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素朴な疑問

3328犀角独歩:2007/06/07(木) 07:46:20

マターリさん

ご投稿の歴史観は、ほぼそのとおりであろうと思います。
そのことを忘れて、折伏、本化、国主、国立戒壇などを軽々に口にせず、歴史的な反省を踏まえたうえで、未来を目指すのであれば、再構築かが必要なのだと考えます。

日蓮の思想を煎じ詰めていくと、必然的に戦前のようになるのかという問いですか。さて、この点はどうでしょうか。

戦後の創価学会の歩みは、いわば、国柱会の軍隊セッションを、折伏大闘争という民衆運動へ転化し、そこでは、原水爆反対、平和憲法擁護を中心に据えてきました。ところが、ここに来て、民衆主体から、自民党の連合から大資本主体へ傾き、いきおい、平和憲法擁護も揺らぎ、自衛隊の軍事強化から軍隊化へ、軍需産業による利権という方向性で、民衆と平和から乖離していっています。
ここでもし、日蓮を据えた「平和」を言うのであれば、つまるところ、戦前の悪夢に逆行するでしょう。この創価学会の変貌の原因を、日蓮の考えによると見るかは、意見の分かれるところでしょうか。


青蓮さん

3327のご投稿は、日蓮の王法二文論が考慮されていませんね。
日蓮にとって、王は正法護持と不信に二分立されているのであって、前者の場合、『本尊抄』に「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王」という四菩薩としてとらえ、いっぽう後者の場合、ご引用の根拠となる所謂釈尊御領観による『法門可被申様之事』の「日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし」という一節と現るのでしょう。

正法護持の四菩薩応現・賢王は、御領主釈尊からの使いであるのに対して、不信の「嶋の長」とは違います。
この両者を、国王として束ねて同じカテゴライズをしないのが日蓮の発想です。国王に判断肢があるのではなく、法華護持の信不信に基準があるからです。
正法護持において執政する王仏冥合国家を考えた日蓮における国王観は、現代語で言えば、間違いなく「政治権力」でしょう。


では、ここで、マターリさんと青蓮さんが取り上げられた国王という一点に就き、戦前日本の日蓮門下における国王観を、いまいちど見直してみるとき、この天皇は正法護持の法華を以て立正安国を目指したわけではありませんでした。しかし、これをもって本化国主として、極論においては天皇本尊論まで鼓舞されたわけです。つまり、不信の但嶋の長を採って、正法護持の賢王のように扱ったという点が指摘できます。わたしは、この戦前の有様は、『本尊抄』の道筋から言えば、甚だ不可であると考えます。

では、さらに天皇が法華護持を正法流宣の仁となったモデルを考えてみます。ここでは、れんさんが「執行者は本化国主に限定」という道筋から考えられます。日蓮は武力行使、この本化国王の武力行使を肯定していたかどうか。それは、上述書にも、「日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並天照大神等隣国の聖人に仰つけられて謗法をためさんとせらるゝか」などと、記すわけですから、武力による「正法」弘宣を、日蓮はまったく受容していることがわかります。

以上、日蓮のおける国王の規模でしょう。


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