まれた
ものを通して、ブッダとダルマとサンガを仰ぐことに異論があるわけでは
ありません。実際にそのような礼拝はいたします。

私も犀角独歩さんと同じ考えです。釈尊を、先ず敬いたいと思います。
唱題というより、礼拝ということなんですね。

ところで、仏像は大乗仏教になって、菩薩像の次に作られたと聞きました。
原始仏教・小乗経的に考えると、偶像崇拝は禁止されてしまうと思います。

漫荼羅・尊像・日蓮像も、偶像崇拝ということになってしまいますが、
その点、どのように考えたら良いのか悩んでいます。大乗仏教敵に考えれば
良いということでしょうか?

3388再挑戦者:2007/06/16(土) 21:10:08
3365のマターリ、、殿、、。
  >、、真筆、1〜〜123号、、不鮮明、、日寛本尊、、云々、、、>>
 
 横からゴメンします、、。  貴殿の発言には、、アアダラ、、、コウダラ、、が多すぎ、、誠に、、読みずらい限りでゴワス、、!!
 何故なら、「、貴殿は、日蓮の真筆本尊を確認しながら、、未だに、不透明な、?、、大石系列の日寛某の不透明な”ニセ日蓮ブランド?”、に固執されていますようでしょうか、?、」、という
 最大なる疑問が否定できません、。 ひょっとすると、某S会からの闇からの撹乱的な、、攻撃かも、?? ご用心、、御用心、!!

3389マターリ:2007/06/17(日) 00:22:20
>再挑戦者さん、レスありがとうございます。失礼ながら根拠なく、人を
疑わないでいただきたいと思います。憶測だけで判断なさらないで下さい。

私は純粋に、日蓮聖人について勉強したいと思っただけです。創価学会では
御書ですら、なかなか勉強する機会がありませんので。

ちゃんとした日本語で書いてくださいね。あなたの文章も読みにくいです。
句読点や!や?を、ダブって書くのは、特にいただけません。

3390天蓋真鏡:2007/06/17(日) 05:32:09
挙証義務に難癖をつけたいわけでも挙証する人の足ひっぱりたいわけでもありません。科学的に判断して悪を止められるなら良い事。横レス失礼しました。議論を続けてください。

3391犀角独歩:2007/06/17(日) 09:54:18

マターリさん

今回のご投稿で、MCについて、触れられたので、そのことに関連して、重要な点を一つ。あなたが「スルー」と記したことは、‘思考停止’ということです。

つまり、自分の信念体系について、不利になる点について、思考が停止し、考えなくする心理作用です。この形で、不合理且つ非科学的な信仰は保護されます。この技法をもっとも端的に悪用するのがカルトでしょう。

日蓮において教義と本尊は不可分な関係にあります。
ですから、教義を考えていけば、実際に図顕された本尊に到達するわけです。ですから、その一方のみを「客観的かつ科学的」に考えることはナンセンスというほかありません。

ただしかし、このような分離と思考停止は、あなたお一人の問題ではなく、創価学会を含む石山圏で日寛などの印刷を拝む人々に共通する問題であり、かつこの点は全日蓮門下、さら間口を広げれば、日本仏教徒、否、全世界の仏教徒、もっといえば、全宗教の信仰者全体に通じる問題であるとも言えます。

故に、この問題を避けて通ることは、単に思考停止を漫然と是認し、事の本質を見ないようにするばかりか、悪弊を招来に残すことになります。もっといえば、カルトを始めとする悪行を是認することにもなります。だからこそ、わたしは、この点に関して、決して論攷の手綱を緩めないわけです。

しかしながら、教学論攷から、ついに極意である本尊へ至るは道程です。まずは、教義から科学的合理的に考える方途を身につけ、ついには、本尊をも考える道すがらに入るという順位を否定する理由はありません。
「スルー」した本尊と信仰については、いつしか必ず考えることを前提として、では、こちらでの議論にお付き合いすることといたしましょう。


> 仏像は大乗仏教になって、菩薩像の次に作られた

これは近代の研究で、そのとおりいわれています。

> 原始仏教・小乗経的に考えると、偶像崇拝は禁止

「小乗」「偶像」という言葉が適切かどうか、ここでは取り敢えず置くこととして、初期釈迦教団では仰るとおりだったでしょう。

> 漫荼羅・尊像・日蓮像も、偶像崇拝

いや、もっとあります。
心のなかに描く神仏のイメージ、そのものが物理的な形こそ採らないまでも、「偶像」という言葉を使えば偶像そのものではないですか。

キリスト教を例に採れば、偶像崇拝といって、形に彫塑した像を拝むことを批判しますが、いもしない神を心に描き崇拝することは、無神論の立場に立脚すれば、まさに「心でイメージされた神という虚像」を拝む偶像崇拝そのものです。

3392犀角独歩:2007/06/17(日) 09:54:51

―3391からつづく―

仏教の場合、実際にいた釈尊を敬慕しました。
当時のインドでは、文字記録は、暗誦記憶に比して劣るものと考えられた故、文字化が遅れたのでしょう。実際に存在した釈尊に会ったことがなければ、その顔を正確に写すことはできないでしょうし、仮に似通って写しても実際とは異なります。このような考えから像に刻まれなかったということでしょう。

ただ、実際にいた釈尊を像に刻むことと、人間の心のなかで創作された崇拝対象を像に刻むことでは、その意味は異なります。

「偶像崇拝」というのは、いもしない神をイメージして崇拝する偶像崇拝側からの論理であって、これをもって仏教の尊像を考えると仏教信仰者の意思とは歪みがあると、わたしは考えます。

石山では、あの彫刻が生身日蓮、それも無始無の絶対仏そのものであるという信仰ですから、これはまさに「偶像崇拝」といわれても致し方がないでしょう。しかし、多くの仏教徒は、描き彫塑された尊像を、ただちにそのものと考えるというより、その像を通じて、神仏本体を信仰するという形態ではないですか。

つまり像の限界を認知したうえで、扱っているということです。
わたしは、仏像を飾っていますし、漫荼羅も奉懸しています。
しかし、その仏像を釈迦牟尼世尊そのものであるとは思っていません。その像を通じて、かつて2500年前のインドの大地を生きた仏陀に思いを馳せるに過ぎません。また、その像をインドから招来し、わたしのことを思い下さった僧侶への感謝もその像を通じて、毎日、再認識しています。この点は奉懸した漫荼羅(手書き肉筆)も同様であり、日蓮が考えた法華経観をその漫荼羅のなかに見ながら、何より、下さった方への感謝を仰ぎます。

ただ、それらがなければ駄目かといわれれば、別段、そうも思いません。
なにより、大切なことはブッダ・ダルマ・サンガを敬い、そして、精進することであると思うからです。では、仏像は仏か?ということになりますが、仏像は、文字通り仏の像(ぞう・かたち)に過ぎません。本体の仏であるはずはありません。

> …大乗仏教的に考えれば良いということでしょうか?

わたし個人は、大小の分別で優劣をつける気になれません。
自分たち以外の教えを認めないような在り方は、自分たち以外は乗れないのであって、名は大乗に借りながら実際は小乗ではないですか。
信仰とまではいわず、ブッダ・ダルマ・サンガに尊敬の念を払うだけならば、別段誰にもできます。小乗と貶称される人々の在り方です。むしろ大乗でしょう。

大小の意味はもちろん、そんなところにはありませんが、現行の仏教学で大乗・小乗という言葉を使うこと自体、旧い分類です。いまや、部派・大衆という言い方自体意味をなさないとも、わたしは考えます。

マターリさんは、本尊を印刷した紙に、方便十如までと寿量自我偈を唱えることを勤行という拝みであるとする信念体系を受け取った人とお見受けします。それ以外の在り方は駄目で、それのみに固執する様は、わたしのような見地からすれば、極めて小乗(小さな劣った乗り物)という観に駆られます。

印刷物を本尊と思うことやら、神社不拝への固執は、間違いなく上述したような排他的なグループのご都合指導によって培われたものであり、まさに「スルー」された思考停止によって永続されるのでしょう。それぞれの言葉の定義もまったく同様です。大乗、小乗などという刷り込まれた教義も同様でしょう。こんなすり込みでのみ考え・行動すること自体、「小乗」ではないですか。また、キリスト側の論理である「偶像崇拝」という思考パターンも跨いで考えてみてはどうでしょうか。

3393犀角独歩:2007/06/17(日) 10:09:30

天蓋真鏡さん

では、引き続きご高覧ください。

3394再挑戦者:2007/06/17(日) 17:50:24
 3389のマターリ君、 ヨクゾ申した、、。
 
 ここは「素朴な疑問」という窓口デスゾ、。
 過去ログもまともに読解不足のような貴殿のような方からの叱責には? アホコケでゴワス。  
 
  再度、貴殿に言おう、、「、ここの過去ログを読みなさい、、そして、 ナニユエに、未だに、真筆からほど遠い、ニセ本尊、日寛本尊?をなんの疑問も、懐疑も抱かず拝んでおる貴殿の態度こそが、、素朴なる疑問、と写るが、?」、、、が、イカガなものか、??

3395犀角独歩:2007/06/17(日) 20:29:00

再挑戦者さん

わたしが、口を出すことではないですが、こちらの掲示板は「さん」付が決まりですよ。

3396再挑戦者:2007/06/18(月) 18:39:36
独歩さん、、 ご指摘は痛み要ります、、。  少々、調子にすぎまして、スンませんでした、、。
 昨今は、世の中が「狂信〜〜発狂〜〜」、とも思える信じがたい事件の続発中のようでしょうか、? 

 あの現存・釈尊生誕のネパールでさえ、貧富の格差の問題があるようです。 人類差別のカーストがはびこるインド各地には、貴金属加工の有害薬品を素手で扱う少年ら、インド各地の売春宿に売られた少女らの悲惨さを(毎日新聞6月分)知りました、。
 お釈迦様でさえ、思考を超えた現実の世界には「、素朴な疑問、?、、」、、を、実感中のアホ、の一人です、。コンナ愚考を 陳謝 します。

3397犀角独歩:2007/06/18(月) 21:03:18

再挑戦者さん

わたしはあなたの問題意識は、何となくわかります。ただ難読なので、レスの仕様がないということもしばしばあります。
そんなわけで、マターリさんも、悪意の方ではないので、歩みいただければ、また稔りある議論もできようかと存じます。

3398しゅんかん:2007/06/22(金) 22:28:32
私は何度か記しておりますが信仰は致しておりませ。
この様な私が以下の事を記す事、お許し下さい。
私が私としてこの世をそれなりに渡り歩く術として用いている物と少し重なる文を最近
拝読致しました、私自身が昭和57年に購入し読まずじまいだった、「日蓮、久保田正文著」
です。
ここで、知的な惑と云うもので見惑のことをご説明されておられます、
(皆さん既にご存知で恥ずかしいのですが続けますね)
見惑には五のものがあるそうですね。身見、辺見、見取見、戒取見、邪見の五つであると。

身見=自分の一身を中心としてものを見る見方、自身が経験し得ない事はそのまま、
無いものであると考えるような見方である。

辺見=自分が見た一方のことを述べようとすること、物事を一方からだけ見る見方。

見取見=人はひとたび肯定し、それが正しいと認めたことは、先入主となって、
そうでないことがわかっても、最初の見方にとらわれてこれを改めることが出来ない。

戒取見=戒とは否定の義であるから、ひとたび否定した事はそれの誤りが証明されても、
これに固執して考え方を改めることができない。

邪見=自分の利害損得を中心にし、あるいは基準としてものを見る見方。

久保田先生は、人はこのような物の見方の惑い、および感情上の惑い(思惑)、
こういうものの集合体である。
そこでこれらのものを離れて別な境地を求めていくのが、これが仏教における修行である。
と締めくくっておられます。

皆さん既に知った事で今更って処でしょう。

3338に於いて、独歩さんの記されている事、全くごもっともと拝読致しました。
創作虚偽で在ったとわかっても、先に記しました見惑により受け入れる事が非常に
困難なのでしょうね、そして叉、私の其れによる表現をしますと自我が不安定に成るのですね。
自我の安定を求め、此方の掲示板へこられ自らの信仰の確認をされる、だが安定は易々とは
得られないのでしょうね、全く石山系は罪なものですね。
(生意気な文申し訳ありませんでした)

3399しゅんかん:2007/06/23(土) 02:03:29
3062に於いて数珠の持ち方に対する疑問を呈し、独歩さんよりご教示戴きました。
ここ数ヶ月の事ですが石山寺院ねてご住職さまにもお聞きしてみましたので報告までに記させて頂きます。

私「身延や八品、つまり大石寺系以外は左梵天三つですがなぜ正宗は右三つなのですか?」
住職「元々梵天は左右二つだったのです、数珠の一方に四つ珠が在ります、是を四菩薩と云いそして父珠
の横に心一境ノ法性ノ珠があります是を左に持ちます、すると梵天二つつが左に来るようになるのです」
私「はて?・・・あの私の記憶が正しければ30数年前に数珠の持ち方、左右が変わりましたね」
・・・住職は四菩薩の方を左に持つと繰り返されたと記憶しています。
私は四菩薩側が三つなのか二つなのか記憶が定かでなかった為
私「再度、勉強致します」
と云い引き上げる。

約2月後、独歩さんよりご教示戴きました富要第一巻を持参し、P392をお見せして
私「日芳、後の33世日元上人が記されてます、父珠(四菩薩)の方を右手にと、しますと
右梵天二つに成りますが」
住職「フム・・・どれ・・・何処に書かれてますか?」
私「この行です」
住職「そうですね・・・日我とは当宗門の方ではないですね」
私「多分、保田の日我師の事を指されていると思いますが」
住職「是ですと右二つですね、」
私「ええ、身延系と同じになります」
住職「日達上人の時に左右が変わったのです」
私「やはり私の記憶はあってましたね」
住職「時の法主は血脈付法、私達はそのお言葉をただただ信じるのです、上行菩薩は曼荼羅の
南妙法蓮華経の右ですか左ですか?」
私「向って右ですか?」
住職「私達から見ると左ですが、向こうから見ますと右ですね、右そん左ひ、左そん右ひと云う言葉が在ります」
この後の会話は余り意味も無く記憶にございません。

3400しゅんかん:2007/06/23(土) 03:05:45
3399の続き
是より以前、ご住職へ
私「大石寺の近くにおられます古い檀家には御影様を奉安されているとお聞きます、私も奉安したいのですが」
住職「駄目です、現在許されていません」
私「本山や末寺、そして古い檀家ではよくて何故私は駄目なのですか?私の家の仏壇内の奉安様式は
創価系と同じでいやなのですが」
住職「信心の浅い方は御影様があるとご本尊様に向うのではなく御影様に向ってしまいます、あくまでも
御曼荼羅に向って勤行、題目を唱えるのです」
私「私の家の御本尊様を御下付いただきました母は信仰歴50年をはるかに超えておりますが」
住職「総本山よりの指導で現在許されておりません」

叉、数珠の時と同じ日に富要第一巻、32(P65)を示して
私「仏壇内に化儀抄の如く法華経二十八品を奉安したいのですが」
住職「当寺院に於いても奉安しておりますが、しかし手に入らないでしょう?」
私「いえ、販売してますよ」
住職「何処でですか?」
私「そりゃ、仏具店でです」
住職「正宗のですか?」
私「正宗専門の仏具店は余り見受けませんので販売しているかどうか?一般の仏具店ですが」
住職「身延系でしょ」
私「一般のこの辺り(関西)の仏具店は多くの宗派(一宗一派では無く)を扱っており身延系仏具店とは
いえないでしょ」
住職は笑い(苦笑?)それ以上の言葉は無かった、この件に関しては執拗以上の反対は見受けられなかった。

数珠・御影様・法華経二十八品に関しての御住職さまのお言葉で首肯に至る物はなかった
数珠は左梵天三つとし、御影様は既に読経像を製作して戴き奉安している、二十八品だが
独歩さんと菊水護国とのやりとりで、身延系などで使われている赤色の二十八品と云った内容を
記されていたと記憶しております、確かに赤色ばかりです興統法縁ではどの様な色が望ましいのでしょうか
わからず未だ奉安出来ておりません。

3401しゅんかん:2007/06/23(土) 03:10:21
3398
誤=私は何度か記しておりますが信仰は致しておりませ。
正=私は何度か記しておりますが信仰は致しておりません。

3402再挑戦者:2007/06/23(土) 20:16:00
3397, 独歩さん。 
 いろいろと御心労をお掛けいたし深く陳謝いたします、。
 小生は、無明のバカですが、教主釈尊がのべた「、、速成就、仏心、、」、なる”目玉商品”を是非、購入したいと欲したものです。
 ところが、その”商品”が疑惑まみれの欠陥商品の疑義濃厚の現実を否定を不可能な様相に感じた、、まで、、です、、。
 独歩さんも「、、後世の作り話、、贋作、、?、、疑義多し、」、、と言う過去のログを重く受け止めていました。
 小生も疑義を払拭し切れませんです。 「吾従成仏以来、、」(法華経第二)、「、我実成仏以来、、」、「、庶民は不能思惟、知其限数、、」などの(第16)件から思うに、「、全ては、ワシにまかせヨ、、!!!」、、という自信に溢れております、、。
 でも、現実は、、??? インドのカースト制度に対しては、完全に”負け組”でしょうか、?
 人類最大の差別に挑んだようですが、、「、、諸行無常、、因果応報、、」、なる宝刀も、イマイチ、末法には力が不足が否めませんでしょうか、?  この隙間から、数々の、悪徳商人、悪徳宗教者らのヤリタイ放題の庶民イジメが続行中のようでしょうか、?
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/sankeisho/070621/sks070621000.htm

3403中道一実:2007/06/29(金) 14:15:46
しゅんかん様
>>独歩さんと菊水護国とのやりとりで

いくら菊水さんが、最近登場されない方だとしても、呼び捨ては感心しませんね。
意図的でしょうか?単なる誤りでしょうか?

さて八巻経についてですが、正宗系の仏壇屋でも取り扱っているところはありますよ。
ただし、法華経は大事なものなので、住職の紹介でなければ売らないことになっております。
1本、住職から電話を入れておいて貰えば簡単に買えますし、種類も豊富ですよ。

3404中道一実:2007/06/29(金) 14:17:33
>>3403
[しゅんかん様]は[しゅんかんさん]の誤りです。
訂正します。

3405しゅんかん:2007/06/30(土) 11:06:41
中道一実さん
はじめまして、宜しくお願い致します。

ご指摘、誠に有難うございます、
全くもって私の確認不足による脱字でした。

菊水護国さん
誠に申し訳ありませんでした。

法華経〈八巻〉は地域によりご住職さんで見解が異なるのでしょうか?
正宗仏具店で購入出来るとの事ですが、宜しければどちらの何店、不都合でしたら都道府県だけでもお教え頂けますと幸いです。

3406疲労困憊:2007/06/30(土) 20:21:37
所沢市の天晴仏具店か正信会四国の寺院で頒布していると聞いた事があります。
八の巻で経机無しでしたら、四千七百円前後で京都の池澤法衣仏具店にありますよ

3407しゅんかん:2007/06/30(土) 22:38:56
疲労困憊さん
はじめまして宜しくお願いします。

情報有難うございます、
念の為、二仏具店は正宗系なのでしょうか。

3408一字三礼:2007/06/30(土) 23:22:50
しゅんかんさん、はじめまして。

素朴な疑問でもあり、巨大なお世話でもありますが。

あなたは信仰はしていらっしゃらないのでしょう。
それなのに、日蓮正宗のご住職に八巻経の奉安について訊ねたり、日蓮正宗系の仏具屋に拘られるのはなぜですか。
そもそも、信仰をしていなければ、仏壇に何を奉っても関係ないのではないですか。

3409しゅんかん:2007/07/01(日) 08:23:28
一字三礼さん
はじめまして宜しくお願いします。

PCが不具合をきたしております、復旧後に記さて戴きます。
取りあえず携帯にて。

3410マターリ:2007/07/02(月) 20:12:06
>皆様、ご無沙汰しておりました。血管の手術をした後、体調を崩しており
ました。

>犀角独歩さん、ご指導ありがとうございます。広範な内容ですので、じっ
くり拝読させていただきます。概要は理解できました。大変、勉強になりま
した。

勉強すればするほど、色々と疑問が出てきました。日蓮聖人が安楽行品を
無視した理由・多くの殉教者や負傷者を出してしまった理由などです。
今後とも宜しくお願い致します。

>再挑戦者さん、今後とも宜しくお願い致します。

3411疲労困憊:2007/07/02(月) 20:18:27
しゅんかんさん、手続きの師匠たる住職に相談して、内事部に願い出を出さ
なければいけません!!正宗法華講員の場合は

3412犀角独歩:2007/07/02(月) 21:40:16

マターリさん

お見舞い申し上げます。

3413しゅんかん:2007/07/02(月) 22:10:13
一字三礼さん
お待たせ致しました、取敢えずネットが出来るまで復旧致しました(プロバイダのお嬢さんに全て助けて戴きました
彼女達は賢いなあ、感謝)

先ず、自己紹介にレス致しましたので、素朴な疑問[2851]以降も合わせてご覧戴ければ幸甚です。

私が皆様方よりご教示戴いてますのは、認知症を患っている母の姿を見るにつけ不憫でならないからです。
認知症の母は過去の出来事は記憶しておりますが、近年(最近)の事は全く記憶にございません。
[3398]で記しました
見取見=人はひとたび肯定し、それが正しいと認めたことは、先入主となって、
そうでないことがわかっても、最初の見方にとらわれてこれを改めることが出来ない。

戒取見=戒とは否定の義であるから、ひとたび否定した事はそれの誤りが証明されても、
これに固執して考え方を改めることができない。
健康なお方においても以上の様ですね、まして認知症の母です、記すまでもないでしょう。
私は、皆様がやり取りされてます蓮祖の教えをどの様に拝読するか、意は?につきましてはからっきし駄目です。
ですが、石山の欺瞞は其れらの事を学ばなくとも、信仰と云うものを経験していない私には容易く判別出来ます。
御本尊さまや過去帳、御仏壇を我が家で預かりましたのは私の自発的な案によるものです。
(姉兄が放置していたからです)
数ある日蓮宗の中で、日興門流・正宗を父母は縁会って信仰をもった訳です。
以前、独歩さんに蓮祖の教えを正当に継承している門流は?とお尋ねした事が在ったと思いますが
あっさりと「無いです」とご教示戴いたと記憶しております。

3414しゅんかん:2007/07/02(月) 23:29:35
[3413]の続き

私のような浅学非才者には判断しかねます、縁会った訳ですから興統法縁でと致したしだいです。
自身の信仰を変えるのも計り知れない苦痛を伴うものでしょうが、私の其れも言い表せない物が在りますよ(笑)
実を云いますと、どうして善いのか判らないのが本心です。
私は信仰をしていないと云いましても多くのお方とはやはり違い、つい近年まで神社仏閣を訪れる事が出来ませんでした。
私の地方の小学校に於ける林間学校は(金剛峯寺・高野山)修学旅行は(神宮[伊勢神宮])です。
母からは「拝むな」と、心の中で「南無妙法蓮華経」と唱えなさいと云われものです。
此れも、皆様のレスを拝見し最近カルトに拠る物だろうと理解いたしました、脅迫観念ですね。
現在も母からよく以下の言を聞かされます。
「私の為に猊下さまが書いて下さった御本尊さま」
「誰もが戴けるものではない有難い御本尊さま」
私の家で預かると云った時「私のんや、何であんた処に・・・」と嫌がったものです。

>日蓮正宗のご住職に八巻経の奉安について訊ねたり、日蓮正宗系の仏具屋に拘られるのはなぜですか。
>そもそも、信仰をしていなければ、仏壇に何を奉っても関係ないのではないですか。
〇以上の事で回答に成っておりましょうか?

〇日蓮正宗だけではございません、重須も要山に於いてもお訊ねしております。
〇「信仰をしていなければ、仏壇に何を奉っても関係ないのでは」とは思いません。
様式と云う物がございましょうから、その場には其れに合った物が肝要ではないでしょうか。
礼儀と云うものでしょうか、十戒曼荼羅と阿弥陀如来像を一に奉安するは、私は信仰をしていないのだから
何を奉っても関係ないでは、其れを本尊と崇め信仰されている方を愚弄するものでしょう。
ですがこの「何を奉っても関係ない」は信仰対象を有していない方より発せられるかも知れません。
ですが、私は一字三礼さんを申し訳ありませんがどの様なスタンスを取られておられるのか存じ上げておりません。
もし、日蓮宗系で蓮祖の教えを実行されておられるお方でしたら
>信仰をしていなければ、仏壇に何を奉っても関係ないのではないですか。
とは矛盾いたしませんでしょうか。

3415しゅんかん:2007/07/02(月) 23:36:43
疲労困憊さん
[3411]懇切丁寧な文、ありがとうございます。

3416一字三礼:2007/07/03(火) 00:02:47
しゅんかんさん

レスありがとうございます。
興味本位で聞いてしまったことに、お時間を使わせてもうしわけありません。

ただ、拘るわけではありませんが。
普通に考えてみてください。やはり、信仰のない人にとっては、仏壇自体も不必要だと思いますよ。無信仰であれば、大曼荼羅だってただの紙切れですし、日蓮大聖人御影像であっても阿弥陀仏の像もただのお人形でしょう。

しゅんかんさんは、お気づきではないのかもしれませんが、家の中に仏壇を置き、本尊を安置し、奉安形式を整える、という行為は信仰の意識から起こることではないでしょうか。

ただ、試行錯誤をされているということは理解できました。納得のいく‘かたち’が見つかるとよいですね

3417しゅんかん:2007/07/03(火) 00:38:05
一字三礼さん

う〜ん少し認識にずれがあるのかも知れません。

>大曼荼羅だってただの紙切れですし、日蓮大聖人御影像であっても阿弥陀仏の像もただのお人形でしょう。
〇信仰の無い人、無信仰者にそれらを破って捨て、焼却してみろと云って易々としてのける方多数とは
思わ無いのですが。

>しゅんかんさんは、お気づきではないのかもしれませんが、家の中に仏壇を置き、本尊を安置し、奉安形式
を整える、という行為は信仰の意識から起こることではないでしょうか。
〇先にも記しましたように、私は一字三礼さんを申し訳ありませんがどの様なスタンスを取られておられるの
か存じ上げておりませんので、お答えするのに窮しますが。
私の意識面に於いては信仰をしていないつもりです。
朝夕お題目を三唱するだけですが、これを捉えて「信仰の意識から起こること」と信仰をされておられるお方は
述べられるかもしれませんね。
ですが、私は細君の実家で本願寺派の仏壇にも手を合わせます、ただ「南無妙法蓮華経」ですけど
神社仏閣を訪れなかった事とリンクしますが幼少の頃より植え付けられています観念ですから容易く
捨て去れないのでしょうね。

>試行錯誤をされているということは理解できました。納得のいく‘かたち’が見つかるとよいですね
〇有難うございます、今後も宜しくお願い致します。

3418しゅんかん:2007/07/03(火) 18:09:15
[3414]
誤=十戒曼陀羅
正=十界曼陀羅

3419マターリ:2007/07/03(火) 18:52:04
>犀角独歩さん、お見舞いのお言葉、ありがとうございます。

3420犀角独歩:2007/07/04(水) 07:21:21

ここのところの遣り取りをざっと読ませていただきましたが、八巻は仏具店で買うのは各人の勝手、石山末寺の坊さんの許可など不要なところ。

それよりなりなにより、その坊さんは歯にくっついた御肉が生きているとか、あとから造った彫刻が本物であるという嘘八百の片棒を担いできたことを反省し、信者に謝罪することが先決です。こんな嘘八百の片棒を担ぐ者に、指導を仰いだり、許可を取るなど笑止千万というほかないということではないでしょうか。

3421一字三礼:2007/07/04(水) 21:31:13
法華経を買うなら、読めないように張り付いている八巻経より、折本の経本のほうがいつでも読誦できてよいでしょう。
読むために文字が書いてある経を飾っておいても意味がありません。

また、経本に開眼などはありえません。
日蓮遺文に明らかなように、法華経によって、開眼供養というものはなされるのです。ですから、法華経を開眼供養する経などは存在しません。

法華経にも開眼供養が必要とする人達がいるとすれば、その人達は純粋に商売として、顧客の囲い込みを目的として主張しているのでしょう。

3422犀角独歩:2007/07/04(水) 21:48:11

3421の一字三礼さんのご意見はもっともであると指示します。

3423犀角独歩:2007/07/04(水) 22:08:35

一字三礼さんのご投稿の根拠は『木絵二像開眼之事』の以下の一節でしょう。

「仏に有三十二相皆色法也。最下千輻輪より終無見頂相至までの三十一相は可見有対色なれば書つべし作つべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば不可書不可作。仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故非仏。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥也。何涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや。又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり。
木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足する也。…三十一相の仏の前に法華経を置たてまつれば必純円の仏」

3424一字三礼:2007/07/04(水) 22:26:31
犀角独歩さん

私の挙証不足を補足くださり、ありがとうございます。

最近は知りませんが、以前、池袋の常在寺で売っいた経本は、‘開眼供養済み’のものだと坊さんが言っておりました。
何を言っているのやら…。

3425犀角独歩:2007/07/07(土) 08:54:31

一字三礼さん

日蓮が開眼の要諦と考えた法華経典を、開眼するという本末転倒が起きているわけですね。

ついで、日蓮が漫荼羅を図示したのは、まさに授与する相手の仏目開眼の意図があったように思えます。『本尊抄』と隣接した『開目抄』の紙背の意図と考えます。

ところが、その漫荼羅を複写し大量生産してしまったために、単なる印刷物を、どうにか本尊とこじつける必要性に迫られることになったのでしょう。そこで創案されたのが漫荼羅本尊開眼という本末転倒であったのでしょうね。

3426そううそ:2007/07/07(土) 11:06:29
こんにちは
ご無沙汰しています。

創価学会の信仰に功徳はあるか? 考え方が変わる事は退転か?裏切りか?地獄行きか?(その1)
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/d013cff682972c2c57cc05510c0c84f4

犀角独歩さん
上記の記事で引用をしたので許可頂けませんか?
ではでは

3427犀角独歩:2007/07/07(土) 11:48:04

そううそさん

事後承諾ですか(笑)
わたしは承諾しました。
ただし、該当の投稿は、こちら富士門流信徒の掲示板でのものですから、管理人さんにもご許可を求めるほうが筋が通ろうかと存じます。

3428一字三礼:2007/07/07(土) 18:15:43
犀角独歩さん

>日蓮が漫荼羅を図示したのは、まさに授与する相手の仏目開眼の意図があったように思えます。『本尊抄』と隣接した『開目抄』の紙背の意図と考えます。

‘大曼荼羅授与に仏目開眼の意図’確かにその考えもあったのでしょう。

真筆遺文から考えると、日蓮に上行菩薩の自覚を読み取ることは難しいですね。
それに対して不軽菩薩の自覚は、「転重軽受法門」、「神国王御書」、「撰時抄」、「高橋入道殿御返事」、「報恩抄」等々にはっきりと書かれております。

不軽菩薩の自覚を持ち、上行所伝の題目を大曼荼羅に図示して、信心堅固な弟子にのみ授与した。
このことは、やはり日蓮から弟子への‘授記’‘記別’も同時に意図していたのではないかと考えます。
不軽菩薩は、菩薩からの授記を信じない増上慢の四衆から、迫害を受けました。
日蓮は、題目を広めたことによって、念仏衆や為政者から迫害を受けました。ということは、題目を広めること自体に、‘授記’意味も含めていたのではないかと思います。

3429犀角独歩:2007/07/07(土) 20:46:02

一字三礼さん

> 真筆遺文から考えると、日蓮に上行菩薩の自覚を読み取ることは難しい

そうですね。わたしも、この点については慎重です。

> 不軽菩薩の自覚

このようにお考えですか。もう少しお聞かせ願えませんか。
わたしは日蓮が不軽菩薩を上げるのは、仏滅後の修行者という位置付けからだと考えていました。

3430一字三礼:2007/07/07(土) 22:01:39
犀角独歩さん

>わたしは日蓮が不軽菩薩を上げるのは、仏滅後の修行者という位置付けからだと考えていました。

どうでしょう、仏滅後の修行者というよりは、日蓮は、受難の法華行者という点で不軽菩薩と自身を重ね合わせたのではないでしょうか。

そしてそのことが日蓮にとって唯一の救いとなったのではないでしょうか。

正しく法華経を行じながらも、常に自身に降りかかる一向に救いこない受難。その受難に対して、大いなる意義と意味をもたせ、解決に導いてくれたのは、不軽菩薩の受難理由である‘其罪畢已’だった。
‘其罪畢已’に自らの疑念の解決をみたときに執筆したのが「開目抄」ではないでしょうか。

日蓮が不軽菩薩と自身を重ね合わせている真筆遺文をいくつか引いてみます。

「過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身にあたりてよみまいらせて候けるとみへはんべれ。現在には正像二千年はさてをきぬ。末法に入ては此日本国には当時は日蓮一人みへ候か。」(転重軽受法門 文永八年)

「今日蓮は日本国十七万一千三十七所の諸僧等のあだするのみならず、国主用い給はざれば、万民あだをなす事父母の敵にも超へ、宿世のかたきにもすぐれたり。結句は二度の遠流、一度の頭に及ぶ。彼の大荘厳仏の末法の四比丘竝びに六百八十万億那由他の諸人が善事比丘一人をあだみしにも超へ、師子音王仏の末の勝意比丘の無量の弟子等が喜根比丘をせめしにも勝れり。覚徳比丘がせめられし、不軽菩薩が杖木をかほりしも、限りあれば此れにはよもすぎじとぞをぼへ候。」(神国王御書 文永十二)

「其後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も、此には及ばじとをぼゆ。」(報恩抄 建治二年)

「此の法門は当世日本国に一人もしり(知)て候人なし。ただ日蓮一人計りにて候へば、此れを知て申さずは日蓮無間地獄に堕ちてうかぶご(期)なかるべし。譬へばむほんの物をしりながら国主へ申さぬとが(失)あり。申せばかたき雨のごとし風のごとし。むほんのもののごとし。海賊山賊のもののごとし。かたがたしのびがたき事也。例せば威音王仏の末の不軽菩薩の如し。歓喜仏のすえの覚徳比丘のごとし。天台のごとし。伝教のごとし。」(種種物御消息 弘安元年)

「其の上、日蓮は法華経誹謗の国に生まれて威音王仏の末法の不軽菩薩のごとし。はた又歓喜増益仏の末の覚徳比丘の如し。」(上野殿御返事 弘安二年)

「法華経は三世諸仏説法の儀式也。過去の不軽品は今の勧持品。今の勧持品は過去の不軽品也。今の勧持品は未来の不軽品たるべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。」(寺泊御書)

いっぱい貼り付けたり、検索したりしているうちに、気がついたのですが。

覚徳比丘はほとんどの場合(経典から直接の引用と一ヶ所を除いて)、同じ受難の行者として不軽菩薩と並べて挙げられるのですね。
折伏を現ずるのが有徳王で、その有徳王の折伏によって救われる受難の行者が覚徳比丘でしたね。
真筆遺文からみる日蓮の主張は、受難の行者として覚徳比丘=不軽菩薩=日蓮というものです。
ここから考えても、‘不軽菩薩と日蓮は折伏’という主張は間違いですね。

3431そううそ:2007/07/07(土) 22:49:55
>管理人さん
お世話になっています。

当掲示板への書き込みルール
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1134265404/l50

こちらでは本BBSから引用する場合のルールが書かれていませんが、
コメントした本人さんの許可が得られれば、管理人さんの許可は
不要かと思うのですが、どうでしょうか?
今後も犀角独歩さんのコメントを引用しつつ学びたいことがあると思います。

許可が必要であれば独歩さんのコメントの引用許可を下さい。
よろしくお願いします。

>犀角独歩さん
こんばんは

許可有り難うございます。

ところで、メールは届いていなかったのでしょうか?
それと、もしかして私から 2007/06/27 21:54 のメールも届いていませんか?

ではでは

3432管理者:2007/07/07(土) 23:52:43

当掲示板は公開された掲示板ですが、この掲示板の内容を引用することは、当然、著作権法の制約を受けます。そして、当掲示板の書き込みの著作権は、運営主体たる「冨士門ネット」に属します。

この意味では、書き込まれたご本人の転載許可はもとより、当掲示板の運営主体たる冨士門ネットの転載許可が著作権法上必要となると考えています。

この前提に立って、管理者の責任において、そううそさんの今回の転載を、事後承諾いたします。

3433そううそ:2007/07/08(日) 01:40:56
>管理人さん

>当掲示板の運営主体たる冨士門ネットの転載許可が著作権法上必要となる

了解しました。

>転載を、事後承諾いたします。

有り難うございます。

3434犀角独歩:2007/07/08(日) 10:07:48

そううそさん

メールは届いていません。

3435犀角独歩:2007/07/08(日) 10:16:53

一字三礼さん、ありがとうございます。

先の書き様で「日蓮…不軽菩薩…仏滅後の修行者」という表現は如何にも拙いですね。意を尽くしていませんでした。仰る筋、賛同します。
ついでながら、もう少しお付き合いいただきたいのです。

いうまでもないことですが、不軽菩薩は成仏以前の釈尊前世物語です。一方、有徳王がこれまた釈尊の前世であるということでした。

つまり、釈尊は不軽菩薩であり、有徳王であるというのが、法華・涅槃のストーリーということになりますね。

わたしが過去の修行者といったのは、日蓮の前世が不軽菩薩、覚徳比丘であるとするのではなく、仏滅後の代に出現する比丘という位置付けで自身を当て嵌めたという意味です。この説明では、どうでしょうか。

摂折の解析、まったくそのとおりであろうと存じます。

3436マターリ:2007/07/08(日) 23:27:46
日蓮聖人は、法華経の安楽行品を軽視し、勧持品を重視したと思います。

しかし安楽行品をよく見ると、厳しい戒めの言葉が書いてあります。「しな
さい。してはなりません。答えなさい。いけません。」などと。

一方、勧持品を見ると「広く此の経を説くでしょう。我等をさげずみ刀杖を
加えることでしょう。」というように、「でしょう」という言葉が多いのがわ
かります。ですから、この経には、未来予測および決意が書いてあるような
気がします。

戒めと未来予測&決意と、どちらを大事にすべきかですが、拙い私の考えでは、
戒めの方が大切なのでは、と感じます。

勧持品に書いてあるような難を防ぐためにこそ、安楽行品で厳しく戒めてい
ると思えるのです。もし前代未聞の大難が襲い来たった場合、法華経教団全
滅ということにもなりかねません。そうすれば、西暦50年ころから編纂され
たという法華経の、執筆者たちの願いも、ついえてしまいます。法華経を書
いた意味がなくなってしまいます。

法華経の執筆者たちは、未来永劫に法華経が伝えられることを祈りつつ、
安楽行品を書いたと思われます。途中で、法華経の信徒が途絶えては困る
わけです。

また、原始仏教典を読んでから法華経を見た場合、安楽行品は原始仏教典の
意に則していますが、勧持品はかなりの差が感じられます。
排他性・殉教精神・使徒的仲間意識のような激烈さが書いてあるようです。

日蓮聖人の激しい他宗排撃が、あったればこそ、日蓮宗が後世まで生き続け
たと思います。しかし逆に、それゆえ厳しい弾圧を受け、多くの信徒が殉教
し負傷してしまいました。行敏訴状御会通を見ると、弟子等を殺害に及ぶこ
と数百人と書いてある通り、すさまじい惨状です。

日蓮聖人が他宗排撃をしなければ、数百人の信徒が寿命をまっとうできたわ
けです。生命尊重の、現代に生きる私としては複雑な思いです。

安楽行品は、天台からすると迹門であり、安楽行品の菩薩は初心の菩薩です。
勧持品は本門であり、この菩薩は地湧の菩薩ということです。日蓮聖人ご自
身は、すでに初心ではないということで、安楽行品を軽視したと思います。

とはいえ、日蓮聖人が安楽行品を軽視および無視したのが、大難を受ける根
本原因だったと思われますが、いかがでしょうか?日蓮聖人は安楽行品を重
視すべきだったのではないか?という思いが消えません。

天台の、本門・迹門という立て分けを顧慮せず、二つの経典を素直に見た場
合、勧持品の未来予測&決意より、安楽行品の戒めを重視すべきではないか
と思っていますが、いかがでしょうか?

