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素朴な疑問
3398
:
しゅんかん
:2007/06/22(金) 22:28:32
私は何度か記しておりますが信仰は致しておりませ。
この様な私が以下の事を記す事、お許し下さい。
私が私としてこの世をそれなりに渡り歩く術として用いている物と少し重なる文を最近
拝読致しました、私自身が昭和57年に購入し読まずじまいだった、「日蓮、久保田正文著」
です。
ここで、知的な惑と云うもので見惑のことをご説明されておられます、
(皆さん既にご存知で恥ずかしいのですが続けますね)
見惑には五のものがあるそうですね。身見、辺見、見取見、戒取見、邪見の五つであると。
身見=自分の一身を中心としてものを見る見方、自身が経験し得ない事はそのまま、
無いものであると考えるような見方である。
辺見=自分が見た一方のことを述べようとすること、物事を一方からだけ見る見方。
見取見=人はひとたび肯定し、それが正しいと認めたことは、先入主となって、
そうでないことがわかっても、最初の見方にとらわれてこれを改めることが出来ない。
戒取見=戒とは否定の義であるから、ひとたび否定した事はそれの誤りが証明されても、
これに固執して考え方を改めることができない。
邪見=自分の利害損得を中心にし、あるいは基準としてものを見る見方。
久保田先生は、人はこのような物の見方の惑い、および感情上の惑い(思惑)、
こういうものの集合体である。
そこでこれらのものを離れて別な境地を求めていくのが、これが仏教における修行である。
と締めくくっておられます。
皆さん既に知った事で今更って処でしょう。
3338に於いて、独歩さんの記されている事、全くごもっともと拝読致しました。
創作虚偽で在ったとわかっても、先に記しました見惑により受け入れる事が非常に
困難なのでしょうね、そして叉、私の其れによる表現をしますと自我が不安定に成るのですね。
自我の安定を求め、此方の掲示板へこられ自らの信仰の確認をされる、だが安定は易々とは
得られないのでしょうね、全く石山系は罪なものですね。
(生意気な文申し訳ありませんでした)
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