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素朴な疑問
2922
:
犀角独歩
:2006/11/27(月) 19:17:07
わたしは、日興には仏像本尊の意識は当然、あったと考えます。
もしなかったのであれば、一尊四士を我が義として、日澄がその義を盗んだなどと述べる理由はまったくないことにならです。
わたしのHPにアップしてありますが、執行師の解説に頷きます。
…「原殿御消息」には、大曼荼羅と仏像との関係を論じて、
「日蓮聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御徴力以ての形の如く造立奉り思召立候を、御用途も候はず、大国阿闍梨奪い取り奉り候仏の代りに其程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給て固く其の旨を御存知候を、日興が申様は責て故聖人安置の仏にて候はゞさも候なん、それも其の仏は上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き、その上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ、なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき、御力契給せず御子孫の御中に作らせ給仁出来し給ふまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」
といっている。いまこの文に依れば、宗祖の奉安せられたる一体仏の釈尊が、祖滅後朗師によって安置せられるに至ったので、波木井の原氏がその一体仏の釈尊と同ようなものを造立せんと試みたものゝようである。茲に於て興師は、一体仏の造立は始成仏に濫するが故に不可であることを述べ、更に本化の四士を添へたる仏像の造立は経済上の問題を伴うものであるから、一仏像造立の出来るまでは、宗祖の認められたる紙墨の大曼荼羅をもってこれに代へても何等異りはないと訓へられたものである。即ちこの文に現れたる日興上人の思想は、後世に伝へられているが如き、仏像否定でもなく、また大曼荼羅正本尊思想でもない。寧ろ仏像造立を肯定し、大曼荼羅所顕の一尊四士をもって本尊奠定の様式と解されてゐたとみるべきであらう。然るにこの文をもって、日興上人の造仏論者を誘引せんがための巧説であるといい、或はまた、造仏論者に対して且らく一尊四士の造立を許されたのみにして、これは真意にあらずといふが如きは、却って上人の真意を誣ふるものではなかろうか。少くともこの消息による限り、この時代に於ける上人の本尊意識は本門の妙法蓮華経の教主久遠実成の釈尊であったのである。
なお興師の仏本尊思想を窺うべき文献として「三時弘経次第」と「引導秘訣」とがある。即ち「三時弘経次第」には明かに師弟の次第を述べ、久成の釈迦仏をもって本仏とし、この本仏を富士山の戒壇本尊とみなしているのである。更に「引導秘訣」には曼荼羅を説明して
「曼荼羅ノ事、是即冥途挙(テガタ)状也(乃至……)是釈迦法王ノ印判と云ふ意也、曼荼羅授与之時、深此旨思フベシ。」 といい、また「題目を書事は釈迦の智慧を顕す也。」ともいって、題目を仏智と解し、この大曼荼羅を拝するには「心強仏身念可シ」であると相伝しているのである。然るに第二類の文献たる「富士一跡門徒存知事」には
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