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素朴な疑問

3238彰往考来:2007/02/17(土) 11:55:33

熱原法難の処刑日について(その5)

スレッド3186の続きです。

【3】弘安2年10月15日説
現在の日蓮正宗は弘安2年10月15日説をとると判断されます。それは日蓮正宗発行の下記書籍(一部創価学会他発行も含む)が弘安2年10月15日と記載しているからです。
・『日蓮正宗要義』202頁
・『慧燈〔創刊号〕』所収研究発表 熱原法難史146頁
・『熱原法難の歴史』103頁
・『富士年表』44頁
・『日蓮大聖人正伝』370, 476頁
・『日興上人日目上人正伝』84,92,491頁
・『法教学報〔第5号〕』所収「日興上人御入門時期拝考」183頁
もちろん探せばもっとあるでしょう。興味深いのは日蓮正宗関連の書籍で正式に弘安2年10月15日説が記載されるのが昭和53年の『日蓮正宗要義』からであることです。もっともこれは管見に入った資料での判断ですから、先行資料が存在する可能性はあります。ただ昭和45年発行の『日蓮正宗大石寺』(鳳書院、252頁)には「十月、頼綱は、神四郎等二十人を自邸に引き出し取り調べもせず、法華経の題目を捨て弥陀の念仏を称え(引用者注:“唱え”と思いますが原文のママ)よと迫ったが、神四郎等はあくまで法華経の信心を捨てず、題目を唱えぬいた。そこで頼綱は神四郎、弥五郎、弥六郎等(引用者注:“等”は不要ですが原文のママ)の三名を首謀者として、非道にも斬首っしてしまった」とあって記載内容から弘安2年10月15日説をとると考えられますが、具体的な処刑日は書いてありません。昭和50(1975)年発行の東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』(第三文明社)には、「1979年(弘安二年)九月二十一日、富士郡熱原の、大聖人門下の僧の持ち田で信徒が協力して稲刈りの最中、役人が大挙して襲い、農民二十人を捕え、その罪名を窃盗罪として幕府に訴えて、直ちに鎌倉へ連行したのである。その取り調べには平頼綱が私邸であたり、事件そのものには全くふれずに、拷問までして改宗を強要した。それはまさに私刑だった。二十人は拷問にもひるまず、信仰を貫き通したため、指導者格の神四郎ら三人が斬罪に処せられ、残りの十七人は追放された。日蓮大聖人は、このめざめたる民衆が権力に屈せず、生命を賭して法を守った法難を眼前にみて、大御本尊を受持しきるだけの信心、機根が調ったと確信し、全世界の民衆が根本として信仰すべき(一閻浮提総与という)本尊を建立されたのである」(210頁)とあり、処刑日を特定して書かれていなのです。もっとも「日蓮大聖人は、〜」以後の文章を読むと、“一閻浮提総与の大御本尊”の図顕日は弘安二年十月十二日ですから、生命を賭して法を守った法難を眼前にみてから建立されたのなら、熱原の法難の処刑日は弘安二年十月十二日より前となってしまうのですが、重箱の隅をつっつくようなことを言うのはよしましょう。「サンタさんなんてホントはいないんだよ、プレゼントは親が枕元に置いているのさ」と、サンタさんを信じている子供に言うようなものですから。ここで問題とすべきなのは、東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』が、昭和37(1962)年に発刊された東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』および、昭和42(1967)年に改訂版が発刊された東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』の再改定版にあたるということです。そして『創価学会の理念と実践』の元本である『日蓮正宗創価学会』ではなんと、弘安3年4月8日説をとっているのです。(つづく)

by 彰往考来


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