安楽行品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-14-1.htm

勧持品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-13.htm

3437一字三礼:2007/07/08(日) 23:53:16
犀角独歩さん

>わたしが過去の修行者といったのは、日蓮の前世が不軽菩薩、覚徳比丘であるとするのではなく、仏滅後の代に出現する比丘という位置付けで自身を当て嵌めたという意味です。

賛同いたします、仰るとおりであろうと思います。

>つまり、釈尊は不軽菩薩であり、有徳王であるというのが、法華・涅槃のストーリーということになりますね。

涅槃経は、法華経の影響の下で成り立っている経典ですが、法華経は涅槃経を想定してはいませんよね。だから、法華経の立場から涅槃経との会通をはかるのは本来は無理なことです。
ただ、日蓮の理解では会通が出来ていたのでしょう。


ところで、ご見解をお聞かせいただきたいのですが。

一般的な日蓮宗の解釈では、「立正安国論」は、時の為政者である時頼を法華信者にすることによって、一気に日本全土への広宣流布を図った、というものでしょう。

しかし、常識的に考えれば、日本で為政者の一人が信奉する宗教を換えたからといって、日本国民が全て改宗したという前例はありませんでした。
事実、時頼が臨済禅を信奉していても、巷で流行っていたのは念仏です。

ということは、以前に独歩さんもご主張されていたとおり、「立正安国論」の執筆動機は、為政者の権力によって‘邪宗を禁止’させるためであった。つまり、為政者に対する‘折伏の勧め’です。

‘邪宗の禁止’とは、承元元年(1206年)2月の後鳥羽上皇が怒りにまかせて命じた、念仏の禁止という措置を念頭においていたものでしょう。
この措置を再び厳格に実行すべし、というのが「立正安国論」の主張だと思います。

3438一字三礼:2007/07/08(日) 23:53:56
つづきです。

ここで思い出されるのが「観心本尊抄」の一節です。

「当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。」

日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました。

それは、為政者が、その権力と法律とを駆使して、日蓮法華以外の信仰を禁止にすることによって、広宣流布が達成される、というものと考えられます。

自らを覚徳比丘に重ね合わせる日蓮にとって、常に求めたのは日蓮にとっての‘有徳王’だったということでしょう。

有徳王の方が覚徳比丘よりも功徳が勝っているのは、金剛身品のとおりです。

総合しますと、日蓮は、「立正安国論」を採用して、実行した為政者(王)こそが‘上行菩薩’と考えていたのではないでしょうか。

そう考えますと、日蓮が、自身を上行菩薩と想定していたとは考えられません。

しかし、この考え方が、‘三度の高名’後、文永十一年四月八日を境に、為政者に対する諦め、折伏を諦めた時から、日蓮は上行菩薩を意識するようになるのではないでしょうか。

3439顕正居士:2007/07/09(月) 11:13:22
>>3438
本尊抄のその語句は顕密体制や皇道思想とあいまってそういう解釈が室町時代に形成される。
そして明治維新後にまた国柱会によって復活する。しかし日蓮が言及している賢王は明らかに
クビライ・ハンのことである。誡責愚王は元寇以外の何物でもない。
そうした閻浮提闘諍の時代には出家といえども武器を帯びて自衛することも許される。実際に
日蓮は刀(数珠丸)を帯していた。そういう出家のあり方もまた折伏と称される。
このことは北嶺南都においては常識になっていた。ただし学生、がくしょう、ほんものの出家は
十戒だけは守り、堂衆、どうしゅう、学生の従者が武装して護衛するのを建前とする。
(実際にはこの建前も守られなかった。学生も妻帯し、時には天台座主自ら戦陣に立った)
鎌倉幕府はこの武装寺社勢力を関東において認める気はなかった。初歩的な政教分離の
思想へ進歩していたといえる。しかし関西では公然と行われている思想なのだから、日蓮の
処置には十分慎重であった、比叡山や興福寺との対立は避けなければならなかった。

3440犀角独歩:2007/07/09(月) 19:43:19

一字三礼さん

重ねてご返答、まことに有り難うございます。
3437〜3438に記されておられるところ、ほぼ同意いたします。

わたしの日蓮=上行論の最大の疑問は、真蹟から鑑みられないことも、もちろんですが、この菩薩の特質に拠ります。

釈尊五百塵点成道初発心弟子にして、已来大地の虚空に住したこの菩薩は、不軽菩薩の如く、畢える罪があるわけもなく、その偉容は「是諸菩薩 身皆金色 三十二相 無量光明」といいます。「或被軽易或形状醜陋 衣服不足 飲食麁疎求財不利生貧賎家邪見家或遭王難」などという有様とは次元を異にしています。以上の次第ですから、日蓮が自身を上行再誕と考えていたとは、とても考えづらいと思うわけです。

『立正安国論』の提出は、仰るような次第であると、わたしも思います。
承元元年2月の後鳥羽上皇の念仏の停止をモデルにして、いまでいう新興宗教、それも京都を睥睨した鎌倉の暫定武家政権に対して、物を申したというのが、当初の有様であったのではないでしょうか。
この時点で、日蓮が王難を覚悟していたか?と問われれば、わたしは、寧ろ、国師の待遇で迎え入れられるような夢想もあったのではないかと思う節はあります。しかし、結果は歴史の如くでした。その中で仏滅後の成仏のモデルを不軽菩薩、覚徳比丘に求めていったのではないかと考えています。
当初は、法華復興を基調にした考えであり、寿量仏/四菩薩本尊といったモデルも出来上がったいなかったのではないかと思えます。その意味で、初期『立正安国論』執筆段階で四菩薩出現を想定したとは考えづらいように思えますが、どうでしょうか。

しかし、その後の迫害に遭い、寿量仏/四菩薩信仰が徐々に闡明になっていったという経緯ではないでしょうか。『本尊抄』にいう四菩薩賢王は顕正居士さんが仰るとおり、クビライ・ハンを指していたと、わたしは思えます。ただでは、行摂受成僧は具体的に誰を指すのかという問いは残ります。

金色三十二相を具す無量光明を放つ菩薩の出現を日蓮は待っていたのか、実はわたしは待っていたと思います。待っていたからこそ、その四菩薩を像に刻むことを『本尊抄』に述べ、漫荼羅にも記したのだろうと思えます。

このような視点から日蓮の漫荼羅を眺め直すと、虚空に浮かぶ宝塔中の釈迦多宝、脇士四菩薩を娑婆土から仰視し、妙法蓮華経の五文字を受け取る日蓮という相関図とも見えます。それが合っているかどうかは別として、そのような観点からの日蓮解釈は十分に可能であると、わたしは考えます。

なお、「日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました」とのことですが、この点では、わたしは少し違う見解を有しています。

『開目抄』に「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし。)…末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし。」

では、日蓮は日本国を如何なる国かと言ったか、
『開目抄』に「‘悪国’悪時これなり。具には立正安国論にかんがへたるがごとし」、『富木殿御返事』に「諸天善神去此‘悪国’故」、『曽谷入道殿許御書』に「其外閻浮守護天神地祇或去他方 或住 此土不守護於‘悪国’」と、日蓮は、日本国を悪国であると書いています。

ここで先に挙げた『開目抄』の文を整理してみます。

┌無智悪人の国土…=悪国は摂受
└邪智謗法の者多時=破法は折伏

となれば、日蓮は末法日本国では「摂受を前」といっていることになりませんか。だからこそ、その摂受をしない自身への批判を『開目抄』に弁明しているのではないでしょうか。ただし、それは日蓮が折伏の人ということではなく、安楽行品摂受からの逸脱を、あくまで摂受=僧の立場から論証しているのであって、僧が折伏という意味ではないわけです。

ちなみに「邪智謗法の者多時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし。)」の文において、仮に()内の一文があったところで、折伏(暴力によって)折り伏せられることに遭った不軽菩薩ということですから、不軽菩薩が摂受である点は動きません。摂受は、常に折伏との対置して両輪の如く両者あって成り立つからです。

無知悪人:不軽菩薩=折伏:摂受
無智悪人:覚徳比丘=折伏:摂受
無智悪人:日蓮聖人=折伏:摂受

という論旨で一貫しています。
以上のようにわたしは考えますが、この点についてもご賢察を承れれば有り難く存じます。。

3441一字三礼:2007/07/09(月) 23:35:53

犀角独歩さん

レスありがとうございます。
どう頑張っても‘賢察’とはいきませんが、少し記させていただきます。

仰るところの上行菩薩の特質からのご考察、賛同します。

上行菩薩は、その六万恒河沙の眷族と共に「寿量釈尊の証明」と「神力品の別付属」を役割とする菩薩です。
その特徴を日蓮が「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩也。」(観心本尊抄)と言うように、寿量釈尊と同じ世界に住するという特殊性のため、一品二半の中で観心として把握されるべき菩薩格ではないかと思います。

それに対して覚徳比丘と不軽菩薩は、始覚釈尊の前生として、その性質・働きが非常に具体的に表現されており、上行菩薩の特徴と比較すればかなり単純な印象さえ受けます。

現実に苦難を乗り越えて生きた日蓮にとって上行菩薩は、自身と重ねるというより、内面的に把握される存在ではなかったか、と考えます。

>この時点で、日蓮が王難を覚悟していたか?と問われれば、わたしは、寧ろ、国師の待遇で迎え入れられるような夢想もあったのではないかと思う節はあります。

私もそうではなかったかと思います。

>初期『立正安国論』執筆段階で四菩薩出現を想定したとは考えづらいように思えますが、どうでしょうか。

たしかに仰るとおりですね、ここのところで私は時系列を考慮に入れておりませんでした。

顕正居士さんもご指摘されておりました、賢王=クビライ・ハンという構図は、日蓮が日本の為政者に絶望した後の発想なのではないでしょうか。
つまり、もともと日蓮は、「立正安国論」が時頼に採用されると考えていたのでしょう。そうなれば時頼が‘賢王’に見立てられたのではないでしょうか(ご指摘のように、この時点では賢王=四菩薩の思想はなかったでしょう)。
ところが、三度諫めてもこれを用いない幕府・執権を諦めたとき、他国に賢王の存在を求めたのではないかと思います。

>金色三十二相を具す無量光明を放つ菩薩の出現を日蓮は待っていたのか、実はわたしは待っていたと思います。

私も同様に思います。
前で記しましたように、上行菩薩は、寿量釈尊と同世界に住む存在なので、分別を超えた観心で把握されるべき、抽象的な存在です。

おかしな言い方になりますが、その神聖にして抽象的な菩薩が、現実に現れると日蓮は考えていた。
矛盾する概念を渾然一体として把握するのも日蓮の魅力ではないかと思います。

>なお、「日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました」とのことですが、この点では、わたしは少し違う見解を有しています。

挙げてくださった遺文では、たしかに日本=悪国=摂受というのも成り立ちますし、日蓮は「摂受を前」といっているように思えますが、これはどうでしょう。
少し長くなりますが、引用します。

「余に三度のかうみやう(高名)あり。一には去し文応元年[太歳庚申]七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く 禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事おこりて他国にせめられさせ給ふべし。二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向て云く 日蓮は日本国の棟梁也。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頚をゆひのはまにて切らずは、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には去年[文永十一年]四月八日左衛門尉に語て云く 王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、」(撰時抄)

三度ともに、為政者に対する‘折伏の勧め’とは読めませんでしょうか。
私には、日蓮は、為政者が折伏によって(権力・武力・法等)、邪宗はを取り締まるのを待望していたのではないかと思います。

3442顕正居士:2007/07/10(火) 00:44:58
>>3440
犀角独歩さん。日蓮は聖僧としての上行菩薩の近未来出現を期待していたと私も考えます。
日蓮の王仏思想は北嶺南都のジハド思想そのままで、これが完全に片付くのは織田信長を
待たねばならない。同様の思想に依然停滞していたカトリック勢力も追放し、豊臣秀吉により
世界最初の政教分離国家日本ができます。
日蓮の王仏思想はそのように時代遅れのものでしたが、一閻浮提闘諍の世界を直感したのは
素晴らしかった。当時、ユーラシアの真ん中にクビライ・ハンの世界帝国が成立していました。
豊田有恒さんの小説のように、もし四汗国の分裂抗争がなければ、13世紀に地球は統一され、
数百年早く文明が進歩した可能性は否定できません。実際にはナポレオン帝国と同様に
各地の民族主義を昂揚させ、別の形で文明の進化を促した。
クビライ・ハンの世界帝国は商業帝国であり、グローバライゼーションのために商業と相性のよい
インド大乗仏教を国教とした。帝師パスパはほぼ日蓮と同時代の人。摂受を行う聖僧と折伏を行う
賢王は実在したのですね。
なお悪国とか破法とかに深い理屈はなく、北嶺南都の常識がまず動かないものとしてあった。
章安荊渓の釈を引く大乗涅槃経折伏(ジハド)思想です。法華思想とは整合しませんから、
日蓮の言説は検討すると論理的にあいまいですが、乗急戒緩の思想がもう常識だったでしょう。

3443顕正居士:2007/07/10(火) 03:02:53
日蓮は預言者であり、一見理屈っぽいが、実は直感の人でした。
彼の理屈は破綻しているが、神秘的な感性を有しており、
大元帝国の位置と国際情勢を自己心中に投射したのです。
この点では北条氏は全然だめでした。元の国書は今日的には政権の承認を求めたものです。
中国の正統政権とは日本政府は常に公式とは限らないが修好していました。
日宋関係は非公式のほうです。日本政府が事情に疎いと考え、行った示威行為が文永の役です。
次の段階では宋はすでに滅亡しています。日本政府に修好を拒否する理由がありません。
しかるに外交官を斬殺した行為をむろん、日蓮は批難しています。
弘安の役は実際に威力をもって国交を要求する計画でした。これが失敗したのですが、
元が中国の単一政権であることはもう事実なので、商人は貿易を盛んにおこなうようになり、
幕府も禁止しませんでした。それで3次侵攻計画もありましたが、まあよいかとなりました。
幕府は愚行によって崩壊の運命が定まる。国際情勢の直感では幕府は話になりませんでした。

3444犀角独歩:2007/07/10(火) 06:08:06

顕正居士さん

ご教示くださった当時の世界情勢と日本の位置、そして、その背景から見える日蓮像は、たいへん参考になりました。神話化された日蓮物語を、貿易はもちろんのこと、実際的な人の営みの延長にある国の、世界の情勢から見直すこと。何と生き生きとした現実感かと思えました。有り難うございます。

一字三礼さん

> 三度ともに、為政者に対する‘折伏の勧め’

そのとおりだと思います。

わたしは従来の摂折論は、いくつかの思い違いに基づいていると考えます。まだ、思惟の段階で整理しておりませんが、いくつか挙げてみます。

まず、摂受・折伏のいずれかという選択論。これは違いませんか。
摂折は水火の相違と日蓮は言いながら、しかし『本尊抄』の王/僧の対比の如く、車の両輪の如く、セットされた考えです。その典型が、有徳王/覚徳比丘の物語ですね。日蓮が『開目抄』に言っているのは、どちらが‘先’かということであって、いずれか片方、それで折伏だといった選択論ではありませんよね。先を言うのは、後があることを前提にした立論です。摂受・折伏、どちらが先かということであって、結局は摂折両立であるわけです。

日蓮は仰るとおり、為政者に対して、『涅槃経』、また、『止観』から導かれる武力統制、すなわち折伏を勧めています。では、僧である日蓮はいえば、あるべき安楽行品における摂受をまず前提にして、「見壊法者」を引用し、身に宛てます。これは一貫した日蓮の在り方でした。「若能駈遺呵責挙処」、また、不軽菩薩の撃於毒鼓、申つをら(強)りは、折伏か。この点は過去に論じましたので繰り返しませんが、それが強説であれ、説法であれば、それは「弘持正法」なのであって、摂受の域です。つまり、日蓮は当時の安楽/摂受といった僧侶の襟度から、涅槃「見壊法者」を鑑み、強言説法といった摂受の限界に挑んだのではないでしょうか。つまり、『開目抄』で展開される摂折論において、日蓮が自身に宛てて論じているのは摂受の範囲内ではないかということです。

この日蓮の摂受を前として、為政者に対して折伏を勧めた。つまり、ここで、日蓮の言説が先行するわけですから、摂受が先になっている。そして、その後に為政者の折伏が続くという道程を日蓮は想定していたと思えるのですが、どうでしょうか。

3445犀角独歩:2007/07/10(火) 07:19:00

御礼を申し忘れました。

一字三礼さんのご賢察、日蓮非上行論、摂受論は示唆に富み、大いに刺激されました。感謝申し上げます。有り難うございます。

いずれにしても、日蓮門下の折伏論とは、『如説修行鈔』(文永10年5月)を真筆と扱うかどうかで大きく意見が分かれています。

わたし個人は、身延曽存、後5月の『顕仏未来記』、また『富木殿御返事』などと比して、文体が著しく異なり、メンタリティにも格段の相違があると感じます。

一字三礼さんは、この書にどのようなご見解を有していらっしゃいますか。

3446マターリ:2007/07/10(火) 10:21:06
行敏訴状御会通を見ると、弟子等を殺害に及ぶこと数百人と書いてあります
。しかし、日蓮聖人の伝記を見る限りでは、小松原の法難の際に、鏡忍坊、
工藤吉隆が戦死、あとは熱原の法難で神四郎・弥五郎・弥六郎の三人が殺害
されたことくらいしかわかりません。

数百人という膨大な数の殉教者は、どの法難で出たのでしょうか?

3447顕正居士:2007/07/10(火) 15:02:09
なぜ中世では聖戦思想が当たり前だったのか?

大乗涅槃経の折伏思想は頻繁に支配民族が交代する中央アジア、インド北部で起こったのでしょう。
インド仏教末期の折伏思想はむろんイスラームに対するものです。
しかし中世の日本や欧州では平時に聖戦思想が当たり前だった。異民族に対するものですらない。
これはなぜか?
中世の寺社は封建領主で、小作料が主な収入です。それで土地の支配権はどうやって維持するか。
中央政府が小さい封建社会では領主は軍事、警察、司法を自分で行う、自分の土地は自分で守る。
そうしますと外交関係が特にこじれている他宗他派の寺社とは常時聖戦状態になります。
延暦寺と三井寺のように。実力がない中央政府や地方政府が干渉してきますとこれとも聖戦です。
聖戦によって僧侶の日常経済生活が成り立っているのですから、一方ではいくらでも戒律の話は
並べられるが、なんら現実生活とは関係しません。人は成り立っている経済生活の基本を疑わない。
せいぜい、末法だからねでおわりです。まあ、そういう事情であったと想像します。

3448マターリ:2007/07/10(火) 16:15:24
私の質問には、答えていただけないようですね。

3449顕正居士:2007/07/10(火) 16:23:28
>>3448
その数百人というのは凶徒の人数のことです。

3450犀角独歩:2007/07/10(火) 19:05:52

顕正居士さん

実に参考になります。経典を神秘的な呪文のように考えがちなところを、そこに描かれたストーリーから、モチーフになった事実を探ることは、新たな視点を生みますね。かつて、わたしは、地涌菩薩の物語を読んだとき、これこそ、この経典を創った人々自身をモデルにしたものであると思ったものでした。

教理経説としてではなく、創作者が自分たちを肯定する為に紡いだ物語であると考えるとき、「折伏」の意味も、より具体的に見えるわけですね。

有り難うございます。

3451顕正居士:2007/07/10(火) 19:51:27
下は有名な武装寺院根来寺についてルイス・フロイスが記した書簡です。
はじめに「この国に45の宗派があり、各々一大共和国の如きもの」とまず述べています。
いわば宗教戦争先進国であった日本事情の一端が伺えます。

宣教師ルイス・フロイスが耶蘇会総長に書き送った手紙
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2215/motto/ruis.htm

3452一字三礼:2007/07/10(火) 22:11:09

犀角独歩さん

もう何年も前から、ご教示いただき続けているのは私の方です。こちらこそ御礼申し上げます。

>まず、摂受・折伏のいずれかという選択論。これは違いませんか。

仰るとおりであろうと思います。

涅槃経の有徳王と覚徳比丘にしても、同時代に生存しているわけですよね。同じ時に、有徳王は折伏を現じ、覚徳比丘は摂受を行していた、という設定が摂折選択論ではないということを表していますね。

>日蓮は当時の安楽/摂受といった僧侶の襟度から、涅槃「見壊法者」を鑑み、強言説法といった摂受の限界に挑んだのではないでしょうか。
>日蓮の言説が先行するわけですから、摂受が先になっている。そして、その後に為政者の折伏が続くという道程を日蓮は想定していたと思えるのです

まさしくその通りと存じます、お説に賛同します。

「如説修行抄」についてですが。
私はこの書の来歴について、以前、れんさんにお聞きした事がありました。

興風談所の研究で、茨城県富久成寺蔵・伝日尊筆「如説修行抄」古写本は、前半部と後半部では、筆跡が異なり、奥書の署名は、静岡県伊豆実成寺蔵の日尊自筆書状の筆跡とは異なるというご教示をいただいた、と記憶しております(もしも記憶違いがありましたら、れんさん、訂正をお願いしますです)。

文献学的に考えて、日尊は、日蓮の孫弟子ですから、確かな日尊古写本が存在したとしても、もとより、身延曾存遺文・日興等六老僧古写本と比べて、信頼度は格段に落ちます。

ところが、「如説修行抄」は、とてもその孫弟子の写本とも認めることができる代物ではありません。
今成師の説を加えずとも、「如説修行抄」は、日蓮遺文を考察する上で、考慮にいれるべき書ではないと考えます。

3453マターリ:2007/07/10(火) 22:30:41
>顕正居士さん、教えていただき、ありがとうございました。昔の文章は
なかなか理解しずらいですね。古語は苦手でしたから・・・。

ルイス・フロイスというと、織田信長が連想されますね。

NHKの特集で見ましたが、織田信長が暗殺された本能寺は、日蓮宗の寺院で
した。当時の本能寺は、種子島法華宗ルートの鉄砲の集積地であり、地下に
は蓄積された硝煙蔵まであったそうです。

本能寺が炎上したとき、普通の火事ではなかった、との記録があり、硝煙蔵
が燃えた可能性が高いと思われます。

信長の死体が発見されなかったのも、その辺の事情が影響しているのでは、
ないでしょうか?

また、本能寺には、鉄砲などを複数の実力者に斡旋していたらしき記録が残
されているようです。

>一字三礼さん、
>有徳王は折伏を現じ、覚徳比丘は摂受を行していた

秋元御書を読むと、「覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・・・」とありますの
で、覚徳比丘も、折伏をしたのではないでしょうか?

3454一字三礼:2007/07/10(火) 23:22:42

顕正居士さんのご投稿を読みながら考えたのですが。

悪僧・僧衆(僧の集団もこう呼ぶ)とは、大きな荘園を有する、興福寺・延暦寺・東大寺等の大寺院に所属する、身分の低い・学の無い堂衆が、武装して寺院の財産を守り、他に略奪に出かける武装集団だと認識しております。

しかし、日蓮の場合は、延暦寺の出世コースを自ら放棄し、寺も持たず、当然、荘園も持たなかったので、武器を持ち人に対する理由は見当たりません。

日蓮が、どこかで剣技を身につけていたとは考えられませんし、数の知れた弟子の僧達も、弁慶とはいかなかったでしょう。

日蓮の知力から考えて、鎧・兜も着さず、ろくに使えもしない太刀一振りを持ち、少数の弟子とクーデターを企むとはとても思えません。

日蓮が武装していたとするならば、その理由はなんでしょうか。

日蓮所持と伝わる刀は、日蓮宗では、身延が貰い損なった尼崎本興寺の「数珠丸恒次」であるとし、富士派では「三条小鍛冶宗近」(当然、初代ではないでしょうが)としますが、しかし、これは伝承の域ではないでしょうか。

3455一字三礼:2007/07/10(火) 23:54:15

マターリさん、はじめまして。

こちらの掲示板では、日蓮の著作を挙げるとき、まず真筆遺文であることが基本になります。
そこからケース・バイ・ケースで、来歴のはっきりしている身延曾存や古写本も含めて論じていくこともあります。

このように慎重にせずに、来歴の不確かな写本遺文も含めて論じてしまった場合、もしその写本遺文が偽書であったら、議論している土台がすでに崩れていることになってしまい、議論すること自体が無駄になってしまいます。

このような理由から、ご指摘の「秋元殿御書」(筒御器鈔)は考慮にいれておりませんでした。

3456マターリ:2007/07/11(水) 00:53:42
>一字三礼さん、初めまして。こちらこそ宜しくお願い致します。

レスありがとうございます。「秋元殿御書」が真蹟でないとのことで、了解
しました。以前にも注意されながら、忘れていました。

>日蓮が、どこかで剣技を身につけていたとは考えられませんし、数の知れ
た弟子の僧達も、弁慶とはいかなかったでしょう。

初期の在俗信徒のほとんどが武士でした。富木五郎・太田金吾・曾谷左衛門
尉・工藤吉隆・池上宗仲・宗長親子・四条金吾・波木井六郎など。

武士の仕事は「殺人」です。彼らが、襲撃される危険性の高い日蓮聖人に、
武芸の基礎を教えた可能性は、多少でもあるのではないか、と思われます。

太刀は、かなりの重さがありますが、日蓮聖人は大柄だったとのことですの
で、振り回すことはできたと思います。

>日蓮の知力から考えて、鎧・兜も着さず、ろくに使えもしない太刀一振り
を持ち、少数の弟子とクーデターを企むとはとても思えません。

聖僧ですから、鎧・兜を着していては、さまにならないと思います。鎧は、
切られるときは安全ですが、刀の切っ先で突き刺されると、つなぎ目から
入ってしまうので危険です。

また、鎧・兜などを着用していると、戦意があるとみなされ、かえって
標的にされてしまうのではないでしょうか?大刀を持ち、防御の構えを見せ
ていた方が、敵の戦意を多少とも和らげるかも知れません。

敵が大刀で切りつけてきたとき、小刀では質量からして、大刀に押し返され
防ぎきれないと思います。

>日蓮が武装していたとするならば、その理由はなんでしょうか。

あくまでも自衛のため、だけだったのではないでしょうか?武器は、反日蓮
の徒の襲撃から、身を守るのもおぼつかない程度のものだったと、推察され
ます。

3457顕正居士:2007/07/11(水) 01:42:48
>>3454
一字三礼さん。
日蓮は僧兵によって守られた寺院に起居していたわけではないからこそ護身の武器を帯していた
と想像します。剣技というほどのものは訓練していなかったでしょうが、安全に武器をあつかう程度
はこの時代は多数の人が幼年時代に学習したでしょう。兵農分離も刀狩もずっと先のことです。
しかし鎌倉幕府は僧侶の武装を禁じていましたから、このことが後の流刑の一原因になっています。
三條小鍛冶宗近は北条弥源太から贈られたもので礼状が残っています。但し三條小鍛冶宗近と
いう名はありません。数珠丸のほうも旧国宝、現重文であり、この天下五剣の持ち主に日蓮以外
の名が挙がらないのですから、相当に信用できる伝承ではないかと考えます。
いわゆる僧兵はほんものの僧侶(官僧、学僧)の従者ですが、延暦寺の学僧といえども、良源が
定めた最小限十戒護持を放棄していたようです。中に証真のような反時代的学僧はいたでしょうが。
日蓮は関西の常識を関東に持ち込んで臆さなかったのではないでしょうか。日蓮の反感は戒律の
復興を志す僧と南宋からの亡命僧に向かっていましたから。後者は国際情勢に関して偽情報を
幕閣に伝えていると考えたのかも知れません。ともかく鎌倉幕府の武装寺院を認めない方針は
十分成功し、関西のような物凄いものは出来ませんでした。
ところで梵語学の開拓者である南条文雄は少年時代は本願寺僧兵だったそうです。神仏判然令
に対して急遽僧兵を復活、奥羽列藩側に参戦予定の教練に召集されたのだそうです。

3458一字三礼:2007/07/11(水) 22:45:08

身に命の危険が迫った時、はたして日蓮は、太刀を履いていたか、また、その太刀を護身のために使ったのでしょうか。

文永元年八月二十七日の松葉ヶ谷法難と呼ばれる、念仏者から襲撃された事件があります。

「念仏者竝びに檀那等、又さるべき人々も同意したるとぞ聞こへし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ。」(下山御消息 建治三年)

鎌倉の市内は、険しい山に囲まれた土地柄、襲撃されて助かった例はほとんどありません。

日蓮が、なぜ逃げることができたのかを考えた場合、予め逃走路を用意していたか、山道を熟知した者の助けがあったか、そのどちらかしか考えつきません。

少なくとも、日蓮が太刀を振るって応戦していたら、たとえ敵が数十人であったとしても、衆寡敵せず、瞬く間に討ち取られていたのではないでしょうか。

もう一つは、同じく文永元年十一月十一日の小松原法難があります。

「今年も十一月十一日、安房国東條の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられて候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあうものはわずかに三四人也。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなずまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自信もきられ、うたれ、結句にて候し程に、いかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。」(南条兵衛七郎殿御書 文永元)

伝承では、相手の太刀を数珠で受けたとされており、その数珠が正中山法華経寺に残っています。この時、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆は従者と共に切り死にしたとされております。

数珠で太刀を防いだことが事実ではなくても、太刀を抜いて応戦していれば、やはり容易く討ち取られる状況ではないでしょうか。
この時も日蓮は、ただその場から逃れた、としか考えられません。

もうひとつ、五郎入道正宗以前の太刀は、実践向きではありませんでした。

元寇の時に、日本軍の太刀が蒙古軍の鎧を貫けずに、折れることが頻繁に起こったそうです。(実戦で、鎧を着けた相手に対して、刀は切るよりも突く武器であった)

いわゆる、古刀の「猪首切先、腰反りが高く、柄元に踏ん張りがある」太刀姿は、鑑賞する分には非常に美しいのですが、実践向きではなかった。

正宗は、実戦向きに「猪首切先」を止めて、切先を長くして刺さりやすいと形状にし、反りを少なくし、柄元から三つ頭までの刃幅をほとんど同じにして、厚重ねの太刀を打ちました。

正宗以前の刀は、護身用は護身用でも、悪霊や病から身を守るためのものでした。

籐四郎吉光や、正宗の師匠と言われる新籐五国光らは、短刀の名手であり、彼らの打つ刀には、魔除けを刻んだものもあります。

顕正居士さん

>日蓮の反感は戒律の復興を志す僧と南宋からの亡命僧に向かっていましたから。

日蓮は、「末法無戒」と称しながらも、自身は「南山律」を守っていた。ということは、以前、顕正居士さんがご指摘されていたことでしたね。

それなのに、何故、戒律の復興を志す僧を嫌ったのでしょうか。

南条文雄といえば、昭和2年まで生きていた方ですね。
そんな近代に僧兵の経験がある人がいるとは驚きました。

3459顕正居士:2007/07/12(木) 20:03:24
今日、仏教僧は多少種類の違いはあるが具足戒(250戒)を持っており、これを持っていれば
一大仏教サンガの成員とみなされます。例外は日本仏教の僧侶とチベット仏教ニンマ派の
僧侶だけです。ニンマ派というのはチベット固有の宗教ボン教と習合した宗派です。
この点、日本仏教はやはり日本固有の宗教神道と習合した宗派であるといえましょう。
神道は母系制社会の宗教の性格を色濃く残しており、外来の父系制社会の宗教と根本的に
相容れない面があります。しかし日本人は和魂洋才、神本仏迹という原理で外来文化を
変形して受容して来ました。日本仏教が戒律を放棄したのもその変形受容の一つと考えます。
日本仏教の思想としては理戒、事戒ということがあります。具足戒は事戒であり、釈尊の時代
の共同生活の決まりであり、仏教僧はこれを原則今日まで維持して来たわけです。
日本にはインドのような教団生活が最初からありませんでした。僧侶は外国文化を学習輸入
する役人としてはじまった。共同生活の場合、酒を飲んで暴れる人がいるとたいへん迷惑です
から、飲んでも静かな人も酒を飲まない決まりを受け入れます。でも共同生活を離れたら、
別でしょう。それで理戒という考えができます。暴れたり、記憶喪失したりがいけないんで、
酒を飲む、飲まないは個々の場合によるとするのです。最終的にはいつも正しい生活を行え
という一個の精神的戒律しかなくなります。これを一大円戒といいます。
日蓮は確かな遺文では無戒という語は一回も使っておらず、一大円戒の立場でありました。
無戒ですと三大秘法になりません。しかしそれは言葉だけで無戒も円戒も変わらぬといえば、
大衆的には変わらなくなります。結局、個々の宗派、寺院が社会生活の決まりは作るのだし、
それが個々ばらばらで一大サンガというものが存在しない、日本仏教が宗派間戦争の弊害に
陥った理由です。ともかく日蓮は事戒の復興は時代の潮流に反したものであると考えました。

3460犀角独歩:2007/07/15(日) 08:46:57

一字三礼さん

御礼が遅くなりました。『如説修行鈔』に関するご回答、有り難うございました。

3461みれい:2007/07/18(水) 19:49:43
こんにちは。
どなたかご教示ください。

神国王御書、妙法尼御前御返事、顕立正意抄、千日尼御前御返事、について、
真蹟かどうか、
また、こちらで「臨終の相」について議論されているスレッドがありましたら教えていただきたいです。

今でもこのような話で他宗批判の連絡をしてくる方がいらっしゃるとのことで、私のほうに問い合わせがありました。
内容に関してはここでは信じている方もいないと思いますが、ある意味デリケートな時期にデリケートな内容なので、
日蓮正宗系団体、および日蓮宗、あるいは日蓮系信者の現在の御遺文の取り扱いなどを調べております。

3462再挑戦者:2007/07/18(水) 19:55:28
失礼します。
 昨今の今、ソゾロ素朴な疑問です、。 

 仏教・修行の中では、修行の姿勢を決め込むことが肝心で、その姿勢・==修行行動さえ、有れば、念仏宗、=禅宗、、含むその他の宗教?、、と言う、言説が通論になりかけていますようです、、。
 これは本当に許容して、、??、、よろしいのでしょうか、?? 人間釈尊、、人間日蓮が世相の不幸・惨めな惨状からの脱皮を思い、人間らしく生き、人間らしく死ぬ為への、、考察・思索・思い、、などは、現今の、金儲け主義一本道の悪漢どもとの戦いに、いかに対処したらエエンでしょうね、、!!! 人生は不可解、、宗教も依然として混沌・不可解、、でしょうか、、!!、、??

3463再挑戦者:2007/07/18(水) 20:48:36
 失礼。 補足させて戴きたく存じます、。
 「四固の格言、」、、「、念仏をナニユエ,、いけない教え、人間にとり不当なよこしまな教えと断じた、日蓮さんは、???」、、釈尊でさえ、法華経以前の教えは「ビル建設の足場丸太だ、、!!」、とのべています、、??
 現実は、、釈尊〜日蓮も、、教えの浅い〜深い〜重い〜軽い、、などを、事細かく、文書で残していますでしょうか、??
 どの文書が偽書で、、どれが真蹟かの疑問はございますが、、 「、どの教えでも良い、??」、、などという発言は、日蓮信奉の内輪では、、いかがなものでしょうか、?? 疑問は999%、、以上にも実感しますが、、???

3464犀角独歩:2007/07/18(水) 23:40:00

みれいさん

以下のサイトに真蹟遺文のデータがあります。
ご自身で確認されてください。

死後に、固いだ・柔らかいだ、思いだ・軽いだといった日蓮の遺文は、たしか真蹟ではなかったかと記憶します。

ただし、このような発想は、日蓮以前から継承で、要は、インドを侵略し、褐色有色人種を支配したアーリア人が白人であったから白がよく、死後、天に昇れば神(天)に行くというバラモンの五道二火説だかの伏線があるから、天に昇る=軽い・地獄は地下=重いと下がるという連想から生まれたお話でしょう。

この点について、葬儀社の勤務された経験を記された『納棺夫日記』に青木新門師の記述を、かつて紹介したことがあります。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1033276317/786

3465犀角独歩:2007/07/18(水) 23:40:57

失礼、真蹟遺文データジャンプを落としました。
以下のとおりです。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/ibun_shi.htm

3466パンナコッタ:2007/07/19(木) 12:26:39
神国王御書    建治三 8月頃  真蹟あり(ただし本文末尾欠)
妙法尼御前御返事 弘安元 7/14  臨終正念の該当記述部分の断簡あり
         弘安元 7/03  刊本録外 真蹟なし
         弘安四     刊本録外 真蹟なし
顕立正意抄    文永11 12/15  録内 日春写本
千日尼御前御返事 建治三     刊本録内 臨終色白等の記述 真蹟なし
         弘安元7/28   真蹟完存
         弘安三7/02   真蹟完存

デリケートな事項については、元監察医上野正彦氏の著述が非常に有意義ですので
是非ご参考に。

3467みれい:2007/07/19(木) 21:00:35
>犀角独歩 さん

真蹟遺文データ紹介ありがとうございます。
表記の案内を読んでも調べ方がいまひとつわからないのですが、
覚え次第、私が今持っているものと併せて、使わせていただこうと思います。

臨終の相がまさかアーリア人の時代まで遡るとは思いませんでした。
けれども徹底してみるとインドの起源まで発想を遡るというのは納得いきます。

>『納棺夫日記』

併せて参考にさせていただきます。
私が子どもの頃に流れたご本尊にまつわる残酷童話のような罰の話が、
大人の学会員の間でまかり通っていたのを思い出します。

>パンナコッタさん

各項目のご案内ありがとうございます。
真蹟であっても、それらの御遺文がどういった場面でどのようなつもりで語られているか、
ということが肝心になってきそうですね。

>「元監察医上野正彦氏の著述」

上野氏の本は数冊読んだことがあります。
最近はブログで、特殊清掃の方の記事を知り、
一般にはなかなか知りえない場面においての肉体の変化と、
周囲に残された側の人間模様と、
読んだ方のコメント欄なども垣間見ています。

3468端くれ:2007/07/19(木) 21:21:57
初めて聞き込みします。よろしくお願いします。
初心者ですが、素朴な疑問ということでここに書かせていただきます。
十界曼荼羅についてお尋ねします。
知る限りですが、正宗・創価学会の曼荼羅のみに、余計?な文字が
見られるようです。
(為現当二世、若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号 授与之等など)
他にもあるようですが、それは何故でしょう。単に他宗との差別化のためか、
それとも他に意味があるのでしょうか?
どうぞ教えてください。

3469マターリ:2007/07/19(木) 21:44:14

端くれさんの質問の直後で申し訳ありませんが、ご教授のほどお願い致し
ます。

このところずっと、安楽行品と勧持品の差について考えています。

安楽行品では、釈 尊 の 言 葉 として身安楽行、口安楽行、意安楽
行、請願安楽行が説かれています。釈尊自身の戒めですから、最重要視し
なくてはいけないと思います。

勧持品では、菩薩たちが誓言をしています。菩薩たち自身が、未来におい
て色々な 難 を 受 け る か も?知れないが、不自惜身命で布教
をします、と述べています。ですから、勧持品には、、菩薩の未来予測と
誓いが述べられていると思います。安楽行品のように、釈尊自身の戒めは
書いてありません。

安楽行品に書かれている戒めを守っていけば、勧持品に書かれているよう
な難を、ほとんど避けられる。しかし、戒律を守っていても難に遭った場
合は、・・・そのときは、不自惜身命で耐え忍ぶ、ということではないの
でしょうか?

法華経の作者たちは、自作の経典が永久に残ることを期待していたはずで
す。法華経を信奉する教団が、壊滅して、法華経が忘れ去られないよう、
戒めを書いたのだと思うのです。

権力者に近付いたり、他宗教を排撃したりしないように、つまり常識的な
行動をとり難を避けるよう、説得しているものと思います。

ですから、素直に両方の経典を見た場合、安楽行品の方を、より重要視し
なくてはいけないと思うのです。しかし、日蓮聖人は安楽行品を無視され
ました。

これには、何か深い理由があると思われるのですが、不勉強のため、よく
わかりません。その辺を教えていただければ、と思います。

通説によりますと、勧持品に書かれている、未来に起こると思われる数々
の難は、法華経の作者たちが、伝統的仏教者から迫害を受けた歴史的事実
の記録ではないか、ということでした。つまり、予言の名を借りてはいる
ものの、実際に起こった悲しい出来事の記録ということです。

釈尊の名のもとに、全く新しい経典を創作するのですから、伝統的仏教者
から、迫害を受けるのは、ある程度、想像できます。

これについても、まだ確信がもてませんので、ご教授のほどお願い致します。

安楽行品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-14-1.htm

勧持品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-13.htm

3470パンナコッタ:2007/07/19(木) 23:00:54
端くれさん、

これは富士系文書の"御本尊七箇相承"の
 七 日蓮と御判を置き給ふ事如何 〜 上行無辺行と持国と浄行、
 安立行と毘沙門との間には・若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し、
 経中の明文等心に任す可きか

に、よるものですね。 差別化の意味合いは、あったように感じられますね。

3471顕正居士:2007/07/19(木) 23:21:17
>>3469
マターリさんのおっしゃるのは13章菩薩の決意に対して14章弘教の心得が述べられているのでは
ということですか。当然、そうだとおもいますが。
日蓮などにはなぜそう素直に読めなかったのかということですか。当時の関西の多数の仏教者の
ようにすでに戒律を放棄している以上、それは無理でしょう。何事も事実が先行し、理屈はあとで
ついて来るものなのですから。

3472マターリ:2007/07/19(木) 23:51:54
>顕正居士さん、レスありがとうございます。日蓮聖人に限らず、関西の
仏教者は戒律を放棄していたんですね。日蓮聖人が特別な例でなかったと
わかり、納得いたしました。

その辺が、現代人の常識では理解しがたいところなんですね。

3473犀角独歩:2007/07/20(金) 00:23:46

日蓮は戒律の放棄などしていなかったでしょう。
顕正居士さんも先に書かれていましたが、戒律を放棄したのであれば、後に三大秘法といわれたうちの一つ本門戒壇など不要と言うことになります。日蓮が会談を想定した以上、戒律は放棄されていません。
放棄されたのは、いわゆる小乗戒であって、伝教が比叡山戒壇を期した大乗戒が放棄されるはずもありません。

これも既に議論されたことですが、「末法無戒」とは、真蹟遺文には見られません。この無戒とは小乗戒についてであって、大乗戒のことであるはずはありません。ところが、そのうち、誤解が生じ、大乗戒までないことになってしまったわけです。

おかしなことに、無戒を言いながら、本門戒壇、三大秘法を言い、戒名をいっているわけです。

さて、マターリさんの疑問ですが、日蓮が安楽行を重視しなかったのは、それが他土の菩薩に係るからではないでしょうか。安楽とはスカバティ、つまり極楽の旧訳です。安楽行とは極楽の修行の在り方といえば、極論となるかもしれませんが、此土の修行ではないという思いがあったのではないでしょうか。

では、勧持品に現れる菩薩はといえば、同じく、娑婆弘教を託された菩薩ではないのですが、日蓮は不軽菩薩との脈絡で、これをとらえていったのでしょう。

ちなみに、不軽菩薩は折伏などといわれますが、『文句』に「不輕之説是口業。故往禮拜是身業。此三與慈悲倶。即誓願安樂行也」といいます。安楽行品を日蓮は摂受に配当し、かつ、台釈では、不軽の行は三因仏性、四安楽行に配当されます。つまり、摂受行でした。

日蓮は、この文句の文を知らないはずはありませんから、安楽行摂受を我が身当たらずという問いを起こしながら、不軽菩薩を引くあたり、この文句の不軽=安楽行=摂受という伏線を意識してのことであろうと、わたしは考えます。ところが不軽は折伏という固定観念に囚われてしまうと、この日蓮の心憎い賢察が見えなくなってしまうわけです。

3474犀角独歩:2007/07/20(金) 00:24:44

【3473の訂正】

誤)日蓮が会談を想定
正)日蓮が戒壇を想定

3475れん:2007/07/20(金) 10:54:29
端くれさん、初めまして。富士系の漫荼羅にある「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」の天台宗文献の言葉の書き入れですが、その範は日蓮その人に遡ります。現存真蹟では弘安元年八月から弘安二年十月までの御筆漫荼羅数幅に「讃者積福於安明・謗者開罪於無間」とともに書き入れがあります。日蓮が漫荼羅に書き入れた経釈文を見ますと、法華経の持者に対する讃謗の果報としての罪福を説いた文が多いようですので、日蓮の書き入れもその意でしょう。日興の漫荼羅書写の定本は、殆どは彰往考来さんの御考察に示されるとうり日蓮の弘安元年八月の御筆漫荼羅ですので、富士門祖の日興も、書写の漫荼羅には上記の釈文の書き入れをしております。富士系では時代の変遷も例外も当然ながらありますが、祖形は門祖の漫荼羅様式にならっているようですので、あの書き入れは門祖以来のシキタリみたいなものでしょうね。
取り急ぎ、ご参考まで。

3476マターリ:2007/07/20(金) 19:02:47
>犀角独歩さん、レスありがとうございます。安楽行が極楽の修行であり、
現実世界での修行でない、ということで、納得いたしました。

「娑婆即寂光土」という思想を強調された、日蓮聖人ならではの考え方、と
感じました。

日蓮聖人=折伏という既成概念がありますが、実は摂受をされたわけですね。

3477譚溺:2007/07/20(金) 20:37:45
>>マターリさん
安楽行品には権力者以外に施陀羅に近づくな、とあり、
また、他にも職業差別が書かれています。
これらは実在のゴータマの行動とも思想とも相反しているし、
手放しで賞賛すべきものではないでしょう。

日蓮は施陀羅が子と称し、
国主にも積極的に働きかけています。
これは安楽行品を無視しているのではなく、
むしろ対決姿勢をとっているのだと思います。

3478マターリ:2007/07/20(金) 21:26:25
>譚溺さん、レスありがとうございます。私の記憶違いかも知れませんが、
譚溺さんには、以前に「スッタニパータ」の事を教えていただいたような気
がします。

私は安楽行品の全文を読んでいませんが、差別思想が書かれているような
ので、釈尊の思想に違背しますね。

安楽行品は、釈尊の教えに沿ったものだと思っていましたが、考え違いを
していたようです。

法華経は、西暦前後頃から三百年にかけて、インド北西部のガンダーラ地
方で編纂されたようですね。

当時のガンダーラ地方は、さまざまな人種・政治・文化・宗教が入り乱れ
ていたので、犀角独歩さんがおっしゃるように、他土の菩薩が書かれてい
たりと、多くの民族の宗教・思想が統合されているんですね。

3479一字三礼:2007/07/20(金) 23:00:58

マターリさん

>私は安楽行品の全文を読んでいませんが、差別思想が書かれているようなので、釈尊の思想に違背しますね。

根本仏典で釈尊は、自らの出自(ゴートラ)身分を誇り、パーリア(賎民)の定義を説きます。

仏典・論書等のテキストをどう扱うか、ということは実は大きな課題です。

1、テキストを、それが作成された時代の社会・文化を考慮に入れ、作者と同じ視点に立って評価をする。

2、テキストを現代の価値基準で判断し、否定される個所は削除し、肯定される部分のみ採用する。

3、テキストを個人的な価値基準にのみ照らして、評価する。

上記のうちで、どれが正しくテキスト(仏典・論書)の価値判断をしたことになると思われますか。
私は、1〜3のどれも間違いであるとは言えないのではないかと考えますがいかがでしょうか。

日蓮が、なぜ安楽行品を重視しなかったか、については「開目抄」がその回答になると思います。
この書の執筆動機のひとつは、法華行者でありながらなぜ難に遭うのか、にあります。

「疑て云く、念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり。修羅道にや堕つべかるらむ。又法華経の安楽行品に云く_不楽説人。及経典過。亦不軽慢。諸余法師 等云云。汝、此の経文に相違するゆえに天にすてられたるか。」(開目抄)

この疑問を解決したのが、毒鼓の縁の功を織り交ぜた‘受難による罪障消滅’の考え方です。
正しく法華経を行じながらも難にあった不軽菩薩の‘其罪畢已’を我が身に当てはめたのでしょう。

安楽行品は迹門、不軽品は本門ですから、日蓮が本門の法門によって、迹門の疑難を乗り越えたのでしょう。

3480端くれ:2007/07/20(金) 23:13:33
>パンナコッタさん、れんさん、
丁寧に教えてくださいまして、ありがとう御座います。

資料写真を見比べての、素朴な疑問だったのですが、辿っていくと
初心者には難しい話になってます。時間がかかりそうですので、
先に、御礼だけ申し上げます。         
御本尊七箇相承を辿ってみましたら、少々微妙に感じましが、
しかし、日蓮聖人の現存真蹟にも、同様の書き入れがあるということは、
初めて知りました。
これは、日蓮聖人の現存真蹟にもまったく同じ曼荼羅様式がある
ということですか?
それとも、祖形、曼荼羅様式は違うが、同様の釈文は書いてある
ということでしょうか?


