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素朴な疑問

3154犀角独歩:2007/01/30(火) 09:04:54

独学徒さん

お気づきかどうかわかりませんが、独学徒さんとわたしでは住持のとらえ方が違っています。何が違うかというと、独学徒さんはこの用語を僧宝に用いられているとお考えになっているようですが、執行師が仰る「当住顕益」といった思想では、仏宝としての扱いであるということです。わたしはこの筋から記しています。より厳密に言えば、顕益、つまり、衆生済度の主役が仏から僧、それも当住(一宗の統率者、もしくは大本山格の住職)が主役になるという論法です。ここで言われる当住は、もはや僧宝ではなく、仏宝に匹敵しています。つまり、これは日蓮本仏論、さらに派祖(日興)本仏論を換骨奪胎して、当住こそ、顕益(仏宝)の主体者なのだというものです。この時点で、もはや、通仏教における住持三宝論は通用しないのです。
柳澤師の記述も、単に奉安という形式で論じられていますが、本質は以上のようなところではないでしょうか。

ですから、もし、当住三宝を石山に当て嵌めれば、別体三宝ではなく一体三宝となりませんか。この一体とは当住の一身です。これを具体的な教学相伝系譜で言えば、「唯授一人」です。

さて、次に日興一尊四士義と実際の造立ですが、仰るところは理路が整っています。説得性もあります。わたしのなかでは日興の仏像造立という考えは捨てていませんが、可能性として、このお考えには賛同します。

「日興には本門本尊たる一尊四士は、広布の時、国主によって造立すべきといった拘りがあった」とは、『本尊抄』からするとき、まさに至当なお考えであろうと存じます。また、日興は『本尊問答抄』の書写?者として知られるわけですから、題目本尊論者(法本尊ではなく、題目という文字を本尊とする)であったと考えることもできますから、持仏も有さなかったのかも知れません。
この点は、もうしばらく考えてみたいと思います。

> 日蓮門下にとっての三宝は、日蓮滅後より起こる

たしかにこの側面はあります。ただ、在世にも三宝観はあったでしょう。
僧宝は日蓮である、日興であるというのは総別では別の論です。
在家の立場からすれば、僧侶は国の宝であり、みな僧宝です。

たとえば、日蓮は『立正安国論』に「三宝在世百王未窮此世早衰其法何廃」などといいますから、通説としての三宝観は基本として有していたわけです。

先の話題の一尊四士とは、久遠五百塵点成道の釈尊と初発心の弟子上行等の四菩薩、所伝の妙法蓮華經から仏像造立を考えたものですね。日蓮がその門下に訓えた三宝観はここにあります。仏宝は久遠成道本師釈迦如来、法宝は所伝の妙法蓮華經、僧宝は上行等の四菩薩です。では、この法華久遠三宝観が滅後に発したかと言えば、そうではなく、既に『本尊抄』の段階で確定していたでしょう。

日蓮滅後に起こる三宝観は、では、この上行が日蓮である、ならば、日蓮こそ僧宝であるという前段を基礎にしたところでの変遷でしょうね。

ここから、宝前を、画・像で三宝を象る動向に進んでいったのだとは思います。軈て、傍流では、いずこからの影響で住持三宝を編まれ、さらに石山門下の下種三宝として定着していく流れとなっていったのでしょう。

一つ、重要な点は、日蓮・日興における三宝観は先に挙げた如く、久遠釈尊・妙法蓮華經・四菩薩であったのに、そこに御影信仰は興ったために、一尊四士の担い手を自負した日興自身がそれを撤廃する役割を果たしたと言うことでしょうか。しかし、これは富士方の動向で、むしろ洛陽では、一塔両尊四士等、新たな発展も遂げていったわけでした。

独学徒さんに沿って記せば、広宣流布の暁まで、一尊四士像を棚上げにしてしまったために、ついにこの仏像奉安は定着することもなく、忘れられ、漫荼羅一辺倒から、戒壇本尊という奇妙な考えが創案され、ついに彫刻板に仕立て上がられることによって、日興の一尊四士義は、完全に消え去りました。歴史の皮肉といったところでしょうか。


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