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素朴な疑問

3174犀角独歩:2007/02/02(金) 16:49:47

れんさん

有り難うございます。
わたしも処刑は弘安2年(1279)に行われたのではないかと思います。
その理由は日興が<81>本尊を書いた徳治3年(1308)は29年目に当たるからです。つまり、数え年ですからいまの数取りより1年早くなければなりません。すると、弘安3年からだと数が合いません。30年を期したとすればかくのごとくです。この年の敢えて仏生日を選んだということでしょうか。

先ほど、神四郎の墓がある本照寺に問い合わせたところ、こちらでは、いちおう弘安2年10月15日としているとのことでした。墓の発見者は「田中智学先生」だということでした。

ネットで少し検索したところ、本多日生氏に係る『統一主義』に「不借身命:熱原神四郎国重(1)知足道人」という項目を見ました。さて、弥四郎国重が神四郎という説と脈絡のあると思いました。

この熱原信徒の処刑が宗教弾圧であるという点をまったく否定する気はないのですが、わたしが解せないのは、では、日秀・日弁には、なぜ厳しい咎めがなかったのかという点です。となると、その罪状…あくまで名目上ですが…『滝泉寺申状』にいう冤罪をもってされたということになるのだろうかと思った次第です。

きゃからばあさん

有り難うございました。この情報も是非とも欲しいところでした。
こちらでは「弥太郎」ですか。弥六郎の‘六’と‘太’は似ていないことはありませんね。‘次’となるとどうなんでしょうか。しかし、「四郎」はぜんぜん違っていますね。歴史上の記述ですから、特に論おうとは思いませんが、仮に日宗全興尊部と富要で、違いがあるとなると、これは問題だと思います。両方とも同じ日亨氏に依るわけですから。

しかし、ここで熊田氏の『日興上人』に係る日柱氏の名が出るとなると、この時点では諸説紛々、まあ、特に統一見解を出さず保留といった状態にあったのでしょうか。いまのように決めつけてしまうより、歴史の扱いとしては、こちらのほうが自然な感じはしますね。


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