3481パンナコッタ:2007/07/21(土) 01:02:18
端くれさん、
れんさんご教示の品は、
 http://www.lbis.jp/gohonzon/053.htm
この辺りの事ですね。

3482マターリ:2007/07/21(土) 09:30:15
>一字三礼さん、丁寧に教えていただき、ありがとうございます。

>私は、1〜3のどれも間違いであるとは言えないのではないかと考えま
すがいかがでしょうか。

私も、どれも間違いとは言えないと思います。

そのうえで、順番を付けるとすると、まず当時の時代感覚を考慮にいれた1
を重視し、次に現代人の視点から2を考えます。1と2の視点からみて、違和
感の無いものが、人類普遍の真理と言えるのではないでしょうか。

3は、個人個人、考えが違いますので、補足的なものと考えます。

>安楽行品は迹門、不軽品は本門ですから、日蓮が本門の法門によって、
迹門の疑難を乗り越えたのでしょう。

そうでしたか。開目抄と不軽品を見てみたいと思います。

3483れん:2007/07/21(土) 17:51:17
端くれさん
昨日の書き込みはやや雑に書きましたので、やや訂正の意を含めて書きます。

先ず、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」に関しては、パンナコッタさんが貼ってくださった弘安元年八月の御筆漫荼羅のように、蓮師自身が書き入れされている例があります。ただし、蓮師の場合はこの語句が記入される場所は後世の富士門の漫荼羅のように一定化しておらず、オーダーメイドですから場所はまちまちです。ですが、これに関しては蓮師から始まったのことと言えましょう。次に“授与之”に関しては、石山の形木の漫荼羅にありますが、それ以下に授与者の名がないのは石山において形木の漫荼羅は仮本尊の位置付けであり、法主直筆の常住本尊ではその下に授与者の氏名がはいるでしょう。仮信徒に授与の形木に氏名が無いのはまあ、正式に信徒と認められた者に授与される法主直筆の常住本尊との差別化の意図があるのでしょう。
蓮師の漫荼羅にも、たとえば蓮師御筆の石山日目授与の漫荼羅には「釈子日目授与之」また四条金吾授与の漫荼羅には「俗日頼授与之」とあるように個人授与の漫荼羅には授与書きがあり、「授与之」の語句については特に異とするところではないと存じます。
しかしながら“為現当二世”の語句については、蓮師の御筆にはその例はなく、石山に於いて最高の本尊と位置付けられている彫刻にのみ見られるもので、彫刻が作成されたと思われる室町末期から江戸初期以前の石山住職の漫荼羅にも「為現当二世」の語句は無く、私の管見では石山四十八世日量の漫荼羅が初見で、“現当二世”の句に限っては、彫刻に倣って江戸時代から石山法主が書写の漫荼羅に付け足したものと言えましょう。
以上のことから、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」「授与之」は蓮師まで遡れるが、「為現当二世」の語句に関しては、彫刻の腰書きに引きずられて、江戸時代以降の石山住職が付け足したものということです。
またまた凡長な文になってしまいましたが、ご参考になれば幸いです。

3484大縫 薫:2007/07/21(土) 23:32:43
 為現当二世は、江戸後期が初見なのは間違いありません。
明日、独学徒さんの掲示板の方に写真を投稿しますので確認してみて下さい

3485犀角独歩:2007/07/22(日) 09:01:12

真蹟遺文で、毒鼓が出てくるのは、たった2カ所です。

『曽谷入道殿許御書』に「彼不軽菩薩出現於末世令撃毒鼓之時也」
『秀句十勝鈔』に「信者為天鼓 於謗者為毒鼓」

天鼓毒鼓は信・不信(謗)に分立して述べる文句・玄義の釈に従うところです。台釈では、毒鼓は天鼓とのセットされますが、日蓮門下で、摂折二門で折伏いっぺんとうのように、ここでも毒鼓を採って天鼓を忘れています。

「不軽…令撃毒鼓」という件を勘えます。この毒鼓の譬えの載る涅槃経(南)に遡ってみます。

「譬如有人以雜毒藥用塗大鼓於衆人中撃令發聲 雖無心欲聞聞之皆死 唯除一人不横死者 是大乘典大涅槃經亦復如是 在在處處諸行衆中有聞聲者 所有貪欲瞋恚愚癡悉皆滅盡 其中雖有無心思念 是大涅槃因縁力故能滅煩惱而結自滅。犯四重禁及五無間聞是經已亦作無上菩提因縁漸斷煩惱。除不横死一闡提輩」

この段は、涅槃経信者と一闡提(不信)の対比で信経の利益を述べていく段にあります。簡略して文意を記せば、毒を鼓に塗って撃つと、その声(おと)を聞いた人は、みな死ぬという件から始まります。ここだけを切り文して読むと、たしかに毒鼓の声を聞いた者は死んでしまうと即断したくなります。ところがここにただ一人横死しない者がある、それは一闡提であるとあります。つまり、死ぬのは信者のほうであるということです。一見すると、この件は奇妙なのですが、ちゃんと読めばその意味はわかります。つまり、ここでいう「死」とは「貪欲瞋恚愚癡悉皆滅盡…能滅煩惱…自滅…犯四重禁及五無間聞是經已亦作無上菩提因縁漸斷煩惱」に係り、つまり、煩悩などの三毒を滅尽を死と言っています。しかし、一闡提は、この煩悩を死(ころ)せないというのが、この文意です。

これは涅槃経の所説ですから、煩悩を死す経は涅槃経なのですが、「法華涅槃」を括る天台‘マジック’では、これが法華経を説くことというアクロバット技が展開します。

具体的には不軽菩薩と関連づけられていくわけです。
わたしは法華涅槃を括る台釈には反対の立場で、ですから、それを受容する日蓮の在り方にも賛同しかねます。それはそれとして、しかし、では、台釈を日蓮はどのように受容したかを考えることは、現行の日蓮門下教学の誤解を考えるうえでは通過点となりますので、考えなければなりません。

『文句』に「本已有善釋迦以小而將護之 本未有善不輕以大而強毒之云云 … 雙明信毀果報 …神通力是‘身’業淨 樂説辯力是‘口’業淨 善寂力是‘意’業淨云云」

この「不輕以大而強毒」は、不軽折伏の根拠とされる釈文の一つですが、これはまったくレトリックです。なぜならば、ここで言われる不軽菩薩の有様は上に挙げるとおり、身口意の三業に配当されています。この点をもっと端的に述べるのは、同じく『文句』に「不輕之説是口業 故往禮拜是身業 此三與慈悲倶 即誓願安樂行也」と明記されています。

つまり、不軽菩薩の有様と、安楽行品に示される四安楽行(身・口・意・誓願)であるというのは台釈です。つまり、不軽の行は安楽・摂受の行です。

安楽行品はたしかに迹門であり、不軽品は本門です。ですが、釈尊の前世、不軽の菩薩行と安楽行品に出でる他土菩薩の行は倶に四安楽行の範疇で異なりません。

以上の脈絡を六大部を精読・精査された日蓮が知らぬはずはありません。
となれば、日蓮は、不軽の行を採って我が身に宛て、安楽行品に自身が違背しないことを証したと見なすほうが至当であるとわたしは思えます。

つまり、『開目抄』において、日蓮が安楽行品に自身が当たらないという批判に不軽の行を以て論じる脈絡は以上の如くであり、その結論するところは安楽行品にも当然、違背しないという日蓮の自意識が息づいていると、わたしには思えます。

3486犀角独歩:2007/07/22(日) 09:02:16

3483 れんさん

このご賢察は、たいへんに参考になりました。
有り難うございました。

3487犀角独歩:2007/07/22(日) 14:10:29

摂受折伏につき、台釈・日蓮教学を見ると、いくつかの留意すべき点があると、わたしは考えます。この意味は、もちろん、従来言われてきたことについての疑義です。

・法華折伏?

日蓮の真蹟には一度として引用されない『文句』の「法華折伏破権門理」は法華経が折伏の教説であること証拠として常に引用されます。これはまた、たぶん、偽書に違いない『如説修行鈔』で末法折伏を主付ける証拠として上げられるところからも、そうなのでしょう。

しかしながら、真蹟遺文から見る限り、日蓮は、法華経を折伏とは言っていないわけです。たとえば『開目抄』では

止観云 夫仏両説。一摂・二折。如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖乃至斬首是折義。

と法華折伏とは裏腹に法華経安楽行品を挙げて摂受、大経(涅槃経)を挙げて折伏というのであって、「法華折伏破権門理」とは逆の釈を採っています。

ついでながら、記せば、

無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。

の「不軽品のごとし」が原文にあったかどうかは、決着がつかず、折伏論者はあったといいます。わたしは日蓮のように文脈を大切にする人であると考えています。もし、ここに日蓮が「〜のごとし」と入れるとすれば、先の止観を受けた形で書くはずですから、「大経のごとし」とするほうが相応しいだろうと考えます。

さて、摂受と折伏、どちらが先かという問いとして

悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし

と問いかけます。この問いは、「若有更為当断其首。如是等文 並是折伏破法之人。」、つまり破法=折伏を受けた文でしょう。となれば、日本が破法の国であれば折伏ということになります。

┌悪国=摂受
└破法の国=折伏

ここで、(この点は既に記しましたが)日蓮の他の真蹟を見ます。

『開目抄』に「‘悪国’悪時これなり。具には立正安国論にかんがへたるがごとし」
『富木殿御返事』に「諸天善神去此‘悪国’故」
『曽谷入道殿許御書』に「其外閻浮守護天神地祇或去他方 或住 此土不守護於‘悪国’」

以上、日蓮は、日本国を悪国であると書いています。
ならば、日本は摂受が先ということにならないでしょうか。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3440

ただし、日蓮は摂受か・折伏かという二者択一を説いたのではなく、どちらが先かを言ったのでした。

3488犀角独歩:2007/07/22(日) 14:11:11

―3487からつづく―

・不軽折伏?

従来、不軽菩薩は折伏という前提で記されていますが、台釈から涅槃経に帰って読む限り、この根拠は揺らぎます。この点については、3485に記しましたが、四安楽の説から不軽を釈する台学において、不軽は摂受と考えざるを得ません。


・摂受は、折伏の摂受?

もっとも嘆息を禁じ得ないのは『本尊抄』の「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」という四菩薩僧の摂受を「折伏の摂受、つまり折伏」と枉げて論じる暴挙です。日蓮は『開目抄』に「夫摂受折伏と申法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。」とまでいうわけです。

『本尊抄』における摂受を折伏と言うことは、水を火という、白を黒と言いくるめる暴論というほかありません。

また、この文では「弘持正法」を摂受であるといいます。すなわち、言説を以て法を弘めることを摂受であるというのです。これを日蓮がしばしば引用する「見壊法者」の一節を宛てれば、まさに言説=而強毒之は摂受、僧侶の配置されているわけです。

ただし、日蓮は摂受一辺倒に論じているのではなく、一字三礼さんがご指摘されたとおり、為政者は折伏を表に立てています。また、顕正居士さんが誰よりも早くかなり以前から指摘されているとおり、蒙古王を四菩薩の折伏と見なしているわけです。

日蓮が言う折伏は、在家王のなすところであり、武力を以て、時には斬首を厭わないものでした。蒙古王が法華経の弘持を日本に求めたことがないのは言うまでもなく、一方、摂受の僧は法を弘持した役割の相違があります。

概ね日蓮折伏をいう人もしかし、日蓮非武力はいうわけです。
では、刀杖を持つわけでもなく、武力を行使するわけでもなく、斬首するわけでもないのに、不軽、日蓮が折伏だというとき、この論者たちは、つまり、相手を毒するほど、強く説くことが折伏なのだいうわけです。つまり「言説が折伏である」ということです。ところが、日蓮が真蹟遺文中に挙げる折伏に言説は含まれていないことは、その資料を俯瞰すればすぐにわかります。

「言説が折伏」であるというのであれば、まず、この証拠を挙げることが始めればよいことになります。わたしは、この根拠を見ません。故に、僧侶摂受・為政者折伏というのが日蓮の摂折論であると結論しています。

ちなみに、これを今日的に当て嵌めれば、僧侶は摂受を以て経・釈・書と題目漫荼羅を弘持し、為政者は折伏を以て、軍備増強、死刑断行ということになるのでしょう。ここで日蓮が勧める軍備は自衛などではなく、攻撃能力を持って軍隊ということになるのでしょう。

日蓮門下一般がいう戦争反対、平和憲法擁護とはかなり歪みがある点を注視する必要もあります。

3489端くれ:2007/07/22(日) 14:26:23
>パンナコッタさん、わざわざありがとう御座います。
      
>れんさん、大変によく分かりました。
詳しく教えてくれまして、ありがとう御座います。

お二人には心より感謝申し上げます。
これからも程度の低いことを、お尋ねするかもしれませんが、
その時は宜しくお願いします。

3490犀角独歩:2007/07/22(日) 19:12:35

れんさん

彰往考来さんのご賢察で、日興が原本とする日蓮漫荼羅が弘安元年の頃であるという点は、素晴らしいご賢察であると思います。

この点について、何ら否定などする意図はないのですが、(1) この弘安元年は、弘安2年の可能性はないのでしょうか。あれば、『御伝土代』の記述と一致することになります。

もう一点、この点は先にもお尋ねしたことがあったかも知れませんが、(2) 筆法から見るとき、日興の「本尊」はまったく弘安元年と類似しません。特に不動・愛染の相貌は、寧ろ文永年間に似、建治・弘安から隔たりがあります。このような相貌と年代の不一致は如何なる理由によるとお考えでしょうか。

3491れん:2007/07/22(日) 22:09:19
犀角独歩さん
(1)につきましては、ご質問の可能性については、かつて当掲示板や独学徒さんの所の掲示板で推論を述べたことがありますが、原本と断定できる日蓮御筆が曽存を含めて確認出来ないので、推定で終わってしまうのが難点ですね。“可能性”そのものは一応あるだろうというところです。
(2)につきましては、日興は諸尊の名号は弘安元年八月の日蓮漫荼羅を祖型に用いるも、その筆法は年代が下るほど日興独自ということは、少なくとも日蓮から日興に、筆法については何等の指示や指導はなかったということを物語っているのではと思います。この点は他の日蓮の弟子も同様で、筆法は弟子の諸師が思い思いに書いている印象ですから、筆法における“相貌と年代の不一致”の理由は、日蓮から弟子に筆法について何等の指定的な指示がなかったため、弟子が思い思いに所持している日蓮のある年代の御筆から筆法をチョイスしたり自分の書き癖で独自の筆法を確立していったことに起因するのではと考えております。

3492犀角独歩:2007/07/23(月) 08:19:03

れんさん

筆法については、日蓮は何ら伝えることがなかったというご見識は、遺る派祖の「本尊」から考えても、仰せのとおりかと存じます。
先に「為現当二世」の書き込みにつき、また、「日蓮在御判」「奉書写之」などの定型文も、後代の定着であり、結局のところ、日蓮から「本尊」書写で秘伝された、まして、日興唯授一人の本尊書写筆法などなかったということは明らかになりました。

ご教示有り難うございました。

3493れん:2007/07/25(水) 19:18:56
初期石山歴代の漫荼羅を見ますと、日道以降日有までの漫荼羅に勧請の諸尊座配等は全く派祖日興の漫荼羅に拠っており、弘安二年中に日蓮が図示した十余幅の御筆漫荼羅と何の脈絡も無いのは、石山上代に「弘安二年」の揮毫に係る日蓮御筆漫荼羅が存在していなかったことの証左だと考えます。
「日蓮在御判」も派祖日興の漫荼羅を見ますと「日蓮聖人」「日蓮聖人御判」「日蓮在御判」「日蓮御判」表記が様々であり、室町初期の石山住持の日時・日影は「日蓮聖人在御判」と自筆漫荼羅に書いています。「書写之」も初期石山歴代で確認出来るのは派祖日興と日道のみであり、目・行・時・影・有の書いた漫荼羅に「書写之」はありません。
よって、資料から細かく検討しますと「日蓮在御判」「奉書写之」も、これが石山において定型として定着するのは、犀角独歩さんがかねがねご指摘の通り、明らかに後世に属することであり、これらのことからも、石山が主張する意味での日蓮から日興への“書写”に関する唯授一人の相承なるものは無かったと見るのが当然だと存じます。(石山には伝日興撰文献として、係年が弘安五年とされる首題点画秘抄なるものがあるそうですが、江戸中期の日因写本とのことですし、本文未見でもあるため考察の埒外に置きました)。

3494犀角独歩:2007/07/26(木) 11:03:40

れんさん、ありがとうございます。

これは、たしか独学徒さんとの議論で、話題にしたことであると記憶しますが、石山における「本尊」書写において、もっともわたしが注目したことは、日興と日目の本尊の書き方の違いでした。つまり、ここに本尊相伝はないと見なさざるを得ません。一方、今回のご教示のとおり、日道には脈絡があり、北山(西山)でいえば、日代に脈絡があり、さらに日郷にあります。

日興が日目を一中一といい、この文言が、日興 ― 日目 ― 日道と系列していくことと、「本尊」の、殊に書(写)とは軌を一にしていない点は注視に値します。

やや横道になりますが、日蓮は漫荼羅を図(示)というのに、日興は書写ということは、図示されたものを書き写したという自認に基づくのであろうと思います。

一方、日目が、図とも書(写)とも記さないのであれば、そこには、それなりの自意識が働いていたと見なすべきであると、わたしは考えます。

3495れん:2007/07/26(木) 19:55:07
犀角独歩さん、ご教示有難うございます。
日興の漫荼羅で、日目と同じく「日蓮聖人」の表記で「書写之」をも記さなかったものが一幅だけあります。それは正応三年十月八日付けの僧日仙授与のものですが、日目が漫荼羅の書式において、日興が確立していった漫荼羅書写様式に拠らず、日興の初期の極めて一時期の書式を採用したことは、それなりの自意識が日目にあったとともに、現在言われるような特別の漫荼羅“書写”の相伝が無かったことの証拠と言えますね。
日郷の漫荼羅は管見では二幅写真で拝見してますが、日目と同じく「日蓮聖人」「書写之」無しの書式で、日目の弟子で日目の漫荼羅の書式を継承したのが日道ではなく日郷であることは興味深い事実ですね。
日目自身の教学はその教学的な自筆の(とされる)著述が石蔵で公開されていないものが数種あるので、その全貌は今もって明らかではありませんが、おそらく、尊師実録や日郷の弟子日叡著述の「類集記」や「後信抄」の内容と大差は無いのではと考えております。
何れにせよ、日目は日興から「一中一弟子也」と特記されるも、漫荼羅の書式が日興の確立した書式を用いないこと、日興直弟の自筆漫荼羅を見ても、日興の書式だったり、日目が用いた書式だったりと、本山住持は結構思い思いにやっている印象ですので、石山に限らず、この時代には漫荼羅“書写”の特別な相伝などというものは未だ成立をみてなかったのではと考えます。

3496犀角独歩:2007/07/26(木) 20:22:36

れんさん、こちらこそ、ご教示ありがたく存じます。

日郷のこと、補完いただき、この点も感謝申し上げます。
日仙授与とは『日興上人御本尊集』P44所載のものですか。
このわずか5日後に書いた、通称「譲座本尊」には「写之」とあるのに、これすら、日目は踏襲しなかったわけですね。
おっしゃるとおり、「思い思い」、特別な相伝はなかったのだと改めて思いました。

3497再挑戦者:2007/07/27(金) 23:00:30
 3491のれんさん。
 貴方の言い分は、核心を突いているようです、?  
  日興さんは日蓮さんに、常在しつつ、御給仕たて祀った方 == 日興さんでさえも、 日蓮さんの本心を御理解不可能であった、??ようでしょうか、?? 
 ソバにいながら、結構、「、日蓮さんにイチャモン=要求事項も存在か?」、有ったようでが、一番大事===肝心なる{本尊===本尊===本尊===本尊」、に関しまして、他者には、一体、、、全体、、、」「相続の欠陥==欠如??==手抜き、エエカゲンサ、、??」、とも、取れる後世への疑義防止への配慮不足!!! これへの配慮の欠如、、???、、これは、「後世への信者の成仏への核心」、に対する大いなる「反逆行為、?」とも思えますす、。 金儲けだけの「悪漢どもと== のようですか」、??? 
 ここにいたっては、金儲けの悪漢どもと別離こそが、最善かも、、?? されど、、どの、、、いかなる、、対象・本尊が無害???か、、??? トホホ、。

3498偶ロム偶ログ:2007/07/30(月) 03:44:13
>3497 再挑戦者さん

>日興さんでさえも、 日蓮さんの本心を御理解不可能であった

たぶん蓮祖は天才であったのです。「理解不可能」というよりも直弟であっても
「理解不十分」であったということでしょう。

>後世への疑義防止への配慮不足
>配慮の欠如

これはどうでしょうか。直弟にあっては問題はなかったと思います。
いわゆる「本尊論」は孫弟子・曾孫弟子くらいから起こったのではないでしょうか。
つまり、他師・他派・他山との対抗上、正統性を誇示して他との差別化を図るために
各師・各派・各山が独自の「本尊論」を展開しはじめた、というふうに思います。

>いかなる、、対象・本尊が無害???か

どのような信仰をしているかによって、合致する本尊とそうでない本尊が現出します。
信仰を持たないひとにとっては、どのような本尊であれ無害なものです。
つまり、日蓮正宗の信仰者は日蓮宗の信仰を持っていないのですから、日蓮宗の本尊は
無害なものといえます。
有害なのは、「教団の教え」「教団の解釈」でしょう。

日蓮系の信仰者にとって大切なことは、どのように蓮祖に向かい、どのように法華経に
向かうか、ということなのではないでしょうか。

3499再挑戦者:2007/08/02(木) 21:21:23
 3498 偶、、さん。
 御提言には深く、感じます点が数点ございます。 ドーモでした。  
 疑問な点は「、日常に繰り返される物事には、意識が希薄になることも在りましょう、。」、例せば、日蓮さんが「紙不足の時代の中、真筆本尊の作成の時を、日興さんは少なくても百ニ十数回ほど御検分・検証なさっていた」ようでしょうか、?
  その環境の中、何ゆえに「真筆本尊様の偉大さ?・崇高さ?・尊厳さ、?」などを感知?され無かったのでしょうか、??(単なるお手紙程度の分析力か、、??)
 タダ、真筆とは言え、中世の文物的(博物館内の、、)な、見方しか出来ない方方には情けなく、思いますが、。  今後とも、貴方の言の「、日蓮さんにどのように向かい、法華経(教主釈尊)にどのようにむかうか、、」、? と言う御提言には、ご賛同を禁じ得ません、、。 謝謝、、。

3500大縫 薫:2007/08/03(金) 20:08:27
れんさん、ご指摘の江戸後期書写の為現当二世の写真を独学徒さんのHPの
談議所の方に写真をアップしました。四十六世日調上人筆です。

3501れん:2007/08/03(金) 20:41:59
大縫さん、先程独学徒さんの掲示板に投稿されました画像を拝見させて頂きました。この度はご所持の貴重な石山本尊資料より、石山本尊の「為現当二世」に関する資料の画像をUPして戴き有難うございます。先日の石山本尊における「為現当二世」の書き入れは江戸後期からというご指摘とともに、学恩を深く感謝申し上げます。
私の場合は限られた資料からの推定でしたが、大縫さんのご指摘により、それが事実と分かりましたことは一つの収穫でした。「為現当二世」が江戸後期からということは、やはり大弐日寛以降、特に石山本尊論の中核に位置付けられた彫刻の「(右)為現当二世」の腰書きを意識してのことだったのでしょうね。
取り急ぎですが、右お礼申し上げます。

3502大縫 薫:2007/08/03(金) 21:26:16
こちらこそ、感謝申し上げます。為現当二世の初見はおそらく調師前後の歴代
が初見だと思われます、何故にそれ以前の歴代は為現当二世を本尊に書写され
なかったのでしょう?日寛上人以降百年は為現当二世は歴代に書写した形跡が
写真では確認は取れませんでした。

3503大縫 薫:2007/08/03(金) 21:50:24
あと、最近になって隠居日顕上人書写の本尊の讃文に仏滅後二千三百三十余年
之間と書写していた筈なのに、最近になって日蓮門下共通の仏滅度後二千三百
三十余年之間と書写が変化しているのに気がつきました。度とは、かぎる又は
定めると云う末法に特に時を定めた(如来神力品第二十一)ことによりますが、
歴代の大半が仏滅後と書写をしていて、度を讃文に入れた歴代は数える程度し
か存在しません。大石寺歴代書写は他の富士門流七山と比べても、書写に統一
性を欠く事を証明していると言わざるを得ません。
こちらも、写真を独学徒さんのHPの方に公開していますので、併せてご覧下
さい。

3504れん:2007/08/03(金) 22:00:31
大縫さん、重ねての御教示有難うございます。
何故、調師前後以前には「為現当二世」を写さなかったのか…真意の程はわかりませんが、恐らく調師前後の歴代で初めて「為現当二世」を書き入れた書写の本尊が案外石山本末のご信者さんに好評で、それなりの“需要”があったが故に石山本尊における「為現当二世」の書き入れが次第に定着していったのではないかと想像します。
彫刻を根本本尊とする教学を確立した寛師以降の、かつ調師前後以前の石山の歴代の本尊に「為現当二世」が写されてないというのは、恐らくですが「為現当二世」は特に彫刻に係るものと認識されていて、その間の歴代には自己が書写する本尊に「為現当二世」と書き入れるという発想が無かったことを示しているのではと愚考しております。

3505れん:2007/08/03(金) 22:35:09
大縫さん
>3503

顕師が何故、「仏滅後…」から「仏滅度後…」に変えた理由は、それこそ顕師のみぞ知るところでしょうね。石山上代の本尊讃文では公開されている写真を見る限り興師は「仏滅後」(初期のみ)「仏滅度後」「如来滅後」の三種、目師は「仏滅度後」「如来滅後」の二種、道師以後有師までの歴代は「仏滅度後」ですね。彫刻が「仏滅後」ですから、その成立以降「仏滅後」が定着したのでしょうか?あまり、他山の本尊の変遷についてはあまり知りませんが、石山に限らず様式の時代時代における変遷はあるものと思っていますので、それ程異とすることは無いと存じます。

3506犀角独歩:2007/08/04(土) 03:01:57

大縫さん、れんさん、実に有意義な論攷と画像のアップ有り難うございました。たいへんに参考になりました。

富要で「現当二世」を検索すると、以下のような結果でした。

・有師物語聴聞抄佳跡上「右為現当二世造立如件」
・化儀秘決(私記)「夕朝は一門内に於いて現当二世、令法久住の内経」「王臣一同現当二世の所願を成就あるべし」「只題目を唱へ申し当施主現当二世の諸願皆令満足、殊には心中の所願成就などと申し上ぐべきか」「現当二世所願成就、其の外云云、南無妙法蓮華経と唱ふるなり」「当大迄嫡々口唱の南無妙法蓮華経、滅罪生善、現当二世所願成就…」「…還来帰家し冥覧を加へ、受持の者を擁護し現当二世の所願を成就なさしめ給へ」「現当二世安穏なるべしと思ふは一念の信心にあらざるか」「殊には現当二世所願成就、年中所願皆令満足なんどと申すべし」

・袈裟数珠の事「…数珠を用ひて現当二世を咒願するなり」
・有師談諸聞書「現当二世の所願を我れ彼れに与へんと念願し・共に成就せんと朝暮に祈祷すべき」
・百五十箇条「信心を致し現当二世の所願決定円満せしむべきなり」
・撰時抄愚記下(日寛)「…大禍は現当二世にのがれたくこそ候はんずらめ」
・妙法曼荼羅供養抄見聞筆記(日寛)「…末法の我等が現当二世を成就する秘法の中の大秘法なり」
・寿量品談義(日寛)「所詮此の寿量品は釈尊の御本意、一切衆生現当二世を成就する大甚深微妙法」・祖師伝(日辰)「末法利益の為に寿量長遠の妙法蓮華経の五字を弘通し一切衆生の現当二世を済度すべきの由之れを付属し玉ふ」
・富士門家中見聞(家中見聞下)日精「…末法利益の為に寿量長遠の妙法蓮華経の五字を弘通し、一切衆生の現当二世を済度すべきの由之れを付属す」・富士大石寺明細誌「現当二世の為め造立件の如し」
・日寛上人伝(日量)「是の記見聞の信者をして現当二世の祈願を忝地満足せしめたまへ」

大縫さんのご投稿を拝読したとき、石山歴代が「本尊」に「為現当二世」と書いたのと、彫刻本尊の成立が、あるいは時期が重なるのかと思ったのですが、聴聞抄佳跡上の日因は31代で、46代日調よりかなり前ですね。ただ、日量は48代ですから、時代は近いと思えました。

検索の結果、「現当二世」という成句の活用は、石山より、保田、京都のほうが先行しているのでないかと思えました。

3507犀角独歩:2007/08/04(土) 08:38:18

少し信じられない気分ですが、中国天台初期文献には「現当二世」の使用はありませんでした。『伝教大師全集』では、『六天講式』の「大黒天講式」に1カ所のみでした。

「祈現當二世悉地 其旨趣如何者 爲父母孝養 奉仕師長 興隆佛法 濟度衆生也」

真蹟遺文では、『下山御消息』に1カ所のみ。

「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五巻を以て日蓮が頭を打、十巻共に引散て散々に[足+(日/蛺)]たりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(定1343)

写本、疑偽書では『真言見聞』『当体義抄』、富士方では馴染みのない『末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文』に、その使用がありました。

先の検索も同様ですが、祈祷文に使用される語彙であり、これが「本尊」に書き込まれれば、祈祷本尊の意味合いは強いことになりますが、彫刻本尊からの転載が、日調以降、一般化するとも見ることもでき、はたまた他門影響の与/受など、ご賢察を窺えればと存じます。

3508マターリ:2007/08/04(土) 14:55:09
こちらのスレッドに書いて良いものかわかりませんが、鎌倉時代について、
3冊ほどの本を読んでみましたので、感想を述べさせていただきます。

日蓮聖人を歴史上の人物として客観的に考えるには、まず鎌倉時代につい
て調べなくてはならないと思いました。

まず、鎌倉時代の武士についてですが、3通りに分けられるようです。

1.荒々しい武士
2.貴族化した武士
3.信仰を求める武士

1.荒々しい武士については、国立博物館蔵、男衾三郎(おぶすまさぶろう)
絵詩によく表れています。男衾三郎は鎌倉時代末期の、武蔵国の武士です。

彼は、美しい妻を迎えた武士は命が短いと考え、八ヶ国の中で最も不美人
を嫁に迎えたいと探します。そして迎えた妻は、髪は縮れ毛で、鼻が大き
く、口はへの字に曲がっています。原文によると、「顔には鼻より外、又
見ゆるものなし」と書かれています。

男子3人、女子2人の子供が生まれましたが、女子は二人とも母に似て不美
人で、「偏に鬼にぞ似たる」という有様でした。つまり、母も女子も鬼に似
ているような、恐ろしい顔をしていたということです。

これは現代人にも通じると思います。男は、美しい妻を迎えたいと願います
が、美人薄命という言葉もあり、不美人の方が、たくましい生命力をもって
いるとも考えられます。また、美人の妻がいることで、他の男性から、ねた
まれる恐れもあります。

男衾三郎の兄は、美人の妻を迎えましたが、旅行中、三郎と共に山賊に襲わ
れ、三郎は助かりましたが、兄は亡くなりました。

私もこれから結婚をする身ですが、不美人と結婚しなくてはならないと
180度、考えが変わりました。

また男衾三郎は「馬庭の末に生首たやすな」と称し、門前を通る乞食や修行
者を捕まえ、犬追い物の犬に代わる的とせよ、と命じました。武士の屋敷
の門前は、武士のテリトリーであり、通る人々は、まさに「獲物」だった
ようです。

現代からは、全く想像できないような別世界が、広がっていると思いまし
た。日蓮聖人も、この時代に生きていたわけです。小松原の法難のさい、
武器を身につけた弟子を引き連れていたのも当然と思います。

また、日蓮聖人の場合、初期の信徒に武士が多くいました。師匠と弟子は
お互いに影響しあうものです。日蓮聖人が武士の気風に影響され、教義的
な面でも、武士風の激しいものに変わっていった可能性もあると思います。

次に鎌倉幕府の宗教観についてです。国民の尊敬を得るには、戦に勝って
腕力を見せつけるだけではだめです。世界で流行している最新の物を日本
にもってきて、最初に人々に見せる必要があります。

当時の宋は、世界最先端の国でした。そして、宋の宗教は禅宗でした。
禅の中核にはもちろん教義がありますが、それに付随した文化がありまし
た。水墨画・お茶・生け花・文学などです。

鎌倉幕府は、禅宗とともに、付随した世界最先端の文化を輸入したのだと
思います。幕府は、宋から多くの中国人の僧を迎えて、優遇しました。
日本の禅宗、曹洞宗を開いた道元が、鎌倉を訪ねて北条時頼に会いました。
しかし時頼は、渡来僧を重んじ、道元に冷たかったようです。

鎌倉幕府から見れば、法華経は聖徳太子のころから重要視されてきた経典
ではありますが、既に古い教えと考えたのではないでしょうか。

幕府は、中国の最新文化とともに、最新仏教である禅宗を、重んじたと思わ
れます。日蓮聖人の仏教に対する深い洞察力・行動力・勇気・予知能力には
大いに感銘したと思います。

しかし、仏教を求める考え方の次元が、日蓮聖人と幕府では全く違っていた
ため、立正安国論ほかの名著をもってしても、その差を埋めることはできな
かったのだと思います。

3509みれい:2007/08/06(月) 01:49:45
マターリさん

時代の背景と言うのは私こそ、日本宗教の歴史を学生時代にまったくといっていいほど学んでこなかったので、
興味を持ちました。
よろしければ、その読まれたご本のタイトルなど教えていただければ幸いです。

また、ウィキペディアでざっと、鎌倉各宗祖を年代順にまとめてみました。
http://mirei2007.blog88.fc2.com/blog-entry-45.html
(まちがいあればご指摘いただければ幸いです)
鎌倉時代といっても、各宗祖の生まれた年代にかなりばらつきがあることが(今更ながら)わかってきました。
当時将軍に近かった禅宗は臨済禅(栄西)、また今は亡き日本達磨宗(能忍)のようですね。
曹洞宗は目立つのを嫌い、地味に暮らしていた模様。
ちなみに臨済宗では法華経は扱わず、曹洞宗では法華経を扱います。
こうして並べてみると、日蓮の出生はかなり後半であり、ゆえに他宗派に批判のしやすい土壌であったこともみえました。
また当時の仏教と政治権力の親密さも垣間見える気がします。

3510犀角独歩:2007/08/06(月) 08:18:10

史学的視点は、事実認識には大いに役立ちます。

さらに、それぞれの主立った活動場所としていたところなどの考慮も必要でしょうね。日蓮の真蹟遺文で、みれいさんが挙げた諸師たちを検索すると、以下のような結果となります。

法然…100回
栄西… 0回
親鸞… 0回
能忍… 0回
懐奘… 0回
道元… 0回

つまり、日蓮は法然以外は意識していないか、その存在も知らなかったかように思えます。また、「鎌倉時代」ということですが、これは武家が勝手に開いた幕府であり、このとき、京都は閉鎖していたというわけではないですね。教科書で習った歴史は、この点で信用できず、また、視点を鎌倉地域に絞ってしまう憾みがあります。

また、いまでこそ、鎌倉新仏教(新興宗教)の祖師と謳われるものの、生存当時、一天下にその名前が知れ渡っていたのかといえば、上述の日蓮の引用から見ても、どうやらそうでもないのでしょう。これは日蓮も同様で、ほとんど、流罪生活を送っていたわけですから、初登高座から逝去までの30年間で日蓮を知っていた人は、どれほどいたか、かなり少なかったのではないでしょうか。むしろ、その没後、徐々にその名が知れていったのだと思います。この点は日蓮に限らず、親鸞しかり、その他も同様ではないでしょうか。
また、武家に招来された禅僧は、パトロンたち(武士)の間では、有名であっても、では、庶民はといえば、禅を組み生活の余裕があるはずもなく、その名すら、聞くこともなかったのではないでしょうか。

なお「日蓮が折伏をした」という表現には異論があります。また、日蓮は京都という日本の本拠地で、その最高学府(比叡山)で学び、しかし、その権力構造に入らず(「入れず」が至当か?)、それでも、武家の暫定政権の地、鎌倉にやって来て、伝教の往古を仰ぐ、いわば天台原理主義のような活動を行った法華宗(天台宗)“天台僧”からの出発でした。また、日蓮の根本といわれる「本尊」もその現存は130舗ほど、実際にどれほど図示されたかはわかりませんが、それでも数百を超えることはなかったでしょう。となると、日蓮を知り、「なむめうほうれんぐゑきゃう」と口伝えに唱えた人々にとって、その本尊はないに等しい存在であったと類推されます。

情報通信で、もっとも早いのは、陸では馬、海では船、人の移動は徒歩、さらに身分制度の時代で、その身分ごとの生活内容は、他からはほとんどブラックボックスのような関係、また、武士といっても数人に1人しか識字能力がなく、渡来僧が、では、日本語に堪能であったかと言えば、そうは思えない等々、わたしたちが単純に考え「歴史」としてまとめられた‘物語’と事実は、大きく異なっているのだろうと思えます。

そんな実像を見る、第一歩として、みれいさんのまとめは足がかりになるでしょう。

> 当時の仏教と政治権力の親密

政教一致は中国からの一環で、神仏習合は聖徳太子?の時代から。
いまの仏教と政治の関係が、ここ2000年からみて劇的変貌ということでしょう。

3511マターリ:2007/08/07(火) 20:36:02
>みれいさん、借りてきた3冊の本ですが、1冊は「梅原猛、日本仏教をゆ
く」です。聖徳太子から明治の僧まで説明してありました。他の2冊は、
図書館に返してしまいましたので、タイトルは覚えていません。「鎌倉時
代と武士」だったような気がします。

犀角独歩さんがおっしゃるように、日蓮聖人在世とうじ、鎌倉と佐渡の
わずかの人たちが、日蓮聖人を知っていただけだと思います。六老僧を
はじめとした、弟子が教えを広めて、相当な年数(百年単位)をかけて
日本全国に知れわたるようになったのではないでしょうか?

武士の識字能力ですが、鎌倉時代は、ハイレベルの武士しか文字を読めな
かったようです。例えば四条金吾の四条は中流以下ですので、本人は日蓮
聖人の手紙が読めなかった可能性が高いと思われます。

なお、京都の人から見た鎌倉は、単なる田舎に過ぎなかったようです。
源頼朝が兵を起こしたときも、山奥で山賊が乱を起こしたくらいにしか
みていなかったとのことです。

また、京都の人たちは、東国の武士を、東夷(あずまえびす)と呼び、恐ろ
しがっていました。

蒙古襲来の危機が迫ってきても、京都の公家たちは、どこ吹く風で、
源氏物語のような、王朝絵巻の世界にひたっていたようです。

3512富士川一郎:2007/08/07(火) 21:40:41
横レスです。
四条金吾さんは、純粋な武士ではありません。元来は公家の四条家です。
一条、二条、三条、四条などは全て公家です。
四条さんは薬師であり、京八流の流れを汲む武術の達人でもありました。
四条家は、宮将軍と共に鎌倉にやってきた一族のようです。
ですから、江間家の「正式な家臣」では無く「かかりびと」であったと言うのが史実のようです。

それが日蓮門下では宗祖の御妙判には単なる武士としか無いから、いつの間にか武士だと誤認されたようです。

ですから、当時の最大の有識者です。
そもそも字が読めなければ漢方の書籍が解読できませんので、薬師に文盲などは考えにくいですがね。

また、当時の京方では、武士は侮蔑の対象で、狂犬を恐れるように武士を恐れていたに過ぎません。
鎌倉幕府の実質的な支配者である北條家には相模守しか与えず、官位は与えなかった事がそれを物語ってます。

3513犀角独歩:2007/08/07(火) 22:33:20

面白いですね。日本史で「鎌倉時代」とされる歴史の表舞台の役者が、京という視点からすると、これだけ違っています。

日蓮が鎌倉へやって来たのは、どのような心境だったのでしょうか。

「誰をか法華経の行者とせん。寺塔を焼て流罪せらるゝ僧侶はかず(数)をしらず。公家・武家に諛ひて、にくまるゝ高僧これ多し。此等を法華経の行者というべきか。仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり」

公家・武家にもへつらわなかった日蓮として、評価できそうですね。
さらに天皇を嶋の長として、釈迦の下に置いた日蓮の気風は豪快と言うほかありません。

3514富士川一郎:2007/08/07(火) 23:20:09
厳密に言うと鎌倉時代と言う表現方法が間違っているのです。
当時の法制史では「御成敗式目」をもって、法度としましたが、式目の適用範囲は武家のみで、公家は公家法、荘園の中では本所法が効力をもっていました。
江戸時代に武士は全体の7%に過ぎなかったと言いますが、鎌倉時代も似たり寄ったりでしょう。
つまり、武士の社会などと言っても、全体の1割にも満たないわけです。
その1割にも満たない階級を中心に歴史を紐解いても真を得ていないのは当然でしょう。

3515パンナコッタ:2007/08/08(水) 22:54:31
四条金吾は手紙が読めないどころか、蓮祖に文章を送っていますね。
 四条金吾釈迦仏供養事 「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云」
    該当部分真蹟欠

 四条金吾殿御返事   「はるかに申し承り候はざりつればいぶせく候いつるに
   かたがたの物と申し御つかいと申しよろこび入つて候 又まほりまいらせ候、
   所領の間の御事は、上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候い畢んぬ」
      該当真筆断簡現存

武士と言っても古来より土着の豪族の子孫もいれば、摂関時代あたりからの
中央から地方に下った貴族の末裔もいるわけですし、一概には語れないですね。
頼朝の旗挙げは治承四年(1180)ですが、皇嗣争いが発端で京都御所周辺で武力衝突した
保元の乱(1156)、清盛の留守を狙ったクーデターの平治の乱(1159)での
中心人物・義朝の伊豆へ流された三男ですし、後白河法皇の"寿永の宣旨"などでも判りますし
(権謀家の処世術ではありますが)単なる田舎の山賊ではないでしょう。

元寇時の亀山上皇は、伊勢神宮に勅使を送り敵国降伏をを祈願していますね。
又後に出家して、離宮を禅寺にしたのが南禅寺の起源みたいですね。

3516マターリ:2007/08/08(水) 23:50:41
>富士川一郎さん、犀角独歩さん、パンナコッタさん、レスありがとうご
ざいます。四条金吾は、文章が書けたんですね。

四条金吾については、深い意味で書いたわけでは、ありません。四条とい
う名前が中レベル以下の家柄を指す、と書いてありましたので、想像をた
くましくしてみた次第です。

>富士川一郎さん、
>つまり、武士の社会などと言っても、全体の1割にも満たないわけです。
その1割にも満たない階級を中心に歴史を紐解いても真を得ていないのは
当然でしょう。

私は図書館で、鎌倉時代に関する本を探してみました。しかし、天皇と公家
、鎌倉幕府と武士、そして僧侶に関する本ばかりでした。一般庶民に関する
本が無いので、調べようが無い状態です。

日蓮聖人の初期の在俗の信徒に、武士が多いので、そこから日蓮聖人との師
弟関係を考えてみました。

鎌倉幕府は文化的な面で、京都の文化に対して、大変なコンプレックスを
抱いていました。

そのため、中国の宋から禅宗と、それに付随する文化を輸入し、京都文化
に対抗しようとしたようです。

>パンナコッタさん、
>武士と言っても古来より土着の豪族の子孫もいれば、摂関時代あたりか
らの中央から地方に下った貴族の末裔もいるわけですし、一概には語れな
いですね。

おっしゃる通りです。1.荒々しい武士 2.貴族化した武士 3.信仰を求め
る武士と3種類に分けられるようです。

男衾三郎(おぶすまさぶろう)について書きましたが、彼は荒々しい武士で
す。しかし、兄は貴族的な武士でした。近くに住んでいる兄弟でも、天と
地ほどの差があったようです。

信仰を求める武士についてですが、やはり源平合戦の、むごたらしさに
無常を感じ、念仏で往生することを願う武士が続出したようです。

鎌倉の武士の多くは、禅宗でしたが、亡くなる前は念仏を唱えていたと
いいますので、念仏の影響力はすざまじいものだったと思います。

3519きゃからば:2007/10/11(木) 14:35:44
本当に素朴な質問です。
『弘法大師の法華経』大倉隆浄氏著を今頃になって読みました。
そしてその口絵に梵字の法華経がありました。
説明には「平成7年8月、東京に建立された平和観音像に刻まれた法華経真言題目の拓。」とありました。
そこでちょっと実物を拝見したいと思い、連絡先に電話しましたが現在使われていないようでした。
どうかこの東京の平和観音像についてどなたか教えてください。
いったいどこにあるのでしょうか?

