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素朴な疑問
2996
:
犀角独歩
:2006/12/09(土) 19:10:40
問答さん
昨日は失礼いたしました。
ただいま、戻りました。
問答さんとわたしの見解の差は、ただ一点ですね。
要は本尊が「一つに統合される」か・否かです。
その前に本門の題目と題目本尊が同じか・否かという点ですが、『報恩抄』の文による限り、本門の題目は唱える(南無)妙法蓮華経、しかして、題目本尊は唱えられる妙法蓮華経五字の本尊という関係にあるように思えます。わたしが、題目本尊を観心として捌いたのは、本門という時系列の‘縛り’を題目本尊は超えているからです。そこに裹まれる一念三千は観心に摂すると判断したからです。
さて、本尊が統合されるか・どうかですが、この点についてですが、わたしは、それぞれの相違があり、かつそれらが鼎立することになんの不思議も感じないのです。
観心本尊というのは、観法上における本尊であり、この本尊を達観できたのは、結局のところ、日蓮聖人お一人であったのだと、わたしは思います。
この段階で、ご本人が上行の自覚であったかどうか、わたしはどうも疑わしいとは思っているのですが、それはそれとして、「三身所顕無始古仏」というところに行き着くわけですね。しかし、この仏は凡夫にしては「雖近不見」でしょう。
教義の理解を深めたところで、そのような形に行き着くも、それを実感として得心することは、ほぼ不可能な境地だと思います。しかし、師はここから始められたわけです。観心本尊とは、このようなものでしょう。
では、本門本尊はといえば、以上の観心本尊を得心した菩薩、つまり地涌千界、もっと特化すれば四菩薩が立てるというわけです。ところが、その後、題目本尊であるともいうわけです。
鎌倉時代とは身分制度の時代でした。漫荼羅は限られた人にしか授与されませんでした。この二つの点は看過できません。いまのような民主平等を謳い、漫荼羅濫造総下付をなした恥じることがない乱世とは違います。
現代のわれわれは三大秘法と聞けば、「一閻浮総与」よろしく、等しく民衆すべてがあやかれるものであるという前提で考えてしまっています。しかし、日蓮はそう考えていたでしょうか。
『本尊抄』と『本尊問答抄』を本尊というキーワードでみるとき、対告衆が違っていることに気づけませんか。本門本尊とは菩薩が立て、国家によって論じられています。しかし、題目本尊は「末代の凡夫」をもって論じられています。菩薩、凡夫、この差は看過できません。
三秘正法というのは、わたしは国王と国師(僧)、それも両者が四菩薩である国家の理想において語られるところです。これはまさに秘法に属しませんか。しかし、題目本尊論は違います。末代凡夫を相手取っています。
観心本尊は凡慮のまったく及ばざるところ、本門本尊は凡夫の及ばざるところ、題目本尊は凡夫をもって論じるところ、同じ本尊でありながら、この相違があります。では、この三つは、詰まるところ、まったく別のことを論じているのかといえば、実はそうではありません。そこにあるのは受ける側の相違です。
わたしは、この鼎立は、衆生の機根一様ならざれば、斯くあって然るべきであると思えます。つまり、統合の仕様がないことであれば、その三様ともに是という管見です。
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