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素朴な疑問

3239彰往考来:2007/02/17(土) 11:56:11

熱原法難の処刑日について(その6)

スレッド3238の続きです。

東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』(昭和37年、山喜房仏書林、82頁)には「神四郎等の二十人は、その後獄中に投ぜられること半年、そのあいだ唯一心に題目を唱えて信仰ますます強盛であったが、弘安三年四月八日、神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟は刑場に引き出され、発起人という廉(かど)によって哀れ斬罪に処せられ、残る十七人は付和雷同の従犯者として追放に処せられた」とあります。また昭和42(1967)年発行の東京大学法華経研究会編『日蓮正宗創価学会』(昭和42年改訂5版、山喜房仏書林、85頁)にも全く同じ文章が載せられています。昭和38年には堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(創価学会)が発刊されていて91頁に、「神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する」とありますから、昭和38年ごろ日蓮正宗内は弘安3年4月8日説が主流であったと判断されます。これが昭和45年発行の『日蓮正宗大石寺』や昭和50(1975)年発行の東京大学法華経研究会編『創価学会の理念と実践』では明確な処刑日記載が消え、昭和53年の『日蓮正宗要義』202頁で明確に弘安2年10月15日説が現れるといった流れとなります。日蓮正宗内で弘安3年4月8日説から弘安2年10月15日説にコペルニクス的転回になっているわけです。弘安3年4月8日説は堀日亨師の説ですから、それを覆す論拠がなければなりません。その論拠は、私は日達師のご説法であったと考えます。
 河合一編『熱原法難の歴史』(1993年第14刷(初版1978(昭和53)年10月15日)、聖教新聞社、103頁)には『大日蓮』昭和38年11月号掲載の第六十六世日達上人のご指南を掲載し、ここでは明確に弘安2年10月15日説をとっています。残念ながら『大日蓮』昭和38年11月号は眼福を得ていませんが、河合一編『熱原法難の歴史』の<注六>に「昭和38年10月6日 法華講関西地区連合会第一回総会「御法主上人猊下御言葉」」(184頁)とありますので、『大日蓮』昭和38年11月号掲載の第六十六世日達上人のご指南は昭和38年10月6日の御言葉であることが解かります。これはひょっとしたら昭和38年10月24日に発刊された堀日亨師の『富士日興上人詳伝』での弘安3年4月8日説への日達師の反論であったのかもしれません。発刊日は前後していますが、第六十六世日達上人が10月13日付けで序を『富士日興上人詳伝』で書かれていることから正式発刊前に第六十六世日達上人に届けられたと考えられます。少なくとも『富士日興上人詳伝』の記載内容は、創価学会発行の『大白蓮華』創刊号から第四十四号(昭和24年7月10日−昭和30年1月1日付発行)までに掲載された内容をまとめたものですから、昭和38年10月6日以前に堀日亨師の『富士日興上人詳伝』は公開されていたわけです。
『熱原法難の歴史』からの孫引きとなりますが『大日蓮』昭和38年11月号掲載の日達上人のご指南内容を少々長いですが以下に引用します。(つづく)

by 彰往考来


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