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素朴な疑問
3198
:
れん
:2007/02/06(火) 18:55:28
独学徒さん御提示の資料で他門にも、江戸時代においては一連の弥四郎国重伝説が定着していたことが分かりますね。
このネタ元が石山ならば、石山の江戸初期以来の彫刻成立神話の口コミ宣伝?が功を奏したということになりますし、弥四郎国重が他門に先行していた伝説ならば、むしろ、それをパクッたのは石山ということになると思います。
郷師門流の小泉久遠寺の伝承では、同寺蔵の板本尊にならって石山で彫刻が作成されたとされております。私見では両寺の板本尊は安土桃山時代から江戸時代初期の両寺の復興に伴い、最初に小泉久遠寺で板本尊が作成され、その後、小泉の板本尊から着想を得て、石山の彫刻が作成された可能性が高いと考えていますので、石山彫刻の「弥四郎国重」も他門に先行して存在した弥四郎国重伝説からパクッて来た可能性も有るでしょうね。
少なくとも、江戸時代においては、他門でも弥四郎国重を肯定的に捉えていますから、他門に先行して存在していた弥四郎国重の伝承を採用して「本門戒壇之願主」に仕立てたというのが、史実に近いものと愚考します。
しかし、きゃからばあさんが仰るように、熱原法難における張本の神四郎・弥五郎・弥次郎の三人の存在がクローズアップされすぎて、熱原における最初の犠牲者というべき四郎男や弥四郎男の伝が、竜泉寺申状以外失われてしまったのは残念ですね。
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