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素朴な疑問

3060犀角独歩:2006/12/24(日) 20:50:39

パンナコッタさん、有り難うございます。
日我の相伝文は考慮していませんでした。
キリークですか、なるほど。これは面白い。

ただ、パンナコッタさんがご紹介くださったサイトの用語を使えばキリーク「右横に点々」が、では、花押のどの部分に当たることになるのかという点が読めないのです。
この点はボロンでも同様で一番右の「<」型の点が、では、花押のどこに当たるのだろうかで、頷けないわけです。

弘安元年から変わる花押のデザインは、しかし、その後、5年間、一定であるというより、前期はア字の如く、中期はボロンの如く、晩期には闊達になりすぎて原形を読み取るのが困難という変遷があります。ロールシャッハ・テストではありませんが、いったん、見えてしまった形が、頭にインプットして見ると、どうしても、そのように見えてしまうという視覚錯覚の側面も考慮しなければならなりませんよね。

わたしは当初、タラーク(虚空蔵菩薩)だと思ったのですが、すると、キリークと同様「右横に点々」の説明が付かないので躊躇いが出ました。

一往、ア(不軽菩薩)ではないかと‘仮設’したわけですが、もちろん、断定ではありません。山川師の‘ロールシャッハー’をいったん離れ、自由に、考えてみるという試みです。

山川、田中の亡霊に、21世紀になってまで、振り回されるのはゴメンという気持ちと、興風などというのは、「本弟子六人」と、当の日興が筆記した日蓮の意に反するという思いもあります。これらの権威を、ちょっと、いったん、横に置いて、自由に考えたいという気分があります。

殊に、談所への敬意は、はっきりと彫刻本尊の偽造を論証し、日興正嫡という偏向を停め、日蓮本仏も否定したあとでの話です。あと、坊さんでないのであれば、坊主頭と法号もやめたほうがいいですよね。坊さんならば、四弘誓願をしっかりと唱え、「愚痴の在家にお導きを」と申し上げたい。

まあ、こんなことを記すので、「坊さん」から憎しみを買うわけですが、折伏批判、田中智学批判をやると、途端に目の色が変わる人というのは、富士門下のみならず、田中の信念体系下でも同様で、大同小異、まるで変わらないという印象を懐いたここ半年でした。

もちろん、これはパンナコッタさんに申し上げているわけではありません。失礼しました。
ご教示につき、御礼申し上げます。


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