3520きゃからばあ:2007/10/11(木) 14:37:41
つまらないところで間違いました。

×名前:きゃからば
○名前:きゃからばあ

3521とんび:2007/10/21(日) 20:44:34
みなさん、こんばんは。とりあえずここに書きます。

十一界論の推奨

昨年でしたか、熱心な法華講から聞いた話の再度の紹介です。
彼は、はじめ11界論を話し、その後16界論をのべるのですが、さすがに16界論になると
ついていけません。

 10界論では、観心の本尊抄だったかな、仏界ばかりはげんじがたし...で、私自身のこころを
よく感じると、地獄界から菩薩界までは、感じ取ることができるのですが、さすがに仏界...と
なると、わかりません。正宗では、お題目をとなえれば「仏界」がゆげんする...
御本尊に縁をすれば、「仏界」がゆげんするとなるのでしょう。

 11界論では、法華経観、涅槃経観を取り入れて、仏界よりも「諸仏界」が上なのだ...と
いうことになれば、ペットや草木国土を含め、「私自身」よりも「他の人が上」なんだ...と
いうことになります。
 というと、不軽菩薩の「24文字」に繋がりまた、「南無妙法蓮華経」にもつながります。

 ここでは、幸福の科学の信者さんは、ロムしていないだろうと、思い発言しますが、やはり
12界論で「南無妙法蓮華教界」を最上位にしてしまうと、大川隆法さんなんていう人が、出て
きてしまいます。
 
 「諸仏界」なら、だれでも「ああ他人や自然を尊敬・敬う気持ちぐらい持っているよなあ..」
とだれしもが、思うと観じます。

 顕正居士さんなど、犀角独歩さんなり、博学な人に、後生に伝えてもらいたいような気が
致します。
 
 さすがに、11界論は、いまでも、お見事..と思っています。

3522とんび:2007/10/23(火) 06:57:13
訂正です。

御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えれば、仏界がゆげんする..あらわれる..
ということでしょうか。

 しかし、顕正会時代に、一度でもあらわれたかどうか、はなはな疑問でわかりません。

3523しゅんかん:2007/11/19(月) 21:21:23
日蓮宗電子聖典と云う物が在るそうですが購入方法・購入資格等、
ご存知の方おられますでしょうか?

3524犀角独歩:2007/11/19(月) 21:51:57

> 日蓮宗電子聖典

わたしが応えるのは何ですが、わたしは、現宗研から受け取りました。
受け取りに際し、住所・氏名他の告知をした記憶があります。
日蓮宗僧侶に、配布したもので、それ以外では、受け取りの証を残して受け取るもののようです。
現宗研、もしくは、宗務院、または、日蓮宗僧侶の方に問い合わせてみてはいかがでしょうか。

3525しゅんかん:2007/11/19(月) 23:43:33
独歩さん
早速のご教示ありがとうございます。
知人のご僧侶の方に問い合わせてみます。

3526きゃからばあ:2007/11/22(木) 14:24:37

素朴な質問をさせてください。

「題目」「唱題」「題目を唱える」
これらの英語を教えてください。できればスペルも。
日蓮系の外国の方々に通じる英語を希望します。
よろしくお願いします。
ちなみに「御本尊」「勤行」はそのまんまと聞いていますが、他に英語があったらこちらもお願いします。

3527犀角独歩:2007/11/22(木) 19:26:40

わたしが創価学会や、SGIのサイトを紹介するのは変ですが、きゃからばあさんの疑問に以下のサイトはある程度役立つかも知れません。
ただし、こちらの英訳はこちらの英訳ですから、他との比較はもちろん必要だと思いますが。

http://www.sgi-usa.org/

3528きゃからばあ:2007/11/23(金) 09:04:09

独歩さんへ

毎度、ありがとうございます。

「唱題」は「chanting」となっていました。
海外では唱題は歌う感覚なんですね。

3529犀角独歩:2007/11/23(金) 17:41:17

きゃからばあさん

英語に関しては、人に語る知識がありませんので、応答は控えさせていただきます(笑)

3530偶ロム偶ログ:2007/11/23(金) 19:31:23
貞永さん時代のNSAの合言葉は「もあ ちゃんていん(ぐ)」でしたよ。
日本国内でも、米軍基地のある地域の組織では普通に使っていました。
唱題は、おそらくゴスペルのような感覚で受け止められていたのではないでしょうか。
マントラもchantingだったと思います。

3531eigo:2007/11/23(金) 22:21:15
「chant」には、繰り返して同じ言葉を唱えると言う意味があります。例えば街頭デモで「○○反対」と繰り返し唱えたり、スポーツ競技で応援する選手の名を連呼するのも「chant」です。

3532ABC:2007/11/24(土) 06:38:06
ご本尊の安置はinstallでした。
当時installはパソコンにあたらしいソフトをインストールするときしか使わなかったので、
??と思いましたね。

3533きゃからばあ:2007/11/24(土) 10:53:07

偶ロム偶ログさん・eigoさん・ABCさん、貴重な御教示ありがとうございます。
きっと英訳御書を和訳すると、原文とは違ったものになるのかもしれませんね。

3534いちりん:2007/11/25(日) 05:58:14
むかし、とっくに出た質問かもしれませんけど。

日蓮さんは、たくさんの消息文を残していますよね。
日本仏教の祖師たちのなかでは、おそらくこれほど手紙を書き送った人はいないんじゃないでしょうかね。
そして、これほど後世に手紙が残っている方も珍しい。パウロや蓮如と比べても、はるかにその数は多い。

で、ひとつ疑問なんです。

日蓮さんのこれら手紙というのは、弟子檀那の手紙、あるいは贈り物に対する返事が多いですよね。

ところが、弟子の手紙というのは、おそらく一つも伝えられていない。現存しているものも、書き写されたものも残っていないんじゃないでしょうか。
数編くらいは、あるのかなあ……。

どうして、弟子の手紙が残っていないのでしょうか?

・当時の日蓮さんには、紙がなかったので、弟子の手紙の裏に返事を書いたからだとか?
・紙を漉きなおして、手紙にしたからだとか?
・たくさん手紙があったが、後世の弟子たちが、これは大切じゃないとして、捨ててしまったからだとか?

あるいは──。
後世の人が、日蓮さんの手紙に仮託して、いつくか勝手に偽書をつくったから、弟子の手紙がのこっていると具合が悪い、とか。

3535パンナコッタ:2007/11/25(日) 14:22:36
いちりんさん、
弟子の書簡は、かなり流用された可能性が高いようですね。
仮託した偽書の存在は、むしろ蓮祖直筆の方が被害を受けているかもしれません。

蓮祖宛の書簡ではないのですが、ご参考に紙背文書の紹介。
 http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/yuasa/yuasa97.htm

3536犀角独歩:2007/11/25(日) 16:04:34

れんさん パンナコッタさんほか 諸賢

『日蓮宗教学史』に「日代の本尊論に就いては、日代が上行日尹、並に保田の日郷へ与へた書状に依つて窺はれる。大曼荼羅を以て仏像造立の解説図と見做し、戒壇の本尊には仏像本尊を主張してゐる。また修行論に於ては一部唯本の立場から、本迹二門の読誦を行体の用とし認める。且つ日満記に依れば、日興の遷化に当つて、その増道損生の為め、自ら書写したる一部の石経を埋納したといふのである。これを要するに日代の教学は一致派教学に近いものがあり、上野系の教学と異なりがある。こゝに日道一派からは本迹一致の迷乱と評せられた所以も存するのである」(P42)という記述があります。

ここでいう書状とは具体的に何を指すのでしょうか。また、その原文はどのような内容でしょうか。ご教示いただければ有り難く存じます。

3537れん:2007/11/25(日) 18:32:52
犀角独歩さん
お尋ねの資料については日代消息「葦名阿闍梨御房御返事」だと思います。日興門流上代事典によりますと日蓮宗宗学全書第二巻所収本並びに石山蔵古写本(東大影写本)では宛名を“宰相阿闍梨”としますが、西山蔵の日代真筆には“葦名阿闍梨御房”と明記されているとのことで、“宰相阿闍梨”は伝写の誤りで“葦名阿闍梨”が正しいと思います。ですから、“教学史”が本消息を日郷師宛てと解するのは誤認に属すると考えます。
さて、本書には「佛像造立事本門寺建立時也、未無勅裁、国主御帰依之時三ケ大事一度可令成就給之由御本意也、御本尊図為其也」とありますから、“教学史”の言うところは上記の文と思います。
現在、西山の一部?では房山蔵の文永十一年十二月の日蓮自筆“大本尊”を戒壇本尊としておりますが、当の西山開山の日代師は三位日順師の心底抄における見解とほぼ同様の本門寺造立時の“仏像造立”であって、私としては、何時から西山が漫荼羅を戒壇本尊と位置付けるようになったのかが“素朴な疑問”です。

3538れん:2007/11/25(日) 18:57:41
追記です。
“葦名阿闍梨御房御返事”は、日尊門流の京都上行院の日印からの質問に対する返状で、内容としては、先に引用した文の通り、広宣流布時の本門寺における日蓮が図した大漫荼羅による仏像造立と、日興筆の御遷化記録にある日蓮の“御遺告”を引用して「一体仏、大聖御本意ならハ墓所傍被棄置哉、又造立無過者何大聖時、此仏四菩薩・十大弟子不被副造哉、御円寂之時件漫荼羅被出尋奉懸事顕然也、勿論也、惣して如此事等、御書始末を能々可有御了見候歟」と記して、未広布時においては大漫荼羅正意とすることを示しています。
以上ご参考まで。

3539犀角独歩:2007/11/25(日) 19:02:42

れんさん、早々のご教示有り難うございました。
教学史の批正、大変に参考になりました。

> 何時から西山が漫荼羅を戒壇本尊と位置付けるようになったのかが“素朴な疑問”

まさにこの点での疑義でした。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

3540ふうてん:2007/11/28(水) 13:51:23
すみません。またよろしくお願いします。

石山の御守り御本尊について教えてください。
この本尊は礼拝の対象ではないと聞きました。

で、僧侶とか法華講の人たちは、出張先や旅行先では、どうやって勤行してい
るのですか? 遙拝勤行ですか?

それとも、御守り御本尊に向かって勤行唱題しているのでしょうか?
それとも、別に携帯本尊というのがあるのでしょうか?

よろしくお願いします。

3541偶ロム偶ログ:2007/11/30(金) 16:04:12
>3510 ふうてんさん

通常、旅先での勤行は、大石寺の方角に向かって行なうものです。
戦前の法華講は、身に付けたまま勤行をしていました。
それから、「遙拝勤行」とはいいません。
石山であろうと、自宅であろうと、旅先であろうと、ただ、勤行です。

江戸期からの信徒で、小さな厨子に板本尊と御影が設えられたものを持って
いる方もおられますが、これはかなり長期間の旅のためのものかと思います。

また、守本尊は身に付けたまま、携帯できる大きさの御影に向かっての勤行
もあったといわれています。

3542犀角独歩:2007/11/30(金) 21:22:06

ふうてんさん
偶ロム偶ログさん

わたしは法華講のころ、「旅先では、大石寺の方向に向かって勤行すればよいのでしょうか?」と指導教師に質問したことがあります。
すると「なんで、御本尊様のないところで勤行するんだ?」と、とても不思議そうに返答されました。

ついで、「歩いているときも、車を運転しているときも、を題目を挙げています」というと、「なんで、御本尊様のないところで題目を唱えるんだ?」と、とても、不思議そうに言われました。

まあ、いまとなっては、石山の常識など、まるで関係ありませんが、以上が、石山大本営の、法華講時代に見聞した常識でした。

「御守様」は文字通り、御守りですね。

それにしても、勤行というのは、本来、それぞれの尊体の前でするものですね。それがないところでなしていったいどうするのでしょうか?

目の前に人がいないのに、丁寧に頭を下げて、挨拶の言葉を出すようなものだというのが、石山の感覚ではないでしょうか。

石山には、「戒壇の大御本尊の方向に向かって?」といったイスラム教のメッカに向かうお祈りみたいなものはありません。これをはじめたのは、創価学会ではないでしょうか。

3543ふうてん:2007/12/01(土) 12:11:02
偶ロム偶ログさん

> 通常、旅先での勤行は、大石寺の方角に向かって行なうものです。
> 戦前の法華講は、身に付けたまま勤行をしていました。

情報ありがとうございます。では方位磁石がいりますね。
今のGPS携帯は大石寺の方角は示してくれるのかな。
貧乏人なのでGPSは持っていません。(^_^;)
外国からだとさらにむつかしくなりますね。だから太陽が昇る東に向かって勤行でもいい。
と指導されているのでしょうか。でもロサンゼルスだと東より西に向いた方が日本は近い。

> それから、「遙拝勤行」とはいいません。

内得信仰と遙拝勤行の解説がバラバラで統一されてないので困っています。

> 携帯できる大きさの御影に向かっての勤行もあったといわれています。

なるほど、携帯本尊というのは御影のことですか。


犀角独歩さん

> すると「なんで、御本尊様のないところで勤行するんだ?」と、とても不思議そうに返答されました。

マジですか。僧侶は旅先では勤行してないんですか?

> これをはじめたのは、創価学会ではないでしょうか。

思うに、戸田会長が独房でも勤行していたというのが学会のバックボーンにありますから、
そこから、遙拝という行為は崇高な行為だと認識しているのでしょうね。
また、熱原の法華講衆も御本尊のないところで唱題したんですよね。
ちょっと僧侶の言い分はおかしいですね。自分が収監されたらどうするんでしょうか。

3544問答迷人:2007/12/01(土) 12:38:41

ふうてんさん

>また、熱原の法華講衆も御本尊のないところで唱題したんですよね。

日蓮聖人は、佐渡流罪以前は、曼荼羅を顕していません。その時の信徒・僧侶はどうしていたのでしょう。
曼荼羅を知らない訳ですから、曼荼羅を思い浮かべることも出来ません。
それでも只南無妙法蓮華経と唱える事は出来ますが・・・

3545パンナコッタ:2007/12/01(土) 12:42:55
過去に戸田さんの質問会で、こんなのがありました。

 "御本尊様に向かわず仕事をしながら題目を唱えても、功徳は受けられるでしょうか?"
         ↓
 戸「読誦の功徳と言って御本尊様に向かっては読、無い場合は誦〜云々」
   (昭和三十二年十一月十五日 品川公会堂での最後の一般講義にて)

 "関西の人が東に向かって題目を唱えるのは、大石寺が途中にあるから という事ですが?"
         ↓
 戸「ああ、それでもいいですね」
   (いつの発言だったかは、失念。諸天善神についてだったかな)

内容自体はともかく、こうした指導があったのは事実ですね。

3546しゅんかん:2007/12/01(土) 16:48:25
石山の勤行経典、初座は東に向かってですね。
私は子供の頃、住居が石山より西に位置しているから東なんだと思っていました、ですから西に向かって勤められる方もおられるんだと。
昨日再度、経典を見ましたが初座、東(総本山以西の場合)とは記していません。
朝五座、夕三座も合わせて以前より疑問に思っていました。
要山の勤行経典(教・・・・すいません、出先でして思い出せません)には五座、三座は記されていませんし東に向かっての下りもございませんね。

3547んっ?:2007/12/01(土) 17:29:50
>戸「読誦の功徳と言って御本尊様に向かっては読、無い場合は誦〜云々」

首題を能生たる末法の法華経と見れば正しいのかも?

>住居が石山より西に位置しているから東なんだと思っていました

初座は「東天に向かいて」で大日天王を代表として法味を差し上げる事。
此れに関しては笑い話があります。
A:朝の勤行をしようっと。
B:もう、昼だぞ?早く起きないから上に行ってしまってる。
私:Bさんは元旦勤行会のとき初座は下向くの?
B:・・・・。

3548しゅんかん:2007/12/01(土) 21:30:29
要山の勤行要典は「信行正軌」でした。

ふうてんさんの疑問と重なる部分があり、失礼とは思いましたが割り込ませていただきました。

3549犀角独歩:2007/12/03(月) 06:55:35

3543 ふうてんさん

> ちょっと僧侶の言い分はおかしいですね

ええ、わたしが3542で記した石山僧の言うことはたしかにおかしいと思います。
問答さんが仰るとおりです。漫荼羅正意を煎じ詰めるとこうした考えになるということでしょうね。

わたし自身は漫荼羅を勤行唱題の法具と考えていませんから、唱題はどこでも行える方法だと考えます。

ただし、観念文から読経の性質を考えれば、それぞれの尊体の御前に詣でることから、勤行は始まっているということは忘れてはならないと思います。
たとえば、いまの時代に日蓮が生きていたとし、東にある隣の建物に住んでいたとします。では、東に向かって「おはようございます」と挨拶をしても、その声は日蓮に届きません。やはり、御前に行き、挨拶をするでしょう。没後、日蓮は御影として崇敬され、その徳を賞嘆供養、つまり勤行をするわけです。御影堂に詣でず、日蓮に挨拶してどうするのだ、ということになりますね。

3550天蓋真鏡:2008/01/10(木) 01:46:27
漫荼羅が設計図なら、 宝塔・三国四師・四天王or宝塔・御影堂・四神殿

3551しゅんかん:2008/01/27(日) 03:03:53
本重寺の板本尊(南アルプス市の市指定文化財)
と言うのをネット上で知りましたが
この本尊は鏡文字に彫られていますが版木なんでしょうか?
版木としますと、御形木御本尊の作成に用いたと思われますが、
HP内の説明に「正中二年(1325)に秋山与一光定に日興が与えたものといわれている。」
と記されております。
http://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/site/page/info/bunkazai/shi/chokoku/honju/

秋山与一光定とは檀越でしょうから、御形木御本尊作成に使用される版木を興師が授与
する、又、秋山与一光定が授持するの腑に落ち無いのですが。
この件ご存知の方ご教示、宜しくお願い致します。
又、本重寺とはどちらの派の寺院でしょうか?

3552犀角独歩:2008/01/27(日) 07:46:20

>3551


南アルプス市というのは、ずいぶんと思い切った市文化財指定をするものですね。

少しばかり、画像を修正し、見やすくしてみました。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo02/honjujihanboku.html

まあ、弘安5年の筆といえば、そうかもしれませんが、不動愛染と四大天玉が離れてしまっていますし、その原本はどんなものでしょうかね。
ただ、仰るとおり、これは判木で、これがいつごろのものであるのか、特定できれば、形木本尊の研究の参考にはなるかもしれません。

それにしても、「弘安五年(1282)に日蓮が日興に与えたものと同じ様式」というのは、どんな根拠によるのでしょうか。

3553れん:2008/01/27(日) 09:53:39
これは面白い版木ですね。説明の中の弘安五年云々は、身延曽存の弘安五年八月の伝日蓮筆漫荼羅でしょうか、似ていると言えば似てますね。
ただ、日興は印刷漫荼羅を否定していると伝承されているので(富士一跡門徒存知事)、どうかなぁ?という感じです。

ただし、犀角独歩さんが仰る通り、この版木は形木本尊の研究の材料の一つにはなると思います。

3554パンナコッタ:2008/01/27(日) 12:19:56
どうも、お世話になります。

本重寺は、椿城跡という事らしいんですが
 http://shitteta.jugem.jp/?cid=1
伝承の類らしく確実とは言えませんね。
ただ、小笠原盛長という人は、波木井実長とは遠からずの親族だったみたいですね。
 http://homepage2.nifty.com/nihon-castle/TOUKAIDOU/kaigenji.htm

3555大縫 薫:2008/01/27(日) 12:25:03
この本重寺は現在は日蓮宗ですが、無住です。
この版木は現在は区所蔵というかたちで近隣の檀家衆によって保管されているそうです。
嘗て、石山細井日達上人が現地を訪れ直接この版木を見分したと聞いた事が有ります。

3556しゅんかん:2008/01/28(月) 00:41:40
独歩さん、れんさん、パンナコッタさん、大縫 薫さん
ご教示有難うございました。

秋山与一光定とは、日華師か讃岐本門寺と関係の在るお方かな?と私の浅い知識ですが
考えております。
と、しますと秋山与一光定に興師が本尊(曼荼羅)を授与したとは辻褄は合いそうですね。

ただ、興師が授与した板本尊(版木)なのか?
と、真偽が定かでない代物を地方公共団体が不特定多数の人が拝見できるネット上
で記すのには学術的鑑定が必要では、と、思ったしだいです。
※学術的鑑定をされているのかな?

確かに、御形木御本尊の研究にはなりそうですね。

今回、本重寺の板本尊は先日、日本でも営業を開始したの検索サイト(百度)に於いて
「板本尊」で検索ヒットしたものでした。

ちなみに同じく「板本尊」をGoogleでは36番目にヒット、Yahooは200番目でも
ヒットしませんでした。
今後は百度でも検索してみる価値はありそうですね。

3557問答迷人:2008/02/14(木) 22:30:26

御本尊集に収められた大石寺所蔵の日蓮聖人の真筆曼陀羅は何幅有るのでしょうか、ご存知の方、お教え下さい。

3558犀角独歩:2008/02/14(木) 22:42:07

>3557


以下、3舗です。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/082.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/111.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/116.html

3559独学徒:2008/02/14(木) 22:45:57
問答名人さん、ご無沙汰していました。

>御本尊集に収められた大石寺所蔵の日蓮聖人の真筆曼陀羅は何幅有るのでしょうか、ご存知の方、お教え下さい。

富士学林図書館長であった、故山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」によれば、82、111、116の3幅のようです。

3560問答迷人:2008/02/15(金) 06:44:43

犀角独歩さん
独学徒さん

ご教示有難うございます。

驚きです。

大石寺は日蓮上人の唯一正当の宗派と聞かされてきたのに、たった3幅しかないというのは、極めて不可解な事ですね。なぜ、こんな僅かしかないのか、理由が知りたいと思います。どなたか推測で結構ですのでお教え下さい。

3561れん:2008/02/15(金) 07:42:17
問答名人さん

石山に日蓮御筆大漫荼羅が少ないのは、日道が日興や日目から日蓮御筆大漫荼羅を相伝されなかったことが大きいと思います。実際、日道が日目から“相伝”されたのを確認できるは日興から日目に授与された日興書写大漫荼羅のみですね。
日目が日興から授与された日蓮御筆大本尊(文永十一年十二月付け)、また他門に流出しましたが日目が日蓮から授与された大漫荼羅(弘安二年二月付け)などは、日目から日郷に相伝されたのですから、日興・日目に係る日蓮御筆大漫荼羅は日道に一舗も相伝されなかったというのが史実のようです。

今、石山にある確実な日蓮御筆大漫荼羅三舗(弘安三年三月付けのも授与書が削られた跡がある)は、それぞれ日興・日目以外の個人授与のものですから、日道以降の日道門下の首長の歴代が、門下僧俗等に伝承されていた日蓮御筆大漫荼羅を石山に寄進させものと見て間違い無いと愚考します。

3562問答迷人:2008/02/15(金) 07:54:40

れんさん

ご教示誠に有難うございます。

>今、石山にある確実な日蓮御筆大漫荼羅三舗(弘安三年三月付けのも授与書が削られた跡がある)は、それぞれ日興・日目以外の個人授与のもの

やはりそうでしたか。唯授一人血脈相承は、曼陀羅相伝の史実・事実の上から、史実・事実に反するといわざるを得ませんね。

3563れん:2008/02/15(金) 08:50:56
問答名人さん

仰る通り、大石の寺の唯授一人血脈相承なるものは、日蓮御筆大漫荼羅相承の上から見ても、史実・事実に反すると愚考します。

日有の雑雑聞書に「大石寺は四帖の聖教とて先師の作これあり(中略)去れば此の大事は門徒の首長計り伝へて本尊を書くべし余は書くべからず」とありますから日有以前に日道門下において、日有の先師…おそらく日行・日時の時代に石山の唯授一人血脈相承の原型の思想が形成されたのは間違いないと思います。

日道門下がかくの如き思想を胚胎するにいたったのは諸賢の以前からのご指摘の如く、仙波における中古天台の血脈義の摂取と、このような思想を主張し展開することによって、日目の跡を継承した日郷門跡に対して優位に立とうとしたと言うことだと考えます。

3564れん:2008/02/15(金) 19:52:51
伝教大師最澄は、比叡山の大乗戒壇について「一乗戒建願記」を残していますが、あれだけ筆達者であった日蓮が戒壇に関して、最澄の一乗戒建願記のような記述を残さなかったのは何故でしょうか?日蓮自ら「本門戒壇」の名目を挙げながら、最澄の一乗戒建願記的な記述を残さなかったことが、さまざまな異見を生んでいる温床だと思うのですが…。

3565顕正居士:2008/02/15(金) 22:11:12
将来建立の戒壇(事壇)は天台宗山門流の中の日蓮党が一定の勢力を形成した後に
三井の戒壇の先例に擬し比叡山戒壇から別立する思想が生じたのでありましょう。
日蓮自身は天台宗山門流を自分の新思想に説得したかったのであり、親鸞に別宗派
を創始する意思が無かったと同様でしょう。また三秘中戒壇の一秘は後世に託したと
評されるように日蓮には本門戒の具体的構想はまだ皆無でした。日蓮に事壇の思想
が無く理壇主義であったというわけではないが、本門戒の構想自体がなく、山門戒壇
から独立するしないというような勢力はまして彼の一代には全然形成されませんでした。

3566犀角独歩:2008/02/16(土) 07:24:36

日蓮の本門戒壇観に関しては、彰往考来山から提示された『大崎学報』154号所載の都守基一師「『法華取要抄』の草案について」が参考になりました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

3567独学徒:2008/02/16(土) 08:20:43
犀角独歩さん、おはようございます。

都守基一師といえば、つい先日バレンタインデーの日に、法華宗本門流の研究発表大会にて、立正安国論諸本に関する研究発表をされました。
これがまたすばらしい内容でした。今後、法華宗本門流の機関紙「無上道」に掲載されると思います。
宗祖真蹟断簡で、中尾先生が判読困難とされた箇所を判別され、結果、その判読困難とされていた箇所は、「日秀日弁」および「浄行」と判読されたようです。
「日秀日弁」の連名が見え、丁付けに「五」、その他の内容から、『伯耆殿並諸人中御書』(全十九紙)の一部ではないかと推測されています。
以前、冨士教学研究会にて、久成寺蔵「御血脈次第」を紹介し、そこに「浄行」の名が見えましたが、今回の真蹟断簡の判読によって、宗祖が弟子を「浄行の一分」と見ていた事実があったことに驚きました。
いずれ関連項目を、冨士教学研究会のブログか談義所にて紹介したいと思います。

今日は天気も良いので、これより家族で誕生寺に出向いてきます。

3568れん:2008/02/16(土) 18:50:17
顕正居士さん
ご教示有難うございます。寺門と言えば、日興門流上代に見える薗城寺申状につき石山日有は「江州薗城寺の天下えの申状は叡山に迹門の理の戒旦を立つ上は薗城寺にも又迹門の事の戒旦を立つべしと申状なり。然間是こそ末代本門の事の戒旦の立つべき証拠なれとて大石寺の重宝と仰せられ給ふなり云々」と述べており、顕正居士さんの仰るように、日蓮党ことに日興門流では、文献上は室町期まで時代は下りますが、三井寺すなわち薗城寺が朝廷に提出した戒壇建立勅許申請の申状の先例を、日蓮党・日興門流の未来本門の事壇建立の証拠としていたことが読み取れ興味深いものがあります。


犀角独歩さん
御提示の都守師の論文のコピーは私も所持し、存じておりました。都守師の論文に示されてあるように日蓮は本門戒壇を密事としますが、日蓮が本当に本門戒壇、ことに事壇建立を真剣に考えていたならば、最澄が一乗戒建願記に自身が建立を目指す戒壇院の儀相とその意義を明確に述べた如く、日蓮も自ら記した本門戒壇の特に事壇の儀相・意義を明確に記して残して置くべきだったのではないかと思いました。日蓮党の中で日本全国に広く教線を伸ばした日興とその門下には事壇論が見えますが、悩ましいのは、日興門下の事壇の儀相は、重須系の日代・日順、ならびに日目系でも尊門は仏像安置としますが、日目系でも日郷の後継の日伝には仏像ではなく法華経一部安置とする異見があり、一枚岩とは言えぬ部分が存することです。ですから、日蓮もいかに密事とはいえ、戒壇について最澄の一乗戒建願記に準ずる著述を残すべきだったのではないかと思った次第です。


独学徒さん
新出の日蓮御筆断簡ですか。伯耆殿並諸人御返事の一部である可能性が高いとのこと、日蓮の場合、一種の筆癖でしょうか、上行と書くべきところ浄行と記している真蹟がありますので、その御筆写真を見ないと何とも判断ができませんが、これまた興味深く思いました。

3569明了曰解:2008/02/18(月) 20:42:31
応答のの途中に申し訳ありません。
素朴な疑問を提示させていただきます。

戒壇の御本尊は、
紙幅の真筆御本尊を模写するのでなく、
なぜ直接に刻印したのでしょう。
戒壇の御本尊を未来永劫に残したいとゆう動機はわかります。
技術として彫刻を選んだことも自然と理解できます。
しかし、真筆の御本尊に刃を入れることがどうしてできたのか。
(日蓮大聖人が自ら刻印されるなら解りますが)
御本尊に対する当時者の心理と考え方がどこにあったのか。
わたしの理解のいたらないところです。

御意見をお聞かせください。

(今の宗門なら、仏師が彫刻し、御内証を相伝された猊下によって開眼されて、
日蓮大聖人が彫って魂を垂れたと同じ正真の戒壇様ですと言いそうですが、
開眼本尊が戒壇の御本尊では、
真偽など、どうでもよい論理になってしまいます。)

3570犀角独歩:2008/02/18(月) 21:17:29
>3569

はじめまして。なかなか興味深い問題提議ですね。
この点を考えるのに、では、一体、いつ頃から、漫荼羅を彫刻することが起こったのかを考えてみる必要があるでしょう。

3571驢馬くん:2008/02/18(月) 21:57:46
犀角独歩さんのブログや独学徒さんのブログに記されていた蒋野寅道師という方はどのような方なのでしょうか。教えていただけませんでしょうか。

3572犀角独歩:2008/02/18(月) 22:02:10

> 3571

さて、このリクエストは、どうしましょうか。
この界隈では、著名な方で、こんなご質問がくるとは思いませんでした。

3573独学徒:2008/02/18(月) 22:47:15

明了曰解さん、はじめまして。

>しかし、真筆の御本尊に刃を入れることがどうしてできたのか。

ご期待に添えない回答となりますが、本門戒壇之大御本尊は、底本は大石寺・北山本門寺の宝蔵にあります。
真筆の御本尊に刃を入れてなどいません。

犀角独歩さんのブログを拝読されることをお勧め致します。

創価学会は嘘をついて、私たちを騙してきたのです。
せっかくのチャンスですので、この機会に真実を見聞されることをお勧め致します。

>>3572
犀角独歩さん、個人情報に関することは、ネット上では控えた方がよいと思います。

驢馬くんさん、はじめまして。
オフ会などにご参加されれば、ネット上では出せない話も聞けますよ。
機会があったらご参加なさって下さい。

3574驢馬くん:2008/02/18(月) 23:21:03
投稿さえもなかなか勇気のいることで、毎日、このブログなどを拝見して学んでおります。やはり個人情報になりますね。書籍などにもあたってみます。ご投稿の皆様のように、詳しくないものですから、一度お尋ねいたした次第です。

3575犀角独歩:2008/02/19(火) 03:17:49

驢馬くんさん

独学さんのご指摘のとおりであると存じます。

3576パンナコッタ:2008/02/19(火) 13:51:34
明了曰解さん、
事実は独学徒さんのおっしゃるとおりですね。
仮に言われているような事があったとしても、漫茶羅の文字の重なりは板彫りでは
どんな細工をしたとしても表現し切れない事に作成者は、ぶち当たるでしょう。
それ故にレイアウトをずらした配置の板漫茶羅は、蓮祖真筆を当てて彫り込むという
事は、製作に当たっても無かった公算が強いでしょう。
むろん文字の重なりに意味を持たせた蓮祖の意志とは、存在意義も含め無関係なのですが。
拳骨和尚さんのブログ2月5日付けに、No.123 御本尊集成の物がupされており
 http://plaza.rakuten.co.jp/mandara1000/diary/?PageId=1
金泥や版物とは違う、蓮祖の筆がどういうものであるかが判ると思います。

驢馬くんさん、
昨年夏のオフ会で自分がお会いしたときの印象は、大変聡明な方と感じましたよ。

3577鳥辺野:2008/02/19(火) 19:13:38
明了曰解さん、

はじめまして、宜しくお願い致します。私も犀角独歩さんのブログを推薦いたします。特に
こちら、http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
及びhttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_003.html
によって、私の本佛感は180度変わりました。

また、日蓮大聖人真筆御本尊集はこちらです。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

そして、独学徒さんのブログです。私も時々参加させていただいております。
http://blog22.fc2.com/fujikyougaku/index.php?style2=pop-k17&amp;index

3578明了曰解:2008/02/20(水) 21:05:03
ご意見ありがとうございます。

>3570 犀角独歩さん
 板本尊自体は戒壇の御本尊は別にして、大聖人滅後には製作されていたようですね。
 身延に日向の小さな板本尊があると、日亨上人は話していました。

>3573 独学徒さん
 日禅授与本尊が2つあるとは、知りませんでした。
 本尊をめぐる人の思惑と身勝手さとゆうものが浮彫りにされているようで、
 興味深いですね。
 
>3576 パンナコッタさん
>3577 鳥辺野さん
勉強させていただきます。
 
 大聖人直筆、日興書写、模写、模刻、形木、写真版と様々な本尊。
 ん〜ん、分身散体とはいえ、本尊とは何なのでしょう。
 難しい問題を含んでいますので、結論が出せるとは思いませんが、
 核心に一歩でも近づきたいと思っています。

 日亨上人が、
『わしの紫宸殿の御本尊は立派じゃ。写真からとったんじゃから、すっかりそのままです。
 写真からとって、それを引伸ばしてやったんですから御正筆とすこしも変わらない。』。
 なんて自慢していましたが、そうゆうもんなんでしょうか。

3579独学徒:2008/02/20(水) 21:27:55

明了曰解さん、

「分身散体」は当然ながら御伽噺の世界の話ですが、それにしてもコピー曼荼羅とは全く無縁の事だと存じます。
それを信徒会員を騙すための言葉として使ってきたのが創価学会ですね。

所謂「本門戒壇之大御本尊」は、日禅授与の御本尊の「分身」かも知れませんが、創価学会員が拝んでいるものは、「本門戒壇之大御本尊」の分身でもなければ、相貌も全く別物の、日寛のセンスで書かれた日寛の曼荼羅の製版印刷物ですね。
したがって、創価学会配布の印刷物を拝んで得られる功徳は、顕正会配布の印刷物でも、正信会配布の印刷物でも、日蓮宗配布の印刷物でも、同様の功徳が得られることでしょう。
どうせ同じ功徳ならば、日寛の独自センスで書かれたものの印刷物よりも、宗祖日蓮大聖人図顕の大曼荼羅の印刷物の方がよろしいかと存じます。
『本尊とは勝れたるを用ゐるべし』(本尊問答抄・日興写本現存)、よく創価学会を含む大石寺信仰圏で使われる御書ですね。
日蓮大聖人御図顕の大曼荼羅の印刷物と、日寛曼荼羅の印刷物、勝劣は誰の目にも明らかですね。
ご友人には、創価学会配布の印刷物よりも、宗祖日蓮大聖人御図顕の大曼荼羅を印刷して、表装してプレゼントしてはいかがでしょうか。

本尊をめぐる身勝手さは、その時々の情勢で、ころころ主張を変える、創価学会の本尊義であろうと存じます。

3580偶ロム偶ログ:2008/02/21(木) 00:09:09
明了曰解さん

「分身散体」(ぶんしんさんたい)の語は比較的新しいものと思います。
戦後は昭和三十年代の半ばくらいから多用されていますが、このころの「分身散
体」語は、白土三平の忍者漫画の影響もあるかもしれません。
大石寺では古来「分身散影」(ふんじんさんよう)と言われてきました。

日向氏の所謂「日蓮幽霊板本尊」については後世のものとの説もあります。

堀上人の紫宸殿本尊については、退座後に写真製版されたもののようです。
つまり「時の猊下」の「開眼」はされていません。
隠尊だからそれでもOKと考えてのことでしょう。

>>本尊をめぐる身勝手さは、その時々の情勢で、ころころ主張を変える、創価学会の本尊義であろうと存じます。

おっしゃるとおりだと思います。
また、日蓮正宗についても、
「 本尊をめぐる身勝手さは、その時々の情勢で、ころころ板を変える、日蓮
正宗の本尊義」
は看過することはできません。

3581明了曰解:2008/02/21(木) 19:54:16
>3579 独学徒さん
 友人に宗祖日蓮大聖人図顕の大曼荼羅の印刷物をプレゼントをとのおすすめ、
 今のわたしには、日蓮大聖人の真筆を写真に撮ったり、印刷をして配るなど、
目を瞑って運転をすることのように思われますのでいたしません。
 また違った意味からも私自身はそのような事はいたしません。
 
 日禅授与本尊の件は、本来は、盗難や焼失に備えて、
あるいは、秘蔵のための影武者的な存在として作られたかもしれない事が、
当時は責任逃れのためなのか、心配のためなのか、よい知恵と思ったのか、
時代を経ると真偽や正統の喧騒と不確実の元になってしまう危うさ。
行為が思惑とは違った捉えかたに変遷してしまう主観性。
その意味で興味深いと思っております。

>3580 偶ロム偶ログさん
 「分身散影」。勉強になりました。
 “影”との表現は御本尊七箇相承の文からきているのでしょうね。
  
身延にある日向の板本尊がそれかどうかは別にして、
富士一跡門徒存知の事にみられるように、
日向・日頂・日春等が形木として彫ったようなことはあったようですね。
また、他宗でも図顕の板本尊は以前からあったとなにかで読んだ記憶があります。


ご意見の内容すべてについて返事をしたいのですが、
論点が広がり、私自身わけが分からなくなる恐れもありますので、
なにとぞ、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
(別な機会で触れることもできると思います。)

地球史上未曾有の日蓮大聖人図顕の真筆の御本尊、いずれは消失も免れ難いですが、
総て、人間の宝として1箇所に護持されてほしいと願っております。
また、伝説、憶説、風説、推説が真実といわれていても、事実は1つしかないでしょう。
虚心坦懐・衆賢茅茹の心を持って事実に迫っていきたいと願ってもおります。

物理学などでは1つの事象にたいして、真実に迫るにはまず仮説から入ります。
よく、仏法は演繹法的で科学は帰納法的だと創価などではよく耳にする言葉ですが、
科学もじつは演繹的なアプローチなのです。帰納的なのは実証方法がといえます。
Aという仮説を立てるときは、必ず反Aという仮説も同時に、
ひとつひとつ実証的に確認しながら仮説に迫っていきます。
そのため一人の人生では証明しきれないことも普通です。
化城のごとく新たな登攀の峰を望むこともあるからです。
私達が学校で習う物理学は仮説を真実のように習っていることも多いのです。

日蓮大聖人の本尊とは?
ただの文字、文書としか見えない。
紙であり、墨であり、
木であり、樹脂であり、金箔であり、
化学繊維であり、インクである。
盲目ではもちろん、光がなければ見ることすらできない。
その事実から真実は見えてくるのでしょうか。
長くなるのでやめますが、いまひとつの仮説がわたしを支配しています。
知識を集め、勉強し、考えてみたいと思います。

3582独学徒:2008/02/21(木) 20:33:35

明了曰解さん、創価学会の信徒さんには、一寸飛躍しすぎた意見でしたね。
失礼しました。

しかし創価学会の日寛曼荼羅の印刷物は、正直、3000円は高すぎですね。
おまけに好き勝手に改竄しているので、写真製版と違って、創価学会製変造日寛曼荼羅であることは動きませんね。
お金まで取られて、このような印刷物をわたされ、おまけに選挙、新聞、財務に会合と、ろくな目にあいません。
このような団体の被害者を出さないためにも、これ以上創価学会に入る人を出さないことが大切ですね。
創価学会に入会しなくとも、日蓮の教えは実践できますし、創価学会の信仰で得られる「功徳」は、創価学会に入らなくとも得られるものばかりですからね。
ご精進をお祈り申し上げます。

3583パンナコッタ:2008/02/21(木) 22:39:02
明了曰解さん、
 >盲目ではもちろん、光がなければ見ることすらできない
蓮祖は、弘安三年太才庚辰卯月十三日"盲目 乗蓮"に、漫茶羅を授与していますよ。
(No.091)これが仮説でも何でもない、厳然とした事実です。
まずはきっちりと、事実を認識なさるのがよいのではないでしょうか。

また、宗教社会学的な面から見ると、
【法則1-1】
  宗教とは、本来自明ではない超自然的なものに関する事柄を自明なものに変換し、
  人々をそのようにふるまわせる社会的装置である。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)
これも、厳然とした事実です。

