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素朴な疑問
2941
:
問答迷人
:2006/11/29(水) 11:26:00
>土代作者は、仏を挙げ・法を挙げるという論の運びをしています。この点は「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事」でも、同様でしょう。
そういう論運びに見えるのは、「一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。」に限ると思われます。他の論点では、そのような論運びはどこにも見当たりませんが・・・
しかも、当該部分も「仏を挙げ・法を挙げるという論の運び」ではなく、「本地は・・・上行菩薩」「本門教主は久遠実成無作三身」「法を云へば・・・一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経」「弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師」という、蓮祖の「本地、教主、法、弘通」の各視点から、天台沙門の表現は間違いだ、と述べているわけです。「仏を上げ・法を挙げる」という順序は確かにその中に含まれていますが、論の運びがそうなっている訳ではないと思います。
「脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。」の論運びは、まず、脇士について「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」「一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり」と述べて、それが「未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く」ことであり、「三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀」に執着してはならないと結論付けています。いずれも本尊=仏についての論述であり、そこには、「法」との観点は見られないと思います。曼荼羅=法という捉え方は述べられておらず、日道上人がそのような見解に立っているとは思えません。
まず、この点、如何でしょうか。
これから出かけます。続きは夜に書き込みます。
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