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素朴な疑問
3440
:
犀角独歩
:2007/07/09(月) 19:43:19
一字三礼さん
重ねてご返答、まことに有り難うございます。
3437〜3438に記されておられるところ、ほぼ同意いたします。
わたしの日蓮=上行論の最大の疑問は、真蹟から鑑みられないことも、もちろんですが、この菩薩の特質に拠ります。
釈尊五百塵点成道初発心弟子にして、已来大地の虚空に住したこの菩薩は、不軽菩薩の如く、畢える罪があるわけもなく、その偉容は「是諸菩薩 身皆金色 三十二相 無量光明」といいます。「或被軽易或形状醜陋 衣服不足 飲食麁疎求財不利生貧賎家邪見家或遭王難」などという有様とは次元を異にしています。以上の次第ですから、日蓮が自身を上行再誕と考えていたとは、とても考えづらいと思うわけです。
『立正安国論』の提出は、仰るような次第であると、わたしも思います。
承元元年2月の後鳥羽上皇の念仏の停止をモデルにして、いまでいう新興宗教、それも京都を睥睨した鎌倉の暫定武家政権に対して、物を申したというのが、当初の有様であったのではないでしょうか。
この時点で、日蓮が王難を覚悟していたか?と問われれば、わたしは、寧ろ、国師の待遇で迎え入れられるような夢想もあったのではないかと思う節はあります。しかし、結果は歴史の如くでした。その中で仏滅後の成仏のモデルを不軽菩薩、覚徳比丘に求めていったのではないかと考えています。
当初は、法華復興を基調にした考えであり、寿量仏/四菩薩本尊といったモデルも出来上がったいなかったのではないかと思えます。その意味で、初期『立正安国論』執筆段階で四菩薩出現を想定したとは考えづらいように思えますが、どうでしょうか。
しかし、その後の迫害に遭い、寿量仏/四菩薩信仰が徐々に闡明になっていったという経緯ではないでしょうか。『本尊抄』にいう四菩薩賢王は顕正居士さんが仰るとおり、クビライ・ハンを指していたと、わたしは思えます。ただでは、行摂受成僧は具体的に誰を指すのかという問いは残ります。
金色三十二相を具す無量光明を放つ菩薩の出現を日蓮は待っていたのか、実はわたしは待っていたと思います。待っていたからこそ、その四菩薩を像に刻むことを『本尊抄』に述べ、漫荼羅にも記したのだろうと思えます。
このような視点から日蓮の漫荼羅を眺め直すと、虚空に浮かぶ宝塔中の釈迦多宝、脇士四菩薩を娑婆土から仰視し、妙法蓮華経の五文字を受け取る日蓮という相関図とも見えます。それが合っているかどうかは別として、そのような観点からの日蓮解釈は十分に可能であると、わたしは考えます。
なお、「日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました」とのことですが、この点では、わたしは少し違う見解を有しています。
『開目抄』に「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし。)…末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし。」
では、日蓮は日本国を如何なる国かと言ったか、
『開目抄』に「‘悪国’悪時これなり。具には立正安国論にかんがへたるがごとし」、『富木殿御返事』に「諸天善神去此‘悪国’故」、『曽谷入道殿許御書』に「其外閻浮守護天神地祇或去他方 或住 此土不守護於‘悪国’」と、日蓮は、日本国を悪国であると書いています。
ここで先に挙げた『開目抄』の文を整理してみます。
┌無智悪人の国土…=悪国は摂受
└邪智謗法の者多時=破法は折伏
となれば、日蓮は末法日本国では「摂受を前」といっていることになりませんか。だからこそ、その摂受をしない自身への批判を『開目抄』に弁明しているのではないでしょうか。ただし、それは日蓮が折伏の人ということではなく、安楽行品摂受からの逸脱を、あくまで摂受=僧の立場から論証しているのであって、僧が折伏という意味ではないわけです。
ちなみに「邪智謗法の者多時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし。)」の文において、仮に()内の一文があったところで、折伏(暴力によって)折り伏せられることに遭った不軽菩薩ということですから、不軽菩薩が摂受である点は動きません。摂受は、常に折伏との対置して両輪の如く両者あって成り立つからです。
無知悪人:不軽菩薩=折伏:摂受
無智悪人:覚徳比丘=折伏:摂受
無智悪人:日蓮聖人=折伏:摂受
という論旨で一貫しています。
以上のようにわたしは考えますが、この点についてもご賢察を承れれば有り難く存じます。。
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