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素朴な疑問
3391
:
犀角独歩
:2007/06/17(日) 09:54:18
マターリさん
今回のご投稿で、MCについて、触れられたので、そのことに関連して、重要な点を一つ。あなたが「スルー」と記したことは、‘思考停止’ということです。
つまり、自分の信念体系について、不利になる点について、思考が停止し、考えなくする心理作用です。この形で、不合理且つ非科学的な信仰は保護されます。この技法をもっとも端的に悪用するのがカルトでしょう。
日蓮において教義と本尊は不可分な関係にあります。
ですから、教義を考えていけば、実際に図顕された本尊に到達するわけです。ですから、その一方のみを「客観的かつ科学的」に考えることはナンセンスというほかありません。
ただしかし、このような分離と思考停止は、あなたお一人の問題ではなく、創価学会を含む石山圏で日寛などの印刷を拝む人々に共通する問題であり、かつこの点は全日蓮門下、さら間口を広げれば、日本仏教徒、否、全世界の仏教徒、もっといえば、全宗教の信仰者全体に通じる問題であるとも言えます。
故に、この問題を避けて通ることは、単に思考停止を漫然と是認し、事の本質を見ないようにするばかりか、悪弊を招来に残すことになります。もっといえば、カルトを始めとする悪行を是認することにもなります。だからこそ、わたしは、この点に関して、決して論攷の手綱を緩めないわけです。
しかしながら、教学論攷から、ついに極意である本尊へ至るは道程です。まずは、教義から科学的合理的に考える方途を身につけ、ついには、本尊をも考える道すがらに入るという順位を否定する理由はありません。
「スルー」した本尊と信仰については、いつしか必ず考えることを前提として、では、こちらでの議論にお付き合いすることといたしましょう。
> 仏像は大乗仏教になって、菩薩像の次に作られた
これは近代の研究で、そのとおりいわれています。
> 原始仏教・小乗経的に考えると、偶像崇拝は禁止
「小乗」「偶像」という言葉が適切かどうか、ここでは取り敢えず置くこととして、初期釈迦教団では仰るとおりだったでしょう。
> 漫荼羅・尊像・日蓮像も、偶像崇拝
いや、もっとあります。
心のなかに描く神仏のイメージ、そのものが物理的な形こそ採らないまでも、「偶像」という言葉を使えば偶像そのものではないですか。
キリスト教を例に採れば、偶像崇拝といって、形に彫塑した像を拝むことを批判しますが、いもしない神を心に描き崇拝することは、無神論の立場に立脚すれば、まさに「心でイメージされた神という虚像」を拝む偶像崇拝そのものです。
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