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素朴な疑問

3485犀角独歩:2007/07/22(日) 09:01:12

真蹟遺文で、毒鼓が出てくるのは、たった2カ所です。

『曽谷入道殿許御書』に「彼不軽菩薩出現於末世令撃毒鼓之時也」
『秀句十勝鈔』に「信者為天鼓 於謗者為毒鼓」

天鼓毒鼓は信・不信(謗)に分立して述べる文句・玄義の釈に従うところです。台釈では、毒鼓は天鼓とのセットされますが、日蓮門下で、摂折二門で折伏いっぺんとうのように、ここでも毒鼓を採って天鼓を忘れています。

「不軽…令撃毒鼓」という件を勘えます。この毒鼓の譬えの載る涅槃経(南)に遡ってみます。

「譬如有人以雜毒藥用塗大鼓於衆人中撃令發聲 雖無心欲聞聞之皆死 唯除一人不横死者 是大乘典大涅槃經亦復如是 在在處處諸行衆中有聞聲者 所有貪欲瞋恚愚癡悉皆滅盡 其中雖有無心思念 是大涅槃因縁力故能滅煩惱而結自滅。犯四重禁及五無間聞是經已亦作無上菩提因縁漸斷煩惱。除不横死一闡提輩」

この段は、涅槃経信者と一闡提(不信)の対比で信経の利益を述べていく段にあります。簡略して文意を記せば、毒を鼓に塗って撃つと、その声(おと)を聞いた人は、みな死ぬという件から始まります。ここだけを切り文して読むと、たしかに毒鼓の声を聞いた者は死んでしまうと即断したくなります。ところがここにただ一人横死しない者がある、それは一闡提であるとあります。つまり、死ぬのは信者のほうであるということです。一見すると、この件は奇妙なのですが、ちゃんと読めばその意味はわかります。つまり、ここでいう「死」とは「貪欲瞋恚愚癡悉皆滅盡…能滅煩惱…自滅…犯四重禁及五無間聞是經已亦作無上菩提因縁漸斷煩惱」に係り、つまり、煩悩などの三毒を滅尽を死と言っています。しかし、一闡提は、この煩悩を死(ころ)せないというのが、この文意です。

これは涅槃経の所説ですから、煩悩を死す経は涅槃経なのですが、「法華涅槃」を括る天台‘マジック’では、これが法華経を説くことというアクロバット技が展開します。

具体的には不軽菩薩と関連づけられていくわけです。
わたしは法華涅槃を括る台釈には反対の立場で、ですから、それを受容する日蓮の在り方にも賛同しかねます。それはそれとして、しかし、では、台釈を日蓮はどのように受容したかを考えることは、現行の日蓮門下教学の誤解を考えるうえでは通過点となりますので、考えなければなりません。

『文句』に「本已有善釋迦以小而將護之 本未有善不輕以大而強毒之云云 … 雙明信毀果報 …神通力是‘身’業淨 樂説辯力是‘口’業淨 善寂力是‘意’業淨云云」

この「不輕以大而強毒」は、不軽折伏の根拠とされる釈文の一つですが、これはまったくレトリックです。なぜならば、ここで言われる不軽菩薩の有様は上に挙げるとおり、身口意の三業に配当されています。この点をもっと端的に述べるのは、同じく『文句』に「不輕之説是口業 故往禮拜是身業 此三與慈悲倶 即誓願安樂行也」と明記されています。

つまり、不軽菩薩の有様と、安楽行品に示される四安楽行(身・口・意・誓願)であるというのは台釈です。つまり、不軽の行は安楽・摂受の行です。

安楽行品はたしかに迹門であり、不軽品は本門です。ですが、釈尊の前世、不軽の菩薩行と安楽行品に出でる他土菩薩の行は倶に四安楽行の範疇で異なりません。

以上の脈絡を六大部を精読・精査された日蓮が知らぬはずはありません。
となれば、日蓮は、不軽の行を採って我が身に宛て、安楽行品に自身が違背しないことを証したと見なすほうが至当であるとわたしは思えます。

つまり、『開目抄』において、日蓮が安楽行品に自身が当たらないという批判に不軽の行を以て論じる脈絡は以上の如くであり、その結論するところは安楽行品にも当然、違背しないという日蓮の自意識が息づいていると、わたしには思えます。


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