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素朴な疑問

3385犀角独歩:2007/06/16(土) 18:48:57

> それとこれとは話が違います。

どのように違いますか。
偽物でよいのであれば、文意の遡源など元より無意味でしょう。
そもそも偽物でよいというものの言など、証憑の対象にも、議論の対象にもなりません。

> 犀角独歩…どの御本尊様を拝んでおられる

先より記したとおり、「本尊」語は伝教以降に導入される観念であって、わたし自身は崇拝の対象と考えておりません。わたしが敬礼するのは、もちろんお釈迦様です。そして、多くの示唆を与えてくれた日蓮にも敬意は表します。

教学的な整理として、日蓮の真意を探れば、教相としては法華経寿量品五百塵点成道釈迦牟尼仏、観心からは所顕三身無始古仏でしょう。また、真偽追及の余地はあるものの、妙法蓮華経五字題目ということでしょう。

その五字を書した漫荼羅を本尊とするのが、日興の意図であれ、それを複製したものは、この限りではないというのも日興の意図でしょう。

ただし、漫荼羅であれ、尊像であれ、日蓮像であれ、その形に刻まれたものを通して、ブッダとダルマとサンガを仰ぐことに異論があるわけではありません。実際にそのような礼拝はいたします。しかし、それは創価学会等のように、近代、それぞれのグループが勝手気ままに会員向けに決めた「勤行」??という奇妙な遣り方を「拝む」というのであれば、そんなことは、やるわけもありません。

漫荼羅の彫刻は彫刻であり、漫荼羅を写真製版し印刷したものは印刷です。
こんなものが本尊であるというのは、鰯の頭と同様ですが、各人がそれを有り難がるのは勝手です。しかし、このような議論の場で、そのような代物が本尊たり得るというのであれば、きちんとした挙証を以て議論をするべきことです。

それが偽物でもよいなどということは、もとより、議論のレベルに達していない個人の範疇であると申し上げているのです。そして、そのようなものでよいのであれば、日蓮が書いた‘とされるもの’で十分なわけで、真偽論攷も、これまた無意味ということでしょう。

もっとも重要であるはずの本尊が偽物でよいあなたにとって、遺文の真偽など、論ずるに足りない問題ではないでしょうか。なぜならば、漫荼羅そのものが書き物なのであって、もっとも真偽をやかましく言われるものであるからです。


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