3584明了曰解:2008/02/23(土) 15:51:48
>3583 パンナコッタさん
 御書に「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、
 例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、」
 とあります。
 日蓮大聖人の本尊とは?を思推するうえで、人が当り前に捉える事柄を挙げただけです。
 なにか思いこみがあるようなので誤解をとくと、
 私は、御本尊はそのまま日蓮大聖人であり、生命根源の法であると思っています。
 また創価には自在会という目にハンディをもつ人達のコミュニティーがあり、
 私には私の使命があるんだ、と地涌の菩薩の自覚に燃え、
 信心根本に友の励ましや社会への貢献に汗する、
 困難に挑戦する勇者たちが、功徳に輝いていることも知っております。

 御書に「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの侭と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云。」
 とあります。
 一般的な論理と理解はしますが。
 私は仏法は超自然的なものでなく、まったく自然そのものと捉えています。
 どこかの話でなく、この現実にこそある、そこを離れてありえないと思っています。
 自然なものでも自明でないものはいっぱいあるものです。
 ”自明なものに変換”する作業を今私やりたいと思っています。
 目で見ることができない物資が核分裂や核融合するとき膨大なエネルギーを発散します。
 ウランやプルトニウム以外でも、環境条件がととのえば何でも膨大なエネルギーを発散します。
 超新星爆発で何が起こっているでしょう。ブラックホール、ホワイトホール、ワーム・・・。
 時間も空間もゆがみ、物質も光も秘められ、とても想像できないような世界。
 でもこれも自然なのです。

3585明了曰解:2008/02/23(土) 18:01:25
疑問の最初に戻ると、
A、真筆に直接刃を入れて彫ったのが今の戒壇の御本尊。
  A−A 他に彫らせ、日蓮大聖人が開眼。
  AーB 他が彫り、時の貫首が開眼。

  推測:1、彫った人は墨染の漫荼羅を仏と思ってなかった。
     2、大聖人(時の貫首)も開眼しないかぎり、ただの紙と文字と位置づけていた。
  儀問:不信の人(?)が刃を入れたのか。
     御書を読む限り、2、は信じがたい。
     1、2、の推測を裏づける御書や相伝があるのか。

B、真筆を写しとり(もしくは模写)それを彫ったのが今の戒壇の御本尊。
  B−A 他に彫らせ、日蓮大聖人が開眼。
  BーB 他が彫り、時の貫首が開眼。 

  推測:1、真筆の御本尊を時を待ち秘蔵するため。
     2、彫った人は写しとった漫荼羅を仏と思わなかった。
     3、大聖人(時の貫首)は写し取った漫荼羅は開眼しないかぎり、ただの紙と文字と位置づけていた。
  儀問:1、であるとすると、日興授与の弘安2年の真筆はどこにあるのか。
     3、の推測を裏づける御書や相伝があるのか。

となりますが、A・Bを全否定する命題もありますが。後日にします。
ご意見を賜りたいと思います。
ちなみに、私はB-αに近い考えです。

3586独学徒:2008/02/23(土) 21:10:32

明了曰解さん、

本門戒壇之大御本尊は、平成16年の10月に、真っ赤な偽物であることが、誰の目にも明らかなように図形鑑別を持って証明されているのです。
貴方の質問は、この掲示板には馴染まず、未だに本門戒壇之大御本尊を、本物と勘違いしている人たちの集まる場所にてされたほうが、よろしいかと存じます。

難しい教学や理論理屈などは必要ないのです。
目で見て明らかな図形鑑別にて、偽物であることが証明されている現在にあって、貴方の質問内容は全く意味を成しません。

3587独学徒:2008/02/23(土) 21:20:40

まあ、パンナコッタさんへのレスではありましたが、恐らくパンナコッタさんも御義口伝は御書とは認識されておらず、偽書と考えていらっしゃるのではないでしょうか。

所詮、創価学会も日蓮正宗も、顕正会も正信会も同列で、偽書・真偽未決書ばかり引用します。
ここでは私が参加し始めた時にはすでに、真蹟現存以外は文証として扱わないルールで議論がすすんでいるのです。

引用前に、まず自身が引用しようとしている御書が、真蹟現存かどうかぐらいは確認して投稿すべきだと思います。
真蹟現存御書をもとに、勝手な解釈を加えずに論証できたならば、きっと一目おかれると思いますよ。

3588明了曰解:2008/02/23(土) 21:25:19
>3582 独学徒さん
>しかし創価学会の日寛曼荼羅の印刷物は、正直、3000円は高すぎですね。
>おまけに好き勝手に改竄しているので、写真製版と違って、
>創価学会製変造日寛曼荼羅であることは動きませんね。

わたしは、破門された以上けじめとして、
お預かりしていた日顕の特別御形木様を寺にお返しました。
今は創価から授与していただいた日寛上人の御形木様を御安置しています。
私には日蓮大聖人の御本尊の優劣をことさら言う神経が釈然としません。
日蓮大聖人は総ての人を仏にしたいと願って御本尊を遺し、
広宣流布の誓願を私達に託したのに、
それを、お前の御本尊は直筆じゃない、時の猊下書写でない、
古臭い印刷物じゃないかと笑う心が卑しく思えます。
優れた御本尊なら題目1篇で成仏でき、
劣った御本尊では題目5000万遍・折伏1万人でないと成仏できないとでも言うなら、
私は題目5000万遍・折伏1万人のほうを選びます。
自分のためは当然として、人の幸せを願ってできるだけ多く唱題したいし。
より多くのひとにこの仏法を語り、御遺命である広宣流布に近づけるなら、
それのほうがいいと思うものです。

>お金まで取られて、このような印刷物をわたされ、おまけに選挙、新聞、財務に会合と、
>ろくな目にあいません。

選挙も、新聞も、財務も、会合も、折伏も、守る会も自らの発意からやっています。
修行なのだから多少汗を流すくらいは厭いません。
見栄や背伸びして嫌々やることはありません、できる範囲でやればいいのです。
私の師匠は、私にそう指導してくださいました。

>このような団体の被害者を出さないためにも、
>これ以上創価学会に入る人を出さないことが大切ですね。

申し訳ありません、500m四方の地域ですが今年に入って3人の方が入会いたしました。

>創価学会に入会しなくとも、日蓮の教えは実践できますし、
>創価学会の信仰で得られる「功徳」は、
>創価学会に入らなくとも得られるものばかりですからね。

そのとうりです、創価学会員でなくとも、
御本尊を抱きしめるようにして、広宣流布に生きる勇気と慈悲の人なら同志です。
日蓮大聖人の子であり、地涌の菩薩です。
御書に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして
南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、
剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」
とあるとおりです。

3589明了曰解:2008/02/23(土) 22:00:34
>358 独学徒さん
あまりに思いやりのないお言葉ですね。
素朴な疑問スレッドに書いてる意味がありません。
それに、今の戒壇の御本尊が本物と私は断定していません。
本物と偽者の主張の両面を伴いながら疑問を晴らしたいと思っているのです。
それよりも、本尊とは何かに軸足をおいてさぐっているのです。

3590明了曰解:2008/02/23(土) 22:03:55
訂正 3589の
>358 独学徒さん は >3586 独学徒さん に訂正します。

3591明了曰解:2008/02/23(土) 22:06:58
>3587 独学徒さん

>真蹟現存以外は文証として扱わないルールで議論がすすんでいるのです。

了解いたしました。

それと、私は、一目おかれなくてもいいです。

3592パンナコッタ:2008/02/23(土) 22:17:46
こんどは御義かよ、やれやれ・・・

明了曰解さん、
「此の経の文字は〜」は、日興を初めとする上代弟子の写本もない録外文であり
真偽は未決です。此処の掲示板は挙証を明示せばならず学会の御書そのままに
日蓮遺文としては受け取れない所です。
また、自分が提示した御本尊集No.091をチェックすれば、稲田師の推察から"盲目"の意味が
お分かりになるはずです。

個人的な思いこみの部分に関しては、不問です。

「久遠とははたらかさず〜」は、御義口伝ですので此処の掲示板では問題外です。
蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽についての過去スレを良くお読みになると良いでしょう。

「総じて日蓮が弟子檀那等〜」の生死一大事血脈抄も、上代写本のない録外であり
文永九年の法義には疑義がありますし、中古天台の"天台法華宗牛頭法門要纂"の引用等から
日蓮の名を騙った偽書でありましょう。

板漫茶羅に関しては、蓮祖は一切関係ないでしょう。
また疑問の点に関しては、形木の版を考えてみればいいでしょう。
信者が見れば尊びはしますが、御本尊として奉るような事は誰もしないでしょう。

3593独学徒:2008/02/23(土) 22:31:18

明了曰解さん、

>私には日蓮大聖人の御本尊の優劣をことさら言う神経が釈然としません。

ところが、これは他でもない創価学会がやってきたことなのですよ。
貴方の家には、「折伏経典」はありますか?
本尊の優劣を主張し、他宗・他門を卑下してきたのは、創価学会であり池田先生です。本当に酷い団体であり、酷い先生ですね。
それが今になって、自分たちにとって都合が悪くなると、本尊の優劣を論じることを問題視する。
まったく創価学会のいい加減さはここにあります。つまり過去に自分たちがしていたこと、言っていた事を、今は都合が悪くなったから、同じ事をする人を悪しく扱う。
今さら何をいうかといいたいですね。
明了曰解さんは、御書を学習する以前に、創価学会が過去にどのような主張をし、どのように他宗・他門を非難していていたのかを学習ることが先だと思います。
私でも昭和30年代から昭和50年代までの大白蓮華を150冊以上は所蔵しています。52年路線のころの資料も山ほどあります。
創価学会が、その時々の情勢で、いとも簡単に主張をころころ変えてきたことが、創価学会の出版物だけで良くわかります。
貴方も人に創価学会をすすめる以上は、せめて創価学会の出版物ぐらいは、過去にさかのぼって学習することですね。

>本物と偽者の主張の両面を伴いながら疑問を晴らしたいと思っているのです。

偽物であることが証明されている以上、疑問が晴れることはありません。

>できる範囲でやればいいのです。

お笑いですね。私は少なくとも貴方よりは学会の役職を経験していると思いますよ。
その経験からいって、「出来る範囲」なんて大嘘です。
青年部の人材グループや、金○会などが、どのような活動を強いられているかご存じ無いのでしょう。

>御書に「総じて日蓮が弟子檀那等・・・・

すでに指摘の通り、真筆不伝の真偽未決書です。
引用の前に真蹟現存かどうかを確認の上、ご投稿戴けますと幸甚です。

3594問答迷人:2008/02/23(土) 23:11:19

明了曰解さん

>それよりも、本尊とは何かに軸足をおいてさぐっているのです。

僕は、日顕師書写の特別御形木本尊を安置しています。日蓮正宗に本人は席を置いているつもりでいましたが、寺院参詣をしないからか、行方不明にされてしまっています。それゆえ、もはや何等の連絡も来ません。

まぁ、法華講の講頭をしながら、日顕師に、クロウ裁判は勝ち目が無いから取り下げたほうが良い、等と直訴した為に、講頭を罷免されました。

本尊とは何か、難しいですが、日蓮曼陀羅は、神力品付属の妙法蓮華経の五字を受持させるための道具建て、だと考えています。本尊は、恐らくは、妙法蓮華経の五字であり、それが、観心本尊抄に述べられる、無始の古仏なんだと思っています。

ご高察を拝聴したいと存じます。

3595明了曰解:2008/02/25(月) 18:46:21
>3593 独学徒さん
私自身のことを例に言っているのに、大嘘とは笑えました。
46年間私はそうしてきました。
会員を慈しみ、守り、励ますのが幹部です。
なにか勘違いしていて、傲慢で身勝手な幹部づらするやつは
師子身中の虫とも言え、創価に居られなくなるよう戦ってまいります。

人材グループは確かに師弟の厳しいものが要求されたでしょうね。
私は覚悟も無いから、入らなくて良かったと思っています。
まあ、社会て戦うのも厳しいものがありましたけどね。

3596明了曰解:2008/02/25(月) 18:48:15
>3594 問答迷人さん
日蓮大聖人の漫荼羅は、
たしかに五字が首題で、南無が境地の冥合を表わし、
日蓮初めに唱うるところの七字となっています。
しかし、それでいいのかというとそうではなくて、
十界を互具と開き、仏界即九界そして九界即仏界としています。
(仏界即九界を5字相対の漫荼羅、九界即仏界を南無相対の漫荼羅とみてもおもしろい)
仏像信仰のように五字でいい、としないのが日蓮大聖人の心でしょう。
仏というも凡夫というも日蓮、人間をはなれてどこにも無い、
生命の実相と成仏の要諦を表わされたのが御本尊ではないでしょうか。

根源の法が南無妙法蓮華経なのですから、
そこから生じた総ては南無妙法蓮華経を父母とした胎内の赤子のようなもので
生じた総てが南無妙法蓮華経の種子を秘しているともいえ、
生じた総てから離れて南無妙法蓮華経は無いと思います。

それと、これはあくまでも仮説ですが、
日蓮大聖人が表わされたように書かれ、彫られ、写された曼荼羅には、
人と法が、自然に例外なく備わるのではないか。
思考するうちにふとその思いが過りました。
凡愚な私にはただの文字にしか見えませんし、仏にしか解からないことなので、
これが真実かどうか判りません。
思索のご参考に。

3597問答迷人:2008/02/25(月) 19:01:38

明了曰解さん

>根源の法が南無妙法蓮華経なのですから

南無妙法蓮華経が法で、しかも、「根源の法」である、という文証は有りますか。明文が有ればお教え下さい。

3598明了曰解:2008/02/25(月) 19:06:27
訂正
私の書込みの「漫荼羅」を「曼陀羅」に訂正いたします。
お恥ずかしい限りです。

3599独学徒:2008/02/25(月) 19:14:13

明了曰解さん、

>私自身のことを例に言っているのに、大嘘とは笑えました。

これはおかしいでしょう、貴方は以下のように云っている訳です。

>>私の師匠は、私にそう指導してくださいました。

つまりあなた自身の事ではなく、貴方の師匠つまり創価学会の永遠の師である、池田先生の指導がそうだということを、貴方は仰った訳でしょう。
しかし、貴方より事実を知っているものから指摘をされると、「私自身のことを例に」とすりかえるのはいかがなものでしょうか。

>なにか勘違いしていて、傲慢で身勝手な幹部づらするやつは

いくら貴方が戦っても、このような幹部は陸続とあらわれますよ。なぜならば、永遠の師たる池田先生がそうだからです。
もし本気で学会浄化を願うなら、諌めるべきは途中の幹部ではなく、最高指導者の池田先生でなければなりません。
しかし、みな怖くてそこには手をつけられないのですね。学会員は。所詮そこが学会員の限界です。

「途中の幹部は悪いが、池田先生は間違いない。」改革派気取りのものたちも、所詮はこのような腰抜けばかりですね。
創価学会の幹部の悪態も、組織悪も、すべての責任は、最高指導者の池田先生の責任です。
責任逃れのように、「名誉会長」の呼称を利養するのは、潔さのかけらもないというものです。
所詮幹部も被害者でしょう。諌めるべき相手を間違えてはいけません。
戦うなら、池田先生を相手に戦ってこそ、真の学会浄化の運動でしょう。

3600独学徒:2008/02/25(月) 19:16:49

また誤字がありました。

誤:利養するのは
正:利用するのは

大変失礼しました。

3601明了曰解:2008/02/25(月) 20:25:57
3597 問答迷人さん
>南無妙法蓮華経が法で

とすると伝えたい事と違ってきてしまいます。
ん〜難しいのですが、もう少しお時間をください。

3602犀角独歩:2008/02/25(月) 22:35:18

>3588>私の師匠は、私にそう指導してくださいました

ここでいう師匠というのは池田さんのことですか。
個人的にこんな話はどこで聞いたのでしょうか。
まさか出版物や、衛星放送で聞いたことを、個人的に受けたと偽った話ではないでしょうね。

>3596

こんな創価学会の影響を、もろ受けたことを自分で考えたことのように描いたうえで、問答さんに「参考に」などと言うのは失笑を禁じ得ません。なんら挙証義務も果たしていませんね。

>3598>「漫荼羅」を「曼陀羅」…お恥ずかしい

日蓮は漫荼羅と書いていますが、すると日蓮の記述は恥ずかしいということでしょうか。

3603独学徒:2008/02/25(月) 22:42:03

明了曰解さんの仰ることは、ナルシストの学会員に特有の考えです。
今の創価学会の現状を、何とか肯定したい気持ちはわかります。
しかし、ここで求められるのは、ナルシストの個人解釈ではなく、明確で確実な日蓮大聖人の御書の裏づけです。
真蹟現存の御書を、勝手な解釈を加えずに、証文として用いることが大切だと思います。
それを抜きに、勝手気ままな言辞を続けることは、これまでの諸先輩方の議論を棒に振るようなものです。
創価学会の信仰を続けられることはもちろん自由ですが、ここではひとつ客観的な思考にたたれて、これまでの諸先輩方の議論を無駄にしないよう、同じ土俵で議論に参加されることを希望します。

3604明了曰解:2008/02/26(火) 19:35:27
問答迷人さん
E=mc&sup2;    E:エネルギー
      m:質量
      c:光速
       2:乗数
物体の持つエネルギーを現した物理式です。
厳密に言うとある条件下での式で、物体が運動していたりすれば係数が付加されますが、
質量がエネルギーと等価であることを示したものに変わりはありません。
E=mc&sup2;は法則です。 しかしエネルギーと質量と光と乗数は法則ではありません。
これで理解していただけると助かるのですが。

“根源”は生命としても良いのですが、
(生命は色と心、不二をもって体となす実在と機能と作用が伴うもので、
宇宙がそのまま生命だと思っています。)
無始無終、久遠元初、の意味あいに似合う言葉として使いました。
それでも私が思推する内容をうまく表現できません。

3605犀角独歩:2008/02/26(火) 20:29:40

明了曰解さん
もういい加減にしませんか。

管理者さん
投稿規約に明らかに違反していると思います。

3606管理者:2008/02/26(火) 20:59:30

明了曰解さん

貴方の書込みは、以下の当掲示板の書込みルールに違反しています。

【書き込みの基本原則】
1.意見交換、相互理解の場との主旨から、話合いを重んじてください。 

相手の応答を無視して、投稿を続けないで下さい。独学徒さん、犀角独歩さんの応答を無視して、投稿を続ける事は、ルール違反となります。

さらに、問答迷人は、明文は有りますか、と質問していますが、お答えがまるで噛み合っていません。これでは、話し合いを重んじる事にはなっていないです。

同様の投稿を続けられると、ルール違反で、削除、投稿禁止まで行ってしまいますので、ご注意申し上げます。

3607しゅんかん:2008/02/27(水) 00:38:11
相変わらず頓珍漢(腰砕けされるかも)な問い合わせかも知れませんが、どなたか宜しくお願い致します。

石山や団体が取り上げる蓮祖の御書に付いて真偽云々を記されてますが、その真偽又は真偽未決はどなたが
判断されているのですか?
(公正な判定を下すには宗門外の第三者機関が望ましいと思っておりますが、その様な機関に拠るものでしょうか)
身延や隆門、真門、什門の各派に於いても独自の御書で日々研鑽を積まれている事と思います。
この各派で使用される書にも真偽が掛けられているのでしょうか?

私は現在、執行海秀先生著の日蓮宗教学史(平楽寺書店)を読ませて戴いておりますが、本書中にも
「・・・偽書」「・・・ではなく後世の作」と記されているものがよく見られます。

遺文の書も随分と多く出版されているようですね。
現在、私でも購入可能なものに
1(浅井要麟 編、昭和新修日蓮聖人遺文全集、平楽寺書店)
2(新修略註 日蓮聖人遺文集、清水龍山外編)
3(日蓮聖人遺文集、法華会編)
4(類纂 日蓮聖人遺文集平成版、獅子王学会、桜井智堅監修)
5(昭和定本 日蓮聖人遺文、日蓮教学研究会)
等が在ります。
又、現宗研に於いても真蹟遺文を載せられていますね、これら(5書籍と現宗研アップ)
には偽の御書は含まれていないのですか?

以上、宜しくお願い致します。

3608犀角独歩:2008/02/27(水) 02:12:52

しゅんかんさん

少しくお久しぶりですね。

> 真偽又は真偽未決はどなたが判断されているのですか

これが「誰が」という特定の個人はいないでしょうね。それぞれの研究者が、その研究成果からということではないでしょうか。ただ、近代のことで言えば、『平成新修日蓮聖人遺文集』は、一つのスケールになっているのは事実でしょう。
この書は真蹟遺文以外は載りません。

お手元にない方のために記します。
この遺文集の末には編纂に関わった方々の名が載ります。

発願編集 日蓮教学研究所客員所員 
     連紹寺不軽庵隠棲    米田淳雄
顧問   身延山短期大学学長
     立正大学名誉教授    宮崎英修
顧問   立正大学教授
     日蓮教学研究所所長   浅井円道
顧問   立正大学教授
     日蓮教学研究所所員   高木豊
顧問   立正大学教授
     日蓮教学研究所副所長  小松邦彰
協力   立正大学講師
     日蓮教学研究所所員   寺尾英智
協力   日蓮教学研究所研究員  都守基一

それぞれの役職名は発見当時のもので奥付に拠れば「平成6年10月13日」となっております。錚々たるメンバーです。この中のお一人、小松邦彰師が、この書を使用し、福神勉強会で遺文講義が継続中です。
この書の編纂は徹底した真蹟主義で、真蹟現存のもののみを収録しています。編纂者の役職を一瞥すればわかりとおり、「日蓮教学研究所」のスタンスと言うことになるでしょう。

一方、しゅんかんさんも挙げておりますが現代宗教研究所では、そのHPの資料編で真蹟と写本で2分しています。写本とは真偽云々を基準にしたのではなく、真蹟有無を基準にしています。

当掲示板では、以上の点を踏まえて、真蹟主義を採ってきたわけです。
写本の中にも「日蓮真筆の可能性はあるのでは」というのは当然の疑問ですが、しかし、厳正な議論をするためには、真蹟を前提としてきたということです。

しゅんかんさんは、過去の議論をご存じないかも知れませんが、当掲示板で真蹟主義を採ってきた理由の一つに以下のような、わたしの分析があります。

【本覚】 真蹟:未決=0:96
【無作】 真蹟:未決=1:75
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117251/58

「本覚」という成句は、殊に本仏論では不可欠な言葉ですが、真蹟にはまったくその使用がなく、写本にばかりあります。この点は「無作」も同様です。さらに無作三身、三身即一身、自受用報身といった重要語句についても、同様の使用の相違があります。

まあ、それはともかくとして、以上のように真蹟と写本では確たる使用語彙の相違がある以上、疑いもなく写本を真筆として扱うことは出来ないということです。
冒頭に挙げた遺文集をまず、精読すれば、真偽に関するスケールがある程度、身につきます。真偽未決といわれるものは、真蹟遺文では使用されていない語彙、つまりは、その語彙が持つ思想性に係る臭みがあり、到底、日蓮の教説は感じられないということです。

語彙は、常に思想性を帯びるわけですが、日蓮の教説における思想性を考えるに当たり、日蓮が使用していない語彙を有する書を基準にする蛮勇は起きません。
ですから、まずは真蹟集(現宗研のデータベースの使用を奨めます)から、語彙を検索し、その有無をまず探ってみる作業は意味をもちます。

こうして作業を進めるといまの大石寺圏の教学、要は、大石寺、顕正会、創価学会の教学は、日蓮の真蹟に由来せず、写本遺文における真蹟遺文に載らない語彙によって構成されていることが判明します。こちらでの議論は、つまり、このような前提によって交わされているいるものです。

日蓮本仏論といった、本覚、久遠元初自受用報身如来、無作三身などの真蹟遺文にはない語彙によって成り立つ教学的な態度がここで一蹴されるのは以上の分析成果に基づいているわけです。

(こうした分析は、興風談所の御書システムでは、もっと厳正に採用されています。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/
ただ、奇妙なのは、こうした厳正な遺文分類をしながら、日蓮本仏論を述べ、さらに所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽すら言わない保身に不思議を感じます。)

3609犀角独歩:2008/02/27(水) 02:16:18

【3068の訂正】

誤)役職名は発見当時
正)役職名は発刊当時

「まあ、それはともかくとして」は取る。

3610しゅんかん:2008/02/27(水) 21:51:27
独歩さん
早速のご教示ありがとうございます。

>特定の個人はいないでしょうね。それぞれの研究者が、その研究成果からということではないでしょうか。
◆団体やグループ、と云った形態が多いようですね。
私の明記させていただきました5書にも偽や真偽未決が掲載されているやもしれないと・・・
あっ!この件についてのコメントは結構です。

ご教示戴きました『平成新修日蓮聖人遺文集』ですが、この著にも疑義を唱える方はおられるのではないのでしょうか?
特に石山系から「この著は身延系の人員で固められ証憑たりえない」と云う声はございませんか?
又、蓮祖の真蹟現存と云う事ですが、其の現存品は全て重文か国宝に値すると思われますが国の認定が在るのでしょうか?
立正安国論・如来滅後五五百歳始観心本尊抄(国宝)
撰時抄(重文)等と指定を受けてますね。
浅学者ですから、どうしてもこの様に公的機関の認定を受けていると安心感が得れるのです。

私は各門派合同による真蹟遺文集が編集され、日蓮門下の普遍的な共通認識たりえる
著を発刊される事を願うばかりです。(既に在るのかな?)

3611独学徒:2008/02/27(水) 22:41:42

しゅんかんさん、横レスにて失礼します。

>私は各門派合同による真蹟遺文集が編集され、日蓮門下の普遍的な共通認識たりえる
著を発刊される事を願うばかりです。(既に在るのかな?)

一応、昭和底本が、そのあつかいの遺文集ですね。
現宗研のHPにアップされているテキストも、昭和底本をもとにしています。
昭和底本は大石寺を含む、各派日蓮系教団の代表が、編纂に携わっています。
大石寺では、富士宗学要集で有名な堀日亨師や、富士年表で有名な柿沼師が関わっています。

日蓮宗教学研究発表大会などでも、引用に使われるのは、昭和底本が主流です。
1巻・2巻が正偏で、3巻が続編です。正偏は編纂当時、真蹟あつかいされていた書で、続編は疑義濃厚であった書で、御義口伝や二箇相承は続編に入っています。
しかし、正偏入集の書でも、疑わしいものは多くあり、日蓮宗教学研究発表大会などでは、昭和底本の中で真蹟現存と身延曾存のものだけをピックアップして、証文としているようで、それが大崎ルールのようになっています。

3612独学徒:2008/02/27(水) 22:43:45

また誤字です。

誤:昭和底本
正:昭和定本

失礼しました。

3613パンナコッタ:2008/02/28(木) 12:35:55
しゅんかんさん、国指定の重文であれば、
撰時抄、注法華経、不動愛染感見記、強仁状御返事、兄弟抄、諸人御返事、
神国王御書、大学三郎御書、貞観政要、法華証明抄、盂蘭盆御書、等があり
 http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp
断簡も自筆遺文として指定を受けていますし、
他に県や市町村の指定を受けている物もあります。

また日興筆の、日蓮遷化記録も国の重文指定を受けていますよ。

3614犀角独歩:2008/02/28(木) 19:28:58

しゅんかんさん

> 石山系から「この著は身延系の人員で固められ証憑たりえない」と云う声はございませんか

なにか、最近、こちらの流行語のようになってしまいましたが、もし、こんな声が挙がろうと「問題外」です。

3615しゅんかん:2008/03/01(土) 00:11:42
独学徒さん
ご教示有難うございます。

>昭和底本は大石寺を含む、各派日蓮系教団の代表が、編纂に携わっています。
◆そうですか、発刊されていたのですか。
各門派の長年の歴史、思惑があって真蹟遺文として纏めるのは容易い事ではないと云う事ですね。

3616しゅんかん:2008/03/01(土) 00:20:44
パンナコッタさん
ご教示有難うございます。

私は、平成新修日蓮聖人遺文集が手元にございませんが、この書に収められている遺文は全て
国宝か重文扱い等(都道府県の重文)なのでしょうか?

3617しゅんかん:2008/03/01(土) 00:35:12
独歩さん
お返事有難うございます。

>なにか、最近、こちらの流行語のようになってしまいましたが、もし、こんな声が挙がろうと「問題外」です。
◆お返事は少し時間を下さい。

3618彰往考来:2008/03/01(土) 10:17:39

明了曰解さん、亀レスにて失礼します。彰往考来といいます。

>3598 私の書込みの「漫荼羅」を「曼陀羅」に訂正いたします。お恥ずかしい限りです

これは変だと思います。なぜ「漫荼羅」ではいけないのですか?

また、貴殿のスレッド3596には、「日蓮大聖人が表わされたように書かれ、彫られ、写された曼荼羅には」

とあり、「曼荼羅」とあります。これはどうなのですか?

松本佐一郎氏は『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻第一刷(初版:昭和44年)、大成出版社、199頁)に、
「曼荼羅は曼陀羅とも書き、Man dala の訳語。壇、道場、又は輪円具足、功徳聚の意で、諸仏菩薩を安置し、その功徳を聚集して一大法門を成じ、仏世界を造るの謂である」とあります。
また、この個所の注(1)には、「外の書き方もあるが日蓮宗では用ひる人が無いから略す」(200頁)とあります。

要は、Man dala の音訳であり、「漫荼羅」と「曼陀羅」と「曼荼羅」は同義ではありませんか?

なお、松本佐一郎氏が「外の書き方もあるが日蓮宗では用ひる人が無いから略す」としているのは正しくありません。
『山中喜八選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版)の凡例には、
「聖祖は、大漫荼羅・大曼荼羅、あるいは大曼陀羅・大漫陀羅」など種々の表記を用いられているが、論文の表題及び本文については、御本尊の御讃文に最も多く用いられ、しかも晩年に至って定型化した「大漫荼羅」に統一した」
とあるように、日蓮聖人が「漫荼羅」を多用されているのです。そのため私も、史料・文献からの引用を除き、「マンダラ」と書く時は「漫荼羅」で用語統一しています。

よって、貴殿が「漫荼羅」と書くことをお恥ずかしい限りとされている理由が全くわかりません。そのような書き込みをされた以上、責任を持ってご説明ください。

彰往考来

3619パンナコッタ:2008/03/01(土) 19:40:22
しゅんかんさん、
開目抄、清澄寺大衆中、顕謗法抄、等の身延曾存分も収録されていますので、
すべてが指定を受けているというわけではありません。

また底本記載の一行断簡も新修には未掲載があり、確認未確認はされているようですが
指定その物を受けていない物も多々あるようです。(管理者の申請によるところが大きいでしょう)
一行断簡の参考
 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
文化財保護法抜粋 
 http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/top-page/bunkazaihou.html

3621しゅんかん:2008/03/01(土) 21:31:28
パンナコッタさん
重ね々有難うございます、大変勉強になりました。

3622マターリ:2008/03/06(木) 18:05:48
比叡山・延暦寺からみた、日蓮聖人に対する評価について、お聞きしたい
と思います。

山田恵諦氏の書いた「一隅を照らす」という本を読みました。これによると
伝教大師は、比叡山を修行の場と定め、若い僧に12年間の修行をさせよう
と考えました。12年間のうち、前半の6年間は、師匠につきお経や経論を
学び知識を習得します。そして後半の6年間は、書物を捨てよ、お経を去れ
と教えられます。つまり、後半は、ほったらかしにして、実際にどうすれ
ばよいか自分で発明しろ、ということだそうです。

この12年間が終わると、卒業試験のようなものがあります。第一に、学問
も実行もともに良くできる者を「国宝」として比叡山に残し、後輩の指導に
あたらせる。第二に、学業はできるけれど実行が不十分な者は「国師」。
一方、実行はできるけれど、学業が不十分な者は、「国用」と呼ぶ。
この国師と国用は、地方に派遣して、地方の指導者と協力して、一般の
人々を導いたり、地方の文化・産業の発展に力を尽くすようにしたそうで
す。

ところで日蓮聖人は、比叡山での修学が10年間ということで、その間に
何年か、京都遊学があるようです。すると、比叡山の規定の12年間に満た
ないことになります。ひょっとして、卒業試験を受けられず、国宝・国師・
国用のどれにも、なれなかった可能性があると思われますが、いかがで
しょうか?

比叡山を下りた後の活躍を考えると、比叡山時代はどうでも良いとも考え
られます。しかし、比叡山での日蓮聖人の、立ち位置というものを確認し
ておきたいと思いますので、宜しくお願い致します。

3623顕正居士:2008/03/07(金) 00:52:40
籠山12年は学生(がくしょう、正規の出家者、官僧、年分得度者)のことです。
比叡山は最澄が南山律を捨てたことにより破戒の山となった。良源は学生
ですら五戒を護ればよいとしたほど(これは緩くしたのでなく厳しくした)。
年分得度の制度などは鎌倉時代にはもう行なわれていなかったでしょう。
高い身分の出身者をこの時代でも学生と呼びはしますが、妻帯していること
が普通です。日蓮の師俊範も実子静明に相続しました。日蓮の比叡山に
おける身分はわかりませんが、学生ではなかったでしょう。

3624マターリ:2008/03/07(金) 17:32:38
>顕正居士さん、レスありがとうございます。

日蓮は、学生ではなかったようで、身分はわからないとのことですが、
学生以外に考えられる身分としては、例えばどんなものがあるのでしょう
か?

いちおう学生について調べてみると・・・寺院において学問を学んだり、
研究をする僧侶。学生僧。修学僧。学僧。

これから推測すると、日蓮は学生だったと、言えなくもないと思えますが、
どんなものでしょうか?

3625顕正居士:2008/03/07(金) 20:56:21
親鸞の比叡山における身分が昭和に論争されたことがありました。
親鸞は公家の出身ですが摂家などではありませんから学生ではなく堂衆であった
ろうという意見が始まりでした。恵心尼の書簡に「だうそう」とあるからです。
堂衆というのは起源は学生の下僕で武装しており僧兵とも重なります。
しかし親鸞は教行信証という漢文の大著をものしていますから無学なはずの堂衆
であったというのも変。結局、常行三昧堂に勤務する中間的身分の「堂僧」という
ものであったのでないかと決着しました。日蓮の身分もなんらか中間的なもので
あったと思います。日蓮の比叡山の師俊範は慧心流を実子静明に相続しましたが
静明には子が無かったので正親町天皇の皇子心賀を養子に迎えて相続しました。
学生は元来の年分得度者に相当するので相当な身分の方であったようです。

3626マターリ:2008/03/08(土) 09:31:40
>顕正居士さん、詳しく教えていただきまして、ありがとうございます。
身分には、学生・堂衆・堂僧があり、日蓮は、その中間的な身分だった
んですね。

学生は、相当な身分の方ということですので、日蓮は該当しないようで
す。

3627顕正居士:2008/03/08(土) 12:51:59
なお年分度者というのは律令時代に行なわれていた制度で定員は年に10名で
国家試験に合格した者です。官僧といい官費が支給される役人です。これ以外
はすべて私度僧です。天台宗は年2名(顕・密各専攻)の枠が与えられました。

3628犀角独歩:2008/03/09(日) 07:31:34

外出しており、やや、間を置いたレス失礼いたします。
また、顕正居士さんのいつもながら秀逸なご教示、横から拝読し勉強になりました。御礼申し上げます。

> 比叡山・延暦寺からみた、日蓮聖人に対する評価

これは時代によって、ずいぶんと変化があるのだろう思えます。
わたしが資料を渉猟してうなったのは『破日蓮義』でした。これは、中世の日蓮党に関する延暦寺の考えを示す一つの資料といえるのではないでしょうか。また、ここでは日蓮側はまったく敗退しています。一部ですが、わたしのHPにアップしています。

『破日蓮義』
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/hanitirengi.html

しかし、近代の天台宗と日蓮宗は、こうした対決的な歪みはなく強調しあっているように見えます。その好例が清澄寺の、天台宗から日蓮宗へ寄贈であったり、また、先に出版された『始唱黎明』(横川定光院護持顕正会)といった写真集をみても、その友好ぶりは観察できます。

3629独学徒:2008/03/09(日) 10:48:35

犀角独歩さん、天台宗側の日蓮評価ですが、昨年の1月に富士教学研究会のブログで紹介しました、『心慶筆「宗要集雑帖私見聞」』も祖滅後そう下らない時代(1317年)の天台宗側の日蓮評価を垣間見ることが出来ると思います。

http://fujikyougaku.blog22.fc2.com/blog-entry-38.html

また『破日蓮義』に対する日蓮宗側の反論は、日蓮聖人註画讃で有名な円明院日澄の『日出台隠記』の一部が、法妙教会のHPにアップされています。

http://www.homyou.hello-work.jp/siryou1.html

しかし「横川定光院護持顕正会」とは、どこぞの団体のせいで、最後の三文字が妙に気になりますね。

3630犀角独歩:2008/03/09(日) 11:33:18

独学徒さん

有り難うございます。

まず、訂正。「定光院護持顕正会」は「定光院護持顕彰会」の間違いでした。わたしらしいミスでした(笑)

『破日蓮義』の全文をもっていたのですが、いまそれが見当たりません。
ご紹介のページや、わたしの抜き書きは、問答中、安楽行品に係るところとなっていますが、圓信の突っ込みは、冒頭から強烈であったと記憶しています。

うる覚えですが…、要は日蓮党が「法華宗」と名乗るとは何事か。
法華宗とは伝教大師が、大陸で灌頂を受け、授かってきたからこそ、名乗れることである。また、日蓮党が引用する法華六大部ことごとく、法華宗(天台宗)が中国法華宗から授かってきたものだ。その相伝者でもない日蓮党が、何をもってこれを引用し、文章とすることができるのか、といった調子です。この点は摂折論においても同様で、これは天台義であって、その正統な継承でもない日蓮党などお呼びでないといった論調です。

原文がいま手許にないので、圓信は「相承」としたか「相伝」としたか確認できませんが、ともかく、「経巻相承批判」といったところです。法華宗でもないものが、勝手に法華宗の名と、章釈を使うなということです。…これは手厳しいところです。また、至極ごもっともなご意見と、わたしは受け取りました。

石山も、経巻相承批判を口にしますが、天台宗からすれば、天に唾する類ということになるのでしょうね。

3631犀角独歩:2008/03/09(日) 11:36:30

【3630の訂正】

誤)文章とすることができるのか
正)文証とすることができるのか

3632独学徒:2008/03/09(日) 20:44:19

犀角独歩さん、

>「定光院護持顕正会」は「定光院護持顕彰会」の間違い・・・

なぜかホッとしました。(笑)

>圓信は「相承」としたか「相伝」

原文は相承となっています。
『破日蓮義』、『日出台隠記』ともに長編なので、全文アップは確かに労作業ですね。
談義所2の方に、少しずつでも、両著をアップしたいと思うのですが、ハードディスクもかなりきつくなってきまして、そろそろパソコン内も整理しなければと思っています。
私は、かなり以前に、大日本仏教全書に掲載の両著をコピーしたのですが、今となっては、何巻に出ていたか思い出せません。

3633犀角独歩:2008/03/09(日) 21:50:59

独学徒さん、有り難うございます。

そうでしたか。「相承」でしたか。わたしは、圓信、けっこう好きです。
もちろん、祖師日蓮も好きですが、そのあとの日蓮党へのつっこみ、なかなかのものですよね(笑)
ぜひともアップしてください。『破日蓮義』は簡単な漢文ですから、原文のままでいいと思いますよ。

3634天蓋真鏡:2008/03/11(火) 18:37:26
私は私達は日本人は 空海と台密の相違 日蓮と日蓮宗の相違 三国四師の相違 を見極めずに 21世紀まで来てしまったのですね

3635マターリ:2008/03/15(土) 18:34:58
>犀角独歩さん、独学徒さん、いろいろ教えていただき、ありがとうござ
います。遅レスで申し訳ありません。『破日蓮義』を拝読しました。
日蓮党は、天台大師の摩訶止観を中心に反論しているようですが、やや
説得力に欠けているように思います。

日蓮が原始仏教や小乗経に巡り会ってさえいたら、と、ため息が出ます。

『心慶筆「宗要集雑帖私見聞」』を拝見しましたが、日蓮も言葉につまっ
たとのことで、とてもリアリティーがありました。

『日出台隠記』での円明日澄上人からの反論も、天台大師の摩訶止観が中
心のようで、あまり心に響きませんでした。

日蓮が、四安楽行を無視または軽視したのは、天台大師の影響と思います
が、これを重視さえしていれば、その後700年間における無数の殉難者を
出さずにすむことができたのではないでしょうか?

