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素朴な疑問
2977
:
犀角独歩
:2006/12/05(火) 09:02:45
どうも、文章が巧くないので、訂正し、再投稿とさせていただきました。
***
顕正居士さんのご投稿を頂いておりますので、こちらは拝読させていただくことといたします。
わたしも、まだ書きかけの部分がありますので、この点は引き続き記させていただくことといたします。
今回の投稿を始めるに当たり、三学無縁さんに、その粗筋を話したところ、「では、観心ずりで、本覚的な結論なのか」という問いをいただきました。
「本覚」という視点は、実に幅広く、一概に論じ切れませんが、以下の点のみ。わたしは、日蓮のいう観心とは、現在言われていることとは、違っていると考えます。
無作三身、凡夫即極といった本覚的結論は、結局のところ、仏・心の両面に亘り、それを修行者凡夫の一念に帰結していく傾向を有していると、わたしは観察します。しかし、日蓮は、この点において、仏と心と自分自身、すなわち、衆生との距離をしっかりと保って自身の法門を御立てていると思えます。
先に投稿を参考にしていただきたいのですが、結局のところ、日蓮が言う本門本尊は観心本尊を裏打ちされたものであり、この関係は仏と心です。この二つを、では、本来、自分自身に内在するものであるととらえてしまえば、上行所伝も、本仏崇敬も意味をなさないことになります。しかし、日蓮は衆生の立場にあって、久遠下種の本主、受け継ぐ妙法蓮華経の五字を己心からずらしたところでとらえたわけです。これが日蓮が言う本門本尊であると、わたしは考えます。つまり、言われてきたような‘観心ずり’とは異なっています。故に釈迦如来への信仰は厳として護られるわけです。妙法蓮華経という五字(法ではなく五字という文字)の題目を本尊という時、しかし、それは自ら本来覚ったものであるとはいわず‘所伝’というところに重点があります。そして、そこに裹まれる一念三千を観心の側面として打ち出しているのであって、本門本尊が表であれば、観心題目はまさに文字通り、内裏の心に観る本尊にほかなりません。
つまり、本門本尊と観心本尊という表裏をもって見るとき、観心を端的に述べて、教相を論じ儒外・内外・大小・顕密・本迹・教観に亘り整理した開目抄、その前提で、教相というより、直接的に観心を語り、本門と併せ両面から本尊を論じた本尊抄、本門本尊を表に論じた行者値難事、法華取要抄、観心を裏に裹んだ報恩抄、そして、実は本尊問答抄は、観心面から本尊を論じたと見れば、一連の著述は整合性のある脈絡でつながります。
顕正居士さんのお言葉を借りれば、本門本尊とは、本門を説かれた釈尊、観心されて見る無始古仏は、本門で説かれた観心される寿命無量の仏自体ということになりましょうか。
ともかくも、いましばらく、わたしは、一連の教学解釈を敢えて無視し、真蹟遺文を手だてに、日蓮の教説をさらに考えることといたします。
今回の論攷するに、独学徒さんのご紹介は参考になりました。重ねて御礼申し上げます。
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