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素朴な疑問
3185
:
彰往考来
:2007/02/05(月) 06:57:31
熱原法難の処刑日について(その3)
スレッド3184の続きです。
菅原関道師は『興風〔第5号〕』(昭和61年、興風談所)所収の「開山日興上人についての私論(1)」21頁に、
「従来、十五日説(山川智応著『日蓮聖人伝十講』等)を主張する依據となるものは、『伯耆殿御返事』の「但シ熱原ノ百姓等安堵セ令(メハ)日秀等別ニ問注有ル可ラ不ル歟」(引用者注:原漢文。(メハ)は菅原論文にはなく『昭和定本 日蓮聖人遺文 第二巻』1676頁により補記しました。堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』での読み下し文は「但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか」(1456頁)とあります)の文であり、この書状が十二日付になっていることから十二日には三烈士が生存していると断定したようだが、それは誤断である。宗祖が身延で十二日に認められた書状をもって、同日の鎌倉の様子をその中に見い出すことは無理である。つまり、宗祖は、鎌倉の八日、九日の状況を知らせにきた使者(多分、十一日か十二日に身延に着いたであろう)に対して十二日に書状を認めているのである。そして竜泉寺申状とこの書状を携えた者が鎌倉へ向って、十四日・十五日に到着した。その時すでに処刑が済んでいる。それで十五日酉の刻に日興上人からの書状になり、身延の宗祖のもとに十七日酉の刻に到達したと考えられる。さすれば、十二日に生存の根據は何処にも見い出せず、十五日処刑説もかなり薄弱となる。もとより現実に、十二日処刑の当該史料もなく史実的に十二日に断定するわけにはいかないが、十二日〜十五日と巾をもたせて考えることが妥当であることは十分指摘しうる。ならば、大石寺としては、古伝による十二日処刑、それが戒壇本尊由来および意義を顕わすという『三師伝』の伝承が存するのであるから、それに立脚すべきではないだろうか。(現在宗門では富士年表によれば十五日説)」とあります。
しかしながら菅原論文の論旨は、〝最初に弘安二年十月十二日の戒壇本尊ありき〟であって、とても文献史学的な観点からみた時に耐えられる内容ではありません。ご自身で「十五日処刑説もかなり薄弱」、「十二日処刑の当該史料もなく史実的に十二日に断定するわけにはいかない」とおっしゃりながら、「十二日〜十五日と巾をもたせて考えることが妥当であることは十分指摘しうる」という論理の飛躍にはついていけません。論拠とするのが「古伝による十二日処刑」では説得力はゼロに等しいでしょう。“古伝”とおっしゃるのであれば、どの史料なのか、どういう内容なのか明確にすべきでそれをせずして「妥当である」もへったくれもないでしょう。「家中抄」には「同(引用者注:弘安)三年に法華宗の檀那三人をば頚を切ってぞ捨たりける」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』昭和53年、創価学会、152頁)と、明確に「弘安三年」とあるのと、いわゆる“古伝”との内容差はどう説明されるのでしょうか? なぜその“古伝”内容を日精師は「家中抄」に記載していないのでしょうか?それは、日精師が「古伝による十二日処刑」という内容をご存知なかったからでしょう。(つづく)
by 彰往考来
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