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素朴な疑問
3025
:
問答迷人
:2006/12/11(月) 20:45:05
犀角独歩さん
>「等」が本尊であると仰るのであれば、この点を挙証する必要があります。
>観心を成就出来るのではなく、観心はできない(不識)けれど、「自然譲与彼因果功徳」、仏因仏果の功徳を譲られることと、己心に十法界を観ることは意味が違います。
観心とは自分の心を観察して、そこに地獄から仏までの十法界を見ること。特にこの中で困難とされるのが仏界を観ること。この点を、本尊抄では「教主釈尊ー中略ー 是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」との疑問を立て、無量義経、法華経、天台大師の釈を引きその解釈として「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」「妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや。」と述べられています。ここで「妙覚の釈尊は我等が血肉」とは「凡夫の己心に妙覚の釈尊が住し給う」。或いは「我が身が妙覚の釈尊になる」。こういった意味合いでしょうから、観心の最難事たる、己心に仏界を観ることが、妙法五字を受持ことに依って成就することを述べられていることになります。
> 本門本尊との異同は如何ですか。
これは、思案中です。よく考えてお答えしたいと思います。なお、『本尊問答抄』は、例示であり、論証しているわけではありません。参考程度です。
>ここのところ、問答さんのご投稿は、わたしの証についても無視するか、反詰するにも証も挙げず、単に「…と思う」と考えのみを挙げるばかりです。これでは議論とは言えません。問答さんらしからぬ、ところと思えます。
独歩さんご指摘の点、読み返して見ますと、確かにそのような部分があります。議論が成立するように留意してまいります。今後もお気づきの点がありましたら、ご面倒でしょうが、ご指摘戴ければ幸いです。
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