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素朴な疑問
2982
:
犀角独歩
:2006/12/07(木) 09:24:20
問答名人さん
どのように言語化して好いのか、やや限界を感じ始めました。けれど、やりとりのなかでできるだけ、埋めてまいりたいと思います。
少しずつ、細分化しながら進めます。
> 上行所伝の妙法蓮華経の五字が、観心の本尊
こう書けば、違いはしませんし、わたしもそのような文面になっていました。
もう少し詳細に論じられると思うのです。
所伝というのは‘伝えるところ’というのは他者から‘伝’であることを意味します。つまり、上行が釈尊からです。一方、観心本尊とは己心の一念三千観法に、仏界を教相との整合性から、さらにそれを超えて観いだしていくことですね。この二つには、以上のような相違がありませんか。
> 本門の題目と観心の本尊とが、同じく南無妙法蓮華経
ええ、言葉としてはそうです。
『報恩抄』で本門題目に該当するだろう件は「一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし」です。では、伝えられ授受される題目と唱える題目は同じでしょうか。伝え授かる題目は釈尊上行からの授かりもの、しかし、唱える題目は、己の口唱です。
> 本門の本尊とは、本門教主釈尊なのか、本門で説かれた釈尊なのか
本門教主釈尊ではないでしょうか。
> 本門の本尊が本門で説かれた釈尊なら、それは観心の本尊ですよね
いや、違うでしょう。法華経の文面では観心は表に現れていません。そのことを『開目抄』に「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」というのでしょう。教観相対を暗示しています。本門の本尊は、教相面から明らかな、文字通り本門の本尊、寿量仏ではないでしょうか。
> 本門の題目と一緒と言う事になります。これは変ですね。
わたしは、当初、本門題目というのは授与された題目の五字を言うのだと思っていました。これは間違いではないと思うのですが、先にも挙げた『報恩抄』では、唱える題目だというのです。たぶん、この点は、妙法蓮華経が能化からの授与の題目であれば、南無妙法蓮華経は所化が唱える題目なのだろうと思えます。
問答さんが疑問に思われるとおり、日蓮が題目と言うとき、所伝の題目、本門の題目、さらに本尊としての題目と三義に亘っています。わたしは、これを択一してどれか一つを選び出すという発想は、はじめの一歩で躓いているのだと思えます。答えは皆、真なのだろうということです。
勝劣的な発想であると、択一を繰り返し、ついに最勝の一つを択びとるのが日蓮の教学であると捉えがちですが、実際は、小さな集合を、より大きな集合で包括し、ついにすべて包括する集合に至るというのが日蓮の論法であると、わたしは観ます。
また、それぞれの用語において、どの言葉を表立てて論じるかで視点の変化があるので、その都度、縦横無尽に受け取る側も視点を変えてみないと景色は歪んでしまいます。
本尊というとき、これを本門立てで考えれば、儒外、内外、大小、顕密、本迹と追って、ついに寿量仏に至るという階梯を踏みますが、観心立てでは、内観し心のなかに仏を観、その仏の因果と功徳が直ちに妙法蓮華経五字に裹まれることを達観し、そこから三身所顕無始古仏という五百塵点成道の寿量本門仏より一重、立ち入っていきます。この点では、仏・菩薩・衆生・法・三世間という隔壁も時間の経過すら超越してしまうわけです。すべてが妙法蓮華経という題目五字に包摂し、しかし、個々が個たるまでで円満に具している様です。この観心は、本門からの景色とは違います。
本門本尊、観心本尊、同じ本尊であるという見方になりがちですが、視点が違っている以上、異なって映じます。また、表しているところも違っています。前者は教相面から本門寿量品に至る階梯で諦かにされるところ、しかし、観心本尊は文字通り、心を観るなかに見いだされる仏法界が三千不可思議境と広が因果が妙法蓮華経の五字に納まるという視点の相違です。前者は仏格からその心法への信仰へと進むのでしょうが、後者は心法から仏格が見いだされます。ところが、前者では仏格は寿量仏という五百塵点から今番という時間軸がありますが、後者の場合、その時間軸を超克するばかりか仏格までも五百塵点を超克し、寿量仏という法華会座も超克していきます。『本尊抄』に「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土。仏既過去不滅未来不生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間也」というのは、このことではないでしょうか。
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