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素朴な疑問
3014
:
問答迷人
:2006/12/10(日) 21:32:43
犀角独歩さん
>なぜ、本門本尊なのでしょうか。
観心本尊が本門で説かれた本尊だから、本門本尊とされているのだと思います。本尊抄には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず」とあり、「妙法蓮華経の五字」が本門の肝心であることが示されています。
>そんなことはありません。四菩薩の出現、本門本尊仏像立てること、四菩薩僧摂受正法弘持・四菩薩賢王折伏誡責という多岐に亘ります。
確かに内容的には多岐にわたりますが、本尊抄の最重要部分と思われる箇所において「問うて曰く、上(かみ)の大難未(いま)だ其の会通(えつう)を聞かず如何。答へて曰く、ー中略ー 私に会通(えつう)を加へば本文を黷(けが)すが如し、爾(しか)りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」として、妙法蓮華経の五字の受持を勧め、結文においても、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ。」として、重ねて妙法蓮華経の五字を受持事を勧められて本尊抄を締めくくられています。
> 『本尊抄』で十界に亘り論じられる日蓮の観心は反故だというわけですか。
反故ではなく、この「妙法蓮華経の五字の受持」を述べるための前提として、十界に亘り論じられていると思います。
>『本尊抄』では「観心之心如何」と問いを立て、その観心の実際を十界に亘って論じています。この様はまさに観心そのものです。
ここに示される観心には、前提があります。「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」と明鏡に依って観心を成就する事が示されています。この前提からすれば、観心の前提として明鏡が先ず示されなければなりません。この観心の前提としての明鏡として、観心本尊をとかれたのだと思います。
> 問答さんの解釈は、先に挙げた「不識」、『四信五品鈔』の「不知其義」という一節を無視することでしか成り立っていません。
そうでは有りません。鏡を見たことが無い人は、自分がどんな顔をしているのか知らないわけです。その知らない人に鏡を見せてあげれば、その人は、その鏡に依って今まで知らなかった自分の顔をはじめて知る事が出来るわけです。これが、蓮祖が明鏡の喩えとして述べられた内容であり、僕は、この蓮祖の説明に基づいて述べています。
> 江戸時代の解釈はこれを議論の対象としないことにします。
これは、了解です。寛師説を引き合いにすることは慎みます。
> では、逆にお尋ねしますが、『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心しているというのでしょうか。
これは、「上行所伝の妙法蓮華経の五字」を以って観心しておられたと思います。
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