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素朴な疑問

2961犀角独歩:2006/12/02(土) 07:23:37

問答さん

> 竜樹・天親等…知って之を言はざる…迹門の一分之を宣べて本門と観心とを云はず

つまり、この部分は『開目抄』の「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。龍樹天親知て、しかもいまだひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」と対応するわけでしょう。

> 「本門の本尊」=「仏像群」と「観心の本尊」=「紙幅曼荼羅」

ここなんですが、直ちにこのように「立て分ける」ということではないと思うのです。
本門の本尊は一尊四士。観心の本尊は、本尊抄の段階では一念三千における仏法界。『本尊問答抄』では題目本尊へと経年して補完されていくということだと思います。

人本尊・法本尊と言われますが、十界論から捌くのに仏を人というのは不適切である、という提案は以前にしました。仏本尊・法本尊ではないか、というのが過去述べたことです。しかし、日蓮の真蹟から見ると、本門本尊・観心本尊であり、より具体的には仏像(一尊四士)本尊、題目本尊です。そして、後者は授与の形式として判形を為した漫荼羅となる次第です。

わたしは『本尊問答抄』を偽撰ではないのかと主張してきたのですが、しかし、観心本尊という側面から見れば題目本尊は、一連の脈絡と看取できました。

> 観心本尊抄では、蓮祖はどう記されている

同抄を改めて読むと「観心」という用語は、題名を含めて五カ所しかありません。

如来滅後五五百歳始観心本尊抄
観心之心如何。答曰 観心者観我己心見十法界。是云観心也。
迹門一分宣之不云本門与観心。

「観心者観我己心見十法界」は、「釈迦多宝十方諸仏我仏界…我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏…当知身土一念三千…本尊為体」という一連の記述は観心本尊。

「正像未有寿量仏。来入末法始此仏像可令出現…本門寿量品本尊並四大菩薩」「本門本尊」

「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊」は本門本尊と観心本尊の両意。

わたしは教観相対という語彙は、やや正鵠を得ていないと思えます。日蓮は教相をもちろん、語りますが、開観両抄を通じて、その使用はただ1回のみです。教相から観心に臨むと言うより、突然、極意に至る如く、観心を語ります。それも、本門から観心というより、観心から立ち帰るように本門を語る如くです。ですから、言いづらいのですが、本門・観心相対、本観相対とすべきだろうという思いがあります。それはそれとして、『本尊抄』の記述は、本門、観心、どちらを述べているのか誤読しやすく、さらに両意に亘る箇所もあります。
粗々ですが、以上のような次第であろうと思えます。


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