西暦1世紀に法華経を執筆したのは、インド・ガンダーラ地方の僧か在家
だと聞いています。彼らの心情を察するに、とにかく苦労して書いた法華
経を未来に残して欲しいと思ったでしょう。そのためには、法華経教団が
難に会って壊滅したのでは、元も子もありません。

法華経の経典だけ残っても、伝える人がいなくなっては何にもなりません。
必死の思いで、安楽行品を書いたものと思っています。

3636顕正居士:2008/03/16(日) 05:00:34
智邈も湛然も安楽行品を末法の方軌としています(中国の末法は日本より500年早い)。
これは法華経の結構上からそうでしかあり得ないですし。不軽品は特異な物語ですが
これも精神的に四安楽行に包括されると解釈しています。この板でも論じられました。
一切経金口の建前から涅槃経の聖戦思想(武力折伏)も認めていますが、安楽行と
異なる方軌があってそれが折伏だとかいうのではない。智邈は経説を最終的には自己
の一念の現象に帰着させますから、涅槃経の折伏を自心の有への執着を打破する喩え
とし法華経の非暴力思想と矛盾しないように解釈したようであります。

3637顕正居士:2008/03/16(日) 05:19:04
今日でも日本仏教諸宗派とチベット仏教ニンマ派以外は具足戒を堅持しています。
だから中国で聖戦思想が肯定されることはあり得ない。対して日本仏教では最澄
が具足戒を放棄しすぐに比叡山は殺人まで肯定する無戒状態になった。その現状
を追認するために末法灯明記が制作され智邈や湛然の断片を文脈を無視して引用
するようにもなった。その現状追認の伝統に日蓮は染まっており、宗教戦争を排除
しようとした鎌倉政権と衝突することになった。三大秘法の一である戒壇に何らの
詳説を残せなかった理由です(三秘抄は比叡山からの独立問題が起こってからの
制作と想定)。

3638犀角独歩:2008/03/16(日) 08:39:21

マターリさん

顕正居士さんの含蓄に富むご投稿がありましたので、わたしが記すことはないのですが、お声掛けをいただいたので、少しだけ。

『法華経』を創作した人々は、わたしは在家で菩薩を志向した人々であったと思います。また僧侶が住まう僧院のような基地に依らない人々ではなかったかと考えています。

顕正居士さんが仰るとおり、法華六大部を通読する限り、智邈は自分の生きている時代を末法であると認識し、僧侶の立場から、安楽行・不軽行を摂受として、我が身に宛てていました。涅槃を綜合し、為政者が法華涅槃を法制として、一闡提の武力統制=涅槃/折伏=法華を肯定した二極論もあります。やや、この点で付言すれば、智邈の思惟では、一経は、摂折両論を具すというコンセプトを有しています。

顕正居士さんのお言葉を借用すればこの「聖戦」思想は、しかし、最澄の具足戒放棄は、ひいては殺人思想の肯定の現場となり、武装が当然のこととなってしまった。

日蓮は聖戦肯定の立場でしたが、王と僧の役割の相違を『本尊抄』に「当知此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」と述べたのでしょう。ところが日蓮以後の日蓮党は、軈て不軽・折伏論をいった後代解釈が僧侶の聖戦思想を鼓舞するようになった。こうした経緯を受けて、法華宗(天台宗)からの警鐘が『破日蓮義』のような形で為されていったのではないでしょうか。この時代の日蓮党は既に不軽・安楽・摂受といった本来の教学を読み違えていた人々であり、その系譜は本日に至るまで、日蓮党に胚胎し続け、いずこの時代も、信・不信の二極論から後者を攻撃することを正義であるといった倒錯が繰り返されています。愚かなことです。

3639顕正居士:2008/03/16(日) 20:55:28
戒律を戒と律に分ければ戒は道徳、律は法律です。具足戒を放棄するということは
菩薩戒という道徳はあるがサンガの法律はないということです。在家信者ならば
世俗の法律があります。僧院には及びませんから、こちらは何事も武闘で決着する。
要するに暴力団と同じ世界ですね。鎌倉政権は関東の寺院には武装を禁止していた。
日蓮は武闘当たり前の関西の常識を持ち込んだ。また北条政権は信仰自由の方向
に社会を進歩させようとした。日蓮は比叡山などの神聖権力は新興の称名念仏、
祖師禅の禁止などを朝廷や幕府に強要できる権利があると考えていた。
だがやがて幕府は崩壊し関東も関西同様に戦国の世に移行します。比叡山、興福寺
雑賀寺、本願寺などは有力戦国大名並の武力を備えるに至った。日蓮宗は諸派に
分かれていたために信者は多かったが武力が分散しており法華の乱では比叡山兵
に完全に打倒された。この永遠の宗教戦争の世界は最後で最大の合戦、信長対顕如
10年戦争の後、宗教権力が遂に世俗権力に降伏し、日本では欧州より早く信仰自由の
社会が実現しました。

3640マターリ:2008/03/16(日) 21:11:26
>顕正居士さん、犀角独歩さん、教えていただき、ありがとうございます。

智邈が、法華経の四安楽行・非暴力思想を重視していたのに、最澄の影響
で、比叡山が無戒の山となり、それに影響された日蓮が「聖戦」を肯定す
る思想になってしまったのですね。

また、日蓮は、王と僧の役割を立て分けていたのに、弟子たちが僧の「聖
戦」を主張するようになったのですね。

時代を経ると、思想が正しく伝わらなくなってしまうようです。

法華経の特質を調べたことがあります。排他主義・使徒的仲間意識・殉教
主義・自らを褒め称える、等と批判的な事が書いてありました。

しかし、四安楽行・非暴力思想など、とても優れた記述があると思いまし
た。法華経をじっくり読んでみたいと思います。

3641犀角独歩:2008/03/16(日) 22:13:02

> 宗教権力が遂に世俗権力に降伏し、日本では欧州より早く信仰自由の社会が実現

このご賢察は素晴らしいですね。

ところで、いまの時代でも僧侶のほうが在家よりも優れているなどと考えている数百年単位の時代錯誤者が横行しています。日蓮党は、天文法難、信長の比叡山焼き討ちまで時間を巻き戻し、さらに明治以降の太政官布も思い起こし、在家と同等の立場しか与えられていないことを再確認する必要がありますね。

もっとも顕正会、創価学会といった在家主導の新たな特権階級は、所詮、僧侶に取って代わる特権階級以外の何ものでもない、一般民衆にはお呼びでない存在であることもついでに確認しておきましょうか。

出家にあれ、在家にてもあれ、それら特権階級から離れ、法華経を紡い在家集団の思いに戻り、法華経を読むのが、マターリさん、よいかもしれませんね。

3642天蓋真鏡:2008/03/25(火) 17:06:35
犀角独歩さん、関係者各位様、 聖戦を肯定する思想と断じるのは後の歴史の流れからでしょうか? 撰時抄の御書遺文や 大白牛車で押しかけてでもと言うのは大袈裟に書いて善行善徳を促していると私は考えます。 つまり、言葉文章で表してもすぐさま戦乱の結果に持っては行かないと考え合わせてあるのではと断じます。絶対ではありません。 東条某だとかのお陰云々書いた文章もあったと思います。 私の鎌倉時代の僧・日蓮の印象は貴族主義と個人主義の中間の思想を行じたフリーターです。社会の繁栄も大事だけど個人の幸福も大事みたいな。

3643犀角独歩:2008/03/27(木) 02:24:28

日蓮の聖戦を肯定するとする理由は、まずは天台義における折伏の肯定が挙げられるでしょう。『開目抄』等の如しです。
日蓮自身の考えとしては、たとえば、以下のような真蹟を挙げることが出来ます。

「日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並天照大神等隣国の聖人に仰つけられて謗法をためさんとせらるゝか。」(『法門可被申様之事』)

「聖人の出るしるしには、一閻浮提第一の合戦をこるべしと説れて候に、すでに合戦も起て候に、すでに聖人や一閻浮提の内に出させ給て候らん。」(『四條金吾殿御返事』)

その他、念仏者刎頭といったことを口にしているわけですから、とても非暴力主義者とは言えないでしょう。

3644天蓋真鏡:2008/03/27(木) 15:25:31
ガンジー?等の非暴力主義者とは言えなくても 聖戦だけ?を肯定する戦争主義者と言うわけでも無いと考えます。其れなら、聖戦肯定主義者は日蓮だけでは無いのでは無いでしょうか。

3645犀角独歩:2008/03/27(木) 15:29:51

日蓮についての質問ですから日蓮について答えたまでです。
聖戦の肯定は、もちろん、日蓮に限らず、『涅槃経』を肯定する宗派に共通するでしょう。もっといえば、大乗教と自称する多くの教えは大なり小なり、そうした特質を有します。その脈絡がオウム真理教のポアともつながっているのでしょう。

なお、わたしは日蓮を戦争主義者とは記していません。

3646天蓋真鏡:2008/03/27(木) 17:25:52
聖戦(云々の)主義者では無いと言う事でしょうか。文章と特定の語句を繋げて書くと、行き過ぎた印象を与えると感じます。

3647犀角独歩:2008/03/27(木) 17:37:38

当掲示板は挙証をもって論じる義務を有します。

故に、わたしは3643に、日蓮の武力による護法の肯定した文証を挙げました。行き過ぎた印象もなにも、武力行使も、法華異教者の死刑も肯定したのが、日蓮という人であったわけです。違うというのであれば、それを証する文を挙げればよいだけのことです。

自分のなかでイメージされた日蓮の押しつけや、挙証に対して、挙証で応ぜず、同じことを繰り返すことは、投稿規約に違反する点、注意を促しておきます。

3648天蓋真鏡:2008/03/28(金) 16:19:21
確かに挙証には挙証でしか異論反論できないかもしれません。 ですが、日蓮の手紙一つも漏れず残っている訳では無いので挙証主義には限界があると考えます。日蓮の実像を見るには 人間の感情変化と変化した理由も加味して考え合わせないと作りかけの彫刻になってしまうのではないかなと感じます。

3649犀角独歩:2008/03/29(土) 08:03:16

> 日蓮の実像を見るには 人間の感情変化と変化した理由も加味して考え合わせないと作りかけの彫刻になってしまうのではないかなと感じます。

この部分は、何を言っているのかよくわかりません。

たとえば、ミロのビーナスについて語る時、その顔や胴体、足については、語ることができます。では、失われたとされる腕について、どうなっていたかは、語ることができません。現存していないからです。もちろん、想像で語ることができますが、それは他の部分を事実として語れるのに対して、殊腕に関しては事実としては語れません。語れるとすれば、腕はないということだけでしょう。

日蓮を語る上において、失われてしまったものについて、想像で語ることができても、それが事実であるとは言えません。ですから、語るとすれば、まず確実な資料から考え合わせて語らなければ実像から離れることになります。

合戦の翼賛、刎頭を肯定した文章が残っているのに、日蓮を平和主義者のように語ることは、残っている資料として一致しません。では、なぜ一致しないことが語られるのかという説明をなく、それを繰り返すような、投稿は、こちらの規約に違反しているということです。

ここは挙証をもって論ずる場ですから、説明や、証拠も挙げられない個人の思惑を、しつこく繰り返し書きたいのであれば、自分でサイトでも解説して、そちらでやればよろしいことになります。

個人の思いで勝手に作られた日蓮の彫刻など、こちらでは不用であるということです。

3650天蓋真鏡:2008/03/29(土) 20:08:01
犀角独歩さんの書き込みは一々最もですが、切った刀で自分も切られかねない物言いでしょう。 自分は日蓮を平和主義者とは言ってません。真筆かどうか調べてませんが、文字言葉は心を尽くさないと言う御書遺文もありました。

3651犀角独歩:2008/03/30(日) 10:55:13

天蓋真鏡さん

名を挙げて問いかけられたので、応じたわけですが、わたしは、あなたがなす不毛な言いがかりに時間に付き合うことを無駄と感じます。

> 切った刀で自分も切られかねない物言いでしょう。自分は日蓮を平和主義者とは言ってません。

わたしが先に記した「平和主義」とは、別段、あなたが言ったことを指したものではありません。
記したとおり、「合戦の翼賛、刎頭を肯定した文章が残っている」から、経和主義とは言えない記したのです。よって、あなたの言いがかりはまた外れです。

> 文字言葉は心を尽くさないと言う御書遺文

どの文を指すのか判然としませんが、仮にそうであっても、その文字に尽くせない日蓮の思いは、あなたが想像することと同一である可能性は少ないでしょう。何故ならば、あなたは確実に残る日蓮の文字情報を否定したところから、想像しているからです。事実とは、事実の積み重ねの上にあります。日蓮の言葉に尽くせない思いは、真蹟遺文と一致しないという仮説が、既にすべての自分が恣に想像する日蓮像の囚われる原因となっているでしょう。

繰り返しますが、ここは挙証をもって議論する場です。挙証に基づかないあなたの想像、そして、わたしへの言いがかりに付き合う気はありません。挙証なく、自己主張を繰り返すあなたの投稿には今後、応じません。それでも、まだわたしの投稿に難癖をつけるようであれば、投稿規約に基づき、管理人さんに削除依頼をすることを辞さない所存です。以上です。

3652犀角独歩:2008/03/30(日) 10:58:43

【3651の訂正】

誤)経和主義
正)平和主義

3653パンナコッタ:2008/03/30(日) 14:42:30
横レス、失礼します。

 > 文字言葉は心を尽くさないと言う御書遺文 は、おそらく十一通の
与建長寺道隆書
 "只経論の文に之れを任す処なり。具には紙面に載せ難し。併しながら対決の時を期す。
 書は言を尽くさず。言は心を尽くさず"
与多宝寺書
 "敢へて日蓮が私曲に非ず。委しく御報に預かるべく候。
 言は心を尽くさず、書は言を尽くさず。併しながら省略せしめ候"
あたりでしょうか。
であるならば、真贋以前に文意を良く読みとってカキコされる方がよろしいでしょう。

この佐渡前の蓮祖は、
『仏法を学ぶの法は身命を捨て国恩を報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず』
 (宿屋入道再御状・本國寺蔵) と、個人の幸福なぞ歯牙にもかけない心意気だったのが
事実でありましょう。現世利益を云々する後世の教団の教えとは、一線を画します。

3654天蓋真鏡:2008/03/30(日) 18:07:04
犀角独歩さん、パンナコッタさん、 他の文章を持って来たからと言って此れまでの書いてある内容を全否定したとまとめるのは挙げ足取りな解釈では無いですか? 日蓮は色々な職業みたいな事を遣っていて何者か解らないと書いていた頃とは偉い違いです。 御書遺文の文章の後先を考えるのは当然ですが 色々な語句言葉知識情報を考え合わせないと事実とはズレた虚像を造ってしまうかもしれません。其れて゛良いのでしょうか

3655管理者:2008/03/30(日) 18:48:25

天蓋真鏡さん

>御書遺文の文章の後先を考えるのは当然ですが 色々な語句言葉知識情報を考え合わせないと事実とはズレた虚像を造ってしまうかもしれません。

先日来の、天蓋真鏡さんの書込みを拝見していて、何を仰りたいのか、判然としません。もう少しはっきりとお話になられたほうが良いと思います。

具体的に申し上げれば、

一、御書遺文の文章の後先を考えるのは当然

これは、富士門圏においては、当然とはされていません。殊に大石寺教学では、相伝書重視が甚だしく、御書を相伝書から見て、読み替えて解釈するのが通例です。ところが、この大石寺が使う相伝書たるや、明らかに後世の記述であったり、他門の相伝書を我田引水したりで、蓮祖の実像から離れる事が甚だしいので、当掲示板では、ひとまずは、真跡遺文に限定して蓮祖の実像に迫ろうとしてきた経緯があります。

二、色々な語句言葉知識情報を考え合わせないと

これは具体的には、どんな内容をお考えでしょうか。管理者は、これだけでは、余りに抽象的過ぎて、意味が取れませんが・・・。御教示お願いいたします。

3656パンナコッタ:2008/03/30(日) 22:56:53
何を反論されているのか、さっぱりと解りませんが??? >3653で記した事は、
 > 文字言葉は心を尽くさないと言う御書遺文 ⇒ 十一通からの引用で在れば、
意味が違うでしょう という事。違う遺文なのであれば、初めから提示すればよいだけの話。

再御状の引用は、>3642の >社会の繁栄も大事だけど個人の幸福も大事みたいな という事に対し、
それを否定する文永五年九月の日蓮の真蹟があると、提示しただけ。

3657顕正居士:2008/04/02(水) 18:24:59
日蓮は鎌倉新仏教の祖師というよりは「興福寺奏状」を製作し専修念仏弾圧のはじめを作った
貞慶などと同じく鎌倉旧仏教の側の論客というべきでしょう。彼の理想は王仏一致の古代国家
の再興であり、彼の政治思想はいわば「王権仏授説」というべきものでした。仏教信仰が個人
の内面へと向かうのが新仏教の傾向とすればそのアンチテーゼであり、欧州の「反宗教改革」
に比べられるでしょう。したがって「政教分離」とおよびいわば「覇権天授説」に立つ武家の
政権とは相性が悪く原理派は不受不施宗として常に地下に存在し続け、第二王政復古(維新)
の後に国柱会などの王仏一致思想として蘇り、終戦後さらに創価学会として大衆化したのだと
いえるでしょう。

鎌倉旧仏教 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0090630.html
解脱房貞慶 http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~kmatsuo/joukei.html

3658天蓋真鏡:2008/04/03(木) 04:45:13
順番前後します。 顕正居士さん、皆成仏道やら成仏得道やらは言葉尻だけ出て来るので認められないと言う事ですか?国王と聖人と戒壇(堂)が鎌倉時代の僧・日蓮の主旨でしょうか。

3659天蓋真鏡:2008/04/03(木) 05:20:08
犀角独歩さん、パンナコッタさん、管理者さん、関係者各位の皆さん。自分は真筆真蹟を把握してないので書き込みで此れだから是うとは断言できません。議論として残せない成立しないなら削除してもらって良いです。先ほど来の聖戦を肯定する者かしない者かを判断するには実際に会って話さないと解らないと言う事が自分の意見です。 自分は鎌倉時代の僧・日蓮は仇なす敵でも無闇に奪う主義者では無いと思います。犀角独歩さん、日蓮も殺されかかり弟子は命を落としました。其の時代は武士の時代は自分の宗派の為に相手の命を奪う事は肯定されていたのではと感じます。権力者依りで政治的手続きがあるならまっさらな仏教徒ですか?

3661はなざわ:2008/04/07(月) 10:47:11
はじめて書き込みさせていただきます。
学会に在籍しています2世です。この頃回りの会員さんを見てて??でした。
というのは、元気がない(婦人部はのぞいてですが)、自分の課題も打ち破れない
し、でサイトめぐりをはじめました。はじめは、石田氏の一念三千でした。教学力
ないので、ちんぷんかんぷんです。ただ勤行時の姿勢について、オオッッでした。
私はこんな事考えたことなかったと思いました。次日寛上人本尊コピーと手を入れて
いること、これはここの書き込みすべてではありませんが、拝見して、べつに関係
ないと感じました。それよりも、大聖人の御書に真蹟と偽書がある、学会で習っている
教学と、大聖人の教えは違うようだ、例えば、仏法は勝負とは、ずっと勝ち負けの
ことと思っていました。石田氏の文で、善悪のことと知りました。しかしこれさえも
真実か自分でわかりません。王法は賞罰なら、善悪考えるのが、妥当かな?ぐらいの
判断しかありません。学会は自分で考えなくても、指導の通りにやればと言っています
が、大聖人は、私達に何を言いたかったのか、自分で勉強したいと思っています。
学会版御書の最初から、読みはじめて、いま立正安国論です。よく中味がわからないし
、このやり方でいいのか、悩んでいます。よろしければ、皆様に学習の仕方ご教授いた
だけないでしょうか。独歩さんをはじめとした皆様のレベルの高さに本当に驚いています
。日連本仏論も違うなんて、頭こんがらがってきました。私の母も、戒壇のご本尊様は、
日興上人が、身延から、かついできたのと言います。皆なんでも、いはれるとおり
信じているようです。私自身は、偽でも本物でも、どっちでも、大聖人の教えが違って
くるわけでなし、どっちでもいいが、偽を本物と言っちゃいかんでしょう程度の、考え
しか浮かんできません。とりとめもない話で相すみません。

3662天蓋真鏡:2008/04/07(月) 17:41:12
はなざわさん、はじめまして。自分は創価学会の幽霊会員です。学会員もいろいろな方々がいます。名誉会長が亡くなった後、日本の創価学会はどの様な事になってしまうのかと心配しています。 自分が思うに漫荼羅は本仏釈尊の内証「南無妙法蓮華経」を掲げて自分も其の様に清廉潔白に生きたいと精神統一する唱題をあげる為の道具では無いでしょうか。 本仏釈尊&法華経行者日蓮を先師先達として、法と言えば一念三千の妙・華と言えば因果倶時の蓮を思想、江戸時代の僧日寛の描いた教学&牧口常三郎先生の学問を主義に創価学会インターナショナルとして一本化しないと21世紀以後を走れないのでは無いかと考えます。

3663犀角独歩:2008/04/07(月) 21:31:24

はなざわさん

お声掛けをいただきましたから、お応えしますが、仰るような「関係ない」は、創価学会そのものの声でしょうね。要は、自分にとって、それが正しいと‘思えれば’よく、それによって、組織も自分も、安心できればよい。そして、会員は何だかよいことがあったような気がし、組織は、安泰でそこで働く人々の生活が守られればよい。ストレートに言えば、創価学会と、その会員は、その程度のものだということなのでしょう。

わたしが、あきれかえって見切りをつけたのは、こんなバカバカしいことに付き合っている気が失せたからです。

難しいと思われるのであれば、簡単なことで満足できるのか、しかし、一度開けたパンドラの筺のフタは決して閉じません。
さて、はなざわさんは、それを閉じられるかどうか、ということです。

現代の科学水準は、『法華経』は後世の創作、妙法蓮華経は羅什の勝手な意訳、天台学は漢訳仏典で基づいた思いつき、日蓮はそれに基づいてさらに想像を逞しくしただけ、創価学会はもちろん、大石寺が本物であるという戒壇本尊は、後世の偽造品、日蓮本仏なんか、日蓮も、日興も言っていません。本人達が聞いたら吃驚するでしょう。
「でも、わたし達は正しいんです」なんて、恥ずかしくて言えるかどうか、それが常識と言うことです。

あなたならば、どうしますか。

3664はなざわ:2008/04/07(月) 23:37:11
天蓋真鏡さん

レス有難うございます。学会は規模縮小で、生き延びていくんではないでしょうか
?日寛教学も否定される方もございますし、何が正しいのか、今の私にはわかりません
。宗教団体というより、コミュニテイーとして生きていくんでしょうかね。
何かついていけないもの感じますが、さりとて退会するわけでなし、独歩さん
御指摘の『その程度』なんだと思います。第一次宗門問題から経験した身としては
何があっても驚きません。自分のスタンスはまさに御指摘の通りと思います。
第一次のとき、学会間違っていると思っても退会しませんでしたし、さりとて
師匠が地獄にいくら、自分もというような、池田先生崇拝者でもありません。
宗門を、口をきはめて罵るようなところは、嫌悪感さえ覚えます。

3665はなざわ:2008/04/07(月) 23:59:16
犀角独歩さんへ
お声かけていただき、有難うございます。過去ログのなかで、石田氏の論について
お書きになっているのを拝見して以来、読ませていただいております。私難しい
こと分かりませんが、母上についてお書きになっていたのに、心うたれました。
学会の日寛上人本尊コピーも、宅は日達上人で関係ないとずっと思っていました。
コピーというのも、手がいっているのも、最近しりました。あきれたと思いましたが
学会は会則改正で、自由に決めるとしていること、学会も折伏する上で本尊が必要
ですし、悩んでここのサイトを見て回るうちに、こだわる必要なしと感じました。
理論的根拠があるわけではありません、そのように私が感じたまでのことです。
気持ちは随分楽になりました。学会的考え方かどうかはわかりません。熱心な会員
ではありませんが、永年在籍していますので、知らず知らず学会そのものになっている
のかもしれません。
蓋をあけてしまつたですか、うーんまた閉じて、知らん振りもいいかも知れませんね。
何か大変そうですもん。けれど、日蓮大聖人が、何を悟り何を思い、後世の私達に
何を残したのか、その教えの一端でも垣間見れたらと思うとわくわくします。
今日は本当に有難うございました。
『命限りあり、終に願うべきは仏国土なり』私が、中学の時、亡き父に、究極の目的は
これかと聞いた時、父はそうだと言いました。これを書いていて、ふと思い出しました。

3666犀角独歩:2008/04/08(火) 23:08:50

はなざわさん、既に遣り取りは終わりということでしょうが、御尊父が引用した御書の意に、あなたのような考えで至れるとは、わたしは到底思えません。あなたより、むしろ、わたしのほうが、あなたの御尊父の精神の正統な後継者かも知れませんね。

「いまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ。以の外の僻見也。私ならざる法門を僻案せん人は、偏に天魔波旬の其身に入替て、人をして自身ともに無間大城に墜べきにて候つたなしつたなし。此法門は年来貴辺に申含たる様に人々にも披露あるべき者也。総じて日蓮が弟子と云て法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。さだにも候はば、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守候べし。其さへ尚人々の御心中は量りがたし」

もっとも、この文の真蹟は伝わりませんが。

わたしが、法華講時代に声聞幹部から聞いた迷言。

「私は何もわかりませんが、この仏法が正しいことだけはわかる」

わたしは断じて言います。「わかるはずはない」

ただ、あなたは、宗教とか、真実とか、日蓮の素意とか、そんなことより、選び取ったものが一つあるのでしょう。それは「居場所」です。そのぬくぬくとして、少しは居づらかったり、違和感もありながら、自分が居続けられる「ゆりかご」の外に、あなたは出ることに臆病なのでしょう。

まあ、無理に、はい出すことは進めませんが、外には広漠たる光景があることだけは記しておくことにします。

わたしは、歯に衣を着せるのは嫌いですから、ストレートに記しますが、惰眠には、軈て目覚めがあるということです。

なお、石田さんは、実にささやかな、入口で考えることをやめてしまった。彼の思惟は実に狭隘なものでした。もっとも、こちらは、挙証をもって、語る、掲示板です。この一事は、つぶやきとして判読いただければと存じます。

3667はなざわ:2008/04/10(木) 11:12:57
犀角独歩さん

私は、2世で、他の2世の方達と同じく、両親は毎日活動でした。とりわけ父は熱心
でした。病気で入院する前に「財産は残せないけどご本尊を残す」といはれました。
第一次宗門問題で、怒りくるわれる貌下のお姿は、私に衝撃でした。草創期を走って
きた父の為にだと思いますが、脱会をくい止めるため、幹部の訪問を再三に受け、
話し合いをしました。その時思ったことは、この人たちは、自分たちで何一つかえる
つもりはないと言うことでした。言っても時間の無駄労力の無駄と感じました。
それでも学会に残りました。脱会しようかどうかの瀬戸際で、私達家族が思いとどま
ったの、私がその時父の夢をみたからです。死んだ人は話さないとかも聞きますが
その時、この騒動を話しました。そして、私達家族は脱会しないことを決めました。
ただし、べつに父は学会が正しいと言ったわけではありません。
私は学会の真実が知りたいわけではありません。日蓮大聖人が何を考え何を悟り、
後世の我々に何を託したかを知りたいんです。学会は、池田先生の話中心で、大聖人
の話はあまり出てきません。只今未活への道進行中です。独歩さんは、命がけで学会
活動したって書かれてあったのを見たことがありますが、だからこそ間違ってるのが
わかってて、なぜやってるんだとおもはれるんではないでしょうか?私命がけの活動やったこと
ありません。私が、学会でのいこごちは良くも悪くもありませんよ。ただ私には、皆さん
何もいはれません。宗門問題でいいたいこと言った事、座談会での日寛本尊コピーや
公明批判したせいなのか、皆さんから一歩ひかれている気がします。
大聖人にお世話になったと思います。色々なこと題目でクリアできたと思います。
現世利益信仰ではないとも見ましたが・・ 先日母にわからないわからない、どうすれば
いいかわからないと申しましたら、わからなくなったら自分が経験してつかんだものが、
一番といっておりました。私が、自分で掴んだものなら、題目で、課題をクリアして
きたことです。ここのサイトも端よってしか見ていませんので、これから色々拝見したい
と思います。整合性がとれていない、ご本人にも考えにブレや迷いもありそうな、
突っ込みどころ満載の大聖人のようですが、それでもいいです。題目で幾多の課題を
乗り越えてきた経験をもとに、大聖人の考え、私に託したことを勉強していきます。
やがて学会にくるXデー、噴出すスキャンダル、会員にも戸惑い悩み苦しむ方々が、でて
くると思います。せめて自分のまわりの方々には、大聖人のお心お伝えできればと
思います。それには、自分が理解しておかねばと考えています。学会に残っているからと
言って安閑としているわけではありません。

3668天蓋真鏡:2008/04/22(火) 14:50:53
はなざわさん、返事して頂いてありがとうございます。名誉会長依存等は池田大作氏が亡くなってからでしょうか。 遺文御書か゛一枚残らずある訳では無いので何ですが、三国四師の4人の思想の変遷を見てみないと学問として成り立たないかもしれません。

3669マターリ:2008/04/22(火) 21:36:27
>はなざわさん、天蓋真鏡さんへ。

いちおう学会員である私が、言うべき言葉でもないのですが、・・・。

学会員は、からまる糸のように、マインドコントロールを受け続けている
と思います。法華経・羅什・天台・日蓮大聖人、牧口氏・戸田氏・池田氏
と、時代を隔てた大勢の人物と経典から、強い心理的影響を受けています。

非常に複雑で、強力かつ高度なマインドコントロールだと思います。

池田氏は講演などで、人間らしい事、ふざけた事を言っていますので、
人物を見抜きやすいと思います。しかし日蓮大聖人は、源義経と同じ時代に
生きた歴史上の人物です。大昔の人は伝説となり、つい神格化したり、また
仏と見てしまいがちです。人は亡くなってから、神になったり仏になったり
するのでしょう。

平成20年の現在、この日本に住む人の中で、仏と呼ぶことのできる人がいる
でしょうか?・・そんな人はいません。・・そういうことだと思います。

犀角独歩さんの3663のご発言↓は、現代仏教学に基づいた深い意味がありま
す。これを理解できるよう、少しづつ勉強しましょう。

>現代の科学水準は、『法華経』は後世の創作、妙法蓮華経は羅什の勝手な
意訳、天台学は漢訳仏典で基づいた思いつき、日蓮はそれに基づいてさらに
想像を逞しくしただけ、創価学会はもちろん、大石寺が本物であるという戒
壇本尊は、後世の偽造品、日蓮本仏なんか、日蓮も、日興も言っていません
。本人達が聞いたら吃驚するでしょう。

3670パンナコッタ:2008/04/22(火) 23:24:48
横レス、失礼します。
マターリさんの、>非常に複雑で、強力かつ高度なマインドコントロール との
指摘の一端として。
別スレで顕正居士さんが常楽我浄御書を引用されていましたが、この"常楽我浄"という言葉
通常は四顕波羅蜜の意で使われ「常楽我浄 一家和楽の信心」等とスローガン化されています。
しかしながら蓮祖真筆中では、ほとんどが邪師・外道の甘言とした四悪趣の意で使われています。
(唯一、断簡の常楽我浄御書は、前後文の肯否定の意が十全には読みとれず)

少なくとも日蓮門下を名乗るのなら、あまり肯定的には使用すべきでない語彙でしょうね。
もっとも、ある意味、教団の指導そのものは邪師・外道の甘言の類になっているようですけど。

3671顕正居士:2008/04/23(水) 08:29:53
涅槃四徳を否定的に使用した箇所は真蹟遺文にありませんよ。写本遺文ににもないと
おもいますが。断簡 三〇〇はその後に他と同様の文意があったはずです。
前後をちゃんと読まないと間違うかも知れない箇所が幾つかありますが。たとえば。

「今馬鳴・龍樹等はかしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず是一。迦葉は仏に
あひ(値)まいらせて解をえたる人なり。此人々は仏にあひたてまつらず是二。外道は
常楽我浄と立てしを、仏世に出させ給ひて苦・空・無常・無我と説かせ給ひき。此もの
どもは常楽我浄といへり是三」

「今馬鳴・龍樹〜」から読んでいけば小乗の人たちが三か条の誹謗をしたとわかります。
常楽我浄御書の文の主語はむろん下にある馬鳴です。「(馬鳴菩薩)出でさせ給ひて」。

真蹟遺文
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

3672顕正居士:2008/04/23(水) 08:49:11
涅槃四徳についてわかりやすい説明があったので参考に。

無我
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

「したがって大乗仏教では、釈尊は成道してまず世間の邪見である「我」を否定し「無我」を
説いて、それが理解されるようになると段階的に説法し「如来我」を説いたと位置付けている。
これを「常楽我浄」(涅槃の四徳・四波羅密)というようになった(なお、これらのことから
仏教は「否定の否定」の教えであるともいわれる)」

この説明のように遺文の数箇所は「否定の否定」をしています。大乗仏教のモットオは
苦空無常無我ではなく常楽我浄なのです。

「世間にまた常楽我浄あり。出世にまた常楽我浄あり。世間の法には字ありて義なし。
出世間には字あり義あり」(涅槃経)

3673パンナコッタ:2008/04/23(水) 13:54:38
顕正居士さん、ご指摘ありがとうございます。

>3670の文書は、自分で読み返してもちょっと変ですね。これは大変失礼しました。
 四顕波羅蜜→四徳波羅蜜 四悪趣→四顛倒 ですね。
また、四徳の否定の意ではなく四顛倒の意味合いで使用されているという事で
法門可や十章抄での引用の事です。
常楽我浄御書の十全の意は全文がない以上、果たしてこの後どんな文書展開があったのかが
解らず、肯否定的な意味合いの用い方としては保留しておくといった意です。馬鳴の指摘については、ありがとうございます。
報恩抄の該当部分は、現存していない部分なので未考慮です。

3674天蓋真鏡:2008/04/23(水) 17:41:40
マターリさん、お言葉ですが「敵」を異常に拡大解釈するのは如何なものでしょう。 21世紀にもなって催眠術でもそうなのですが、罠に掛かり易い所と掛かり辛い所とあるのでは無いのでしょうか。 「マインドコントロール」が貴方が言われているぐらい行われているとは考えません。 聖教新聞の「池田先生崇拝」と学会の「押し蔵饅頭的統治」が所々暴走して「支配統治の理想」が崩れてきたのでは無いかなと自分は思います。 教学の事は「発想の転換」で時代ごとの解釈がどの様に成り立つのか分析理解できないと説得力が違うでしょう。

3675ろばくん:2008/04/27(日) 18:32:42
またまた、単純な質問ですみません。ここでよいかもわかりません。ジョージ左京さんという方はどのような方だったのでしょうか。また、私事ですが、確か日蓮上人のどの文だったか、「あつわらの愚痴のものども…」という文を目にしたとき、私は日蓮上人はあつわらの人々をそのように考えていたのかなと思い、そのころから少しずつ距離を置くようになりました。愚痴の者とは、あまり良い意味ではないと思うのです。

3676偶ロム偶ログ:2008/04/29(火) 02:10:00
>>3675
>ろばくんさん

ジョージ左京氏は戦後の創価学会草創期、中野支部で数多くの人たちを折伏しました。
第1次宗創問題のときに学会を離れて檀徒会に移り、国会請願にも名を連ねました。
その後、檀徒会=正信会の実状について諫言するも受け入れられず、檀徒会からも離れました。
檀徒会から離れてから、宗門史や宗門の教学について研究・批判を行ない、数百ページに及ぶ手書きの原稿を書かれたのです。
氏はその原稿をコピーしていろいろな人に配布しましたが、最初にそれを援用したのが玉井礼一郎氏でした。
次にその原稿の内容をほぼ全面的に利用したのが美濃周人氏です。
私などはほとんど盗作か剽窃ではないかと思ってしまいます。
ジョージ左京氏は、その後、日蓮批判、仏教批判へと進んでいくことになりました。
残念ですが、氏は十数年ほど前にお亡くなりになっています。

3677偶ロム偶ログ:2008/04/29(火) 03:46:56
参考までに、ジョージ左京氏の著作は以下のとおりです。

本名でのもの
[以下、手=手書きコピー、朱=直筆朱入、@=年月日不詳、頁表記は原本による]
 *『御本尊集目録に関する研究(手)』(昭56・7・27)全20頁
 *『大石寺 日道上人について(手)』(昭57・11・1)全72頁
 *『二箇相承について(手)』(昭58・3・11)全64頁
 *『日興跡条々事について(手)』(昭58・5・10)全68頁
 「日蓮の病気」について(手・朱・@)47〜50頁
 「身延から池上へ」について(手・朱・@)51〜52頁
 「波木井殿御報(池上到着御報)」について(手・朱・@)53〜55頁
 「六老撰定」について(手・朱・@)56〜57頁
 「日蓮の入滅および葬儀」について(手・朱・@)58〜64頁
 「日蓮の危篤と臨終」について(手・朱・@)65〜66頁
 「池上相承書の怪」について(手・朱・@)67〜68頁
 「墓所輪番制度」について(手・朱・@)69〜71頁
 「五老僧の身延離山」について(手・朱・@)72〜78頁
 「五老僧の身延離山の文証」について(手・朱・@)79〜83頁
 「日蓮の一周忌の大法要」について(手・朱・@)84〜85頁
 「日興の久遠寺別当就任」について(手・朱・@)86〜96頁
 「六老撰定の文証群」について(手・朱・@)97〜 102頁
 「日蓮の隨身仏(立像仏)」について(手・朱・@) 103〜 105頁
 「日蓮の隨身仏と注法華経」について(手・朱・@) 106〜 110頁
 「日興の身延離山」について その一(手・朱・@) 111〜 114頁
 「日興の身延離山」について その二(手・朱・@) 115〜 119頁
 「日円から日興への絶縁状」について(手・朱・@) 120〜 124頁
 「原殿書(原殿御返事)は偽書である」について(手・朱・@) 125〜 139頁
 「六老僧のスポンサー」について(手・朱・@) 140〜 146頁
 「日興の身延離山」について その三(手・朱・@) 147〜 151頁
 「日蓮の御影像」について(手・朱・@) 178〜 185頁
 「大石寺の御影(正御影)」について(手・朱・@) 186〜 193頁
 「重須の寺の『御影堂』」について(手・朱・@) 194〜 197頁
 「本六」について(手・朱・@) 198〜 200頁
 「本六、新六」について(手・朱・@) 201〜 205頁
 「大石の寺」について(手・朱・@) 206〜 212頁
 「日興没後の新六」について(手・朱・@) 213〜 215頁
 「道郷問題(蓮蔵坊争奪戦)」について(手・朱・@) 216〜 224頁
 「日興跡条々の事」について その一(手・朱・@) 273〜 281頁
 「日興跡条々の事」について その二(手・朱・@) 282〜 294頁
 「日興跡条々の事」について その三(手・朱・@) 294〜 313頁
 「日興跡条々の事」に関するE.T.C. その一(手・朱・@) 314〜 318頁
 「日目の天奏」について その一(手・朱・@) 319〜 325頁
 「日目の天奏」について その二(手・朱・@) 326〜 343頁
 「日目の天奏」について その三(手・朱・@) 341〜 347頁
 「日目の天奏」について その四(手・朱・@) 348〜 351頁
 「日目の天奏」について その五(手・朱・@) 352〜 356頁
 「日目の天奏」について その六(手・朱・@) 357〜 363頁
 「御座替御本尊」について その一(手・朱・@) 365〜 370頁
 「御座替御本尊」について その二(手・朱・@) 371〜 378頁
 「御座替御本尊」について その三(手・朱・@) 379〜 394頁
 「紫宸殿本尊」について その一(手・朱・@) 395〜 402頁
 「紫宸殿本尊」について その二(手・朱・@) 403〜 405頁
 「紫宸殿本尊」について その三(手・朱・@) 406〜 421頁
 「大石寺十七代の日精」について その一(手・朱・@) 422〜 435頁
 「大石寺十七代の日精」について その二(手・朱・@) 436〜 442頁
 「二箇相承」について その一(手・朱・@) 443〜 457頁
 「二箇相承」について その二(手・朱・@) 458〜 470頁

3678偶ロム偶ログ:2008/04/29(火) 03:47:42
つづきです。


ジョージ・左京名義のもの
 *『富士 大石寺の正体(ワープロ版)』(昭 ・ ・ )全 118頁
    蓮蔵坊争奪戦 まえがき ─────────────────  1頁
    日目と日郷 ───────────────────────  5頁
    蓮蔵坊争奪戦 その一 日郷と日道の争い ───────── 10頁
    蓮蔵坊争奪戦 その二 日郷と日行の争い ───────── 24頁
    蓮蔵坊争奪戦 その三 日伝と日行の争い ───────── 29頁
    蓮蔵坊争奪戦 その四 日伝と日時の争い ───────── 35頁
    記 その一 ─────────────────────── 41頁
    記 その二 ─────────────────────── 45頁
    あとがき ──────────────────────── 47頁
    日蓮正宗大石寺の重宝は、すべて贋物である ──────── 49頁
    「富士年表」の怪 ──────────────────── 53頁
    大石寺の「板本尊」は贋物である ───────────── 57頁
    大石寺の「最初仏」は贋物である ───────────── 78頁
    大石寺の「日蓮の御肉牙」は贋物である ────────── 92頁
    大石寺の「日蓮の遺骨」は贋物である ─────────── 105頁
    「日蓮の遺骨」に関する大石寺の作文集 ────────── 115頁

素記生名義のもの
 *『ダイジェスト 日蓮 PARTⅠ(ワープロ版)』小桜塾(昭61・1・15)全66頁
 *『ダイジェスト 日蓮(手書きコピー版)』素記生(昭61・2・ )全 102頁

3679スッタニパータ:2008/04/29(火) 11:24:15
また出したようですね。

http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%93%AE-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E5%B9%B9%E5%A4%AB/dp/4860952510/ref=sr_1_2?ie=UTF8&amp;s=books&amp;qid=1209435648&amp;sr=1-2

3680ろばくん:2008/04/29(火) 18:23:58
偶ロム偶ログ様、本当にありがとうございました。美濃さん、玉井さん、そのままの文ではないかと私も思います。

3681彰往考来:2008/05/04(日) 12:07:45

ろばくんさん

>3675 あつわらの愚癡の者ども
「聖人御難事」(真蹟:中山法華経寺蔵)にあります。御書での箇所は、堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』(昭和46年67刷(初版:昭和27年)、創価学会:以下「御書全集」と略します)では1190頁、立正大學日蓮教學研究所編『昭和定本 日蓮聖人遺文 第二巻』(昭和63年改訂増補版(初版:昭和28年)、總本山身延久遠寺:以下「定本遺文」と略します)では1674頁です。

以下はあくまで私個人の見解です。色々ご意見がおありと思いますがそれはそれとして、ひとつの考え方として読んでください。

まず御書では「愚癡」とあり「愚痴」ではありませんが、これは同じ意味のようです。一般的に「愚痴」とは、『広辞苑(第5版)』にあるように、「言っても仕方のないことを言って嘆くこと。また、その言葉」という意味で、「くどくどと愚痴を言う」とか「愚痴を言ってもはじまらない」といった用途に使われ、あまりよい使い方はしません。そのため「愚癡の者ども」とあると威圧的に感じ、何を偉そうに!というのが表面的な解釈でしょう。
しかしながら本来「愚痴・愚癡」は仏教語なのです。石田瑞麿著『仏教語大事典』(1997年、小学館、217頁)には、「【愚痴・愚癡】《梵mohaまたはmudhaの訳。痴とも訳する》愚かで思い悩み、ものの理非のわからないこと。また、そのさま。三毒煩悩のひとつ。 (以下略)」とあります。つまり「愚痴・愚癡」とは思い悩んだ状態を指すことが解かります。よって「愚癡の者ども」とは、信仰歴が浅く思い悩んだ人たちというような意味と解釈されます。熱原法難の際に、信仰歴の浅い農民信徒から日蓮聖人の説く内容に疑問の声があったろうことは容易に想像できます。したがって、「聖人御難事」では、「彼のあつわら(熱原)の愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ」(「御書全集」1190頁、「定本遺文」1674頁)とあって、励ましてあげなさい、決して脅かしてはなりませんと指導のポイントを書かれているわけです。続けて、「よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ」など非常に厳しい内容が続きます。この「聖人御難事」は農民信徒を指導する立場の弟子、つまり日興師や日辨師、に対して与えられた御書と判断できますから、直接農民信徒に対して与えられた御書ではないという点も考慮する必要があります。

「聖人御難事」に「あつわらの愚癡の者ども」とあるのは、「開目抄」(「御書全集」234頁、「定本遺文」604頁:真蹟身延曽存)に「我弟子ニ朝夕教ヘしかども疑ヒををこして皆捨てけん」とあるように日蓮聖人としては常日頃から説いてきたのに何故解からないのかというご心境だったかもしれません。日蓮聖人は非常に厳しい人であったろうと考えられます。真蹟のない録内御書ですが「佐渡御書」(「御書全集」961頁、「定本遺文」618頁:録内御書)に、「日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこは(剛)し」とあるのが参考となるでしょう。ろばくんさんが剛(こわ)い日蓮御房と距離を置かれるのは貴方自身のご判断で他人がとやかく言うことではありませんが、もし解釈が違うなら再考されてはいかがでしょうか?

