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素朴な疑問

2931問答迷人:2006/11/28(火) 12:18:19

これは、大石寺第四世の日道師の著作とされています。この点に疑義があるとの説も有りますが、今は通説を採用しておきます。

ここで、道師は「何を以って末法の本尊とすべきか」という視点で論じていると思います。結論的に、一体仏を退け、蓮祖図顕の曼荼羅を以って本尊とすべき事を論じています。

さらに「何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、」と述べています。これは微妙な表現です。要するに、一尊四士こそが、法華本門の本尊であり、その本尊が図顕されている曼荼羅を本尊とすべきだ、と述べていると思われます。実際に一尊四士の仏像が寄進されておれば、もちろん、それを拝む事を否定しているとは読めません。

2930の引用文を以って、曼荼羅正意が日道上人の段階で定着していたとは、僕は判断できないと思います。基本的に、日興上人の考えとそして変わっていないと思います。

そこで、問題です。日道上人は、曼荼羅を「三身即一の有縁の釈尊」と捉えていた点です。この視点で考えれば、日興上人の「ほとけ聖人」との表現されている仏とは、曼荼羅として顕された一尊四士像を意味しておられたと考えるのが妥当ではなかろうかと思います。

無論、実際に一尊四士像が寄進されていた、という歴史的事実を示す証拠があれば別ですが。

以上、非常に回りくどい言い方になりましたが、まとめますと、

一、日興上人とほとんど変わらない本尊観を日道上人が持っていたと思われること。
一、日道上人は曼荼羅に顕された一尊四士像を「ほとけ」と拝していたこと。
一、このことから、日興上人の「ほとけ」という表現も、曼荼羅として顕された一尊四士像を「ほとけ」と表現した可能性が高い。

以上です。

なお、どの曼荼羅を「根本の曼荼羅」としたか、という点ですが、日道上人はそのような考えはなかったと思います。あくまでも、本尊は本門教主釈尊であり、一尊四士で有ったと思います。曼荼羅正意という内容は、少なくともこの御伝土代には書かれていないと思います。


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