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素朴な疑問
3457
:
顕正居士
:2007/07/11(水) 01:42:48
>>3454
一字三礼さん。
日蓮は僧兵によって守られた寺院に起居していたわけではないからこそ護身の武器を帯していた
と想像します。剣技というほどのものは訓練していなかったでしょうが、安全に武器をあつかう程度
はこの時代は多数の人が幼年時代に学習したでしょう。兵農分離も刀狩もずっと先のことです。
しかし鎌倉幕府は僧侶の武装を禁じていましたから、このことが後の流刑の一原因になっています。
三條小鍛冶宗近は北条弥源太から贈られたもので礼状が残っています。但し三條小鍛冶宗近と
いう名はありません。数珠丸のほうも旧国宝、現重文であり、この天下五剣の持ち主に日蓮以外
の名が挙がらないのですから、相当に信用できる伝承ではないかと考えます。
いわゆる僧兵はほんものの僧侶(官僧、学僧)の従者ですが、延暦寺の学僧といえども、良源が
定めた最小限十戒護持を放棄していたようです。中に証真のような反時代的学僧はいたでしょうが。
日蓮は関西の常識を関東に持ち込んで臆さなかったのではないでしょうか。日蓮の反感は戒律の
復興を志す僧と南宋からの亡命僧に向かっていましたから。後者は国際情勢に関して偽情報を
幕閣に伝えていると考えたのかも知れません。ともかく鎌倉幕府の武装寺院を認めない方針は
十分成功し、関西のような物凄いものは出来ませんでした。
ところで梵語学の開拓者である南条文雄は少年時代は本願寺僧兵だったそうです。神仏判然令
に対して急遽僧兵を復活、奥羽列藩側に参戦予定の教練に召集されたのだそうです。
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