ひと言でいうなら「愚癡」とは「疑い」であるという解釈も成り立ちそうです。なるほど、「癡」は「疒だれ」に「疑」とあります。「疑いを起こす病気」なのです。

最後に、管見に入った限り御書では「愚癡の者」という表現は「聖人御難事」以外では「撰時抄」にあります。また御書ではありませんが「富士一跡門徒存知事」にもあります。これらの箇所の前後を読む限り「ものの理非のわからない人たち」の意味で使用されていると考えます。「愚癡の者」という表現のある箇所は以下のとおりです。

「撰時抄」(「御書全集」265頁、「定本遺文」1018頁:真蹟玉沢妙法華寺他4箇所蔵)
「富士一跡門徒存知事」(「御書全集」1604頁)

By 彰往考来

3682豆腐:2008/05/04(日) 18:39:37
こんにちは、分からないことがあるので教えて下さい。

一谷入道御書に、
「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用いあるべからず」とあります。
これはどういう意味なのでしょうか。

ここでいう判とは印章ではなく花押のことだというのは分かるのですが、弟子が大聖人の花押を持つとはどういう意味なのでしょうか。
つまり、お手紙を弟子が持参しても、それに花押が認められてなかったら、それは私の書いたものではないので用いてはいけない。
という意味なのでしょうか?それとも弟子が大聖人の代わりにサインしていたという事?
よく分かりません。よろしくお願いします。

3683ろばくん:2008/05/04(日) 20:39:07
彰往考来さん、いろいろと詳しく教えていただき、ありがとうございました。

3684犀角独歩:2008/05/04(日) 22:14:11

豆腐さん、はじめまして。いちおう、当掲示板で過去に論じられたテーマで、その発言者であるので、記させていただきます。

> 日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず

正統な日蓮の継承者であれば、この意味を正しく解説できるでしょうね。
聞いて応えられない人を師匠と仰がなければよいことになります。

たしか、れんさんとの議論であったと思いますが、わたしはこの該当文は、漫荼羅に授与者を定めて認める「花押」であるという管見を示しました。漫荼羅は弟子である允可であり、そのために判を認めてあるということです。しかし、こう言ってしまうと、ほとんどお坊さんが、該当しなくなりますから、また、わたしは恨みを買うことになりましょうか(笑)

ちょっと、脱線させていただきます。わたしが記した彫刻本尊批判は日蓮門下を一生体と考えたとき、そのなかで、増殖し続ける癌細胞のような彫刻本尊信仰には有効な抗癌剤となります。しかし、この濫用は、日蓮宗本体を壊滅させる毒を孕んでいます。そんな意味で、わたしは日蓮宗に受け入れられることはないと自己分析しています。しかし、それでも事実究明の手綱を緩めるつもりはありません。

3685犀角独歩:2008/05/06(火) 20:52:50

3684への自己レス

抗癌剤は、しかし、正確に使用すれば、的確に効果を上げ、癌に働きます。そして、生体を助けます。
その意味で、この使用をためらうことに、わたしは不思議を感じます。
それは、むしろ、「日蓮宗が」というより、興風談所、とりわけ、山上さんに申し上げたいことです。

3686豆腐:2008/05/07(水) 10:19:31
犀角独歩さん こんにちは

ググッてみたのですが、この御金言に関しては解説がどこもバラバラで統一されてないんですよね。
私の頭が悪いせいか、どれも禅問答のような答えでよく分かりません。苦笑

ストレートに、大聖人の花押や在御判という文字が入ってない御本尊を持っている僧侶は
ニセものだから近づいてはいけないということでしょうか?

3687犀角独歩:2008/05/07(水) 21:32:13

豆腐さん

もし、相伝、相承というものが現にあり、かつ、いまに継続しているのであれば、この日蓮弟子を決定する決め事を記した文章を、その相続者は説明できるだろうというのが、先にわたしが書いたことです。


引用された遺文と、その該当とは、日蓮の時代の話でしょう。
「在御判」というのは、これは書写のお定まりですから、これは問題外でしょう。

日蓮が一谷入道に、こう書き送らなければならなかった背景を考えれば、既に、この時代に、自分は日蓮の弟子と自称する者がいたということでしょう。

本物の僧、偽物の僧というのは、なにを基準にするのかということで、ずいぶんと変わるでしょうね。しかし、本物の僧であると、では、どうなんだという問題も次にはあるでしょうね。

3688天蓋真鏡:2008/05/08(木) 01:40:56
法華経は諸経の王と言うよりは寄せ集めの軍隊でしょうか

3689マターリ:2008/06/28(土) 09:18:18
図書館で、日蓮に関する本を読んでいたら、「日蓮は、革命的な宗教家
だったが、呪詛をした点が惜しまれる。」と書いてある本がありました。

御書を見たところ、呪詛にあたる文が見つからなかったのですが、実際
は、どうだったのでしょうか?

ご教示のほど、お願い致します。

3690顕正居士:2008/06/28(土) 13:46:02
日蓮誹謗書として有名な『日蓮深密伝』の「祈祷奥義章」に祈祷によって起こした病は
祈祷者によってしか治せない。これぞ布教の奥義という話があります。
そんなところから出たのではないでしょうか。

『日蓮深密伝』は近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ にあります。
事実無根の誹謗書ですが荒唐無稽で面白い本ではあります。

3691パンナコッタ:2008/06/28(土) 14:09:11
マターリさん、
本の内容が解らないないので適切ではないかもしれませんが、
 「阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひる(昼)も高き山に登りて、
 日月に向かひて大音声を放ちて上を呪咀し奉る。其の音声一国に聞こふと申す」
という種種御振舞(曾存・真偽論アリ)のイメージから来ている物ではないでしょうか。

また、蓮祖自身も、
 『仏の御使ひとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、或は罵詈し、或は悪口し、或は流罪し、或は打擲し、
 弟子眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。これをば愚痴の者は呪咀すとをもいぬべし』
 【撰時抄・真筆現存】と、皮肉めいた(屈折した?)自己認識をしていたのかもしれませんね。
(呪詛→呪咀)は以前、彰往考来さんがご指摘なさっていたのでそちらを参照してください。

ちなみに最近までやっていた学会の打ち出し
 "6.15ストップ・ザ・アリーナ" なんかは現代の呪咀その物でしょうね。

3692マターリ:2008/06/28(土) 16:11:56
>顕正居士さん、パンナコッタさん、ご教示いただき、ありがとうござ
います。

>顕正居士さん、『日蓮深密伝』は明治時代の作なんですね。クリック
してみましたが、私のPCのOSが古いためか、表示できませんでした。

>パンナコッタさん、やはり、蓮祖は呪詛をしていたようですね。私が
読んだ本の題名は忘れましたが、蓮祖の一生についての解説本でした。

最後に3人ほどの解説者が短い感想文を書いているのですが、そのうちの
一人が、呪詛について書いていました。もう5年ほど前に読んだのですが、
その事が、頭の隅にこびりついていました。

ご指摘の "6.15ストップ・ザ・アリーナ" についてです。学会系の掲
示板に、それについて、法華講の人のカキコがあり、驚きました。埼玉で、
学会が「日蓮正宗の会合が失敗に終わるように」と唱題会を行っているが、
人の失敗を祈るのは、宗教とは言えないのではないか、というカキコで
した。

私は、埼玉から遠く離れているので、事情がよくつかめません。しかし、
宗教は、自分や人の幸せを祈るものであり、失敗を祈るのは、おかしいと
思っています。

その事に関して、他にも色んな掲示板をのぞいてみましたが、バリ学会員
が確信をもって、そうした唱題会を肯定しているのに、強い違和感を感じ
ました。相手が邪教なら、呪詛をするのは良いことだ、という考えのよう
です。

前に読んだ本と考え合わせ、蓮祖が呪詛をし、また、呪詛を肯定している
という証拠を、学会がつかんでいるのでは、と想像しました。

パンナコッタさんのお話を伺い、蓮祖は呪詛をしたようですが、現代は、
いまわしい呪術の時代ではないので、呪詛をすっぱり捨て去るべきだと思
っています。

3693パンナコッタ:2008/06/28(土) 22:07:48
マターリさん、どうも。
蓮祖が呪咀をしていたと云うより、
 "日蓮の言説・行動が呪咀をしているように周りから見られていた。
 蓮祖自身も、その様に周りから見られている自覚があった"
というニュアンスの方が、良いかと思います。
(第三者的には、他宗批判その物が呪咀そのものに映ったかもしれません)

学会の呪咀に関しては昭和三十二年十一月の質問会の席で、戸田さんがきっぱりと
「呪詛、相手を呪うような祈り、これは絶対にやってはイカン!!」と
断言していました。
 時代が違う、等と屁理屈を述べて学会員は正当化しようとするでしょうが、
師匠の師匠が禁止した事項を、組織の活動として打ち出す行為には、
会員に名目を与え邁進させる事のみを重視する、今の教団の体質なんでしょう。
更にバリの末端会員は疑わずにこれを遂行するため、知らずに歪んだ人格をも
形成されてしまうという、悪しき典型例のように思えますね。

正宗を擁護する気はむろん一切ありませんけど、この先学会は呪った分だけ
還著於本人に、なるでしょうね。

3694マターリ:2008/06/29(日) 07:52:22
>パンナコッタさん、早とちりをしてしまい、すみません。

日蓮が、あまりにも過激だったため、周りからは呪詛しているように
見られ、本人にも、そう見られている自覚があった、ということですね。
結論として、日蓮は、呪詛はしていなかった、とわかりました。

日蓮正宗は、法華講の人のカキコを見る限り、呪詛をしていないよう
です。しかし、その点で、創価学会の方が負けていると思います。
(日蓮正宗を擁護するわけではありませんが・・・。)

3695天蓋真鏡:2008/07/06(日) 17:55:52
一子相伝で無いなら、 学業の核心は漫荼羅内証若しくは唱題なのか

3696マターリ:2008/08/23(土) 20:49:53
ご教示のほど、宜しくお願いします。

御書の八幡宮造営事(弘安4年5月)に、日本の人口は、四十五億八万九千
六百五十九人と書いてあります。この事が3ページほどの短い御書に4回も
出てきます。

現在の人口の45倍という、とてつもない人口数です。人口調査などなかっ
た時代ですので、間違えるのも無理はありません。しかし、2倍とか1/2
までなら誤差として仕方ないですが、45倍というのは多すぎます。

59人と、1桁まで書いてあるということは、何らかの文献を参考にしたよ
うな気もします。

どうして、このような数字の間違いをしてしまったのか、文献を参考にし
たとしたら何なのか、ご教示いただければと思います。

3697問答迷人:2008/08/23(土) 21:08:50

マターリさん

当時、使われた「億」の単位は、現代に使われている「十千万」の意味と違って「十万」の事だ、と記憶しています。出典は不明ですが・・・・

3698問答迷人:2008/08/23(土) 21:13:35

大辞泉によれば

おく【億】1 数の単位。1万の1万倍。10の8乗。古くは万の10倍とも。

と書いてありました。この「古くは万の10倍」と言う事だと思います。

3699マターリ:2008/08/23(土) 21:57:40
>問答迷人さん、ご教示いただき、ありがとうございます。

鎌倉時代は、そもそも数字の単位が違っていたのですね。億が10万とす
ると、御書の四十五億八万九千六百五十九人は、約450万人ということ
のようです。

↓の資料によると、鎌倉時代の人口は約700〜800万人ということですの
で、誤差の範囲に入るとわかりました。

鎌倉時代からの日本の人口の推移↓
http://www.fujisue.net/archives/2005/06/post_603.html

3700犀角独歩:2008/08/24(日) 12:07:57

マターリさんと問答名人さんのやりとりを興味深く拝読しました。
少し気付いたことがあり、画像で説明したかったので、拙ブログに投稿しました。
ご批正いただければ有り難く存じます。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51397116.html

3703犀角独歩:2008/09/14(日) 10:35:09

彰往考来さん
れんさん

独学徒さんのHPの、彰往考来さんの『北山本門寺蔵「生御影」について』を拝読させていただきました。
http://xbbs.knacks.biz/dangisyo

いくつか疑問があるのですが、独学徒さんのHPではいずこにそれを載せてよいかわからなかったので、兄弟掲示板ともいえるこちらに投稿させていただきました。

彰往考来さんの結論は、いまの北山日蓮像は文政火災のあとの再造であるということでよろしいのでしょうか。

わたしは、彰往考来さんの結論とは別に、この日蓮像は、そもそも以下の記述で、再造品であると考えてきました。

正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の
御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録
以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後も若し弟子分中に相続
人と号して出さしむるの輩は門徒の怨敵大謗法不孝の者為るべき者
なり、謗法罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罸を蒙
るべし、盗人の科に於ては御沙汰と為て上裁を仰ぐべし、若し出で
来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門
徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日  日興御判。


しかし、たしか、れんさんが、この盗難事件はなかったとこちらに投稿をされた記憶があるのですが、この点は、如何なのでしょうか。

仮に、この盗難がなかったとした場合、日蓮御筆大漫荼羅にも躊躇なく書き込みをする日興のこと、もし、その生前にこの像があったのであれば、必ずや、日興の書き付けがあってしかるべきであると思えます。
いまのところ、そうした話は聞いたことがありません。よって、この像の真偽は押して図るべきであると思います。

無信仰なわたしからすれば、この日蓮像を裸に剥いて、書き付けを探すか、腹籠は何が入っているのかを、調査するのが、まず第一にするべきで、そこで、日興生前にあった像であると確定したのち、文献考証をしたほうが無駄がないと考えます。

彰往考来さんがお読みなったら、正中盗難事件に触れなかった理由を、れんさんがお読みになったら、盗難事件の実否につき、それぞれご教示をいただければ、有り難く存じます。

3704れん:2008/09/14(日) 19:28:53
犀角独歩さん

重須の日興在世の本尊盗難事件については、三位日順の“日順阿闍梨血脈”に記述があるので、‘あった’と考えますが、独歩さんの挙げられた置状を含めた日代宛て八通遺状は、石山の条々事と五十歩百歩の価値と思われますので、盗難に遭ったものが、この状の記述通りと断定出来ないかとは思います。
ただし、御影が日興在世の盗難で紛失したとすれば、仰るように日目・日仙・日善三師連名の日興上人御遺跡事に見える「日蓮聖人御影」(が木像ならば)は既にして再造されたものの可能性がありますね。

3705犀角独歩:2008/09/14(日) 19:38:10

れんさん

いつもながらご教示有り難うございます。
もう一点だけお願いできますでしょうか。

> 「日蓮聖人御影」(が木像ならば)

「木像ならば」という点ですが、先に挙げた文献では「御影像一鋪」となっています。この点は既に、どなたかがご指摘くださっていますが、“鋪”は「助数詞。地図など、畳みものの本を数えるのに用いる。」ということですから、絵像ということになります。となると、絵像は盗られたが、木造は残った、それとも、木造と思われていたものは実は絵像だった、どちらとお考えですか。

3706れん:2008/09/14(日) 20:08:19
犀角独歩さん

ご指摘の様に、置状の“鋪”は他の門下文献でも曼荼羅や絵像の数の勘定に使用されているので、置状の日蓮聖人御影一鋪の記述は木像ではなく絵像であったと愚考します。
御遺跡事に見える御影が木像か絵像かは分かりませんが、木像と仮定しますと、日興在世の盗難で、木像も盗難にあったならば、御遺跡事に見える御影は、日興在世の再造でしょうし、絵像のみの盗難ならば、木像は盗難されておらず、したがって御遺跡事に見える御影は、日興が願主として造立した初代御影木像の可能性があると思います。

3707犀角独歩:2008/09/14(日) 21:51:19

れんさん

重ねて有り難うございます。

> 御遺跡事に見える御影は、日興が願主として造立した初代御影木像の可能性がある

つまり、彰往考来さんの記述と併せると『御遺跡事』記述の段階では、日興願主のものであったが、その後、火事で燃え、再造されたのがいまのものであるという類推が成り立つわけですね。

いずれにしても、造立由緒が、像に書かれていないはずはなく、赤外線でも何でも駆使し、書き込みを精査し、腹籠の遺物を調べればわかることのよう思えます。また、そんなことがいままで唯の一度も行われなかったとは考えがたく、そうなると、この像は、やはり、日興から時を隔てた後世の作と結論せざるを得ませんね。

これが日興在世の作であるという証拠を北山は示す義務を負っていると考えます。

3708彰往考来:2008/09/15(月) 12:58:43

>3703-3707

すでにれんさんが詳細にわたってご説明されていますので重複しますが、

>彰往考来さんの結論は、いまの北山日蓮像は文政火災のあとの再造であるということでよろしいのでしょうか
そうです。そのとおりです。但し、初代生御影が日興師在世のものであるかどうかは不明です。私は初代も後世のものである可能性が高いと考えますが確証がありません。

>正中盗難事件に触れなかった理由
私は日代宛て八通遺状は偽文書と考えますので、その内容については懐疑的です。そうである以上は正中盗難事件を前提としたロジックは組み立てません。
なお、すでにご指摘のとおり、「御影像一鋪」とありますので絵像と判断され、木像ではありませんから、今回の議論と直接は関係ないと考えます。

なお、この「北山本門寺蔵「生御影」について」は別件で忙しく筆が止まっているのですが連載中です。

ご意見等は
富士教学研究会:談議所の「北山本門寺蔵「生御影」について」
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/4/44/
に投稿ください。

彰往考来

3709犀角独歩:2008/09/15(月) 13:51:10

彰往考来さん

> 私は初代も後世のものである可能性が高い…正中盗難事件に触れなかった理由…日代宛て八通遺状は偽文書と考えます…懐疑的…正中盗難事件を前提としたロジックは組み立てません。

盗難事件を扱わない理由が偽文書であるというのはわかりますが、そうなると、後世のもの=偽物である可能性がある木像を確証もなく、検証する理由は何でしょうか。論理として一貫性を感じませんが、如何でしょうか。

3710彰往考来:2008/09/16(火) 07:41:28

犀角独歩さん

>盗難事件を扱わない理由
ご質問の意味がいまいちよくわかりません。
盗難事件を扱わない限り北山の生御影を議論する資格はないというご主張でしょうか?

今、現前と木像が存在する。そしてそれは、鎌倉時代のものと称している。でもみる限り江戸期のものである。では検証してみようというロジックであり、盗難事件は関係ないと思います。

>後世のもの=偽物である可能性がある木像を確証もなく
これについて「北山本門寺蔵「生御影」について」の後半で、北山の生御影が江戸期のものである検証を予定していますので、現時点で論評は差し控えます。いつになるやら分かりませんが、引き続きご愛読願います。

彰往考来

3711犀角独歩:2008/09/18(木) 02:58:07

彰往考来さん

> 盗難事件を扱わない限り北山の生御影を議論する資格はないというご主張でしょうか?

資格? いえ、ぜんぜん違いますが。3703に記したとおり、日興門下の文書の中に正中盗難の件がありますので、こうした文書の証憑性は如何なものかと問うたのが始まりです。

まあ、今回は、質問をすると必ず飛んでくる悪口雑言がなかっただけ、安堵しています。落ち着いて、質問はできたものの、しかしながら、「意味がわからず」、また「差し控える」と仰る以上、質疑応答にはなりませんので、切り上げることといたします。

3712彰往考来:2008/09/18(木) 07:46:56

犀角独歩さん

>3711

当方もこれにて今回の質疑は終了します。

彰往考来

3713犀角独歩:2008/09/27(土) 19:32:42

ちょっと、読み直して、変だと思うので書きます。

質疑とは「疑い質す」ということで、わたしがしたこと。
それに対して「応答」がなかったので、やめたということですから、「今回の応答は終了」というのが、正しい日本語でしょうね。
まあ、どうでもいいですが。

3714犀角独歩:2009/01/13(火) 06:39:40

問答名人さんほか諸賢

◇熱原三烈士について

日宗全興門集を覧ていたのですが、『白蓮弟子分與申御筆御本尊目録事』には、以下のようにあります。

富士下方熱原郷住人神四郎兄
富士下方同郷ノ住人弥五郎弟
富士下方(郷住人)弥次郎

ところが、いま、熱原三烈士というのは、神四郎、弥五郎、弥六郎ですね。3人目の名前が違うわけです。富要で覧みると、この3人の名で書かれているのは日亨氏の『富士史料類聚』のみのようです。これは日亨氏の誤記がそのまま、用いられた可能性はないのでしょうか。

あと、昨日、mixi で、ちょっと書いて、こちらの参加の皆さんからもレスを頂戴したのですが、石山の熱原三烈士墓碑にやや疑問を持っています。

当スレ3173にきゃからばあさんがご投稿くださっていることですが、この墓碑に刻まれている名前は

中央 熱原住人 神四郎
右側 田中住人 四郎
左側 広野住人 弥太郎

とのことでした。ここでいう田中、広野というのは、地名ですね。熱原とは違います。名前も四郎、弥太郎ですから、違います。すると、この中で熱原法難に関連するのは、「熱原住人 神四郎」ということになります。

この墓碑の建立は弘化3年(1846)ということでした。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3173

『富士年表』で覧ると、この年、猫沢(富士郡芝川町だと思います)で法難が起こったと記されています。


地名の 田中 広野 猫沢
名前の 四郎 弥太郎

この墓碑が熱原三烈士以外の可能性はないのでしょうか。
墓碑の後ろにある日柱の碑文は、もとより、熱原三烈士以外を記したものを取り違えたのではないかという疑問です。
もちろん、断定ではなく、あくまで可能性として考えてみたいと言うことです。

皆さんのご賢察並びに、ご意見をお聞かせ願えれば有り難く存じます。

3715問答迷人:2009/01/13(火) 16:32:55

犀角独歩さん

この件、ずっと昔にも、当掲示板で考えた事がありました。

http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/boukoku.htm

この時の一応の結論は、大石寺は、三烈士の名前を知らず、日精の家中抄の記述に基づいて、誤って、碑を建てたのではないか、という事で終わっています。

根拠は、日興上人の弟子分帳に「在家人弟子分。富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。富士下方同郷の住人弥五郎、弟。富士下方熱原郷の住人弥六郎。」とあるというのが、その時の議論でした。
家中抄の該当箇所を引用してみます。

『亦大聖人よりは籠舎の人々に御書を下さる聖人御難抄と号するなり今重須に在り、其使も日興なり、籠舎の人々は熱原の郷の住人神四郎、田中の四郎、広野の弥太郎なり、残りは所を追ひ払ひ或は所帯を没収し財宝を奪ひ取り給ふ、同三年に法華宗の檀那三人をば頚を切つてぞ捨たりける、されば彼の三人の追善に大曼荼羅を書写し給ふ』(富士宗学要集第五巻152頁)

3716問答迷人:2009/01/13(火) 16:36:04

御免なさい、レス数を書くのを忘れました。

http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/boukoku.htm

192〜201レス付近です。

3717問答迷人:2009/01/13(火) 17:19:14

もう少し補足しますと、日興上人の弟子分帳は、富士宗学要集では在家弟子分の記載は省略されていますので、神四郎等の三人の箇所は載せられていませんが、独歩さんが仰るように、第九巻の資料類聚の257ページ、熱原法難の箇所に記載されています。これが、3715レスでご紹介した箇所です。

又、この件は、両山問答で北山から指摘されて、大石寺は詰まってしまいました。

「明治十一年十二月 権少教正玉野日志

御直筆に云く、一富士下方熱原郷の住人神四郎(兄富)士下方同郷の住人弥五郎(弟富)士下方熱原郷の住人弥次郎此の三人は越後房下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年挙信し始むる処舎兄弥藤次入道の訴に依り鎌倉へ召し上げられ終に頚を切られ畢ぬ平左衛門入道の沙汰なり、子息飯沼判官ひきめを以って散々に射て念仏を申すべきの旨再三之を責むと●も廿人更に以て申さざるの間張本三人を召し禁めて断罪せしむる所なり、枝葉十七人は禁獄せしむと●も終に放ち畢んぬと、又弘安二年十月十二日賜はる御抄を開山直写の本に云く、大進房弥藤次等の狼藉に至っては本源行智の勧に依て殺害刃傷する所なりと、知るべし事実人名人数並に皆御直筆に違す所伝何等を以て証とするや、請ふ明示せよ。」

3719問答迷人:2009/01/13(火) 17:47:42

もう一つ追加です。第九巻の資料類聚の257ページでは、三人目は「弥六郎」となっていますが、玉野日志は、弥次郎と書いています。日宗全興門集も、玉野日志も弥次郎なら、日亨氏の誤記の可能性が高いですね。まぁ、弟子分帳に直接当らないと判らない事でしょうが。

3720犀角独歩:2009/01/13(火) 21:25:12

問答名人さん

明晰なご教示、有り難うございました。
既に議論があったことでしたか。わたしはまるで記憶しておりませんでした。また、何故過去の議論に加わってもいなかったのですね。

三学無縁さんにお借りした日宗全興門集は手許にありますが、日志の書く如く「彌次郎」となっています。実際の正筆はどうなのでしょうか。

深く御礼申し上げます。

3721マターリ:2009/01/13(火) 21:49:31
法難について、日蓮聖人がどのような感慨をもっておられたか、調べて
いたことがあります。弟子の死というものを、どのように捉えていたか
を調べることで、建て前ではない、聖人の本音に迫りたかったからです。

日蓮聖人は、とても弁が立つ方ですが、御書を読んでも弟子の死につい
て、不思議なことに、あまり語っていないと思います。

小松原の法難では、鏡忍坊と工藤吉隆が戦死しました。熱原法難では、
三烈士が斬首されています。しかし、彼等について、日蓮聖人の言葉は
わずかだと思います。

悲しいときは、大地に身を投げ出して哭泣する聖人が、大切な弟子の死
に際して何故、言葉が少ないか、お教えください。

3722犀角独歩:2009/01/14(水) 00:22:00

マターリさん

3721 の視点、面白いですね。興味深く拝読しました。

3723問答迷人:2009/01/14(水) 08:46:59

犀角独歩さん

>三学無縁さんにお借りした日宗全興門集は手許にありますが、日志の書く如く「彌次郎」となっています。実際の正筆はどうなのでしょうか。

れんさんがこの件について、当スレッドの3172レスで、次のように述べられていますので、ご承知の事でしょうが、ご参加の皆様にご覧戴きたく、以下に転機させていただきます。

3172 名前:れん 投稿日: 2007/02/02(金) 15:41:41
犀角独歩さん
熱原の信徒三人の処刑日は、今となっては特定できないと思います。堀日亨師は神四郎追善の日興書写曼荼羅の書写年月日により、四月八日に比定してますが、四月八日に関しては、日興は仏生日に漫荼羅を書写する例が蓮師命日に続いて多いことを考えると、必ずしも、神四郎追善の漫荼羅書写日のみをもって、三人の処刑日と断定するには根拠が薄く感じます。日興写本の現存する弘安三年四五月頃の日蓮遺文に(いま、出先なので原文に当たれませんが)「先もそらごとなり…」云々と、熱原についてのべた下りがあり、おそらく、本消息の書かれた弘安三年春には熱原法難は終息していたと思われますから、三人が処刑されたのは、法難が勃発した弘安二年九月から日蓮遺文から法難の終息がうかがわれる翌年春の間と、大雑把ですが推定するしかないと愚考します。
さて熱原信徒の張本三人が特に斬首という厳しい処断を受けた理由は、日蓮の宗教活動は、幕府から見れば、元冠にて非常事態体制下にあった幕府の挙国一致の宗教政策に従わずに反対・反抗する“悪党”勢力であり、特に駿河は得宗領でしたから、厳しい姿勢と処断をもって、得宗権力が反幕府の“悪党”としての日蓮門下信徒の弾圧を行ったというのが実際ではないでしょうか。幕府(内実は得宗権力)は熱原の農民信徒に対する厳しい処罰を通じて、日蓮やその門下僧俗等の反得宗権力・反幕府的な宗教活動を牽制しようとしたというのが、当たらずとも遠からずの“理由”でありましょう。
熱原の三人の中の弥六郎と弥次郎の表記の相違は、現存する日興正本「本尊分与帳」は痛みが激しく判読不可ですが、江戸期の北山歴代である日優の写本では、「弥六郎」ではなく「弥次郎」となっており、かつての日興正本では「弥次郎」であった可能性があり、弥六郎は石山の所伝で次を六と誤読した結果の誤伝の可能性の方が高いと思います。

正本には当れないとすると、北山の写本に拠るしかないのでしょうね。

3724犀角独歩:2009/01/14(水) 17:54:07

問答名人さん

重ねてご教示有り難うございます。

また、れんさんには、先にご教示を頂いておりながら、失念をするというご無礼、平にご容赦ください。お詫び申し上げます。

ともかくも今回の疑問は、既に議論済みとのこと、落着した気分となれました。
御礼申し上げます。

3725彰往考来:2009/01/14(水) 20:42:02

横レス失礼。

過去の議論を蒸し返すようですが、

>おそらく、本消息の書かれた弘安三年春には熱原法難は終息していたと思われます

というのは違うでしょうね。

彰往考来

3726れん:2009/01/14(水) 21:14:53
彰往考来さん

先日は、御著述をお送り頂き、誠に有難うございました。先ずは、このことを深くお礼申し上げます。


熱原の法難の余波は、弘安三年七月の南条氏宛の宗祖御遺文に見える新富士の神主のことからも、続いたことは勿論、分かるのですが、問答さんが引用された私の文章の意とするところは、熱原法難にかかる“一連の訴訟の終わりの時期”というニュアンスで書きました。


もし、差し支えなければ、熱原法難の終息の時期に関する、彰往考来さんの御高見を御披瀝頂ければ幸甚です。

3727犀角独歩:2009/01/14(水) 21:22:31

相変わらず、高飛車な書き方ですね(笑)

3728れん:2009/01/14(水) 21:24:18
犀角独歩さん

いえいえ、私の方こそ、独歩さんの鋭い視点から、学ぶこと頻りです。こちらの方が独歩さんより、多くの学恩を頂いているのですから、寧ろ私への気遣いはご無用に願います。

3729犀角独歩:2009/01/14(水) 21:27:01

れんさん、別段、あなたに対して、気遣いをしているわけではありません。
こちらでは、証拠を挙げて論じるというのが常道です。

単に違うと書くだけであれば、荒らしのような印象を受けるという意味です。
「違う」と書くより、かくかくしかじかという理由で違うと書くのが、こちらのよい習慣であったのに残念だという意味でもあります。

3730れん:2009/01/14(水) 21:42:12
犀角独歩さん

仰る通りですね。

私の先の浅慮の投稿で、逆にご不快の念をお与え致しましたこと、深くお詫び申し上げます。

        れん拝

3731犀角独歩:2009/01/14(水) 21:44:23

れんさん

いえ、違いますよ。わたしは彰往考来さんの投稿について、記しました。

3732彰往考来:2009/01/15(木) 08:03:14

管理人さんへ、

スレッド3727の
「相変わらず、高飛車な書き方ですね(笑)」
というのは、

【禁止事項】
2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。

に該当しませんか?
注意喚起も、削除もありませんので該当しないというお考えでしょうが、それであればいたしかたありません。私は「該当する、少なくとも“非礼・無礼”な侮辱発現だ」と思っていますので見解が異なりますから、私がこの掲示板に参加することは混乱を招くだけと考えます。お世話になりました。さようなら。

れんさんへ、

貴殿からのご質問については別途回答します。上記考えから当掲示板に投稿するつもりはありません。

彰往考来

3733管理者:2009/01/15(木) 08:24:54

彰往考来 さま

>見解が異なりますから、私がこの掲示板に参加することは混乱を招くだけと考えます。

管理者の判断は、灰色です。もう少し成り行きを拝見させて戴きたいと考えていました。従来も、誰が見ても、真っ黒な場合は別として、少し経過を見させていただいてから、注意喚起をさせていただいております。

ご理解賜れますれば幸いに存じます。

3734彰往考来:2009/01/15(木) 23:13:04

管理人さま

本件は私に対する侮辱発言と考えています。
だれがどう思うと、私がそう感じたのですから侮辱発言以外のなにものでもありません。
よって、私は警告もしくは削除を求めているわけでそれ以上のなにものでもありません。
管理者として灰色というのは私は納得できないのですが、それはあくまで私自身の考えです。

管理人さん、あなたがどう思うかなのですよ。灰色ではないでしょう。白黒をつけなさい。逃げてはいけませんよ。
彰往考来が正しいのか、犀角独歩さんが正しいのか二者択一なのです。

私はあなたの決定に従います。犀角独歩さんが正しいならそれも可。

もっともそれなら私はこの掲示板から去るのみです。こんなことで議論している時間は私に残されていないのです。

私は昨年、肺線がんの申告を受けました。国立がんセンター東病院に入院しました。
残念ながらリンパ節にも転移しており手術できない状態でした。
抗がん剤と放射線治療を受け、なんとか職場復帰もしました。
でも私のステージでは5年生存率は20%です。どういうことかおわかりでしょう。

残された命をどう使うか、これは私の問題です。しかし、侮蔑発言を許すことはできないのです。

管理人さん、

もう少し、考えていただけませんか? この掲示板おかしくありませんか?
このような侮蔑発言に対して灰色だという姿勢を! まともではありませんよ。
その姿勢でどれだけのまともな人たちがこの掲示板を去っていったことがおわかりですか?

彰往考来

彰往考来

3735:2009/01/16(金) 03:44:49
 この掲示板は独歩さんには大甘である。

彼は自分が侮蔑されたと感じると即刻抗議と削除要請をするが、

自分が発する他を睥睨する傲慢さにはまったく無頓着であり、気がついてもいない。

削除要請は正当である。 (過去に数度投稿のご縁があった者の意見です)

大病見舞い申し上げます。為すことはひとつ。

3736犀角独歩:2009/01/16(金) 06:31:54

彰往考来さん

まずはお見舞い申し上げます。
心安らかに療養なさってください。

さて、今件に関する決済は管理者さんの一存ですから、わたしはどのような判断であろうとそれを受け入れるつもりです。これが大前提です。

あなたとのやりとりには、必ず加勢が出てきて、わたしを侮辱するということがずっと繰り返されてきました。それもいちおう甘受しましょう。

あなたは、わたしの発言が、禁止事項2に当たる、そうお感じなったと言うことでした。しかし、わたしが「高飛車だ」と言ったのは、むしろ、あなたの態度が問答名人さん、れんさんに対して、禁止事項といわないまでも失礼ではないかと思ったからです。

今回の質疑応答は、3714に質疑を発し、それに対して問答さんは、懇切丁寧に3715から3719、さらに3723と再三に亘り、長いコピぺを労をも惜しまずになさってくださり、そしてれんさんの過去のご投稿もご提示くださったわけです。
こうした学恩に対して、敬意を表すると共に大いに御礼を申し上げたそうした経緯があります。それをただ一言「違うでしょうね」と打ち消す様は、実に傲慢に映じた。よってわたしは「高飛車だ」と記したのです。

こちらの掲示板は、挙証をもって論じることを佳きルールとしてきました。それをただ一言を持って否定するような在り方にはわたしは納得できない。また、あなたは個人的にれんさんには応えるが、こちらでは投稿しないと言いました。こうした様は、単に知識の在る様を示すだけ示して、こちらへの挙証議論はしないということでしょう。そうした態度自体、こちらの掲示板の佳き有様を貶す態度であると映じます。

いずれにしても、今件はわたしの質問に端を発し、それに懇切丁寧に応じてくれた問答さんへの慈悲を前提に、それに対するあなたの発言、そして、それに対するわたしの発言という構造で判断されるべきことであると考えます。単にわたしの発言だけを切り出して、抗議するというあなたの在り方自体は、自分の発言がどのように映ったかという前提が欠落しているのではないかと、指摘することに留めます。あとは管理者さんのご判断に委ねることといたします。

3738管理者:2009/01/16(金) 08:01:21

彰往考来さん

>彰往考来が正しいのか、犀角独歩さんが正しいのか二者択一なのです。

「高飛車」というのは、「相手に対して高圧的な態度をとること」と言う意味ですが、それが、直ちに侮蔑発言になるかというと、これは灰色であると管理者は判断いたしました。当掲示板に言うところの侮蔑発言というのは、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」と規定されていますが、直ちにそのどれかに該当するとは、管理者は判断できません。彰往考来さんの書き込みは、何の説明もなしに、「それは間違っているよ」と言われた訳ですから、客観的に見て、「高圧的」と見られても止むを得ない面が有ると思います。「高飛車な書き方ですね」との書込みに対して、「侮蔑発言」と直ちに判断する事は出来かねます。


愚さん

ご意見、今後の糧として拝聴させていただきます。


管理者の判断は、やはり「灰色」と言う外有りません。ご理解賜りたく存じます。

3739彰往考来:2009/01/16(金) 08:14:54

管理人さん、

ご趣旨は理解します。
ただ、灰色ということは半分は認めているということではありませんか。

>客観的に見て、「高圧的」と見られても止むを得ない面が有る
これはそのとおりですね。

>、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」と規定されていますが、直ちにそのどれかに該当するとは、管理者は判断できません

少なくともスレッド3727の
「相変わらず、高飛車な書き方ですね(笑)」
というので、最後に“(笑)”が書いてある以上、非礼であり無礼であると考えます。
私にとっては灰色ではなく黒なのです。

本件で、議論応報はしたくありませんので灰色が最終決着ということであればそれに従います。

私はこの掲示板には今後投稿しないと申し上げましたが、れんさんのお考えに対して違うと言った以上、少なくともれんさんに対してはお答えする必要があると考えます。従って別途回答すると申し上げたわけです。

さて、この続きはどうしましょうか? 
喧嘩両成敗ではありませんが、3725と3727の双方を掲示板に対する非礼と認め、3731と3732を含め削除される、もしくは双方に管理人さんから警告を発するのであれば、本掲示板に、れんさんのお考えに対して私論を投稿します。

彰往考来

3740管理者:2009/01/16(金) 08:47:59

彰往考来さん

了解しました。別途、3725レスと3727レスに関して、管理者からのお願いスレッドにて、掲示板書き込みについてのお願いを申し上げます。

3741そううそ:2009/01/25(日) 21:35:14
こんばんは。
そううそです。

「四箇格言の功罪について」のタイトルで議論を進めて頂けないでしょうか?

現代人が納得できる日蓮教学 - 富士門流信徒の掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/

某所で学会員と思われる人と議論した時に当然のように他宗批判を行い、
その根拠として他力本願を取り上げていました。本来の他力本願の意味も
よく分かっていないようでした。他力本願自体はこちらのBBSの主旨から
外れますのでせめて、日蓮の四箇格言がどんなものか書かれていると良いと考えます。
折伏思想と絡んでいると思いますが、根拠となる経文や仏教的な思想なのか?
現代に通用するかどうか?

創価学会などの正宗信徒が四箇格言を持ち出し他宗を批判、あるいは
非難し、誹謗中傷する。地獄に堕ちるなどの脅迫を行うのは問題だと思います。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/485
>この問題は日蓮系では既成宗派も例外でない。
>なぜなら「四箇格言問題」が解決していないからです。

御願いばかりで申し訳ありませんが、富士門BBSの皆さんが色々と議論すると
見えてくる物があると考えます。

ではでは

3742あやめ:2009/02/23(月) 09:18:30
大石寺の宗規について教えて下さい。

正宗には本尊没収とかの罰則規定はあるのでしょうか。
つまり国法を犯した者。殺人とか巨額の詐欺事件とかを犯した者は
本尊没収に処するみたいな。あくまでも世法での話しです。
よろしくお願いします。

3743問答迷人:2009/02/26(木) 13:28:05

あやめさん

>つまり国法を犯した者。殺人とか巨額の詐欺事件とかを犯した者は本尊没収に処するみたいな。あくまでも世法での話しです。

創価学会では、刑事犯をよく除名にしますね。日蓮正宗では、そんな話は聞いた事は有りませんね。勿論、宗制宗規にもそういう項目は無かったと思います。

3744問答迷人:2009/02/26(木) 13:30:47

追伸です。

但し、創価学会でも、本尊を没収したという話は聞いた事は有りません。返してくれ、という要請ぐらいはするかもしれませんが。

3745宮本:2009/02/26(木) 18:38:43
横レスで失礼します
あやめさん
問答迷人さんへ
 補足的に説明しますと
 創価学会では、除名と決まった時点で、原則として
 統監(会員の管理手続のシステム)
の関係があって、本尊の返納を本人に求めます。(御本尊返納手続)
 理由のひとつは、当該会員が、監獄に収監されると思われる場合、長期の
 間、本尊が、ほったらかしになる可能性があるからです。

3746あやめ:2009/02/27(金) 16:35:22
問答迷人さん、宮本さん、レスありがとうございます。
そうですか、宗規にはないのですね。

>本尊が、ほったらかしになる可能性があるからです。

なるほど、たしかにその通りですね。

3747独善:2009/02/28(土) 23:29:03
まったく、その通り。完全にアウェーな掲示板です、普通の人は、ウンザリしています。

3748北斗☆:2009/04/28(火) 03:18:54
皆様、初めまして。

超初心者ですが、よろしくお願いします。

早速質問なんですが「日興」が「白蓮阿闍梨 日興」と名乗り出したのはいつ頃なんでしょう?
それから「本尊七箇相承」は、いつの時代の「遺文」なんでしょう?

是非教えて下さい。

よろしくお願いします。

3749顕正居士:2009/04/28(火) 20:54:12
>>3748
白蓮阿闍梨 祖滅後です。
本尊七箇相承 室町時代。口伝は「遺文」ではありません。

3750北斗☆:2009/04/29(水) 00:56:05
>3749:顕正居士さん


「白蓮阿闍梨」と名乗り出したのは日蓮死後ですか!

初めて知りました。

>口伝は「遺文」ではありません。
それは、失礼しました。

お答えありがとうございました。

3751北斗:2009/05/22(金) 21:22:56
皆様はじめまして。

初心者ですが、宜しくお願いします。

まさに「素朴な疑問」なんですが、あの大石寺は過去に「邪宗身延派」の本山に「参拝」しに行っていたとの資料をウェブ上で見つけました。

この情報って、信用出来ますか?

ネタ元は「地湧」なんですよ…
信用していいのか、悪いのか…

3752顕正居士:2009/05/26(火) 15:00:40
「日蓮正宗」という宗派が出来たのは明治の末年です。
ルター派、カルヴァン派に見られる「分派(sect)」ですが、日本ではめずらしい。
しかしその後にこの宗派が著しくカルト化したのは創価学会との抗争の結果です。
大石寺の坊さんもいまのところは立正大学で学んだ方たちがまだ主流ですが…。

3753宮本:2009/06/02(火) 01:32:06
 北斗さんへ
 大石寺が、身延派と交流していたのは、本当のようですね。
 ただし、教団の大きさといゆう点でみると、当初、身延派は、
 メジャーの大リーガーですけど
 大石寺は、マイナーリーグの球団のような違いじゃないのかな。
 で、邪宗身延派といゆう表現でなくて、日連宗の身延派といゆう
 表現にしてね。

3754通りすがり:2009/06/02(火) 13:08:39
身延派という表現はありませんね。
日連宗ではなくて、日蓮宗。
日蓮宗は日蓮宗であって、身延派という呼び方は、カルト化した大石寺系の
教団が言い出したものではないでしょうか。

3755れん:2009/06/02(火) 16:22:52
現在の日蓮宗は、一致派と旧本門宗・旧顕本法華宗の合同宗派ですね。
たしかに身延山を祖山とする点で身延派といえるかもしれませんが、日蓮正宗の様な単一門流の宗派ではないので、石山や創価の認識と、日蓮宗の実際は違うものと言えるでしょう。

3756彰往考来:2009/06/03(水) 07:52:02

創価学会では邪宗日蓮宗(最近は他宗という表現が多い)とか身延派という表現が多々みられますが、管見に入った限りでは石山・創価系を除く日蓮宗関連の書籍・文献で身延派という表現は見当たりません。
つまり現実には身延派という宗派は存在しないのです。3754でのご指摘どおりでしょう。

3757宮本:2009/06/03(水) 07:58:51
おっと、私の間違いですね。ごめんなさい。

3758犀角独歩:2009/06/03(水) 08:09:33

わたしは過去、数回、新潟県に講演・講師に行きました。敢えて、名前は伏せますが、会場となったとある寺院では入口の看板に「日蓮宗身延派○○寺」と書いてありました。

日蓮宗では、創価学会や顕正会への反論で「身延派なんかない」といったりしますが、実際は、上述したような例はあります。

ここの寺院住職がどんな意図で「身延派」と寺門に刻んだのかは確認しませんでしたが、取り敢えず、一例として、紹介しておきます。

3759プーさん:2009/06/04(木) 23:24:01
で、貴方はそういう宗派の誤った独善主義を掲揚したいのですか?

3760宮本:2009/06/05(金) 21:58:42
れんさん、彰往考来さん、犀角独歩さん今晩は。
>彰往考来さんへ
 僭越とは、思いますが、お体の調子は、どうですか。

今、他のサイトにある彰往考来さんの論文、
拝見していたところです。ちょいと私の頭では、なかなか理解できていない
ので、もう少し時間をかけ、何度が拝見させてもらいます。

>犀角独歩さんへ
 久しぶりです。へー新潟県に講演とは、いいですね。
私の友人の作家さんも、方々に講演に行っていますが、
言った先での、おもしろい話やら、なんだかんだと
話しています。もちろん、私の方は、碩学でもなく、
一書を世に出したわけでもありませんが。

3761彰往考来:2009/06/06(土) 11:04:05

>3760 宮本さん

ご心配をおかけしました。今、調子はよく、薬ももう飲まなくなり経過観察の最中です。
医師からはアルコールも解禁となっています。ただちょっと疲れやすいので無理をせずにというところです。

彰往考来

3762犀角独歩:2009/06/06(土) 21:19:49

宮本さん

新潟への講演、たぶん、2度と行くことはないと思います。

もし、行くことがあれば、衆生無辺誓願度を文字通り、日蓮宗は実行している証拠ということでしょう(笑)

3763通りすがり:2009/06/06(土) 22:09:04
あれ?犀角さん日蓮宗と何かあったのですか???

