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素朴な疑問
3149
:
独学徒
:2007/01/29(月) 21:48:40
犀角独歩さん、
>これは石山では下種三宝です。住持三宝ではないでしょう。
ええ、これはあくまでも通仏教上の住持三宝義をもとに、日蓮本仏論圏の思想を、私なりに当てはめてみたものです。
>「住持」というのは、いまの言葉で言えば、住職ですね。
私は先に紹介しました、青山先生の「三つの宝」で示されている『「住持」とは「法に住し、法を護持する」という意味です。』という解釈を通仏教上の概念として依用しました。
ここでは、「住持」とは「法に住し、法を護持する」との意ですので、必ずしも「住職」の意としては使用していません。この意味からすれば、日蓮本仏論圏にとっては、まさに日興の振舞は日興在世における『住持三宝』の姿と主張することも可能です。
もちろん当の石山では、これを『住持三宝』の姿としていません。私はむしろそのことが不思議に思えました。
>日興は宝前のなかに漫荼羅本尊、日蓮像に並んで座っているわけではなかったでしょうから。
漫荼羅本尊、日蓮像に日興が並んでいた場合は、『現世三宝』(別体三宝)になるというのが私の見解でして、その意味では、日興在世の日興の振舞は現在の御影堂式であり、『住持三宝』の形式であると思いました。
しかし繰り返しになりますが、当の石山は御影堂式を『住持三宝』といわずに、『一体三宝』といっています。
>石山のような客殿奉安は、他では、あまり、見られません。
私は石山の客殿は、ビデオと写真でしか見たことがありませんが、確かに石山の客殿は変わっていると思います。
他の富士門本山クラスも客殿は、曼荼羅を中心に日蓮(向って左)・日興(向って右)という勧請はありますが、私の直見した限りでは皆「絵像」です。
しかし石山は「木像」ですね。
私は「絵像」に関しては、その描かれ方からして、仏像もしくは曼荼羅の脇に置かれたものと思います。
「木像」と違って、水鏡にしても波木井の御影にしても、古い「絵像」は真正面を向いていません。これはつまり真正面に奉掲するものとして書かれたものではないからだと思います。
その意味では、石山以外の富士門本山で、曼荼羅の両脇に「絵像」を配置するやり方は、向きとしては間違っていないと思います。
しかし石山の客殿は「木像」ですので、皆真正面を向いています。これは本来、何かの脇に配置するものというよりも、真ん中に位置するものと思います。
もちろん、犀角独歩さんご指摘の通り、日興在世には石山の客殿形式はもとより、富士門他山で見える勧請形式もなったと思います。
れんさん、
「大石記」のご教示ありがとう御座います。
たしかに「数通の御譲リ状」などの記述がみえますね。
興風談所の「日興上人全集」にて「日興置状」の頁を見ると、註に「本状における重須本門寺の重宝盗難事件は、日代師関係の八通遺状の史料的価値を考慮に入れれば事実とは認めがたい。」とありますので、かなり後世のものかと思っていました。
しかし「大石記」にその存在を示唆する記述がある以上、れんさんご指摘の通り、「祖師伝」よりもずっと次代を遡れる事になりますね。
>石山文書に「日興御さく釈迦」
これは「家中抄」でしょうか。ここまで次代が下ると、どうなんでしょう。
私としましては、一寸依用に耐えない感があります。
私は日順・日代の思想に、仏像造立を広布の時としていることが観取されるということは、日興も日興在世には仏像の造立は無かったのではないかと考えます。
本門本尊である本仏・釈迦仏像は、広布の時、国主によって造立されるものとの思想であったのであれば、広布に至らないうちは、三宝は揃わず、二宝をもって時を待ったのではないかと考えます。
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