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素朴な疑問

3130犀角独歩:2007/01/26(金) 09:06:00

しゅんかんさん

ご母堂様への思いに胸が熱くなりました。

わたしの恩人の一人である楠山泰道師の御尊祖父・楠山日かん(=王編に官)師は、昭和35年に『大石寺本尊真疑問答』という書を記しています。原本はガリ版刷りの小冊子です。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001.html

このなかで

【問】その板本尊も、創価学会特定の印刷本尊も功徳利益があるというのですが、実際利益はありますか。

【答】利益―功徳はあるでしょうよ。元来、利益というものは自分の観念の上にとらえられるものですから、何宗でも利益はあります。「僕は利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せなのです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/n_kusuyama001_ifn.html#kudoku

という問答があります。結局のところ、信仰というのは、斯様な側面を有していると思います。

ただ、わたしはいつも語るのですが、「タネがわかってしまった手品では感動できない」ということです。

疑うことなく信じ、拝み、体験を得た。この実感が信仰を支えます。
その後、自分が信じたものが紛い物であるとわかった。でも、自分はこの御本尊を拝めば、昔と同じように功徳の体験を得、感動の実感を得られるのだ…、こう考える人は多いと思います。しかし、それは最後の悪あがきの類であるとわたしは思います。

そんな過去の自分の体験に囚われていれば、前に進むことも、広大な眺望を見ることも、次のステージの感動の実感を得ることもできなくなります。
日蓮が図した大漫荼羅は、石山・学会が言うような代物ではありませんでした。説いたところも違っています。
わたしたちは、石山・学会での経験・学びの踏み台に乗れば、その上を見ることが出来ます。

しかし、御母堂様は認知症とのこと、思索の猶予はわずかかもしれません。
その場合、かつての経験のなかで、いったんの安堵を得ることも一つの方策なのだと思います。その傍らで、次のステップに進んだ人が … つまり、しゅんかんさんが … 暖かく見守りながら、ご自身は前に進み、その功徳を御母堂様に回り向かわせればよろしいのではないでしょうか。

修行というのは、自分のためではなく、そこで得た功徳を、今度は修行を出来ない衆生に布き施すところに菩薩の精神があるのだと思います。
生育で親に受けた恩に報いる方途でもあろうかと存じます。

僭越ながら、一言申し上げました。


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