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素朴な疑問
2955
:
犀角独歩
:2006/12/01(金) 10:11:31
問答さん
敢えて、ご質問からずれて、前提を記したいと思います。
ここのところ、問答さんとの議論では、実はいくつかの隠れた根があると思うのです。
思いつくままに、挙げてみますが、一つには、れんさん、また、顕正居士さんなどが触れられた「漫荼羅設計図論」とも言うべき、富士の見解です。この考えは富士に留まらず、たとえば身延では日向が絵漫荼羅を描かせたとか、また、その後の一塔二尊四士像と言ったものも、ある意味、同様の脈絡にあるのかもしれません。富士方について言えば、日興の弟子分にこのような動向があることは、日興にその考えがあった。また、門下一般にその動向があったということは、日蓮もそのように考えていたという前提に、議論が進んでいると思うわけです。
しかし、わたしは違うと考えています。
というと、創価学会の如く、日蓮の正意は仏像にも、御影にもなく、ひたらす漫荼羅(彼らの言い方を示せば、御本尊)なのだと、誤解を招きそうですが、そうでもなく、漫荼羅と仏像の両立に本意があったと考えます。では、その漫荼羅と仏像がイコールの関係であるというのが、いわば「漫荼羅設計図論」ということなのでしょう。わたしは、これは違うと考えます。
以上の点は粗々記してきましたが、日蓮が漫荼羅と示すのは、上行所伝妙法蓮華経の授与を目的としている。では、漫荼羅図とはいえば、その妙法蓮華経が多宝証明の許に釈迦仏から上行の所伝された様を示しているのだというのが、わたしの見解です。日蓮の判の認められた妙法蓮華経を授与されることが彼の因果の功徳を譲与することなのだという、実に具体的な秘儀が、漫荼羅授与ということではないのかということです。漫荼羅は、紙と墨を使ってのものですが、この授与は一念三千という心法の授与ではないですか。妙法蓮華経の五字は紙に記された墨字ですが、それは容器です。中身は一念三千宝珠。これは仏が上行に伝えた心法です。そして、その授与の時を言えば、法華説教八品のことですね。(しかし、首題は五百塵点已来のことという、さらに一重立ち入った点はありますが、議論を簡潔にするためにこの点は置きます)
一方、一尊四士と刻まれる像は、木絵(草木)に仏菩薩の相貌を示すものです。
日蓮は、像だけでは三十一相しか表せないというのです。(木絵二像開眼之事)
ために梵音声を具すために、その像の御前に法華経典を置き、これを充足するを開眼といったわけですね。これは仏身です。では、四菩薩を脇士にする釈尊、その時とはいつですか。漫荼羅に図示されるの同様の今番法華の会座でしょうか。
わたしは、違うと思います。釈尊の成道、上行等が初発心の弟子となった久遠五百塵点成道のその時ではないですか。故に、そこでは一塔二尊四士の如く、多宝の証明など無用です。釈迦と四菩薩の直接の関係です。つまり、一尊四士は久遠のこと、一塔二尊四士は今番法華会座のことで、その意味は違うということでもあります。
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