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素朴な疑問
3004
:
犀角独歩
:2006/12/10(日) 07:25:34
問答さん
問答抄に「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」とあります。不識とは識(し)らざるということですね。これが、わたしが「観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ」といった根拠です。
> 蓮祖の本意を見失う危険があると思います。
そうは思わないですね。
引用されておられる「我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」とは、本尊が観心できなくても、五字の受持によって「功徳」を譲られるという趣旨ですから、その意味がわかることとは別の話です。
> 蓮祖の修行は立宗以降、一貫して題目を自らも唱え、他にも勧められた。どこまでも名字凡夫の修行に徹しておられます。題目本尊=観心本尊でなければ、蓮祖の名字凡夫の振る舞いに合致しないと思いますが如何でしょうか。
ですから、そのためにご本人の到達した観心本尊という境地から、題目唱題行を立て、所伝の妙法蓮華経を譲与するという漫荼羅の図示を考案し、四菩薩出現に本門本尊の造立をお考えになるに三秘正法をお考えになった。そして、晩年にいたり、題目本尊というお考えにも至った。
しかし、それをすべて一つのもの=で結ぶことはできない。なぜならば、その意義がそれぞれ違うからです。
> 妙法蓮華経の五字に釈尊の因行果徳の二法が具わるのなら、「題目本尊」=「本門の本尊」としても少しもおかしくないのでは有りませんか
これは、わたしは短絡だと思います。仏と授ける法(妙法蓮華経)という関係が考慮されていません。このように考えてしまうと、法のみとなってしまい仏が不要になります。これでは、仏法とは言えません。日蓮の教えは‘恩’、殊に仏恩を重視しますから、このような考えになっているとは思えません。
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