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素朴な疑問

3170犀角独歩:2007/02/02(金) 13:47:55

○日亨氏、熱原法難に関すること

「熱原の法難は直に大聖人の御一身には関係ないが、御自身では一期の大難として法難終息として其普賢色身の表徴として本門戒壇の本尊を顕して末法万年に残された」

富要に以上のようにあります。「法難終息…本門戒壇の本尊を顕」すとあります。これを問答が挙げてくださった熱原法難史の記述に併せ考えると、本尊の図示は弘安三年四月八日以降になってしまいますが、本尊脇書で、日亨氏は「弘安二年十月十二日」と明記しています。この三つの記述はまったく整合性がありません。この点、石山ではどんな辻褄合わせをしているのでしょうか。

富要で、分与帖を引き、以下のように記しています。

「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥六郎」

しかし、熊田氏は『日興上人』では違っています。

「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
 富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
 富士下方熱原郷の住人弥次郎」

手元に宗全がなく、確認できませんが、熊田氏と同じく、‘弥次郎’となっていた記憶があります。どなかた、この点をご教示願えませんでしょうか。

以上、追加の質問です。
皆さんのご賢察をご披露いただきたくお願い申し上げます。


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