3764北斗:2009/06/08(月) 12:58:32
3753:宮本さん

やはり大石寺は身延門流と交流があったのですね。

過去に交流がありながら、大石寺は「邪宗身延派」とか言うんだから、私からすると「呆れて」しまいます。

>で、邪宗身延派といゆう表現でなくて、日連宗の身延派といゆう 表現にしてね。


この「邪宗身延派」と言う表現は、上記のような意図から使ったものです。

他意はありません。


3756:彰往考来さん、3755:れんさん、3754:通りすがりさん

身延派と言わないのは、しっかりとは私は「認識」していませんでした。(但し、門流は知っていました)てっきり「通称」として日蓮宗内で使われているもんだと思ってました。

ご指摘ありがとうございます。

3765顕正居士:2009/06/08(月) 17:36:39
日興門流は八本山の中の五山が富士にあるので場所をとって富士門流ということはあります。
「富士派」は大石寺が日蓮宗興門流から脱退し単立した際に日蓮宗富士派と称した(だから
富士派=大石寺派で富士派=富士門流とはいえない)。対して日蓮宗身延派という呼称は
歴史上にありませんが、日向門流を場所をとって身延門流ということはできます。その場合には
あくまで日向系だけを指します。
日蓮に始まる宗派の歴史上の名称である「日蓮宗」と法人名を区別する場合には「単称日蓮宗」
といいます。江戸時代にすでに身延山は大勢力でしたが、近代に単称日蓮宗が日蓮教学の
主流を制したのは金沢の充洽園学派出身の優陀那日輝とその門弟たち(日薩・日鑑・日修)の
活躍によります。宗学を近代化したこの学風を「大崎教学」と称します。立正大学の主流の教学
です。ただし浄土真宗両派と比較すると教学の近代化といっても相当な見劣りがあります。

3766ケン:2009/06/09(火) 18:22:08
顕正居士さん

>3765
>宗学を近代化したこの学風を「大崎教学」と称します。
>・・・ただし浄土真宗両派と比較すると教学の近代化と
>いっても相当な見劣りがあります。

とのことですが、「教学の近代化」とは、具体的には
どのようなことを意味するのでしょうか。
仏教(宗教〕一般について、あるいは、日蓮教学に
おける「大崎教学」での近代化の内容や、浄土真宗両派に
おける近代化の内容について、基礎的なことをご教示いた
だければ幸いです。

ボクは、30年ほど前の日蓮正宗創価学会時代に
創価学会教学(教学?)をほんの少々かじった
ことがある程度の初心者で、それ以降は、
特に勉強はしていませんので専門的なことは
理解できません。恐縮ですが、とりあず、
基本的なことのみで結構ですので、宜しく
お願いいたします。

3767顕正居士:2009/06/10(水) 18:16:34
教学の近代化とは形式的には正典の編纂、客観的な宗学の研究を行なう機関の設立、
内外の研究者の論文を掲載する学報の発行でしょう。それぞれ昭和定本、宗学全書、立正大学、
大崎学報として実現しています。
これらの形式の実現には前提として科学的思考が必要です。16世紀には西洋の天文と地理の
知識が伝来しましたが、江戸時代の仏僧は須弥山説を墨守し続けました。知識を求める人達は
儒学、洋学、国学を学び仏学は顧みないようになりました。
しかし儒洋国三学の科学的思考の影響下についに富永仲基と服部天遊が現れて科学的仏教学
の端緒が開かれました。富永の『出定後語』に依って迷信的仏教を批判した著に平田篤胤の
『出定笑語』があります。優陀那日輝は仏書を読む前に平田氏のこの書を読めと奨めています。
日輝は仏縛、祖縛、自縛の三縛を離れよと説きました。正しい知識に至るためには釈尊や日蓮の
説、また自己の信念にも捉われない必要があります。彼の宗学上の大功績は立正安国論を
全面的に否定したことです。徳川泰平の世に安国論は無用であるが、鎌倉時代にも無用だったと。
安国論は関西の宗教戦争の論理を関東に輸入しようとした書です。北条氏の信仰自由の政策に
よって関東は比較的に平和であったが、関西は信長と秀吉の比叡山、本願寺、雑賀寺等の討伐
まで宗教勢力が戦国大名並の武力を備えていました。
日輝は19世紀前半の鎖国下の仏僧として実に科学的思考ができていたと思います。(続きます)。

3768ケン:2009/06/10(水) 20:37:23
顕正居士さん

具体的で分かりやすい解説を頂き、ありがとうございます。
優陀那日輝の名前は記憶がありますが、立正安国論を否定した方だったとは、吃驚しました。
続編を楽しみにしております。

3769犀角独歩:2009/06/11(木) 18:03:06

TT さん

はじめまして。本尊を買うということでしたら、例えば日蓮宗新聞の売店では、日蓮宗教師の紹介があれば、宗定漫荼羅のレプリカは買えるんだそうです。
日蓮の筆っぽい掛け軸型ならば、仏壇屋で買えます。

お示しの安82、要は大石寺が言うところの紫宸殿(師資伝)本尊は、レプリカはないとは思います。

いつであったか、顕正居士さんが、該当のサイトから画像をダウンロードして、本尊とする風潮が海外にあるというお話をしてくださいました。
善い紙を選んで、表具をしてもらう方法もあろうかと存じます。

実際、わたしが懸けている本尊は大縫さんが、質のいい印刷をされた者を表具師に依頼して仕立てたものをくださったものです。安92本能寺所蔵、弘安3年5月8日本尊の実寸より小振りのものです。

日蓮宗では、坊さんに依頼して、開眼、裏書きをしてもらって、正式な本尊とするのだそうです。わたしは、その必要を感じないので、そのまま懸けました。
そうした法儀を望むのであれば、どなたか願いを聞いてくれる坊さんをお探しになればよろしいかと存じます。

3770犀角独歩:2009/06/11(木) 18:04:23

TTさん、こちらは、管理者さん用のスレなので、以下に移動しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3769

3771顕正居士:2009/06/11(木) 23:39:28
(続き)新政府の神仏判然令と三條の教憲はさすがに仏僧達に危機感をもたらしました。
仏教は基本的に現世の事柄に関わらないので人々が信仰する神々を守護神として内部に
取り込むことによって利益や祟りの信仰を成り立たせていたからです。それが強制的に
分離されかつ神々のほうが仏菩薩の上に立つことが明示されました。
仏教が迷信でないことを示すしか生存の道がないと考えた僧侶達は西洋の仏教学を学び
あるいは戒律を復興し宗派の改革をはかりました。単称日蓮宗もいちおう近代化しました。
しかし明治以後、今日まで名高い仏教学者というと真宗両派の人が圧倒的に多く、
曹洞宗がこれに次ぎ、日蓮宗各派の人というと宗学者以外には実に乏しいのです。
これはむろん勢力の違いはあります。宗派の実勢は僧侶数でかなり正確にわかります。
現在、単称日蓮宗の僧侶は約8千名で日蓮正宗の10倍、日蓮諸派合計の8割を占めます。
しかし真宗大谷派はその倍、真宗本願寺派は4倍、真宗九派合計すると実に8倍もおります。
分派無しの曹洞宗は約倍です。日蓮宗や日蓮諸派は三大宗派の中では相当に弱小です。
とはいっても勢力の問題だけではなく、日蓮教学自体が真宗教学のようにインド仏教からの
発達として合理化ををはかれるような状況にないのもたしかに見えます。

3772ケン:2009/06/12(金) 08:13:00
顕正居士さん

ありがとうございました。

関連質問として、もう2点だけご教示下さい。

1点目は、
>日蓮教学自体が真宗教学のようにインド仏教からの
>発達として合理化をはかれるような状況にないのもたしかに見えます。
とのことですが、ここで「状況」というのは、何か教義・教学の性格的な
面で本来的に差異があり、日蓮教学は、合理化ないし進化・発展を困難に
するような教義的要因をもともと含んでいるということなのでしょうか。
それとも、宗派がおかれている何らかの社会的/経済的環境面とか、
宗派内部の組織的な体系面とかに何か問題があるということなのでしょうか。

2点目は、仏教系研究者・専門家の多くが、現在目指している研究の方向とか、
注目しているトピックスのようなものがありますか。
あるいは、ここ四半世紀ないし半世紀ほどの間に、研究者・専門家に
注目された著名な研究成果はどのようなものでしょうか。

宜しくお願いいたします。

3773顕正居士:2009/06/12(金) 15:51:36
親鸞には『教行信証』、道元には『正法眼蔵』という大著があり、すでに宗祖において十分教義が
安定しています。対して日蓮には本尊抄など多少理論的な著があるものの、遺文の大半は別の
五時のごり押しと久遠実成があるから本門が迹門に勝れるという理屈に尽きています。
別の五時をごり押せば法華観経同時で終ってしまう。本門に久遠実成があるからといって本門の
実相なるものが別にあるのか?日蓮宗が成立するための根拠が日蓮の遺文には明らかでない。
室町時代の大勢は天台宗の新教義を学び日蓮的にアレンジした口伝を作り、本門独自の実相を
述べ、他宗批判を一時の方便として後退させる方向に行った。この完成態が『御義口伝』であり、
日蓮諸派の実際の主要聖典になった。日蓮教義もいちおう安定をみたのですが、近代の文献学
はこの著が宗祖に遡れないものであることを示しました。しかし宗祖の段階では教義が未完成で
あったことを素直に認めるべきでしょう。日蓮宗の場合は宗学の議論に精力を費やし、仏教史上の
地位の考察にまで及ぶ余力がなかった。
日本仏教の研究の新動向としては鎌倉新仏教なるものの過大評価の修正、旧仏教の再評価、
また親鸞、道元、日蓮ともに本覚思想の発達過程で現れた思想家として内容上大差がないものと
認める方向があります(SGIの英訳日蓮遺文の翻訳者ジャクリーン・ストーン氏など)。
インド仏教の研究の新動向としては大乗仏教が部派仏教から発達したものとする説が有力に
なって来ています。

3774ケン:2009/06/12(金) 19:14:27
顕正居士さん

ありがとうございました。

私の基礎学力がもともと不足しているため、
ご解説を完全に理解するには至りませんが、
問題の所在は非常によく分かりました。
また、最近の動向についてもありがとうございました。

3775TT:2009/06/12(金) 21:56:28
ご指導ありがとうございます。
本能寺の本尊は、写真集から印刷されたんですか?

3776TT:2009/06/12(金) 22:03:10
犀角独歩 様

重複してしまい申し訳ありません。
私も、日蓮仏法を信じてやっていますが、大石寺教学では
もう話にならないことがわかりました。
本能寺所蔵の本尊のレプリカは、入手する方法はありますか?
また、失礼ながらご指導賜りますよう、御願いを申し上げます。

3777TT:2009/06/12(金) 22:15:43
犀角独歩 様

私も、同じく開眼や相伝などは、信じておりません。
坊主を堕落させる教義であり、聖祖の意でないことが明確に把握できます。
どうか、私はまだまだこれから勉強しなければいけないと思っていますので
どうか、これからもご指導、ご鞭撻、賜りますよう御願い致します。

3778犀角独歩:2009/06/13(土) 06:02:39
TTさん

こちらは、管理人さんのご意向で「さん」付け統一です。
わたしもそのようにいたしますので、お気軽にどうぞ。

さて、お尋ねの件ですが、所蔵の複製は大縫さんから頂戴したもので、特に販売されていたものではありません。

日蓮仏法については、問答名人さんが運営されるこちらの掲示板で、価値ある議論が多くなされてきました。

また、碩学の顕正居士さんのご参加もあります。
わたしも及ばずながら、お応えできることは何なりとお応えさせていただく所存です。

3779TT:2009/06/13(土) 10:38:26
管理人さん
大縫さん
顕正居士さん
犀角独歩

これから、お世話になります。
TTでございます。
教学について、ご指導いただければ幸いでございます。
何卒、伏してお願いを申し上げます。

3780TT:2009/06/13(土) 10:40:27
犀角独歩さん

手前に犀角独歩さんに、さんが抜けてしまいました。
大変に申し訳ありません。

3781TT:2009/06/15(月) 07:03:52
勤行というのは、どのようにすればいいのですか?
わかる方いらっしゃいましたらご指導宜しくお願いします。

3782そううそ:2009/06/17(水) 02:18:14
こんばんは
TTさん
はじまして、ハンドル名、「そううそ」といいます。

 そのうちどなたかがきちんとコメントしてくれると思いますが
あくまでも私個人の考え方を少しだけ書きます。

経文とは何なのでしょうか?
それを読む意味って何でしょうか?

経文を読んで書かれている内容を参考にして自分で考え、
困っている人や悩んでいる人を目の前にして救いの言葉や行動を
「与える」事が経文を読む目的だと私は考えています。
様々な経典には過去、人が納得出来たり人が救われたという
事実に近い記録や妄想、あるいは思想が書かれていると思います。

いろいろあると思いますが、一つ言えば病気の人がいれば
薬で済ませるか手術して直すかの手順書みたいなものでしょうか?

この病気にはこの薬。
この臓器の手術方法はこの様に。
とある不安や悩み事を抱えている人には「だいじょうぶだよ?」「こんな経験をした人がいるよ?」

対処、対策、言葉はなんでも良いですが、助け方を知らないよりは知っていた方が良いと思います。
ですから経文を読む目的は 「知ること」「記憶すること」 ではないでしょうか?
経文を日々読むという事で宗教的な意味としては次世代にも
経文の内容(良き宗教思想)を教える為、というのもあるのでしょう。
ですから現代人が他人を救おうと思って意味も内容も知らないで
漢文と日本語読み(?)の中間的な法華経読誦はほぼ無意味だと思います。

勤行で「人を救うという日々、決意をするのだ!!!」という人もいるでしょうが、
強く言う人であればあるほど、私はそこに不健全を感じます。

以上、私の勝手な考えを書きました。
原始仏教や日蓮遺文、宗教的な意義はどなたかがコメントをして下さると思います。

3783ケン:2009/11/07(土) 22:41:11
「宗要集雑帳私見聞」(称名寺(横浜)金沢文庫保管)なる書物は、
有名なものなのでしょうか。
また、この掲示板で話題になったことがあるのでしょうか。

本日、神奈川県立歴史博物館の「鎌倉の日蓮聖人」展を見てきました。
展示品の中に、「宗要集雑帳私見聞」という書物があり、解説によると、
「日蓮が川崎の竹円房という僧侶と最明寺殿(北条時頼)の御前で論議を
おこない、言葉に詰まって負けとされたという記事を含む史料。・・・」
とあります。
簡単に教えていただければ幸甚です。

3784独学徒:2009/11/08(日) 01:19:03
ケンさん、はじめまして。
「宗要集雑帳私見聞」につきましては、2年ほど前に冨士教学研究会のブログで取り上げました。
再表示を試みましたが、上手くいきませんでした。
「宗要集雑帳私見聞」は14世紀初頭の識語がありますので、日蓮滅後30年〜40年の間に書されたもののようです。
文中には「報恩集(報恩抄の事)」など日蓮の著作も出てきます。
川崎の竹円房との出来事が事実であったかどうかは検証が出来ていませんが、鎌倉末期の天台文書にそのような記述があることは事実だとおもいます。
たしか金沢文庫研究かなにかに翻刻されていたと思います。

3785ケン:2009/11/08(日) 10:52:20
独学徒さん
ありがとうございました。

ところで、極めて初歩的な関連質問で恐縮ですが、
日蓮が、直接、北条時頼又は北条時宗、ないし幕府要人と面談した史実は、
どの程度確認できているのでしょうか。
どなたかお教え下さい。

3786独学徒:2009/11/08(日) 20:39:44
「如前迄両度諫国主最明寺殿。任不借身命之経文不簡念仏・真言・禅・律・天台・花厳・三論・法相等之諸宗、散々破之、散々責之。」(前の如く両度に迄びて国主最明寺殿を諌む。不惜身命の経文に任せて念仏・真言・禅・律・天台・華厳・三論・法相等の諸宗を簡ばず、散々に之れを破し、散々に之れを責む。)

以上は、時期的には「宗要集雑帳私見聞」の披見を経てから書されたとも推測できる、偽書「法華本門宗要抄」の一文ですが、立正安国論奏上の他にも最明寺殿との接見があたっとも思える記述だと思います。

御真蹟では「故最明寺入道見参御書」(定本456頁・御書全集未入集)に、「為天魔所為之由、故最明寺入道殿見参之時申之。又立正安国論挙之。」(天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時之を申す。又立正安国論之を挙ぐ)とあり、立正安国論奏上の前に最明寺殿との接見があった事が記されています。

東鑑等は検索していませんので、ご存知の方はご教示をお願い致します。

3787ケン:2009/11/09(月) 13:04:12
独学徒さん

ご面倒をおかけしました。
ありがとうございました。

3788彰往考来:2009/11/10(火) 07:57:56

独学徒さん

>3786 東鑑等

東鑑には日蓮関連の事項について記載はなかったと記憶しています。

3789ケン:2009/11/14(土) 17:26:15
彰往考来さん

ありがとうございました。
ここ数日、バタバタしていてお礼が遅れてしまい、大変失礼しました。

東鑑及び真蹟遺文から判断する限り、時頼とは少なくとも1回は会ったことが
確認できるだけであり、時宗と会ったことは確認でないことが分かりました。

ボクの中の日蓮像が、またまた、若干小さくなりました。
いずれにしても、ありがとうございました。

3790北斗:2009/11/24(火) 04:46:32
実に素朴な疑問です。

石山や学会信者さんの「結婚式」って、どんな感じなんですかね?

まさか「教会」だの「神社」じゃあしないだろうし(笑)

疑問に思ってしまいました(笑)

3791顕正居士:2009/11/24(火) 23:32:54
今の日蓮正宗では寺院で仏式で行います。
仏式婚礼は田中智学居士がはじめたものです。
実は神前婚礼も大正天皇のご成婚がはじめとされます。
創価学会員は会館挙式ですが、キリスト教式でやる人も
最近はいると聞きます。

3792幻明影偲:2009/11/25(水) 00:02:44
顕正居士さん

創価学会員の結婚式は夫婦共々、会員であれば会館挙式を行う事例もあるようですが、片方が非会員の場合(特に女性が非会員の場合)海外でキリスト教の儀式に則り挙式を行う事も多々あるようです。
やはり時代の変化を感ずる昨今でございます。
また学会の会則にも形式的な事をなかったと記憶しております。

3793北斗:2009/11/25(水) 12:36:26
顕正居士さん

>今の日蓮正宗では寺院で仏式で行います。


やはり、そうですか…。

まぁ、門徒同士なら問題にならないでしょうが、違うとなると「揉める原因」となりそうですね。




>創価学会員は会館挙式ですが、キリスト教式でやる人も
最近はいると聞きます。




これまた、「ホーボー」じゃないっすかね?

確か、神父に言われるはず…

「神の前で云々…」と。

ま、学会だから仕方ないっすね(笑)

3794幻論乙坊:2009/11/25(水) 22:12:51
家人の結婚式でしたが、かれこれ30年前後となります。
私以外の親兄弟は創価学会員で在ると同時に石山信徒で在った訳です。

式は総合結婚式場で執り行いました。
そこに僧侶がお見えになると云った形式でした。

式次第は当然(自分の事でもないし年月が経過している)の如く覚えておりません。

とあるHPで以下のものが御座いました。

来賓・新郎新婦・式衆着席
②開式宣言
③初楽・道場偈・三宝礼
④勧請
⑤開経偈
⑥読経(自我偈)
⑦奉告文(ぶこくぶん)
⑧念珠授与
⑨祖訓
⑩宣誓
⑪中楽
⑫盃礼
⑬授証(婚姻の儀式を挙行したことを証す)
⑭証明
⑮四誓・奉送
⑯納楽
http://www.town1.jp/index.html

私が記憶しているのは
上記⑥読経(自我偈)
では無く、助行のち正行を全員で唱えた事。
⑫盃礼だろうが
三々九度ぐらいです。

⑧念珠授与
等は無かった様に思うのですが?
いや、助行・正行・三々九度だけであったように記憶している。
が、まさかそんな事も無いでしょうね。
しかし結構短時間であった様に記憶しています。

「結婚式は、御本尊の御前で僧侶の導師のもとに読経・唱題し、家内安全と子孫繁栄、
一家和楽をご祈願します。
その後、三々九度の盃を交わし、末永い夫婦の契りを結びます。」

法華興員の心得より

愚考ですが
三々九度は神道の流れなんでしょうか「三献の儀」?
そしてあの盃に注ぐのは御神酒と云うのか?
まあ処変われば何とやらで呼称も違うのでしょうね。

3795富士川一郎:2009/11/26(木) 16:51:36
三々九度は、本来は神道でも仏法でも無く、日本古来の杯ごとから来ております。
親族固めの杯、任侠世界の杯など色々ありますが、要約すると、1つの杯を共同で呑みまわすことにより、契りを結ぶことです。
三々九度の起源は、応神天皇の逸話にあります。
応神天皇が山城の国で出会った美女に、その名を尋ね彼女は“矢河枝比売”と答えたため、(日本古来では女性が名前を告げるのは求婚に応じる意があります)天皇が翌日その家へ行ってみると、彼女の父は娘に天皇に仕えるように諭し、彼女はご馳走を用意し天皇に御盃を捧げ、天皇は歌を歌われたという話だそうです。
現今の正式な三々九度は以下のようになります。
一の杯・・・新郎〜新婦〜新郎
二の杯・・・新婦〜新郎〜新婦
三の杯・・・新郎〜新婦〜新郎
これらの順番に、三度の杯ごとが、三回行われるので「三々九度」となります。
実はこの順序は、イザナギとイザナミ逸話から来ております。
記紀の国生み神話にて、イザナミ(妻)から先にイザナギ(夫)に声をかけて、失敗し、夫から先に声をかけるようにやり直したと記載されております。
これが元で、日本では古来この順序は重要となっております。

もっとも今では神式ですらここまで厳格に守らず、略式を行うことが多いそうです。
日蓮正宗は今でもここまでやるので(杯ごとごとに御宝前に進むので時間がかかるんだが)、あまり若者には受けず(多少イラッとするそうです)、略式にする動きもあるそうですが、ほとんどの寺院は今でもこのように行っております。

さて、本来はここに親族固めの杯が行われるんですが、最近の核家族傾向により、これは省略されることが多いようです。

3796幻明影偲:2009/11/27(金) 13:13:17
曼陀羅を何故板に刻む風習が出てきたのか最近考えています。        石山だけでなく、身延や各山にもあるわけで位牌などもそのような経緯があったから板に刻むようになったのか、考えている所存です。

3797阿仏棒:2009/11/28(土) 10:11:53
そもそも日本で結婚式を現在のようにとりおこなうのは近代になって
キリスト教の結婚式の影響を受けてからで、
それ以前は親類縁者があつまって飲み食いして御仕舞というような有様だという話を
以前どこかで読みましたぞ
つまり坊主も神主も出番なし。

個人的にはキリスト教会、だってカッコいいし、賛美歌を皆で歌ってそりゃあいいものです。

3798阿佛棒:2009/11/28(土) 10:33:49
お酒大好き日蓮
というのを子供の頃、どこかで聞いており、坊さんはお酒飲んじゃだめじゃなかったっけ?と
いうのが長年の疑問というか、私の中では日蓮酒豪伝説になっているのですが
本当の所どうなんでしょうか?

3799顕正居士:2009/11/28(土) 18:44:11
不飲酒戒は五戒の一つで、仏教はイスラームと同じに禁酒を重視しています。
しかし日蓮当時の比叡山は一大軍事勢力とすでになっており、不殺生戒を
放棄している以上、戒律は全く空文に帰していました。

3800ケン:2009/11/28(土) 21:07:40
曼荼羅(本尊)の形式についての初歩的質問があります。

かなり昔に、大石寺(常在寺)から下付して頂いた曼荼羅では、中央下部に「日蓮」とその花押が記され、実際の作者の記名は、中央からずれた位置にあります。
しかし、日朗、日像などの曼荼羅では、中央下部に、実際の作者名(日朗や日像)とその花押が記されているものが残っているようです。

そこで、質問ですが、中央下部に「日蓮」と「花押」を記す形式は、日興門流だけの特徴でしょうか。
日興自身の作になる現存曼荼羅も、全て同じ形式でしょうか。
日興門流では、その形式が代々引き継がれて現在に至っているのでしょうか。

一方、朗門などでは、日朗や日像の形式が代々引き継がれて現在に至っているのでしょうか。

日興門流の中には、現在は、日蓮宗に所属している寺院があると思いますが、それらの寺院が、現在、信徒に下付する曼荼羅(本尊)の形式は、どちらの形式でしょうか。

宜しくお願いします。

3801独学徒:2009/11/29(日) 11:39:24
ケンさん、

主題直下に「日蓮在御判」と記すのは、身延系でもままみられますが、歴代々と継承されている門派としては、富士門流の他に什門があげられると思います。

富士門流においては、現在の所属の宗派によらず主題直下は「日蓮在御判」と記すのが通例です。

但し新規の信徒に本尊を書写する例は稀です。
現在の日蓮宗内の富士門流では、末寺経由で北山本門寺に申請し興師曼荼羅の御形木(製版印刷・妙師授与)の授与を受けるようです。
単立の安房妙本寺は直接本山に相談して興師曼荼羅の御形木(こちらも写真製版・郷師授与)の下付を受けるようです。

3802犀角独歩:2009/11/29(日) 13:37:28

横レス、失礼します。
今回の独学徒さんのご投稿を拝見し、何故、創価学会が興門由緒寺院に接近するのかが分かったような気分になりました。
彼らは、頒布する本尊を日興書写に切り替えたく、その原本を提供する寺院を、巧妙な手段を使って籠絡する作戦に出ているわけですね。
学会僧、創価大の学者の出入りは、そんな危険信号なんでしょうね。

3803幻明影偲:2009/11/29(日) 14:16:01
曼荼羅についてはこだわりを持つ理由もなく、また根拠もありません。
それは一宗派の問題だからです、
ですので、疑問に感じられましたら、日蓮の曼荼羅に尽きると思います。

私は現在は仏壇の中に、ありませんが安82、92、93番の曼荼羅(板)

を所有しています。

しかし仏壇にあっても然程、影響はないと存じます。

3804ケン:2009/11/29(日) 14:33:21
独学徒さん

ご丁寧にご教示いただき、ありがとうございました。

ところで、身延系寺院で、仮に、本尊の書写が新たに必要になった場合、日朗や日像の曼荼羅の形式のとおりに、主題直下には、書写される方が記名されるのでしょうか。
身延系のことを此処で質問するのも変ですが、ご存知の方がおられれば、宜しくお願いします。

3805独学徒:2009/11/29(日) 18:08:54

ケンさん、

まず身延系と不適切な表現を用いまして失礼致しました。
朗門系でも貫首によっては主題直下に「日蓮在御判」と記す場合もあり、また直接自著花押を記す貫首もいますので一様ではないと思います。
富士門流のように、そこに強いこだわりがあるわけではないと思います。


犀角独歩さん、

創価学会が興門由緒寺院に出入りしていることは初めて知りました。
しかし安房妙本寺には数年来学会僧のUFO氏が虫干に多くの信徒をバスで連れてきており、自身も内陣に着座する高待遇を受けています。
この点は正直安房妙本寺が何を考えているのか良くわかりません。
旧来の兄弟本寺である小泉久遠寺の貫首や、古文書研究では密接な関係にある興風談所も外陣の檀家総代と同じ並びに着座していますが、学会僧が内陣にいるのはいったいどういうことなのかと将来を危惧します。

3806ケン:2009/11/29(日) 19:09:46
独学徒さん
よく分かりました。ありがとうございました。

3807幻論乙坊:2009/11/29(日) 19:20:47
先日まで開催されていた「日蓮と法華の名宝」に於いて首題直下で目に止まった出品物が御座いました。

123(出品番号)日蘅等一遍首題本尊 桃山時代 天正18年(1590)

日蘅師は本圀寺 第16代貫首です。
本、一遍首題本尊は来住法悦に授与され、氏は岡山の豪商で日蘅師と知己であったそうです。
全21の一遍首題が上下二段に書かれた様式となっており、どれも首題直下に寺院名と名が記されています。(花押も記されていたと思うのですが?)

上段中央に日蘅師があります。
上段左より「本禅寺・本隆寺・本法寺・立本寺・頂妙寺・本圀寺・本満寺・要法寺・妙蓮寺・妙顕寺」

下段左より「日元・練意・日典・佛光寺・(方+ム?)法寺・本住寺・蓮昌寺・孝?・?・妙伝寺・教蔵院」
中央の本圀寺より右の二つ隣に要法寺、日賙と認めました。
日賙師の在位期間を石山で見ると日主師となりますか。
日主の後の日昌師より石山に続けて九代登座されますが、要山では首題直下に蓮祖以外の名を入れるのに然程喧しく無かったのかもしれませんね。
造仏もこの頃には在ったようですし、又他門流との交流も頻繁に行なわれていたのかな?
と、愚考するしだいです。

京、日蓮法華に於ける最大門流寺院の妙顕寺が上段右端に追いやられているのと、下段の妙伝寺にも目を見張りました。

3808独学徒:2009/11/29(日) 19:54:44

幻論乙坊さん、

ご無沙汰しております。
私の管見では要山歴代で曼荼羅書写を行っている貫首は、みな主題直下は「日蓮在御判」となっています。
賙師についても例外ではなく、かつて大縫さんが談義所でご投稿下さった通り、主題直下は「日蓮在御判」でした。
件の一遍主題本尊は、本国寺貫首の働きかけによって行われた「寄せ書き」的な主題集であり、この一点をもって要山の曼荼羅書写を云々は出来かねるものと判断いたします。
本国寺はこの時期、一致派内でも身延山よりも影響力を持っていたといわれますね。
件の一遍主題本尊のように、豪商や権力者を味方につける手腕に長けた貫首・僧侶が多くいたのではないでしょうか。

3809ケン:2009/11/29(日) 20:09:30
幻論乙坊さん
ボクも京都国立博物館の展覧会は、11月初旬に用事の途中でのぞきました。
展示目録(解説本)を買ってこなかったのですが、ご紹介の出品物には、
かすかに記憶があり、要法寺があるかなと探したことを思い出しました。
いずれにしても、ありがとうございました。

3810ケン:2009/11/29(日) 20:39:14
独学徒さん
3809は、独学徒さんの3808のご投稿があるのを知らずに投稿しました。
3809の通りですので、幻論乙坊さんからご紹介のあった出品物の概要は覚えています。
ですから、独学徒さんが3808でご説明いただいたとおりの「寄せ書き」的な主題集であるとのご説明も理解できます。
以上、念のため、お礼と共に申し上げます。

3811犀角独歩:2009/11/29(日) 23:25:35

亀レスで恐縮ですが、3800でケンさんが疑問を呈された門下一般信徒に下付される「本尊」について。

以前、独学徒さんが、写真をアップされた「伝日蓮図示」漫荼羅の印刷を下付するのが一般ですね。

この印刷物は、身延山久遠寺の売店や、仏壇店などで購入できます。
特に寺と関わりない方は、仏壇を買ったときについてくるこの印刷物を本尊として仏壇に飾るのでしょう。

少し寺と関わりがあれば、住職に裏書きを頼みます。いわゆる「開眼」です。
また、住職の紹介があれば、日蓮宗新聞の売店で「臨滅度本尊」のレプリカの掛け軸が購入できます。日蓮宗の見解では、この印刷物は美術工芸品。しかし、教師が開眼すれば「本尊」ということになります。

百日荒行五度万行で漫荼羅の書写相伝があるということでした。
この相伝に基づけば、門下一般に通用する書写漫荼羅です。
しかし、別段、相伝が無くても、書く人は書きます。
ちなみに、わたしは手書き漫荼羅本尊を2舗、仏像は3体。それぞれ、開眼を経て、頂戴しています。

大石寺・創価学会・顕正会などでは、漫荼羅は個人1体が鉄則ですが、これは彼らの勝手な取り決めであって一個人に複数の漫荼羅を授与している例は、上古より珍しいことではありません。

雑駁ながら、五老門下では、以上のような本尊授与の様となっているようです。

3812犀角独歩:2009/11/29(日) 23:30:47

3805 独学徒さん

ご返信、ありがとうございます。

わたしは、こうした様に大いに危惧を抱いています。
重宝虫払に集まってくる人々の「謗法同座戒め」にもっと矜持を質すべきであると考えます。

集まる人間を容易に受け入れないよう寺院僧俗の注意を促したいと存じます。
お気をつけください。

3813幻論乙坊:2009/11/30(月) 00:08:46
独学徒さん
今晩は。

>この一点をもって要山の曼荼羅書写を云々は出来かねるものと判断いたします。

〇全くおっしゃる通りと認識致しておりまして、要山に於ける曼荼羅(諸尊勧請を有する)書写で
首題直下に歴代貫首の名が記されたものが散見出来るか、どうか把握は致しておりません。

先の展覧会に於いて、他門派と連名で一遍首題を揮毫し、その直下に名が記されていたものを拝見した。
一知半解の徒である私は驚いた。と、云った趣旨のものでした。

こちら関西はご存知の如く像門が多く、道路脇の題目塔で一遍首題の直下に蓮祖以外の名を見掛ける事は
容易い事です。(東日本でも同じかな)

首題直下に蓮祖以外の名に違和感を覚えるのは石山系の家系に生まれた処に起因するもの
か?と、思惟いたしております。

像門(朗門)では何ら違和感のないものなのではないか?
本尊勧請様式で十界互具を採る興門派ですが、一塔両尊、一遍首題も採る門派の方との
本尊に入れ込む感情は違ったものなのかな?
と思うものです。






と愚考致すしだいです。


何かを語る時、論証・証憑を示すに越した事はない訳ですが

3814幻論乙坊:2009/11/30(月) 00:24:54
校正し忘れました。

>と愚考致すしだいです。
〇を削除し忘れました。

>何かを語る時、論証・証憑を示すに越した事はない訳ですが
〇何かを語る時、論証・証憑を示すに越した事はない訳ですが、像門(朗門)では何ら違和感のないものなのではないか?・・・・

とするものでした。

3815犀角独歩:2009/11/30(月) 08:06:11

先に記した五度万行、身延荒行堂で受けた漫荼羅相伝の資格を持って書すという点ですが、わたしの mixi のフォトに、神奈川県「円徳寺(日良師)」漫荼羅を載せています。三体の中央大幅が、それです。

http://mixi.jp/view_album.pl?id=7504585&amp;owner_id=14027330&amp;mode=photo

筆法、諸尊、詳しいことは覚えていませんが、所謂本則とは何点か違ったところがありました。

個人的には、こうした相伝を受けた人が書く漫荼羅は、相伝書などでみる筆法に忠実なのだろうと予測していたのですが、むしろ、逆で、相伝を受けているからこそ、相伝の基本は基本として、相伝師という自覚立場から、独自境地を漫荼羅世界に展開するものだと感心したものでした。

3816ケン:2009/11/30(月) 21:22:09
3811 3815 犀角独歩さん
詳しくご教示を頂き、ありがとうございました。
外出していてお礼が遅れ、大変失礼しました。

3817幻明影偲:2009/12/13(日) 23:31:56
素朴な疑問なのですが、石山では金口、今師、直授、釈主、九師、各相承は天台教学史にあるものですが、石山ではこのような教学を年代で言えばいつ頃から本格的に取り入れていったのか、非常に疑問です。
恐らく日寛以降かと愚考致す所存ですが、日寛時代にも石山に伝わらない板曼陀羅や細草壇林に当初からあったとされる板曼陀羅を見ましたが、あの当時から板曼陀羅が形成されていたのであれば恵心流を取り入れていく考えが私にはどうもわかりません。

3818再挑戦者:2009/12/15(火) 18:54:13
 幻明さん、、。
  アアダラ、、、コウダら、、は不要でしょう  カ?
  、、。

 アノ、、 オカシナ、、?・ 曼陀羅が 国宝、、?? とは ???
 「ご本尊集 >  midashi、、」の中でも、、最低なる 品格でしょう、、!!?・

  他の 真筆のほうが、、 一千倍もの 「、、品格が 感じます、、」、、が、、??

 保田様には 強奪・疑義もある ? にも  ぞっこんなのでしょうか、、?? 
  視点を変えれば 、、Sの 会 ヤ、、オーム教の 有害なる 「カルト」、、と 同じでしょうか ??

 (「週刊現代」、「G2]、「主教被害者情報」、「国民新聞」、「FORUM 21」、「有害カルト情報」、、)

3819幻明影偲:2009/12/15(火) 23:40:20
再挑戦者さん

○○○(笑)さんなら、即答されるのではないでしょうか。

>アアダラ、、、コウダら、、は不要でしょう  カ?

 保田様には 強奪・疑義もある ? にも  ぞっこんなのでしょうか、、?? 


※もう少し解かりやすく、ご説明願えますか?
これでは、チンピラ暴力団の脅迫文のように思えてなりません。
因みに私の私見ですので再挑戦者さんへの言葉でないことを一言お断り申し上げます。

3820犀角独歩:2009/12/16(水) 02:16:05

○開拓の拓は衣偏

livedoorBlog で「日蓮墨筆を読む」という連載をいきおいではじめて、はや65回になりました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51667293.html

さて、先ほどアップしたのは『観心本尊抄副状』。
ここに「見無二志可被“開拓”之歟」とあります。
この開拓の拓につき、もう数十年も前に受けた講義で、「通常は拓は手偏だが、日蓮大聖人は敢えて衣偏に書かれた」と聞いた覚えがあります。

池田さん(が書いたとされる)講義録であったような、他であったような、記憶が曖昧なのです。

「胸襟を開く」という意を籠めたということでした。
いま実際、真蹟を見ると、たしかに衣偏のように見えます。

この講義は、いったい、なにを根拠にしたのか、どうも思い出せません。

この話の元、どなたか、ご教示願えませんでしょうか。

3821斧不一:2009/12/22(火) 13:10:37
 初めまして、斧と申します。創価学会員です。本当は小野なんですが、私の掲示板で斧を名乗っているものですから、そのままクッキーを使用させてもらいます。

 あまりにも基本的なことでお恥ずかしい限りなんですが、末法思想に絡めた「本未有善」「本已有善」というのは誰が言い出した言葉なんでしょうか?

 中国の文献で、末法思想を記す最古のものは、558年(永定2)成立した慧思の「南岳思禅師立誓願文」
 http://www.tabiken.com/history/doc/R/R172R100.HTM

 また、末法思想と同時に誕生したのか、後付けなのかも気になるところです。

 どなたか、ご教示いただけると幸いです。

3823問答迷人:2009/12/22(火) 14:18:18

斧不一さん 初めまして

>「本未有善」「本已有善」というのは誰が言い出した言葉なんでしょうか?

日蓮聖人は天台大師が言い出したと見ておられたようですね。曾谷入道殿許御書に次のように述べられています。

「答て云く 私に会通すべからず。霊山の聴衆たる天台大師竝びに妙楽大師等処々に多くの釈有り。先づ一両の文を出ださん。文句の十に云く ̄問曰 釈迦出世蜘・不説。今此何意。造次而説何也。答曰 本已有善 釈迦以小而将護之 本未有善 不軽以大而強毒之〔問て曰く 釈迦は出世して蜘・して説かず。今は此れ何の意ぞ。造次にして而も説くは何ぞや。答て曰く 本已に善有るには釈迦小を以て之を将護し、本未だ善有らざるには不軽大を以て之を強毒す〕等云云。釈の心は寂滅・鹿野・大宝・白鷺等の前四味之小大権実の諸経・四教八教之所被の機縁、彼等之過去を尋ね見れば、久遠大通之時に於て純円之種を下せしも、諸衆一乗経を謗ぜしかば三五の塵点を経歴す。然りと雖も下せし所の種、純熟之故に、時至りて繋珠を顕す。但四十余年之間、過去に已に結縁之者も猶お謗の義有るべき故に、且く権小の諸経を演説して根機を練らしむ。」

3824斧不一:2009/12/22(火) 21:53:50
>>3823

 問答名人さん、どうもありがとうございます。

 ということは、鎌倉時代の仏教界にとっては共通認識と見てよさそうですね。

 助かりました。心より感謝申し上げます。

3825阿佛棒:2009/12/25(金) 12:06:16
>>3821
当て推量ですが、元は儒教由来かも

孟子かなあ?

このテーマ日蓮系ではやる人あまりいないけど
駒澤あたりでは結構やられているので調べてみると面白いかも知れません
せんだんりーんせんだんりん♪

3826くらはし:2010/01/31(日) 01:09:30
皆様、はじめまして。

場違い、かつ、スレ違いの質問かとは思いますが、一つお聞きしたいと思います。

自分は、いわゆる初期仏教、バーリ語経典では、無執着の達成をもって悟りとすると聞きました。

無執着の達成とは、なにものなも執着しない、また、「なにものにも執着しない」ということにすらも執着しないということだそうなのですが、このようなことが悟りとされていることを、日蓮をはじめ鎌倉時代の宗祖とされる人たちは知らなかったのではないか?

それはもちろん、中国には南伝経典は伝わっていないのだから、天台大師も知らなかったのではないか?

と言われたのですが、どうなのでしょうか?

ご存知でしたら、どなたか教えていただけないでしょうか?

3827マインド:2010/05/31(月) 11:37:53
御本尊について教えて下さい。
大聖人の御本尊は、写真でみるかぎり左右の辺が切れているのが多いのですが、
これは写真撮影でそのようになったのでしょうか。それとも原本の本尊からして、
表装の時に、切れて表装したのでしょうか。梵字とかは切れているのが多いですね。
よろしくお願いします。

3828みんと:2010/07/14(水) 17:06:30
◇自分の住む地域を確認してください
・ 最新の災害情報 - 避難勧告の情報など。Yahoo!災害情報
・ 警報・注意報 - Yahoo!天気情報

◇河川の様子を動画で
・ 災害情報 河川のリアルタイム画像 - 国土交通省

http://rescue.yahoo.co.jp/

3829管理者:2010/07/14(水) 17:18:29

この梅雨末期の大雨・長雨で各地に被害が出ています。皆様の安心・安全をお祈念いたします。


みんと さん

この時節、有益な情報をご提供戴きまして、誠に有難うございます。

3830知りたい:2010/11/08(月) 21:54:50
玉井禮一郎さんは、以前、妙法蓮華宗だったかを主宰していましたが、その活動は今はどうなりましたか。また給いさんは今は何をしているのでしょうか。教えてください。

3831質問者:2011/11/30(水) 01:46:21
昭和55年6月21日日顕上人書写の御形木御本尊ですが
何故、竜樹菩薩と妙楽大師が抜けてるんでしょうか
(普通は天台大師と伝教大師の横にそれぞれ書かれているのに)

誰に聞いても教えてくれません
詳しい方レスお願いします

ちなみにこの御本尊は当時の学会員に下付されたものです

あと、この御形木本尊持ってる方いますか?

3832法喜:2011/12/06(火) 15:08:35
日顕上人書写の特別御形木御本尊(少しだけ大きい)には
竜樹菩薩と妙楽大師が戻っています
また一部の迹化の菩薩の「菩薩」の文字が凡字になっています
日蓮大聖人の最も後期の御本尊の形態であるように思われます

3833幻論乙坊:2012/08/07(火) 13:08:04
弟子を「資」と表しますが、何故この字を
用いるのか?
ご存知の方がいらっしゃれば、ご教示のほど
宜しくお願いします。


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