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素朴な疑問
3321
:
犀角独歩
:2007/06/06(水) 00:34:12
マタリーさん、はじめまして。
まあ、こう書いては語弊があるかも知れませんが、日蓮とはそんな人と、わたしは考えています。日蓮を自由平等、民主主義、平和の使者、非暴力の代名詞みたいに評価するのは、およそ、現実からかけ離れています。
折伏を殺の義という天台釈を採った日蓮ですから、法華不信者を殺すことを是とするのが日蓮の為政観だということですね。
ただし、日蓮が言う、折伏・摂受とは、今で言えば、刑罰と更生のようなものであると、わたしは考えています。涅槃経は、中国でまとまっていた経典ですが、いまで法律と仏教を併せ持った性質を有しています。つまり、為政者にとっては法律法典で、為政者は国を統治するために刑罰を以てせざるを得ずそれを意味したのが折伏っです。出家にとっては仏典です。出家は如何なる悪人も仏の前に救うことを前提にしますから摂受となります。今で言えば、死刑囚の最期に聖職者の教誨があるごとくです。救えるのであれば更生もあるでしょう。そして、この二つが一致することを祭政一致、王仏冥合となるわけでしょう。
このような関係を日蓮は『本尊抄』に「当知此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」と言ったのでしょう。
要するに、日蓮がいった折伏=殺とは、為政者の権限範囲とした刑罰、いまでいう死刑執行の権限を示したことであると、真蹟遺文を精査すれば読めます。
ただし、現在の死刑執行に値する罪状は、複数に及ぶ殺人罪等ですが、日蓮が言う殺人に匹敵する罪状は「法華誹謗」という仏法違背であるという点で、「ポア」と重なる点があるのでしょう。しかも、その系譜は、日蓮から天台、涅槃経に遡れ、チベット仏教とも同等の意義を有していると言うことでしょう。
この事実を厳正にとらえ、「取捨得宜不可一向等」という釈に依ろうというのが、わたしが記してきたことでした。
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