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素朴な疑問

3338犀角独歩:2007/06/09(土) 18:24:26

マハーさん

ここのところの議論は『秋元御書』から事及んでいますが、日蓮の“殺”もしくは“折伏”については、まず『開目抄』から見るべきでしょう。つまり、

若有更為当断其首 如是等文 並是折伏破法之人

また、

止観云 夫仏両説 一摂・二折 如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖乃至斬首是折義

ここでいう大経とは涅槃経ですね。両引用とも首を刎ねることを言っていますよ。また、これらの引用は功徳との対比で述べられるわけではなく、台学の五時判において法華・涅槃と束ねた見地を前提にしています。そのために、涅槃経の文は涅槃経を指すところ、法華経を指すことに転換されるレトリックを有します。この点を、わたしは過去に指摘し、法華・涅槃を束ねることに反対し、涅槃経を簡ぶことを述べました。

曽存ながら『光日房御書』には

念仏を、無間の業と申、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頚をはねらるべしと申上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕給たりと申ほどの大禍ある身なり

とまで記しているわけです。マターリさんの解読に別段間違いはありません。

ただし、わたしがマターリさんに記したことは、この解読についてではなく、本尊への勤行ということにつき、「本尊」義についてです。天台文献には、「本尊」語の用法がないこと、また、日蓮の教説から、漫荼羅を本尊とすることは例外に属すること、もっといえば、そもそも印刷複写漫荼羅が本尊といえるのか、さらにいえば、いま、行われている勤行が日蓮の言う勤行といえるのかという問題もあります。これら一切合切を、この段階で、マターリさんは再考され、そして、一体、何が残るのかを考えてみたらどうかというのが、わたしが記したことです。


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