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素朴な疑問
3018
:
犀角独歩
:2006/12/11(月) 09:22:11
―3017からつづく―
> …鏡
この点は上記に記したとおりです。問答さんは、日蓮が鏡というものを取り違えています。
>> 『本尊抄』の段階で、如何なる本尊をもって、日蓮は観心している
> 「上行所伝の妙法蓮華経の五字」を以って観心しておられたと思います。
つまり、これは妙法蓮華経という本尊をもって観心したということでしょうか。
> 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
> …蓮祖は「我等」、つまり、「日蓮及びその門下」の観心をお示しであり、蓮祖は「妙法蓮華経の五字」をもって観心しておられると拝します
これもまた、上述と同じく日蓮が明鏡を法華経・止観といっているにもかかわらず、妙法五字本尊とすり替えたのと同じ論法です。論として成立しません。
『本尊抄』は、その冒頭に「摩訶止観第五云」と明確にその論拠を示し、十界観心の様を示しています。止観は法華経によっていますから、日蓮が、明鏡を法華経・止観というのは至当です。また、ここで観心されていくのは妙法蓮華経の五字ではなく、己心十界であり、一念三千です。これは妙法五字が此珠(一念三千)を裹むという前段の話です。
この一念三千を観心した末、日蓮は「私加会通如黷本文。雖爾文心者釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受持此五字自然譲与彼因果功徳」といいます。つまり、問答さんは、まず、本尊ありきで観心であると論を構えておられますが、『本尊抄』の記述はまったく逆になっています。
日蓮は法華経を依経とした止観によって己心を観心し、その一念三千を観法したうえで、‘会通’を加えて五字に具足するとしていくわけです。この会通は観心かといえば、わたしは違うと思います。会通とは「多くの説を集めて説く」ことですから、むしろ、教相に属するでしょう。
故に妙法蓮華経を法華本門に立ち還して、今度は本門本尊を考え、寿量本仏を論じ、その仏像を四菩薩が出現させることを論じていくという側面を同抄は有しています。また、ここでいう本門は「五百塵点已前」というも、その初成道から今番法華会座に至る限って論じられるのが、本門であり、その本尊です。これは観心本尊とは、その意味を異にします。しかし、本門より観心に入り、そこで観る仏は五百塵点成道ではなく「無始古仏」であるという教相、ならぬ経相の紙背、つまり、文底に入っていくのが観心です。しかし、本門三秘正法とは、この観心に裏打ちされて成立していると言うことです。
いずれにしても『本尊抄』の段階で、日蓮は観心本尊を「三身所顕無始古仏…本尊」と言います。つまり、妙法蓮華経五字を本尊であると書いていません。
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