[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
素朴な疑問
3011
:
犀角独歩
:2006/12/10(日) 19:29:54
問答さん
> 観心本尊抄…観心本尊を始める事を述べられた書
そうですか。では、なぜ、本門本尊なのでしょうか。
> 妙法蓮華経の五字の受持で一貫されています
そんなことはありません。四菩薩の出現、本門本尊仏像立てること、四菩薩僧摂受正法弘持・四菩薩賢王折伏誡責という多岐に亘ります。
> 末法に始められる観心が「妙法蓮華経の五字の受持」である事は明らかであると思います
何によって明らかなのでしょうか。
『本尊抄』で十界に亘り論じられる日蓮の観心は反故だというわけですか。
> 一体、どのような観心が末法に始められるのでしょうか。不可解です。少なくとも、本尊抄を読む限りでは、そのようにしか読めませんが。
そうでしょうか。先にも述べましたが、『本尊抄』では「観心之心如何」と問いを立て、その観心の実際を十界に亘って論じています。この様はまさに観心そのものです。そもそも「始」を、問答さんは「はじめる」と断定されていますが、「はじめ」と読むこともできます。つまり、末法の始めにおける観心という意味です。題号について、その読みの解釈は蘭菊に賑わいで、断定はできません。ここには述べません。
> 功徳を得られる、と言うのは、観心が成就した結果であり、観心が成就しないのに、功徳だけが得られると言うのは、不可解です。
では、不可能を可能であるというのが『問答抄』ではないでしょうか。
仰るところは道理がありますが、しかし、日蓮は「釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」といい、「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」といいます。つまり、本来、仏因仏果を得ていないもの、さらに観心出来ないもの=不識が対象となっています。
問答さんの解釈は、先に挙げた「不識」、『四信五品鈔』の「不知其義」という一節を無視することでしか成り立っていません。この点は如何でしょうか。
> …観心の為の本尊では無いかと僕は思っています
これは先の問いと同じになります。ならば、なぜ本門本尊なのでしょうか。
> 寛師の「受持即観心」説
日寛の説は正しくは「凡そ当家の意は唯信心口唱を以て、即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心というなり」だと思いますが、いまは、日蓮の素意を論じているところなので、江戸時代の解釈はこれを議論の対象としないことにします。
> 「本尊を観心する」という意味で書かれている箇所が、本尊抄の中にあるのでしょうか
先にも挙げた「観心之心如何」という問いから「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也…本尊」至る一連の脈絡は、本尊を観心する以外にどのような意味と採れるのですか。
では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。
問答さんは「受持即観心」に重きを置いていらっしゃいますが、この五字熟語は、純天台文献にはその例を見ず、また、このたび、独学徒さんがご紹介くださった伝教大師全集でもありません。さらに日蓮の真蹟遺文にもなく、写本にもありません。なおのこと、観心を受持、さらには信心に当てはめるような日寛の連想ゲームは日蓮の素意とは無関係でしょう。いまここでは、日蓮の真蹟に基づいて考証を試みているのですから、中世以降の教学解釈を採って、日蓮を捌くことは慎みたいと思います。
以上、いくつか問いを立てました。お応えいただき、次に進めたいと存じます。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板