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素朴な疑問
3392
:
犀角独歩
:2007/06/17(日) 09:54:51
―3391からつづく―
仏教の場合、実際にいた釈尊を敬慕しました。
当時のインドでは、文字記録は、暗誦記憶に比して劣るものと考えられた故、文字化が遅れたのでしょう。実際に存在した釈尊に会ったことがなければ、その顔を正確に写すことはできないでしょうし、仮に似通って写しても実際とは異なります。このような考えから像に刻まれなかったということでしょう。
ただ、実際にいた釈尊を像に刻むことと、人間の心のなかで創作された崇拝対象を像に刻むことでは、その意味は異なります。
「偶像崇拝」というのは、いもしない神をイメージして崇拝する偶像崇拝側からの論理であって、これをもって仏教の尊像を考えると仏教信仰者の意思とは歪みがあると、わたしは考えます。
石山では、あの彫刻が生身日蓮、それも無始無の絶対仏そのものであるという信仰ですから、これはまさに「偶像崇拝」といわれても致し方がないでしょう。しかし、多くの仏教徒は、描き彫塑された尊像を、ただちにそのものと考えるというより、その像を通じて、神仏本体を信仰するという形態ではないですか。
つまり像の限界を認知したうえで、扱っているということです。
わたしは、仏像を飾っていますし、漫荼羅も奉懸しています。
しかし、その仏像を釈迦牟尼世尊そのものであるとは思っていません。その像を通じて、かつて2500年前のインドの大地を生きた仏陀に思いを馳せるに過ぎません。また、その像をインドから招来し、わたしのことを思い下さった僧侶への感謝もその像を通じて、毎日、再認識しています。この点は奉懸した漫荼羅(手書き肉筆)も同様であり、日蓮が考えた法華経観をその漫荼羅のなかに見ながら、何より、下さった方への感謝を仰ぎます。
ただ、それらがなければ駄目かといわれれば、別段、そうも思いません。
なにより、大切なことはブッダ・ダルマ・サンガを敬い、そして、精進することであると思うからです。では、仏像は仏か?ということになりますが、仏像は、文字通り仏の像(ぞう・かたち)に過ぎません。本体の仏であるはずはありません。
> …大乗仏教的に考えれば良いということでしょうか?
わたし個人は、大小の分別で優劣をつける気になれません。
自分たち以外の教えを認めないような在り方は、自分たち以外は乗れないのであって、名は大乗に借りながら実際は小乗ではないですか。
信仰とまではいわず、ブッダ・ダルマ・サンガに尊敬の念を払うだけならば、別段誰にもできます。小乗と貶称される人々の在り方です。むしろ大乗でしょう。
大小の意味はもちろん、そんなところにはありませんが、現行の仏教学で大乗・小乗という言葉を使うこと自体、旧い分類です。いまや、部派・大衆という言い方自体意味をなさないとも、わたしは考えます。
マターリさんは、本尊を印刷した紙に、方便十如までと寿量自我偈を唱えることを勤行という拝みであるとする信念体系を受け取った人とお見受けします。それ以外の在り方は駄目で、それのみに固執する様は、わたしのような見地からすれば、極めて小乗(小さな劣った乗り物)という観に駆られます。
印刷物を本尊と思うことやら、神社不拝への固執は、間違いなく上述したような排他的なグループのご都合指導によって培われたものであり、まさに「スルー」された思考停止によって永続されるのでしょう。それぞれの言葉の定義もまったく同様です。大乗、小乗などという刷り込まれた教義も同様でしょう。こんなすり込みでのみ考え・行動すること自体、「小乗」ではないですか。また、キリスト側の論理である「偶像崇拝」という思考パターンも跨いで考えてみてはどうでしょうか。
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