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素朴な疑問
3473
:
犀角独歩
:2007/07/20(金) 00:23:46
日蓮は戒律の放棄などしていなかったでしょう。
顕正居士さんも先に書かれていましたが、戒律を放棄したのであれば、後に三大秘法といわれたうちの一つ本門戒壇など不要と言うことになります。日蓮が会談を想定した以上、戒律は放棄されていません。
放棄されたのは、いわゆる小乗戒であって、伝教が比叡山戒壇を期した大乗戒が放棄されるはずもありません。
これも既に議論されたことですが、「末法無戒」とは、真蹟遺文には見られません。この無戒とは小乗戒についてであって、大乗戒のことであるはずはありません。ところが、そのうち、誤解が生じ、大乗戒までないことになってしまったわけです。
おかしなことに、無戒を言いながら、本門戒壇、三大秘法を言い、戒名をいっているわけです。
さて、マターリさんの疑問ですが、日蓮が安楽行を重視しなかったのは、それが他土の菩薩に係るからではないでしょうか。安楽とはスカバティ、つまり極楽の旧訳です。安楽行とは極楽の修行の在り方といえば、極論となるかもしれませんが、此土の修行ではないという思いがあったのではないでしょうか。
では、勧持品に現れる菩薩はといえば、同じく、娑婆弘教を託された菩薩ではないのですが、日蓮は不軽菩薩との脈絡で、これをとらえていったのでしょう。
ちなみに、不軽菩薩は折伏などといわれますが、『文句』に「不輕之説是口業。故往禮拜是身業。此三與慈悲倶。即誓願安樂行也」といいます。安楽行品を日蓮は摂受に配当し、かつ、台釈では、不軽の行は三因仏性、四安楽行に配当されます。つまり、摂受行でした。
日蓮は、この文句の文を知らないはずはありませんから、安楽行摂受を我が身当たらずという問いを起こしながら、不軽菩薩を引くあたり、この文句の不軽=安楽行=摂受という伏線を意識してのことであろうと、わたしは考えます。ところが不軽は折伏という固定観念に囚われてしまうと、この日蓮の心憎い賢察が見えなくなってしまうわけです。
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